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日蓮大聖人・池田大作

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第10回芸術部総会 わが胸中の「明鏡」を磨きぬけ

1987.5.10 スピーチ(1986.11〜)(池田大作全集第68巻)

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2  本日は、記念すべき第十回総会であり、少々、所感を述べさせていただき、その深き意義を刻んでおきたい。
 芸術に生涯を捧げておられる皆さま方である。理屈っぽい話より、芸術と関連した具体的な話の方が、この席にふさわしい話題であると思う。そこで、きょうは、「待ちぼうけ」や「この道」など、国民に親しまれた童謡の作詞者としても知られる、国民詩人の北原白秋について、述べてみたい。
 「言葉の錬金術師」とも呼ばれた白秋は、五十七歳で没するまで、「詩業一路」の生涯を送った。詩、短歌、童謡、小唄、民謡等、詩のあらゆる領域で傑作を残し、文学界に限りない新風を送った。その著作は、二百冊にも及んでいる。
 白秋が「詩業一路」とすれば、皆さまは「音楽一路」であり、また「書道一路」「舞台一路」等々の人生を歩まれている。いずれにせよ、一路に徹し、その″道″の精髄を究めようと努力されている。それが、芸術家本来の姿である思う。一つの「道」に徹しきれずして、何らかの創造をもたらすことは出来ないものだ。それぞれの″道″での、皆さま方の更なるご健闘とご活躍を、心から念願したい。
3  さて、白秋の出身地は、福岡県の柳川である。私も二年前に柳川を訪れたが、その詩情ただよう町並みは、今も忘れがたい。その折、詩ごころを誘われ、和歌をんだことも、懐かしい。
 白秋の本名は、隆吉という。「白秋」の名は、中国の五行説に由来するようだ。
 五行説では、春夏秋冬に色を配し、春は青で「青春」、夏は朱(赤)で「朱夏」、秋は白で「白秋」、冬は玄(黒)で「玄冬」という。さすがに、大詩人にふさわしい、詩情豊かな筆名(ペンネーム)を考えたものである。
4  次々と傑作を著し、広く民衆に愛された白秋は、いわゆる天才の一人といえるかもしれない。その生涯は、豊かな詩才を自由自在に発揮した満足の日々のようにみえる。しかし、現実には、血のにじむ苦しみと努力の積み重ねであったことを知るべきであろう。
 彼自身、こう書き残している。
 「歌が私にはいちばんつかしい。自分のような者は歌は廃したがいいとさえ何時いつも思う(中略)しかし専門歌人たちよりも私の苦しみが数倍なだけ、素人であるだけ、何時も初心者の心もちでいられる。これはかたじけないと思うし、奮発心がおこる。
 時とすると、作っている時か、その作後の数日は、まあ見てくれという気もちでいっぱいになっている時もある。が、雑誌に掲載されたり、集になったりするのを見ると、とてもがっかりしてしまう。毎月毎月これが繰り返されるのである。背骨がひしげるようなおもいがする。おそらくこうして一生とおし抜くことであろう。苦しみ抜くより上達の道はない」(「季節の窻」、『白秋全集17 詩文評論3』所収、岩波書店)と。
5  やはり白秋も、詩作にあたり苦しみ、呻吟しんぎんしぬいていた。創作の苦しみは、この天才にも、容赦なく襲いかかっていたのである。
 しかし、白秋には「苦しみ抜くより上達の道はない」との明確な哲学があった。ここに、凡人には見られぬ彼の大成の秘密がある。
 しかも彼には、大家ゆえのおごりがなかった。自らを「素人」であるとし、「初心者」の心もちを大切にしていた。
 たしかに、現在のレベルに満足し、″これでよし″とする人に、成長はない。つねに「初心」にもどり、″もっと努力しよう″″もっと成長しよう″″もっといい作品を残そう″という「奮発心」が、絶えざる向上をもたらすのである。ゆえに「初心」の人に行き詰まりはない。反対に、自分の力に慢心し、「初心」を忘れた人は、必ずや行き詰まる。
 このことを、白秋は知悉していたにちがいない。ここに白秋の人間的な偉さがあった。
 どうか、皆さま方も、初心を忘れぬ、謙虚と進歩の人であってほしい。とくに、私どもには「信心」がある。いかに芸の道や人生に行き詰まることがあろうとも、唱題を根本にすれば、必ずや苦境を開いていくことが出来る。唱題こそ、生命を絶えず奮発させ、躍動、蘇生させてくれる原動力である。苦しみの中に成長と向上の道を開きゆく源泉なのである。
6  苦闘と努力のなかに本物の人生
 白秋の「努力」への信念に関して、次のようなエピソードがある。
 ある時、白秋は、若い急進派の歌人から批判を受ける。
 「あなたの歌はやはり型にはまった三十一文字の歌で、新しい現代の歌といっても、以前の旧派の歌とはただ紙一重の相違ではないか」と。
 それに対し白秋は答える。
 「そうです、ほんの紙一重です。しかしこの紙一重のために、この三十幾年という永い年月を苦労して来たのだ。考えても見たまえ、あの世界競技としての水泳にしてからが、制限されたプールの中で同じ水泳なら平泳の型を用いて、同じく制限された距離で、次ぎ次ぎに世界の新記録を作っていく新人が続出するのだが、あれにしても、ほんの一秒の何分の一かを超えるに過ぎない。決して突飛な飛躍があるはずはないのだ。その一秒の何分の一という新記録をこさえるためには、どれだけの練習を毎日々々、朝となく夕となく強行しなければならぬか、その永い日子にっし(=日数)の克己と善行とが、どれほどのものであるか。皆この紙一重を超えるために涙ぐましい練習を続けているのだ」(同前)
 そして白秋はいう――「詩歌の修業も同じである」(同前)と。
7  むろん、詩歌だけではない。″紙一重″の前進のためにしのぎを削り、そのために必死の努力を重ねる――いかなる分野であれ、それが現実社会の厳しい姿である。
 信心の世界も例外ではない。仏法は道理である。いかに御本尊を信受しているといっても、努力なくして前進はない。むしろ信心をしているからこそ、人一倍の努力を傾けていくべきである。″何とか、一歩でも二歩でも人に先んじていこう″という創意と苦闘の積み重ねがあって初めて、勝利と栄光の実証が輝くのである。所詮、努力と精進なき人は、弱々しき愚痴と中傷の人となり、惨めな敗者とならざるをえない。
8  「詩歌の修業」について、白秋はさらに語る。
 「突拍子もない大々飛躍などということはめったにできるものではない。一代の名作、或は傑作を突如としておおやけにし、世を驚かそうとする間は根本から修業の道があやまっている。修業というものは、石なら石を一つずつ積みあげていくようなもので、根気よく、こつこつと仕事の力と量とを積み上げていかねばならない。何事も修練と時間の堆積たいせきとから光り輝く喜びが来る。どれだけ天賦の才を恵まれていても、この平生の努力を怠る向きは、ついに何の業をも大成し得ないであろう」と。そして「努力なのだ、努力なのだ」と結んでいる。
 私どもの実践でいえば、「平生の努力」とは、日々の勤行・唱題であり、仏道修行である。その場合も、一度勤行したからといって、「突拍子もない大々飛躍」などが起こるものでもない。しかし、仏道修行に励んだぶんだけ、生命の因果として刻まれ、冥益みょうやくとなって人生を飾っていく。仏道修行の積み重ねが、生命の境涯を広げ、成仏という絶対の幸福境涯への確かな歩みを可能にしていくのである。
9  ″近代彫刻の祖″といわれるフランスのロダン。彼は芸術の努力について、こう言っている。
 「石に一滴一滴と喰い込む水ののろい静かな力を持たねばなりません」(『ロダンの言葉抄』高村光太郎訳、岩波文庫)
 一滴また一滴、対象にくいこんでいく努力。これが、あらゆる道おいて、不朽のものを成すための鉄則である。
 御書には「つゆつもりて河となる・河つもりて大海となる・塵つもりて山となる・山かさなりて須弥山となれり」と仰せである。
 一日一日、一刻一刻の確実にして営々たる努力、また努力。その集積の上に樹立された成功でなければ、本物ではない。虚像の栄誉といわざるを得ない。
10  人間の交わりに人生の妙味
 さて白秋は三十三歳の頃、次のように書いている。
 「考えると、私も人生のなかばを過ぎました(中略)落ちついた心で、ねんごろに、自分のいのちの落ちつくところも考えねばなりません」(「童心」、『白秋全集16 詩文評論2』所収、岩波書店)
 いのちの落ちつくところ――白秋は自己を省みて、何らかの確かなものが欲しかったのであろう。一流の人物は、みな真摯に、より高く正しいものを求めているものだ。真面目な求道の心もなく、いたずらに他を批判して傲れる人は、それ自体、二流以下の人物であることを証明している。
11  白秋は続けて言う。「私は人間の子です。酒屋の子です。柳河のトンカ・ジョン(=同地の方言で″大きい坊っちゃん″の意。白秋は長男)です。(中略)だから人間の楽しむ丈のことも、苦しむだけのことも、行きつかねばならぬだけのことも、人間らしく、人間の中に交って、人間の中に死んでゆきたい」(同前)と。
 どんな有名の人も、権力の人も、みな人間である。特別な人など、いるはずがない。同じ「人間である」という本質を忘れ、階層その他、表面的な違いにとらわれることは、余りにも愚かである。
 白秋は「人間である」という原点を見失わなかった。えらぶらず、「酒屋の子です」と言って淡々としていた。
 世間の宮殿のごとき栄華も、名聞も、永遠の生命から見れば、むなしく、小さな出来事にすぎない。大切なのは″胸中の宮殿″を開いていくことである。この一点にのみ、永遠性に通じる人生の要諦ようていがある。
 また白秋が「人間らしく、人間の中に交って、人間の中に死んでゆきたい」と述べているのも味わい深い。人間と人間との交わりの中にこそ、人生の妙味もある。成長もある。いくら立派そうに見せても、独りぼっちでは孤独地獄である。
 私どもには多くの素晴らしい同志がいる。励まし合い、成長し合っていける学会の麗しい世界がある。これほどまでに、ありがたい、心温かき世界は、他に絶対にない。
 さらに白秋は「そうして玉のように自分の霊を磨きあげいばかりです」(同前)と続けている。
 我が生命を玉のごとく磨きに磨いて人生を終わりたい。それよりほかに願いはない。――有名であれ、無名であれ、人間としての本然の欲求がここにある。
 また芸術家にとっても、我が生命の完成という、この一点への歩みがあってこそ、あらゆる修行と精進が、確かな骨格を持つ。
 そして、人生をどう生き、どう死すか。どう生死の苦を克服するか。万人が避けて通れぬ、この課題の解決の道を明かしたのが正法である。
 創価学会は、この正法の信仰を人々に教え、広宣流布している団体である。学会ありてこそ、私どもは御本尊を拝し、宇宙本源の大法である妙法を唱えることができた。大聖人の正しき信仰と、正しき成仏への道を教示してもらうことができた。
 ゆえに私どもは、学会に大恩があることを、人間として決して忘れてはならないであろう。その純粋なる信心の一念が自身を飾り、我が芸の道をも飾っていくのである。
12  強盛なる信心で生命を浄化
 妙法こそ生命を磨きゆく根本である。一生成仏抄には次のように仰せである。
 「たとえば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性ほっしょう真如しんにょの明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり
 ――たとえば、曇った鏡も磨きあげれば、玉のように輝いていく。迷い悩む生命は磨かない鏡のようなものである。これを磨くならば、必ず、真実の悟りの智の明鏡となる。深く信心を奮い起こして、朝も夕も、つねに怠ることなく生命を磨かねばならない。どのように磨けばよいか。(御本尊に)南無妙法蓮華経と(自行化他にわたる)題目を唱えていくことが、生命を磨いていくことになる――という意味である。
 現代は悪縁の絶えない社会である。清浄な生命も、すぐに曇り、汚れてしまう。ゆえに、この生命錬磨の根本法が絶対に必要となる。
13  磨きぬかれた生命には智慧が輝く。その智慧は″芸術の深化″と″人生の勝利″を導く光となる。
 法華経の法師功徳品第十九には、妙法を受持した人の智慧を「又浄明じょうみょうなる鏡にことごともろもろの色像を見るが如く」と説く。
 清浄にして明るい鏡が、あらゆる物の像をはっきりと映し出すように、磨きぬかれた生命は、世の中のあらゆる現象を明瞭に見ぬくことができるのである。
 この経文について、大聖人は御義口伝に次のように仰せである。
 「六根清浄の人は瑠璃明鏡るりみょうきょうの如く三千世界を見ると云う経文なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は明鏡に万像を浮ぶるが如く知見するなり」と。
 瑠璃とは七宝の一つ。六根清浄とは、この法師功徳品に説かれた、正法の実践者の功徳である。すなわち眼・耳・鼻・舌・身・意の六根という知覚・感覚の機能、つまりは生命の全体が清浄に輝いてくる。
 同品には「当に八百の眼の功徳、千二百の耳の功徳、八百の鼻の功徳、千二百の舌の功徳、八百の身の功徳、千二百の意の功徳を得べし」とある。
 画家や書家をはじめ芸術家にとって「八百の眼の功徳」が、いかに絶大の力を発揮するか。また音楽家等には「千二百の耳の功徳」が、どれほど深い恩恵となることか。信心によって、我が身自体に、かくも素晴らしい″生命の舞台″が広がっていく。まことに、ありがたき妙法である。
14  鍛えられ、磨かれたこの生命の「明鏡」は、宇宙と社会と人間の全体を、あますところなく映し出す。「明鏡」とは根本的には、御本尊のことであられる。すなわち日蓮大聖人の御生命である。総じて、御本尊を信ずる大聖人門下の「一心の明鏡」である。
 信心の重大な意義がここにある。強盛なる信心によって生命の色心が、最も清浄に、最も力強く、向上し変革されていくのである。ゆえに生命の発露であり表現である芸術の根底に、正しき信仰が必要となる。
 大切なことは、信心による生命の浄化は、″芸術の深化″とともに、″人間としての勝利″の原動力となることである。
 芸のうえでは勝利した。しかし、人生と生命の次元では敗北した。そういう人が、余りにも多い。見事な芸術の結晶をのこしながら、自殺や精神異常、また家庭の不幸等々、悲惨な末路で終わる人は少なくない。
 妙法は、芸術と人生と、両方に勝利していける根本法である。ゆえに信心を最後の最後まで貫き通さねばならない。
15  「真金」は水火に焼けず朽ちず
 次に申し上げたいことは、何事においても、本物と偽物とを峻厳に見極めていかなければならないということである。
 この点について、北原白秋は次のように述べている。
 「芸術上の作品に於ては、必ずしも正邪の目は立てられるべきではない。ただし真贋と巧拙とは観破され得る。
 それは個の表現で有るか無いかである。本質の光輝か否かである。贋はあくまでも贋である。せめて日本では日本の芸術の真贋は識別して置きたいものである。贋物があまりにもはびこり過ぎる」(前掲「季節の窻」)と。
 また「近代哲学の父」とされるフランスのデカルトは、自著『方法叙説』のなかで「自分の行く道があきらかにみえるように、この人生において安全に歩けるように、真偽を識別することを学ぼう」(落合太郎訳、岩波文庫)と述べている。この実践的探求に、彼の青春の情熱を傾けたという。
16  たしかに、現在はあまりに本物が評価されず、偽物、まがいものがはびこっているように思う。精神の深さではなくテクニック(技巧)のみが強調されたり、また金銭や世襲などの利用で評価がゆがめられていく場合も多い。また、マスコミにのって、巧みに虚像がつくりあげられていく――。こうして、本物の人、真剣、努力の人に光が当たらず、正当な評価もされず、見失われていくという今日の社会風潮を憂える。
 大事なことは本質が光っているかどうかである。本物はどこまでいっても本物であり、偽物はあくまで偽物である。信心にあっても、人生にあっても、また芸術の道においても、それは同じである。
 私どもは、物事の本質を的確にとらえ、本物を追究し、偽物を峻別していく、鋭い目をもっていきたい。とともに、芸術の道を探究されている皆さまは、世間の風評などに左右されず、自らの道を、日々、確かな足どりでたゆみなく進んでいただきたい。一切は、御本尊が御照覧であるにちがいない。
17  さらに仏典には「カラスとクジャク」という次のような説話がある。
 「昔、釈尊が舎衛しゃえ国の祇園精舎ぎおんしょうじゃにあって、多くの人々を集めて説法されていた時のことである。
 北方のチゲンという国から、ハシヤリ国へカラスをもってきた。この国にはカラスというものがいなかったので、この国の人々は珍しい鳥だと、大いに喜んでいろいろの食べ物や木の実、草の実を与えて非常にかわいがった。それと知ったカラスは、遠近からこの国に集ってきて、数えきれないほどになった。
 その後、一人の商人が他国から三羽クジャクを持って帰ってきた。国の人々はクジャクの美しい羽根、穏やかで卑しからぬ行歩、微妙な姿を見て感嘆した。そればかりか、今まで珍しいと思ったカラスに比べて、天地雲泥の相違に驚いて、さらにその音声の美しいのを聞いて、醜悪なカラスの鳴き声を聞くのもいやになった。それで今までカラスに捧げた人々の愛好は、一朝にしてことごとくクジャクに振り向けられて、だれ一人カラスに食を与えるものもいなくなったのでカラスの大群は、何時となしにこの国からその影を消してしまった。
 その時、諸天は歌った。
  『日を見る前のロウソクの光、 クジャクなき国のカラス、
   飲食、木の実、草の実をむさぼり、 慢心現れて愛を失う』」
   (仏教説話文学全集刊行会『仏教説話文学全集5』一四五ページ、隆文館)
 この話はカラスを外道・バラモンに、クジャクを釈尊にたとえ、正しい教えが顕れた時、それ以外の教えは消えさることを示したものである。
 それはそれとして、この話は、確固とした内実をともなわない有名とか移ろい易い流行や人気のはかなさにも通ずるといえよう。生涯の長い目でみたとき、本当の有名、幸福というものは、おのずから定まっていくとの示唆を与えてくれるものである。
18  御書に「金は大火にも焼けず大水にも漂わず朽ちず・鉄は水火共に堪えず・賢人は金の如く愚人は鉄の如し・貴辺あに真金に非ずや・法華経の金を持つ故か」と、仰せである。
 ――金は大火にも焼けない。大水にも漂わされ朽ちることもない。鉄は水火ともにたえることができない。賢人はいわば金のごとくで、愚人は鉄のごとくである。あなたはまさに真金の人に違いない。法華経という金を持つゆえであろう――と。
 皆さま方は妙法を持ち、広布に生き抜いておられる。たとえ今は、どのような境遇、立場にあったとしても「真金の人」なのである。
 社会の名聞に漂うこともなく、名利に煩悩の身を焼かれることもなく、人生の「賢人」として、また「真金の人」として使命の道に生き抜いていただきたい。また、
19  信心の勲章で自分を飾れ
 デカルトの座右の銘の一つは次の言葉であった。これは、ローマの哲学者・作家であったセネカの悲劇『テュエステース』からとった句である。
  「死は重くのしかかる
   万人に余りにも知られ
   おのれには知られずして死する者に」(武田篤司訳、『デカルト著作集3』所収、白水社)と。
 「万人に余りにも知られ」とは有名の人生である。名声を得た人生である。「おのれには知られずして」とは、自分の生命に暗い人といってよい。大聖人は「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」と仰せである。
 自らの生死の道を解決する法を知らずして、有名の二字に追われる人ほど、死に臨んで苦悩は深い、というのである。
 有名は即幸福とはいえない。むしろ、有名になればなるほど、生死の苦悩はより重く深刻である場合が多い。それではあまりにも不幸である。生死の根本の解決法である妙法を持ち、信心に励める私どもは、本当に幸せ者である。
20  持妙法華問答抄に「願くは「現世安穏・後生善処」の妙法を持つのみこそ只今生の名聞・後世の弄引ごせのろういんなるべけれ」と仰せである。
 ――願うことは「現世は安穏にして後には善処に生まれる」ことのできる妙法を持っていくことのみが、今生の真実の名誉であり、未来永遠にわたる菩提の因となるのである――と。
 人生には、それぞれの道がある。しかし最高の目的は「成仏」であり「現世安穏・後生善処」のあかしを得ることである。永遠なる安心立命と幸福に生きていけることである。それを実現できる根本法こそ妙法である。
 ゆえに妙法を持ち、信心に生きゆく人生こそ、真実の名誉であり、永遠にさん然たる輝きを放つ生命の勲章を持った人生なのである。
 芸術の道とともに信心の道を凛々しく進んでおられる皆さま方である。強く純粋な信心を貫き、真実の″生命の名誉″″生命の勲章″で人生を飾っていただきたい。
 先ほど皆さま方と勤行・唱題し″皆さま方がいつまでもご健勝で、大成功者となられるよう″に、また″退転されないように。たとえ退転しても、再び妙法の世界に帰ってこられるよう″に、深くご祈念をさせていただいた。
 どうか、地道であっても、それぞれの道で、立派な人生の大芸術の実証を示していかれんことを心から念願し、この日のスピーチとしたい。

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