Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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東北各部合同研修会 一人の人間として強き勇者に

1987.7.5 スピーチ(1986.11〜)(池田大作全集第68巻)

前後
2  戸田先生は、ここ仙台の地をこよなく愛され、生前、何度か訪問されている。私も、お供をしたことがあり、青葉城址で、種々懇談していただいたことが、まことに懐かしい。ここ仙台には、いくつもの戸田先生との″人生の師弟″の歴史と物語が刻まれている。
 その戸田先生が、昭和二十九年(一九五四年)の第二回女子青年部総会で「女子部に与う」と題して講演されたなかで、次のように述べられている。
 「いかなる事件にであうとも、いかなる事態に即しようとも、ただ一人立つということが大事なのです。青年部は、男女二万の数があると思うが、この人々が、二万が立たねばならぬということではなく、一人、ただ一人立てばよい。ただ一人立つ確信をもって立つところに、いっさいの仕事ができあがるのです」(『戸田城聖全集 第四巻』)と。
 まことに要をえた、重要な指導である。私どもの人生にも、また広宣流布の歩みにも、様々な障害や深刻な事態があろう。その時、困難のカベに向かい、敢然と″一人立つ″ことが、肝要であり、その後の前進への一切の出発となる。
 ″一人立つ″ならば、必ずや、あとに二陣三陣と、同志の陣列が続くであろう。また、″一人立つ″強き一念をもつ時に、自身の境涯は大きく開け、人間としてのすべての成長が始まる。ゆえに、諸君は、大きな組織にあろうと、小さな組織にあろうと、自らのおかれた立場にあって、広布の目的に凛々しく″一人立つ″勇者であっていただきたい。
 私もまた、何度か学会が苦境にあったとき、いずれの場合も責任者としてあらゆる攻撃の矢面に立ち、同志を守り、戦いぬいてきたつもりである。戸田先生もまた、そうであった。″一人立つ″精神こそ、学会のゆるがぬ伝統精神である。諸君も、この伝統を、しかと継承していくよう心から期待したい。
3  フランス革命を開いた一婦人
 さて、ここで、十八世紀のフランスにあって、″一人立って″生命の尊厳を訴え、厚い権力のカべを打ち破り、フランス革命の口火を切った一婦人について紹介したい。私も、若き日にこの女性について読み、まことに強い感銘を受けたことを覚えている。
 二十年ほど前、私は「生命の尊厳をまもる者へ」と題し、詩をんだ。その一節に
  団結と幸福と解放と
  最も地道に もっとも迅速に
  生命の尊厳を 身をもって護るものよ
  永遠の平和と繁栄は
  いずこにあるものでもない
  あなたたちの――
  純粋な 力ある胸中にこそあるのだ(『詩集 青年の譜』)
 とうたった。この時の詩想のうちには、大革命の序曲を奏でた、このフランスの一婦人に対する尊敬の思いがあったことを、懐かしく思い起こす。
4  ところで″母親″という存在について、興味深い話がある。かって井上靖氏が私への書簡(『四季の雁書』潮出版社)のなかでも紹介されているが、詩人の三好達治は「郷愁」という詩に、次のようにうたった。
 「――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある」(『日本抒情詩集――昭和』潮文庫)と。
 つまり、日本の「海」という文字には、確かに「母」が入っており、フランス語の「母=mere」には「海=mer」の字が入っている。日本語とフランス語では、「母」と「海」の関係が、ちょうど反対になっているが、いずれも、″海のような母の慈愛″を表しているかのようであり、本当に味わい深い。
 私も「母」の詩で、「海よりも広い 一見とらえどころのない あなたの愛の深さ」と、うたったが、まことに″母″の慈愛は、海のように広く、深いものだ。
5  フランス革命に先駆け、生命の尊厳のために″バスチーユの要塞″と戦った婦人の名は、ルグロ夫人。小間物商を営み、店で縫い物をしながら生活している貧しい無名の女性であった。夫は、ラテン語の教師だが、時に官憲当局の使い走りなどもする男であったという。学会にあっても、未聞の広布の偉業を、中心として担ってきたものは、名もなき婦人の方々であった。
 ″広布の母″である婦人部の方には、時には日々の活動に励むことで、未入信の夫に無理解な言葉を言われる時もあったであろう。また、子供たちにも、人並み以上に様々な気遣いを必要としたに違いない。そうしたなかを、唱題に唱題を重ねながら、弘教に、友の激励にと黙々と励まれてきた婦人部の方々――。その功労を、私は、絶対に忘れることはできない。
6  ところで、フランス革命の発端となったのは、バスチーユ牢獄への襲撃である。バスチーユとは、城塞を意味する言葉であった。当初はパリ防衛のための要塞であったが、十七世紀のルイ十三世の時代に牢獄に転用された。ここには反権力的な文筆家が投獄されたため、絶対王制の象徴とされてきた。
 一七七九年、パリには、このバスチーユをはじめ、三十ほどの牢獄があり、民衆は裁判もうけずに、いつ牢獄に閉じ込められるかもしれないという状況にあった。バスチーユは、国王の″封印状″という命令書によって、勝手に逮捕できる手続きをとっており、それが封建的専断のもととなったとされる。また無数の僧院が、これらの補助機関となっていたともいわれる。
 こうして、無辜むこの民、また信仰、思想の殉教者を含めて、一六五九年から一七八九年まで、五千人が余がバスチーユ投獄された。
7  民衆がしっかりしないと、権力者や為政者達の意のままの社会がつくられてしまう。いつの時代も、苦しみ、悲惨さを味わうのは結局、民衆である。ゆえに、私どもは、一人一人がすばらしき人生を生きるために、人間共和の連帯の輪を、この社会に広げているわけである。
 戦争を起こしてはならない。この地球上から「悲惨」と「不幸」をなくしていきたい。本当に正しい人が幸せになり、悪しき人々の力を封じこめて「平和」で「安穏」な世界を築きたい。これが、皆さま方が日夜、推進しておられる広宣流布の活動なのである。
8  当時の人にとって、このバスチーユ牢獄を征服することは、月を征服するのと同じくらい不可能なことと思われていたという。
 一七八九年七月十四日、フランス革命は、バスチーユ牢獄の解放からはじまった。フランスの大歴史家ミシュレは、『革命の女たち』で、その真実の功労者として、ルグロ夫人をあげている。民衆の前に絶対王制のシンボルとしてそびえ立つバスチーユの牢獄は、この一婦人のか弱い手によって倒されたというのである。
9  ミシュレによれば――貧しい小間物商であったルグロ夫人は、平凡な日々の暮らしであった。しかし、彼女はある日、偶然に一通の手紙を拾う。それは、牢獄に捕らわれた一人の政治犯の手紙であった。その囚人は、二十五歳の時に政治抗争の犠牲となり、実に三十数年間も獄中生活を強いられていた。
 ルグロ夫人が拾った手紙は、その囚人が、ある慈善家のもとへ届けてほしいと牢番に託していたもので、牢番が酔っ払ってうっかり落としたものであった。
 手紙を読んだ夫人は、この見ず知らずの囚人が無実であり、専制政治の悲惨な犠牲者であることを、その明晰めいせきな良識と知恵で知った。そして女性としてのやさしい憐憫れんびんの情、慈愛の心から、この無実の囚人の救出へ大いなる一歩を踏み出した。
10  慈愛と行動の人こそ真の英雄
 先の歴史家ミシュレは、ルグロ夫人の勇気ある一歩に対して、大要、次のように述べている。
 当時の頽廃たいはいした社会の中にも、何かの事件にあうと同情の涙を浮かべる博愛主義者、大臣、法官、貴族はたくさんいた。にもかかわらず、その誰一人として行動を起こすものはいなかった。それに対し、この無名の婦人は、悲惨な事実を目の当たりにして思わずふるえた。しかし涙にはくれなかった。そして即座に行動に移ったのである――と。
 人間としての偉さからいえば、同情の涙をうかべる博愛主義者、大臣、貴族より、この無名の一婦人の方がはるかに偉大である。
 現在の社会で取りざたされる人間としての偉さの基準も、地位や財産などによってつくられたものが多い。しかし、それのみが本当の人間の偉大さを表すものではない。その点を決して錯覚してはならない。
 人の苦しみや不幸に対して″かわいそうだ″と、哀れみの情をもつことは、だれでもできる。しかし、そこから″どうしてあげられるか″″こうしてあげたい″と、一歩行動を起こすことのできる人は余りにも少ない。ましてや、その行動が多くの苦難を伴い、自分の立場を危うくするものであればなおさらである。
 しかし、ルグロ夫人は、その苦難の一歩を踏み出した。
 御書に「つるぎなんども・すすまざる不進人のためには用る事なし、法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼に・かなぼう鉄棒たるべし」と仰せである。――剣なども、勇気のない人のためには何の役にも立たない。法華経(御本尊)という利剣は、信心の強く深い人が用いる時こそ役に立つのであり、これこそ鬼に金棒なのである――と。
 この御文を、私どもの日々の行動に敷衍して考えるとき、仏法の慈悲の精神に立った、勇気ある実践が、人生と社会を大きく開いていく上で、いかに重要かを知ることができよう。
 婦人部の皆さまも、苦悩に沈む人々のために″こうしてあげたい″″幸せになってもらいたい″と、日夜、人々の苦悩を救いゆく尊い人生の歩みを進めておられる。それは単なる感傷でできるものではない。深い真心と強い精神力なくしてはなしえないものだ。その意味で、私は″広布の母″達の健気な慈愛の行動を、心からたたえたい。
11  ルグロ夫人の行動も、じつに果敢であった。社会的に何の縁故も持たぬ彼女である。みすぼらしい服をまとい、一軒一軒、門から門へと歩き続けた。あちこちの館に入り、領主の前で自分の信ずるところを訴え、囚人釈放の援助を依頼した。助けを得るためには館の奉公人にお世辞を使うことさえあった。彼女は真剣そのものであった。
 しかし、そうした夫人の行動に対し、親せきや世間からは非難が集中した。その囚人は彼女の情夫ではないか、等との卑しい疑いまでかけられた。正義の人には社会は残酷であり、下劣な悪意の目を向け続けた。
 そのうちに彼女は細々とした生業も失ってしまった。両親の死、官憲の脅迫、うち続く苦難にも彼女は、微動だにしなかった。落胆もせず、恐れもせず、ひたむきに目的に向かって進んだ。
 あらゆる人の門をたたき、あらゆるつてをだどって、彼女は奔走は続いた。ある時には、王室の侍女の援助を求めるために、七ヶ月の身重でありながら、パリからベルサイユへと真冬の道をたどったこともある。
12  こうした彼女の戦いを振り返るにつけ、やはり私の胸には、くる日もくる日も、たゆむことなく友のために歩き続ける婦人部の方々の尊極の姿が彷彿ほうふつとしてくる。
 家から家へ、窓から窓へ、友の激励に、弘教に、地域の貢献にと、足を運び続ける大誠実の姿。その愚直なまでの地道な実践は、他の誰びともかなわない。
 ルグロ夫人と同じく、親類や友人、家族、社会から、心ない中傷や侮、そして無理解と偏見の言葉を受け続けた″広布の母″の皆さま方。しかし、様々な悩みや圧迫に負けることなく、子らに笑顔をつくり、信念の道を黙々と歩み通した母達――。
 諸君は、こうした″広布の母″の尊き労苦を絶対に忘れてはならない。この方々がおられたからこそ、現在の世界的な広布の進展がある。自らの恵まれた環境に甘えて、苦労知らずの惰弱な青年となってしまっては、自己自身の″人生の破壊″である。
13  不屈の一念の最後の勝利
 また先駆の実践者に社会が非難を投げつけるのは、歴史の常である。悪意と嫉妬とエゴから事実無根の話を捏造ねつぞうする卑しさも変わらない。その結果、正しき人の真実が闇に葬られ、でっちあげられた物語のみが世上に流布することも余りにも多い。そして、いつしか歴史上の事実の如く信じられ伝えられることも少なくない。
 ゆえに諸君は、人間と歴史の「真実」を見ぬく深き洞察の″史観″を持たねばならない。と同時に、しいたげられ続けてきた民衆の勝利のために立ち上がった、学会の組織の重要な意義を知らねばならない。これ以上、麗しき共和の世界は他に絶対ない。諸君は、同志という永遠のきずなも固く、互いに守り合い、民衆の正義の証明を勝ち取っていただきたい。
14  さて、ルグロ夫人は、こうした奔走を数年間も続ける。そして、ようやくにして、国王ルイ十六世のもとまで囚人釈放の請願書が届く日が来た。しかし、どうであろう。王は無情だった。その囚人には永遠に自由を与えることができないという決定的な回答を出したのである。万事休す――。一切の努力は水に帰した。無残といえば余りにも無残な回答である。
 しかしルグロ夫人は、それでも執念の戦いをやめなかった。民衆の力のみを信じようとしたのである。彼女は、専制に不満を抱いている貴族や、思いやりのある公爵妃、哲学者や裁判官等、あらゆる人々に働きかけ、世論の波を一つまた一つと起こしていった。
15  まさに不退転の執念である。いかなる道にせよ、目的に向かって歩みぬくことは、現実には並大抵のことではない。
 大聖人は、御自身の法戦について「此法門を日蓮申す故に忠言耳に逆う道理なるが故に流罪せられ命にも及びしなり、然どもいまだこりず候」――この法華経の法門を日蓮が弘通するゆえに、「忠言は耳に逆う」道理であるから、流罪にされ、命にも及んだのである。しかし、いまだこりてはいない――と仰せである。
 また他の御書では「題目を唱うる人・如来の使なり、始中終すてずして大難を・とをす人・如来の使なり」――題目を唱える人は如来の使いである。大難を受けても、最初も中程も最後も妙法を弘通しぬく人は如来の使いである――と記されている。
 如来の使いとは別しては日蓮大聖人の御ことである。総じて私ども門下も、今わの際まで、″始中終″強盛な信仰を貫いてこそ、御本仏のおほめをいただける真の地涌の勇者である。また「いまだこりず候」の御精神を、よくよく拝してまいりたい。
16  ルグロ夫人は″バスチーユ″と戦い続けた。そして、ついに彼女が「最後の勝利」を得る時がきた。
 一七八四年、周囲の声に抗し切れず、とうとうルイ十六世は、かの囚人の釈放命令を下した。さらに、みだりに悪用されていた″封印状″に規制を加えるとの命が出っされた。難攻不落の″バスチーユ″が、一婦人の正義の訴えの前に、初めて、そのを開いたのである。
 ルグロ夫人は、ついに勝った。――彼女は、この後、一七八八年に世を去っている。したがって翌八九年、フランス革命の幕開けとなった、パリ民衆によるバスチーユの解放には当然、参加していない。しかし、このバスチーユを民衆の審判の前に引き出したのは、まさに彼女の不屈の一念であった。
17  広布は「生命の尊厳」守る大道
 真実の英雄とは――かの歴史家ミシュレはいう。英雄とはイエナの橋(セーヌ川にかかるパリの橋)を築いた人(ナポレオンのこと)のことではないのか、と。そしてミシュレはいう。「いな、そうではない。ここにはその人よりももっと偉大で力も強くもっと生命力のある誰かがいて、その広大な土地をみたしている」(『フランス革命史(一)』後藤達雄・後藤喜久雄訳、日本評論社)
 革命の地・フランスに満ちる、ナポレオン以上の英雄。それは、生命の尊厳と自らの信念のために戦う「庶民の英雄」である。
 その一人、ルグロ夫人は、正義と自由に殉じ、バスチーユの鉄鎖から、一人の人間を救った。今、一人の友を″宿命の鉄鎖″から救うため戦い続ける妙法の友こそ、いかなる虚名の指導者よりも尊い、真実の「人間の英雄」「魂の英雄」である。
18  ミシュレは記している。「ことを計画するにあたっての大胆さと耐え忍ぶ力、毎日、毎時、自己犠牲をつらぬき通そうという決心、脅迫を無視する勇気、暴君の誹謗ひぼうをしりぞけ、挫折させるための智慧と、あらゆる賢明な工夫などを彼女は持っていた」(同前)と。
 一切の虚飾をはぎとって、一人の人間として何が残るか、これが最も大切である。彼女は社会的地位等とは無縁であった。だからこそ強かったともいえる。
 戸田先生もかつて、人間、金も名誉も地位も、何もいらぬという者ほど強いものはない、と言われていた。いざという時に、それらの虚像にとらわれ世間体等に執着する人ほど、その執着心ゆえに弱いものだ。創価学会の強さは、広布の大目的に殉じ、一切を失っても悔いがないという究極の人間性の強さであることを忘れてはならない。
 その赤裸々な人間性の叫びが、民衆の心をつかみ、今日の広布の沃野よくやを開いてきたのである。決して権力や財力、世間の権威等によったのではない。
19  一人の人間の強さ。それを最高に発揮させるのが妙法である。大聖人は門下の千日尼へのお手紙で、次のように仰せである。
 「法華経の師子王を持つ女人は一切の地獄・餓鬼・畜生等の百獣に恐るる事なし
 ――妙法の御本尊という″師子王″を持つ女性は一切の地獄界・餓鬼界・畜生界等の百獣を恐れることはない――。
 信仰は何ものをも恐れぬ人生の力の源泉である。
20  最後に「御義口伝」の一節を拝したい。
 「自他共に智慧と慈悲と有るを喜とは云うなり所詮しょせん今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時必ず無作三身の仏に成るを喜とは云うなり
 この御文で大聖人は、真実の「喜び」「幸福」とは、自分もまた他の人も、ともに「智慧」と「慈悲」があることであると御教示されている。所詮、御本尊に唱題する時、必ず成仏することを「喜」というのである、と御指南されている。
 「自他共に」と仰せのごとく、自身も、他の人々も、一地域から社会、一国、全世界も、ともどもに「智慧」と「慈悲」の光で包み、平和と幸福と繁栄へと導く大法が妙法である。
 そのために、一人一人の宿命の″要塞″を崩し、仏界という生命の宮殿を開きゆくのが広布の実践である。それは、最も地道な行動かもしれない。平和への遠回りの道のようにも思えるかもしれない。しかし、最も着実だからこそ、最も堅固にして永久にこわれない建設ができる。この広布の前進にこそ、真実の生命の尊厳と自由を護りゆく″人類の大道″がある。
 以上を申し上げ、諸君の大いなる成長と活躍と健闘を念願し、本日のスピーチとしたい。

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