Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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全九州幹部総会 興隆する宗教とその精神

1987.5.12 スピーチ(1986.11〜)(池田大作全集第68巻)

前後
2  九州といえば、阿蘇山や桜島など、豪快に噴火の煙を噴き上げる火山を思い起こす人が多いのではないか。まさに、風土からして「火の国」といえよう。
 そこで、きょうは、火山にちなみ、著名なリットン卿の歴史小説「ポンペイ最後の日」を通し、話をしてみたい。ところで私が、折にふれ、様々な小説、思想、人物、歴史等の話を少々詳しく申し上げるのも、知識と教養を高める機会にもなればとの思いからであることを、ご了承願いたい。
 皆さま方は、広布のリーダーである。ゆえに、それにふさわしい、豊かな教養をもった、また知識ある人であっていただきたい。その意味で、こうした場を生きた″人生大学″の教室ともして、成長と向上の一助にしていただければ幸いである。
3  『ポンペイ最後の日』にみる人間の実相
 さて、小説の舞台は、西暦一世紀、ローマ帝国の時代に繁栄を極めた古代都市ポンペイである。ちょうど時代は、暴君として名をはせた皇帝ネロの統治時代の直後に当たる。当時、ポンペイは、ローマの植民都市として栄えており、街には享楽の気がみちていた。
 そうしたなか突如、ベスビオ(ヴェスヴィアス)山の大噴火が起きたのが、西暦七九年の八月二十四日といわれる。富豪達の豪邸が並ぶ街は、流出した溶岩が押し寄せ、降りしきる火山礫と灰に埋もれる。約二万人の市民のうち、一割に当たる二千人が死亡。繁栄の商都は、一挙に荒廃の地へと変貌する。これについては、さまざまな歴史的、科学的考証がなされているが、ここでは略させていただく。
4  作者のバルワー=リットン卿は、イギリス・ロンドン生まれ。一八七三年に六十九歳で没するまで、ジャーナリスト、詩人、劇作家として活躍。政治家としても知られ、下院議員や植民地大臣も務めている。
 その彼が、三十歳の折、イタリア旅行に赴き、ポンペイの遺跡に立つ。千七百年以上の昔に、ここで、多くの人々が生き、愛しあい、突然の災厄に襲われて滅亡した。彼はそのはるか昔の興亡の都市を思う時、思わず胸にこみあげてくるものがあった。そして古代への情熱と知性を駆使し、当時の社会、風俗、人情等を鮮やかに蘇らせていくのである。こうして小説『ポンペイ最後の日』ができあがる。
5  さて、小説『ポンペイ最後の日』の主人公は″火の情熱″と″詩人の心″をたたえたさっそうたる青年・グローカスである。
 先ほども青年部の人材グループの皆さんにお会いした。私は、その英知あふれる姿に二十一世紀の光輝さんたる希望を見る思いがした。この九州の天地に、どんどん青年の人材を輩出していただきたい。学会自体もそうである。さっそうたる青年がどう乱舞していくか、これが未来を決定する。
 ギリシャのアテネ生まれのグローカスは、同じギリシャ人の血が流れる美女・アイオンと出会い、愛しあう。ところが、アイオンの後見人の立場にあるエジプト人・アーバシズは邪智の悪人であり、二人の関係に嫉妬し、アイオンを言葉巧みに誘惑する。
 このアーバシズは、当時、はびこっていた邪教″イシス教″の妖術師であり、怪しい秘儀と詭弁きべんで、人々を畏怖させ、莫大な富を築いていた。そのアーバシズが、嫉妬の感情から、もてる権威と財力を利用し、グローカスを中傷・非難し、恐ろしい企みへと陥れていく。
 嫉妬の感情に支配された人間が、いかに醜悪な邪智と奸計かんけいをめぐらしていくか――ここにドラマの一つの主題がある。
6  「嫉妬」――それは、人間の最も醜い感情である。そして、人間の道を誤らせ、破滅への道を歩ませる。
 かの提婆達多も、その謗法と非道の根底には、釈尊への根深い嫉妬の情があった。また、近年の正信会や退転者の心には、抜きがたい嫉妬の情が渦巻いていた。嫉妬の心に、正しき心眼を狂わされ、正法に叛き、破仏法の道を進んでしまったのである。
7  さて、先ほども申し上げたが、にぎわうポンペイの街には、享楽的な気分が横溢し、人々は今をできるだけ楽しむ現世快楽主義的生き方をしていた。そのためか宗教に対する考えは非常におおらかであったようだ。
 こうした時代の雰囲気にマッチし、心をとらえたのが、イシス教であった。貿易に携わる人々の海の安全を守る守護神をまつるが、深遠な生死観や人生観の欠落した安直な宗教にすぎなかった。ただ儀式は荘厳を装い、詐欺・詭弁に等しい秘術・予言などで民衆をあざむき、財を成していた。
 聖職者の、名声や立場を利用しての蓄財や淫行いんこう、腐敗は、目を覆うばかりのものであったと、リットン卿は描いている。その有力な妖術師の一人が、アーバシズであった。
8  主人公の恋人アイオンの兄・アペサイデスも、イシス教の祭司であった。ところが、アーバシズの邪悪に気づく。そして、当時、ポンペイの貧しい人々の間に広まり始めていたキリスト教に改宗する。
 そればかりか、彼は、自分を導いてくれたキリスト教の伝道師オリントスとともにイシス教の欺瞞ぎまんを市民の前に暴露しようとする。
 しかし邪智にたけたアーバシズである。いち早くその計画を察知し、アペサイデスを刺殺。しかもその罪を、″恋がたき″のグローカスに巧みに転嫁し、アイオンを我がものにしようとする。
 こうして主人公グローカスは、キリスト教伝道師オリントスとともにとらわれ、二万の大衆の前で、飢えたライオンの餌食えじきにされんとする。
 その窮地の二人を救ったのは、グローカスに仕える奴隷の少女ニディアであった。目がみえないにもかかわらず、命がけの勇気と、とっさの機転で、見事に二人の危機を救う。そして、グローカスの正義と無実を証明し、アーバシズの策略と魔性を白日のもとにさらすことにも成功する。
 ――そのとき、ポンペイの背後にそびえるベスビオ山が爆発。大地は激しく揺れ、降りしきる焼けた石と火山灰、流れ出る溶岩。こうして、わずか二日間のうちに、繁栄の極みにあったポンペイは多くの人々とともに、そのすべてが埋没した。
9  ポンペイが滅びて十年後、グローカスとアイオンは故郷のアテネで幸福に暮らしている。憎むべきアーバシズは、あの爆発のさい、崩れ落ちた柱の下敷きとなって無残な死をとげる。
 この嫉妬に狂い、人間の道を踏み外した者の哀れな末路の姿は、大地が裂け、生きながら阿鼻大城へ堕ちた提婆達多の最期と、いかに似ていることか。リットンが法華経を読んだのではないかと思わせるほどの符合である。
10  さて、グローカスらを救った少女ニディアは、目は不自由ではあったが、花を育てることを誰よりも得意としていた。しかも、人のために命をかけて行動するけなげな少女である。作者は、その勇気と執念、機転の良さ等を、愛情こめた筆致で描き出している。グローカスとアイオンも、生涯、ニディアへの感謝の気持ちを抱きつづける。
 主人公らの致命的な危機を救ったのが、一介の少女であったとは、多少、意外の感をもつかもしれない。しかし、いざという時に、ハラをすえて知恵と力を発揮するのは、男性よりも、むしろ女性である場合があまりに多い。
11  日蓮大聖人の大難の一つである松葉ケ谷の法難のさい、緊急の報をいち早く大聖人にお伝えしたのは、女性であったとの説がある。そのため、大勢の暴徒に急襲された大聖人は九死に一生を得られたともいわれる。
 御書にも「十羅刹の御計らいにてやありけん日蓮其の難を脱れしかば」と仰せである。危険を察知する女性特有のこまやかな神経、直感的なひらめき、そして大胆な行動が、窮地にあられた大聖人をお救いしたのではないか。
 ともあれ、だれ人にも尊き使命が平等にあることを指導者である皆さまは絶対に忘れてはならない。
12  キリスト教も殉教の精神で弘まる
 イシス教のような浅薄な教義の宗教が蔓延まんえんしていた当時、貧しい人々の間に広まり始めていた新興の宗教――それが、のちに世界宗教となるキリスト教であった。
 リットン卿は、この小説のなかで、当時の既成宗教イシス教の堕落と、新宗教キリスト教の草創の姿とを対比させつつ、自らの宗教観を表明しているように思う。
 小説の舞台となった時代は、キリストの刑死後、まだ五十年のころである。まったくの草創期であったといってよい。リットン卿の言葉を借りれば、一般市民のキリスト教徒に対する印象は、「彼らのあいだには紳士はひとりだっていないじゃないか。あの信者は貧しくて無知な人々だ」(『ポンペイ最後の日』渡辺秀訳、中央出版社)というものだった。
 しかし、キリスト教の信徒は、いわば″殉教の精神″で、懸命の布教を進めていた。暴君ネロによる言語に絶する大迫害も、見事に乗り越えている。リットン卿は、彼らの心情として「民衆に私たちを売っても、中傷しても、かまわないのです。私たちは、生死を越えているのです。私たちはよろこんでシシ(=ライオン)のおりの中へでも、拷問の台の上にでも登ります」(同前)と登場人物に語らせている。
 こうした真剣にして潔い″殉教の精神″が、人々の心を揺り動かしたのであろう。信者は着実に増大し、世界宗教となる後世への確実な基盤が築かれていった。
13  リットン卿は、この初期のキリスト教の歴史をふり返りながら、その妥協を許さない″草創の精神″を次のように評価している。
 「キリスト教の初期の歴史を見る者は、危険を恐れず、妥協を許さず、信仰のために戦う者を励まし、その殉教者を支持する激しい熱意が、キリスト教の勝利にどんなに必要であったかということに気がつくであろう。その信仰の厳格さから、信者たちは、自分が愛情を感じている人たちをみな改宗させようと望んだ。こうして、信者の群れは、次第にふえていった。キリスト教信者は疑惑や、嫌悪や、嘲笑や恐怖に向かって、この教理をふりかざして、大胆に進んでいった」(同前)と。
 これは、私どもの広布の活動にも通じる。邪義との妥協もなく、苦悩の人々を救わんとの慈愛の行動ゆえに、数々の迫害もあった。悪意の非難・中傷もあった。しかし、それらを耐え忍んだ法戦によって、今日の盤石なる土台が築きあげられた。
14  リットン卿は続けていう。「他の宗教との妥協を許さないその教徒の頑固さが、かえって、その成功に最も適した手段となり、穏やかな異教徒たちは、しまいには、自分たちが全く経験したことのないようなキリスト教徒の熱烈さの中には、なにか神聖なものがあるにちがいないと思うようになった。キリスト教徒は、どんな障害にも屈せず、どんな危険をも恐れず、拷問にもひるまず、断頭台の上に登るときすら平然としていた」と。
 内外相対(内道と外道の対比)するとき、内道の仏教に対してキリスト教は外道ではある。そのキリスト教徒さえ、こうした殉教精神で信仰に生きた。ましてや私どもは御本仏日蓮大聖人の門下である。妙法流布を我が使命として、この世に生を受けた地涌の菩薩である。どうか、大聖人の御遺命のまま、また、生死をこえて信心を貫いてきた学会の伝統精神に立って、妙法弘宣の尊き人生を生き抜いていただきたい。
15  さらにリットン卿は、キリスト教の草創の精神を評価して「熱烈な初期のキリスト教徒は恐怖を知らない英雄となった」とたたえている。とともに「同じ熱烈な中世の国教徒たちは、あわれみのない頑固な人間になった」(同前)と、形式と権威に堕してしまった中世キリスト教の硬直化を厳しく批判している。
 皆さま方は、正法流布の英雄である。正義と慈愛の信仰勇者である。たとえ世間の称賛はなくても、三世永遠にわたる御本仏の御称賛と御加護があることを確信していただきたい。
 私どもの人生は、世間の名聞名利や栄誉栄達を得るための人生とは根本的に違う。いかなる時代になっても、凛々しき広布の精神と、みずみずしい信心の姿勢を忘れてはならない。民衆仏法の指導者として、このかけがえのない人生を永遠に光輝あらしめていく修行なのである。
16  「法」の流布は「人」の振る舞いに
 小説に描かれたアイオンの兄アペサイデスは、はじめはイシス教の祭司であった。だが彼は、やがてキリスト教に改宗する。その大きな要因は″アペサイデスの心を大きく動かしたキリスト教徒たちの会合の雰囲気″であった。つまり「これ以上に、家庭的な温かい愛情に訴え、人間の胸の深い琴線に触れる集まりはなかった」(同前)とリットン卿は描いている。
 人の心を動かすものは、本当に温かな愛情である。学会ほど家族的で温かな心の通いあった世界はない。それは現代社会における生命蘇生のオアシスでもある。ゆえに、これだけ多くの人々が慕い、集う団体となったのである。温かな心の交流は、組織や役職をこえて、大事となることをよくよく銘記されたい。
17  さて、先ほど申し上げたように主人公グローカスと、キリスト教の伝道師オリントスは、ともにイシス教の妖術師アーバシズの奸計かんけいによって、牢獄にとらわれの身となった。その獄中で、オリントスはグローカスにキリスト教の話を情熱的に語る。私どもでいえば折伏である。
 グローカスは、キリスト教については、一般の人々の認識以上の理解はしていなかった。しかし、オリントスの「人間らしい情愛のほとばしりには、ギリシャ人の心の糸に触れるものがあった。彼(=グローカス)は初めて、この相手と自分とのあいだに共通の苦しみ以上に大きな共感をいだいたのである」(同前)と。
 グローカスは、教義がすべて理解できたというわけではない。しかし、人間らしい情愛のほとばしりに″あゝ、この人と一緒ならば″との共感の思いが強くわきおこってきたにちがいない。それがグローカスを入信へと導くことになったのである。
 「法」の流布といってもやはり「人」である。人間対人間の信頼のきずなによって法が弘められていくことは、皆さま方の経験からもよくお分かりのことと思う。ここにも、妙法流布の重要な方軌がある。
18  話は変わるが、戸田先生はご自身の獄中生活について、次のように語っておられた。
 「今日の事業の基礎はそのときに定まりました。二年ぐらい入ってきたって、いまから考えれば、うんと得してます。
 商売のうえで、また仏教上の思索のうえで、御本尊様に対する信心の強さといい、私が人生のうち、もっとも得をしたのは、この二年の牢獄の生活であります」(『戸田城聖全集 第四巻』)
 広宣流布の活動のゆえに戸田先生は牢獄に入られた。他の人は退転である。学会のためにこうなったと、多くの人は憎み怨んだ。そんななか、戸田先生は、むしろ入獄を喜ばれてのご境涯である。
 信心をしていても病気で悩む人もいる。商売や仕事で苦しむ人もいる。折伏や広布の活動に苦労する人もいる。いろんな苦しみ、悩みの姿がある。しかし、そのときこそ、宿業を転換し、功徳を開いている、一番よいときなのである。
 苦難があればあるほど、それを喜んでいける深い心境をもてることが、どれほど幸せなことか。それは妙法への信心が深まれば深まるほど分かってくる。また、そういう人は必ずといってよいほど、学会への感謝の心をもっている。
19  偽善と権威の指導者を見ぬけ
 また、作者リットン卿は、イシス教の黒幕アーバシズの邪悪な姿を通して、偽善と権威の聖職者を厳しく批判している。リットン卿は、こうした聖職者に対して、ずいぶん侮辱された思いがあったのかもしれない。
 この九州の地にも、正信会という偽善と権威の聖職者が数多く出た。そのために純粋な信心の皆さま方が、どれだけ苦しい思いをされたことか。どれだけ悔し涙を流されたことか。
 清純な乙女アイオンにとって、妖術師アーバシズはどのような人物として、とらえられていたか。リットン卿は次のように書く。
 「彼女は彼が人間のいっさいの欲を捨てて、深奥な知識を得た賢者であるように思っていた。彼女と同じように俗世の人間だとは思いもよらなかった」「彼が彼女の前にいることはこのうえもなく不快であった。また彼の傲然ごうぜんとした態度は、太陽の上に影を投げてそびえ立つ山のように思われた。けれども(中略)彼女は胸の中に起こってくる力に支配されて、反抗することができなかった。それは憎悪ではなく、動かすことのできない恐怖であった」(前掲。渡辺秀訳)と。
 リットン卿は、権威をふりかざす聖職者に、善良な人々が恐れから何も抵抗できず、悪の道にだまされ引きずり込まれてしまう心理の落とし穴を、見事に描いている。
 悪しき権威のもつ恐ろしさがここにある。弱き民衆こそ哀れである。
20  しかし、正義感に満ちた青年グローカスの鋭い直感は、その仮面の奥の本性を決して見逃さない。
 青年グローカスは、恋人アイオンへの手紙で、次のように言っている。
 「なぜ、あなたは、あの気味の悪いエジプト人(=妖術師アーバシズ)をあのように尊敬していらっしゃるのですか。彼には正直なところは少しもありません。(中略)私たちも彼に劣らず深い人生を知っています。私たちは、あれほど不気味な態度はしていません。私たちのくちびるは、いつもえみを含んでいます。しかし目はまじめです」(同前)と。
 青年の目は鋭い。けがれなき純粋な心に、濁った欺瞞ぎまんの心は、的確に映し出されていく。策や権威で手に入れた名声や富、世馴れた人生態度――それらは決して深い人生を知っていることの証ではない。むしろ、真摯に、実直に生きる青年の方が、人生の本質、人生の深さを知る場合が多い。
 ゆえに私は、邪悪と権威に対する青年たちの情熱と勇気ある行動に大きな期待を寄せている。その意味からも、人類と世界の未来を開きゆく妙法の青年群の成長を心から念願している。
21  さて、ベスビオ火山の大爆発に際して、一つの人生模様を教えてくれる事実がある。
 それは、大爆発を知って、とるものもとりあえずに逃げた人は、ほとんど助かった。しかし、比較的裕福で家財や貴重品を取りに戻った人々は死んでしまったということである。発見された多くの遺体からも、お金や貴重品をもったまま死んでいった人々の様子がうかがえるという。
 いつの時代でも、金持ちはお金への執着が強く、そのために命を失うことさえある。
 『ポンペイ最後の日』で、作者のリットン卿は、若きグローカスに、お金について次のように語らせている。
 「どうせ金なんて、我々の気分転換の効目ききめしかない金属のかけらだもの。損したって得したって、何てことないじゃないか」(堀田正亮訳、『百万人の世界文学3』所収、三笠書房)と。
 生活即信心から考えれば、生活を立派にすることは大事である。そのための経済力つまり財産も当然必要となる。
 それはそれとして「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」と仰せのごとく、「心の財」をつんでいくことが最も大事となる。言葉をかえれば、それは「法」を大事にし「法」にのっとって生きていくことでもある。
 どうか、日々「心の財」を積みながら「信心の財宝」で我が身を飾りゆく人生であっていただきたい。
22  「僣聖増上慢」はにせ聖人
 立派そうな外見をして、その実、正義の人に悪心を抱く聖職者アーバシズ。その姿は、悪しき聖職者の一典型である。
 法華経には正法の行者を迫害する「三類の強敵」の第三「僣聖増上慢せんしょうぞうじょうまん」について、次のように説かれている。
 「阿練若あれんにゃに 納衣のうえにして空閑くうげんに在って 自ら真の道を行ずとおもいて 人間を軽賎きょうせんする者有らん 利養に貪著とんじゃくするがゆえに 白衣びゃくえために法を説いて 世に恭敬くぎょうせらることをること 六通の羅漢らかんの如くならん 是の人悪心をいだき 常に世俗の事をおもい 名を阿練若にって 好んで我等われらとがいださん」(開結四四一㌻)云々。
 ――人里離れた閑静な場所にいて、粗末な衣をまとい、自分は真実の道を行じていると思って、他の人間を軽んじ賎しめるものがあるであろう。彼らは自己の利益や名利を貪り、執着し、そのために在家の人々に法を説く。(その本質を見破れない)世間の人から尊敬されることは、あたかも六種の自在の通力を持った聖者のようである。
 しかし(その内面は)悪心を抱き、常に世俗の欲望にとらわれている。そして、自分が人里離れた閑静な場所にいるということをタテにして、(現実社会の中で人々のため、正法を弘めている)私達の悪口を好んで並べたてるのである――と明快に説かれている。
23  僣聖増上慢の「僣」とは、本来「僭」が正字である。「僭」とは、もともと節度や秩序を超え、調和が乱れることをさす字で、下の者が分を越えて上になぞらいおごる義である。つまり、尊貴なものを侵し乱すことによって、自分の地位を高めようとする行為や行為者を「僭」という。よく使う「僣越せんえつ」(さし出て自分の分を越える)という言葉も、こういう字義を含んでいる。
 「僭」には、他にも、かざり、おごる、まことがない、不信、そしる、などの意味がある。
 すなわち「僣聖」とは、本来の分を越えて、聖人のようなふりをしている。しかし、内実は、真実に尊貴なものへの嫉妬と邪心から正しき人々の間の調和を乱し、そのスキに乗じて、自分の地位を高めようとする野心と私欲を持った、にせ者の聖人なのである。
24  涅槃経には「外には賢善を現し 内には貪嫉を抱く」(外面には行いが賢明かつ善あるごとく装っているが、内面には貪りと嫉妬を抱いている。大正十二巻)とある。
 また『富士宗学要集 第二巻』の「用心抄」には「僣聖は高慢の魔賊まぞくなり」とある。
 要約すると、僣聖増上慢には、次のような特徴がある。
 (1)世間から聖人のごとく尊ばれ、人々の依怙依託えこえたくのように思われている(2)その内面は悪心で貪欲であり、名聞名利を求めている(3)正法の行者を怨嫉おんしつ誹謗ひぼうする(4)ついには国家権力に訴えて迫害する。
 三類の強敵の中で、一番やっかいなのが、この僣聖増上慢である。その理由として妙楽大師は「うたがたきをってのゆえに」(大正三十四巻)と述べている。
 つまり、立派そうな外見や言葉にまどわされて、その邪智、謗法という本質を、なかなか見破ることができないからだというのである。あまりにも悪賢いゆえに、多くの人々が、だまされてしまう。
25  さて『ポンペイ最後の日』では、悪の聖職者アーバシズと、彼に疑惑を感じ始めた青年との間に、次のようなやりとりがある。
 アーバシズが青年に言う。
 「君が俗人どもをあざむくためのこうした儀式を発見し反感をいだいたのをわしはすぐに感じた」「退くことはできない。進みたまえ。わしは君の指導者になろう」(前掲、渡辺秀訳)――。
 もはや自分の手口に乗ってこない青年の疑惑を敏感に察知した悪人が、さらに彼を自分のとりこにしようとしているのである。「君の指導者になろう」との一言に、妖術師の醜い本心が現れている。人々を利用して、自分がうまく指導者におさまろうというのが、常に、偽善者の燃やす野心なのである。
 近年、宗門と学会を撹乱かくらんした一派が、多くの人々を陰謀の力で逃げられないようにし、自分が一番偉い指導者であると仮面をかぶった姿は、皆さまのご存じの通りである。全く、こうした方程式というものは、いつの時代でも共通するものであると思う。この中から何かを感じとっていただければ幸いである。
 しかしこの時、青年は、妖術師に、だまされなかった。鋭き批判力で悪を見破った。
 「ああ恐ろしい。あなたは私になにを教えるのですか。新しい詐欺――新しい……」(同前)と。詐欺師の指導者に、だまされてなるものかとの正義の怒りの言である。
26  誤れる指導者につくことは、怖い。悪の指導者につけば、悪の道に行かざるを得ない。
 次元は異なるが、御義口伝には次のように仰せである。
 「地獄の授記は悪因なれば悪業の授記を罪人に授くるなり」――(十界それぞれの授記のうち)地獄の授記は悪因であるから、悪業の授記を罪人に授けることである――と。
 これは、悪しき指導者につけば、悪業の″授記″を受け、地獄界の苦悩の境涯に堕ちていってしまう、との厳しき道理を御教示されているとも拝される。
27  他への教訓より自らの変革を
 最後に″自分自身の変革″の重要性にふれておきたい。
 『ポンペイ最後の日』で、作者リットン卿は、主人公グローカスのある友人について、こう表現している。「彼は自分以外のすべてのものの大改革論者であった」と――。
 すべてに″大改革″を唱えるが、肝心の自分自身については一向に改革しようとしない人間。これに対して私どもは、まず自分自身の「人間革命」に取り組んでいる。それを根底にして″すべてのものの大改革″を目指し、平和へと進んでいる。ここに根本的相違がある。
28  自分自身をまず変革する――このことに関連して、御書を拝しておきたい。
 大聖人が十九歳の南条時光に対して与えられた御書に次の一節がある。
 「今はすてなば・かへりて人わらはれになるべし、かたうど方人なるやうにて・つくりおとして、我もわらひ人にもわらはせんとするがきくわい奇怪なるに・よくよくけうくん教訓せさせて人のおほくかんところにて・人をけうくんせんよりも我が身をけうくんあるべしとて・かつぱとたたせ給へ」と。
 ――今、信心を捨てたならば、かえって人に笑われることになろう。味方のようなふりをして偽(いつわ)って(あなたを)退転させ、自分も嘲笑し、人にも笑わせようとする、けしからぬ者達には、言いたいだけ言わせておいて、最後にこちらから「大勢の人の聞いているところで人を教訓するよりも、自分の身こそ教訓しなさい」と言って、勢いよく座を立たれるがよい――との仰せである。
 味方のような態度で近づき、退転させようとするのが「悪知識」の本質である。立派な言葉とは裏はらに、自分自身への謙虚な反省がない彼らの心根を鋭く見破り、堂々と破折していくよう教えられている。ここから何らかの示唆をくみとっていただければ幸いである。
 本日、お会いできなかった九州の全同志の方々に、よろしくお伝えしていただきたい。最後に「十月に、またお会いしましょう」と申し上げ、記念の講演としたい。

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