Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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東北幹部記念総会 生命の救済こそ宗教の根本

1987.7.5 スピーチ(1986.11〜)(池田大作全集第68巻)

前後
2  先ほど、建設現場を視察したさい、建設に携わっておられる方々の労を少しでもねぎらいたいと思い、冷たいものをお届けした。
 建設の作業は、大変な労働である。また、目立たない陰の仕事でもある。学会にも、東京の栄光会やたくみの会、関西の鉄人会をはじめ、各地の設営グループがある。そうしたグループの方々は、設営等にさまざまに労苦を重ねても、スポットライトの当たる場には、その姿はない。常に、陰の、地味な役割である。
 むろん、創価班や城会等も、地味で大変な作業であるが、その凛々りりしい任務の姿に、感謝の声をかける人も多い。しかし、設営グループは、作業着姿で、その働いている姿は、会合の参加者の目にふれることもない。本当に陰の任務に徹しておられる存在である。こうした方々にこそ、私は最大の敬意と感謝を捧げたい。
 往々にして、人々の注目は、華やかな立場に向きがちである。しかし、広布のリーダーは、表舞台で活躍する人も大事だが、それ以上に、見えない陰の舞台で苦労している人を、賛嘆し守っていくことを絶対に忘れてはならない。
3  日蓮大聖人の御入滅の前年である弘安四年(一二八一年)十一月、身延に大坊が落成した。この建設に携わったのは、地頭の波木井一族やとう兵衛、右馬うまの入道など、大聖人門下の人々であった。
 身延の山の奥深いところでの作業である。不自由なことも多かったし、それだけに大変な作業であったにちがいない。そのなかで彼らは、地面をならすことから始め、縄を張り、材木を切り、柱を立てるなど、すべて自分達の手で建設を進めた。
 日程としては、十月十二、三日に着工。十一月一日には小坊と馬屋が完成し、八日には「柱だて」(棟上げ)、九、十日には、屋根をき、二十三、四日に落成式を迎えている。
 大聖人は、この大坊建設に加わった人々に対して、「地引じびき御書」に、次のように仰せになっている。
 「次郎殿等の御きうだち公達をやのをほせと申し我が心にいれてをはします事なれば・われと地をひきはしらをたて、とうひやうえむま藤兵衛右馬の入道・三郎兵衛尉等已下の人人一人もそらく疎略なし、坊はかまくら鎌倉にては一千貫にても大事とこそ申し候へ」と。
 「地引」とは、地ならしのこと。つまり、石や木の根などを取り除き、土を運んで、地面を平らにすることである。
 ここで大聖人は――次郎殿等の波木井家の若殿たちは、親から申しつけられたこととはいえ、自らの真心からも願っておられたことなので、自分から地ならしをし、柱を立て、励まれた。藤兵衛、右馬の入道、三郎兵衛以下の人々も、一人も作業をいい加減にする人がいなかった。出来上がった坊は、鎌倉では一千貫の大金を出しても出来ないであろうといわれていた――と仰せられ、門下の労苦をたたえられた。
 短い御文だが、御本仏であられる大聖人が一人一人の労苦をじっと見守られ、その真心をくまなくみ取ってくださっている御姿が拝される。
4  学会においても、青年部の手によって、各地に十以上の青年塾が建設された。東北にも、秋田の東北青年研修塾と宮城の釜房青年研修塾がある。いずれも、青年達の労苦を尽くしての手作りの道場であり、尊い″金の汗″″銀の汗″の結晶である。
 私も、そうした研修塾を訪れるたびに、すみずみまで真心が光る丹精込めた労作業に、胸を熱くする思いがする。
 その建設の労苦は厳しく、また地味なものであったろう。しかし、自らの力で広布の道場を築き、完成させた歴史は、まことに尊い。生涯の思い出として輝き、そして無量の福徳として薫っていくにちがいない。
 学会には、設営グループ以外にも、先ほど申し上げた創価班、城会、白樺、白グループ、ドクター部など地味な分野で黙々と活躍してくださっている数多くのグループがある。そうした方々に、私はこの席を借りて、心から感謝申し上げたい。また、必ずや「みょうの照覧」があり、功徳は絶大であることを、確信してやまない。
5  世界の葬法とその宗教的背景
 ここで世界の「葬法」等について、少々ふれておきたい。葬儀や墓地のことなど私には当分、関係ないという方もいらっしゃると思う。しかし、いずれだれもがお世話になることである。また何より、これからの時代には幅の広い知識と良識が必要である。広布のリーダーは、仏法を根本としてどんな問題にも的確に対応し、多くの人々を納得せしむる力を持たなければ、もはや十分に使命を果たし得ない時代に入ってきている。
 とくに本格的な世界広布の段階となり、各国の実情を踏まえた葬儀の正しい在り方、墓地についての考え方等の質問も増えている。また社会的にも、高齢化社会の進行とともに、決してひとごとではない、切実な課題として関心を集めつつある。
 さて、私はこの五月から六月、フランスを訪問した。カトリック教徒の多いフランスでは、現在でも基本的に土葬である。一九八四年の統計によると土葬が約九八%、火葬が約二%である。
 日本では逆に火葬が約九〇%、土葬約一〇%で、火葬が中心となっている。同じヨーロッパでも、イギリスは火葬約七〇%、土葬約三〇%との統計がある。また本日、代表が参加している香港、マレーシアも土葬が多いようである。
 このように各国・各地域により葬法が異なるのは、いうまでもなく、主に宗教的・文化的背景の相違によっている。
 すなわち死者のとむらいの方法には大別して、火葬、土葬、水葬、風葬、鳥葬等がある。古来からの習慣、死生観の違いによって、これらのいずれか、あるいは幾つかの組み合わせによって弔いを行っているのが実情である。
 このうちキリスト教、イスラム教、儒教は一応、土葬が正式であり、仏教は火葬が正式とされている。世界的には土葬が最も広く見られるようである。フランスで土葬が多いこともキリスト教(カトリック)の影響と考えられる。
 歴史的にはヨーロッパでも古代には広く火葬が行われていた。たとえば紀元前八世紀ごろの大詩人ホメロスの時代、ギリシャでは火葬が優勢であり、そこにアジアからの影響を指摘する学者もいる。またローマでも、帝政期には、火葬が一般的にみられた。
6  しかしキリスト教の普及とともに、火葬の習慣が衰えていった。キリスト教は、なぜ火葬を否定したのか。
 それは一面からいえば、「最後の審判」すなわち世界の終末において神が人類を裁く時、肉体は再びよみがえるという思想があるからである。ゆえに遺体は、その復活の日を待つものとして畏敬いけいされた。そして、火葬を肉体の復活を妨げる葬法とし、七八四年には「異教的習俗」として禁ずるにいたった。
 今日では火葬も一応承認されているようだが、特にカトリック教国では現在も火葬に対して根強い抵抗感を残している。
 ちなみにイスラム教では、さらに徹底しており、基本的には火葬を厳禁している。それは、火葬は、地獄に堕ちた者に対して神のみが処罰できる方法と考えるからである。
7  しかし、一方で、近代においてヨーロッパでも次第に火葬が広がってきたことが注目される。一例を挙げれば十九世紀の後半からさまざまな火葬促進運動が展開された。一八七四年にはイギリス火葬協会が発足、八〇年にはパリ火葬促進協会、八二年にはイタリア火葬協会総同盟、八七年には国際火葬協会総同盟、一九〇五年には自由思想家の火葬協会が誕生している。
 その背景には、キリスト教の衰退や、人口の増加・都市化の進行等によって、土葬に十分な墓地の確保が困難になったことが、通常、挙げられる。こうした運動の影響もあり、イギリスにおいては現代では火葬の方が優勢になるまでにいたっている。
8  この火葬の普及についてユニークな見解を示しているのが、″日曜歴史家″として著名なフランスのフィリップ・アリエスである(=アリエスは独創的な研究を続けたが、長い間、学者としての職につかなかった。その経歴から、アリエスは自らを日曜歴史家と称した)。彼の著『死と歴史』は、中世から現代にいたる西洋の死生観の変遷に関する研究である。
 彼はその中で現代は「死」をタブー(禁忌)として排斥はいせきし、直視することを避けようとする時代であると指摘している。そしてイギリスなど、死のタブー視が進んでいる国ほど火葬が普及しているとし、「それは衛生学、哲学、無神論のためというのではなく、単に火葬の方が、より完全に破壊すると思われているからであり、その方が、残滓ざんしへの愛着がより小さくてすみ、そのもとおとなう気もあまり起きないという理由による」(伊藤晃・成瀬駒男訳、みすず書房)としている。死を避ける心が、火葬の普及と結びついているというのである。
 火葬を正式とする東洋の仏教では、死者への執着を戒めながらも、自身の「死」を直視することを徹底して教えている。この点は、ヨーロッパにおける火葬の普及とは違った面を持つといえよう。
 またアリエスは同書の中で、母親は火葬したが、夫は土葬にしたという一英国人女性の例を紹介している。火葬は「より安全で、より清潔」だが、反面、「余りにも早く、あまりにも決定的」(同前)だという理由からである。
 ここには、火葬の合理性は認めながらも、心情的にはまだ抵抗感を残している現代ヨーロッパ人の二面性が端的に表れているといえるかもしれない。こうした現状も私どもは深く理解する必要がある。
9  火葬促進運動にも見られたように、火葬が近代社会により適した合理的葬法であることは、多くの人が認めている。私も、そう思う。
 日本でも一九五二年(昭和二十七年)の調査では、火葬五六%、土葬四四%だったのが、約三十年間で、ほぼ九割が火葬となり、火葬が急増している。
 しかし、フランスの文化人類学者で構造主義の先駆者レビ・ストロースが述べているように、「あらゆる文化には、それぞれ固有の要素と価値があり、一つの文化と他の文化を比較して、単純にランクづけすることはできない」(和田俊『欧州知識人との対話』朝日新聞社)
 まして仏法には随方毘尼ずいほうびに(仏教の本義にたがわない限り、各地域の風俗・習慣に従ってよいこと)の原理がある。ゆえに、仏教では、あくまで火葬が正式であるが、キリスト教やイスラム教のように、絶対にこの葬法でなければならないと固執する必要はないと私は考える。
10  仏教と火葬について申し上げれば、古代のアジアでは、インド以外には火葬は行われなかったという説がある。インドでは火葬・土葬・水葬・風葬を四葬と呼んで、並列して行っていたようである。
 仏典によれば、釈尊は弟子の阿難の質問に答えて、自らの葬法は火葬とすべきことを語っている。この言葉通り、釈尊を火葬にして以来、火葬すなわち荼毘だびは、仏教徒の間に広く行われるようになり、仏教東漸とともに、中国、日本など各地に普及していった。
11  ところで「死者をいたむ」という、こうした人間本然の素朴な心情は、歴史上、権力や権威によって歪められ、利用されてきた。
 エジプトのピラミッドや中国の秦の始皇稜など、また日本の大古墳などは、強大な権力の象徴でもあった。さらに、中国の儒家の経典とされる「礼記」にも″墓の大きさ、高さなどは地位と身分のしるしである″と記されている。
12  葬式仏教化した江戸時代
 日本においては、特に近世になって「葬式仏教」への堕落がみられる。
 江戸時代になると、僧は、幕府権力の後ろ盾による檀家制度の上に安住し、一般民衆の葬式と墓守の仕事を、副収入の財源としたという。
 ともかく、幕府の保護を笠に着た僧侶の専横は、民衆に対して露骨な一種の脅迫とさえなった。そうした民衆の嘆きを記した当時の文献は、枚挙にいとまがない。たとえば「葬式の施物をねだり、あるいは戒名に尊卑を作り、みだりに民財をとりて院号居士等をゆるし種々の姦猾かんかつ(=悪がしこいこと)やむ事なし」(『芻蕘録』、『日本経済大典 第十四巻』所収、史誌出版)と。また「若シ寺主ノ存念通リ出金セズンバ、死亡ノトキ引導致サズ、三日モ五日モ延スユエ、是ヲ思フテ止ム事ナク、借財シテ収ムルナリ」(『経済問答秘録』、『日本経済叢書 第二十三巻』所収、日本経済叢書刊行会)などとある。
 ″住職の思い通りに金を出さなければ、死亡のとき葬式もしてくれない。だから仕方なく借財をしてまでお金を納めなければならなかった″とは、民衆のために尽くすべき宗教者としては、あるまじきことである。かつて「言うことを聞かなければ葬式に行かない」という正信会の僧もいたが、これも同じたぐいといってよい。
 また、檀家回りをし、布施を集める口実に、先祖の年忌法要や過去帳を利用した面もあるといわれる。このように、江戸時代の諸宗は、生きている人間を指導することを放棄し、死者の法要を収益の手段とするようになった。宗教の根本精神を失った邪宗教の実態を、鋭く見抜いていかねばならない。
13  日蓮大聖人は「きてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり、即身成仏と申す大事の法門これなり」と仰せである。
 ――生きておられたときは生の仏、亡くなられた今は死の仏、生死ともに仏である。法華経の即身成仏という大事の法門は、このことを説きあらわされたのである――と。
 まさに、生死にわたって、民衆一人一人を抱きかかえ、救いきってくださるのが大聖人の仏法である。まことに大慈大悲のありがたい御法である。
14  平等の大法にかなった墓地に
 次に、墓地についても少々、ふれておきたい。
 東京に多磨霊園という墓地がある。文豪・吉川英治氏らも眠る有名な墓苑であるが、そこの管理関係者が著した本によれば、最近のもので最も金のかかっている墓地は、ある新興宗教教祖の墓であり、時価にして億にのぼるとある。その莫大な経費をかけた墓地に、毎月の命日や、また年一回の大祭となれば多数の信徒が墓参に訪れることを、著者もなかばあきれながらつづっている。
15  『富士宗学要集 第一巻』に収められている「有師物語聴聞抄佳跡上」(九世日有上人の談に基づいて三十一世日因上人がまとめたもの)には、次のようにある。
 「仏法ハ平等なり、仏者(は)何事も平等なるべし」また「法華本門ノ行者ハ、十法界の衆生におい偏頗へんぱの心無く、平等ニ利益スベシ」と。
 仏法は平等大慧の大法である。人々の境遇や財産の多寡たか、身分の高低によって、功徳の有無、多少が定まるわけでは絶対にない。
 墓地についても、何百万、何千万円と財を費やすことも世間には多い。しかし、墓石の大きさや、墓地の規模によって、成仏が決まるわけではないし、人間としての偉大さが測られるわけでもない。
 いまだに権威や財力によって墓の大小を競うような風潮も絶えないが、純粋な信心の世界にあっては、決して、そういうことがあってはならない。
 また学会でも、各地に墓苑がつくられている。これも、多くの方々の要望によるものであるが、学会の墓苑の在り方は、墓石の大きさ、墓の規模といい、仏法の平等観にかなったものとなっている。
 世界的にみても、次元、精神は異なるが、アメリカのワシントンにあるアーリントン国立墓地の戦士達の墓石は、同一のものが用いられている。
 墓地の歴史は、現在、大きな転換期を迎えているといわれる。つまり、かつての薄暗い墓地のイメージから、″明るさ″への志向がみられるのである。その意味で、学会の墓苑は、その先取りといってよい。しかも、それは「死」から逃避した明るさではない。むしろ、深遠なる三世の生命観に立ち、妙法に照らされた明るさに満ちている。まさに新しい時代の象徴ともいえる墓苑となっているのである。
16  なお、私ども学会の墓苑は、緑も豊かに、また桜をはじめ花々に彩られている。この点に関連して、次元は異なるが、次のようなエピソードがある。
 日精上人の「家中抄けちゅうしょう」によれば、第二祖日興上人は、御自身の御遷化の時期をお知りになり、御存命のうちに自らの墓所をつくられ、桜の木を植えられた、と伝えられている。
 特に静岡の墓苑は、富士桜自然墓地公園と名付けられ、桜の木も多く植えられている。これも、日興上人と桜のえにしの、こうした意義を踏まえたものとなっていることを知っていただきたい。
 私は、総本山にも多くの桜の木を寄進してきた。春になり美しい桜花が総本山を飾っているのを見ると本当にうれしく思う。これも御開山日興上人をおしのび申し上げてのことであった。
 昭和六十五年(一九九〇年)には、大石寺開創七百年の大佳節を迎えるが、御開山日興上人の御心を受けながら、立派に慶祝申し上げたいと決意している。また、この年は学会創立六十周年の佳節でもあり、これまで学会とともに広布に走ってくださった方々と盛大に祝したいと思っている。
17  話は変わるが、ここには香港の代表も参加しておられるので、明年の世界青年平和文化祭とSGI総会について述べておきたい。
 SGI理事長でもある秋谷会長はじめSGI本部等で、種々、検討された結果、明年、宮城で予定されていた第九回世界青年平和文化祭は、明年の初頭、香港で開催されることになったことをご了承願いたい。
 また、第九回SGI総会は、この宮城の地・仙台市で行われることが決まったことをお伝えしておきたい。その折は、新文化会館の落成もあり、盛大に、意気軒高な記念行事を、皆さまとともに開催したいと念願している。どうか、これを一つの目標として、ますますのご精進とご活躍を重ねていただきたい。
 最後に、本日お会いできなかった、東北の同士の方々にくれぐれもよろしくお伝えしていただきたいことを念願し、祝福のスピーチとしたい。

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