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日蓮大聖人・池田大作

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富士宮圏記念幹部会 皆が「桜梅桃李」の使命を

1987.5.8 スピーチ(1986.11〜)(池田大作全集第68巻)

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1  大御本尊まします地を盤石に
 本日は、今後の富士宮にあって、重要な意義を刻む第一回の幹部会である。勝ち負けは人の世の常であるが、日夜、広布の活動にご苦労されている皆さま方を、一日も早く激励もし、応援もしたいと思い、この幹部会に出席させていただいた。
 私は、言うべきことは言わざるをえない責任ある立場にいる。そこで、本日は、富士宮について、長年、思ってきたことを申し上げさせていただきたい。
 この富士宮の地には、本門戒壇の大御本尊がまします。
 その富士宮の広宣流布が大いに進んでいかなければ、御本仏日蓮大聖人がお嘆きになるに違いない。そう思うとき、富士宮こそ、世界で一番最初に「広宣流布の天地」を実現していく使命と責任があると、強く申し上げておきたい。
2  「広布の精神」は、峻厳な信心にある。信心を忘れ、世法的なつながりや関係のみを考えていくところには、真実の信心の精髄はない。信心を失った守りは必ずほころび、破れていくものだ。
 皆さま方は、不思議にも縁あって、この地で活躍をしている使命深き方々である。富士宮の広宣流布は、富士宮の皆さま方に託す以外にはない。どうか、広布の精神を、どこの地よりも深く体し、透徹した学会精神ともいうべき信心で広宣流布と常勝の実証に輝く、国土を築きあげていっていただきたい。
3  武田勝頼にみる後継の教訓
 さて、武田信玄について、これまで何度か話をさせていただいた。すると、次の代の武田勝頼についても話をしてほしいとの声が多くあった。ともあれ、次代を受け継いでいくという意義において、大切であると思うがゆえに、後継ぎの武田勝頼について少々話をさせていただく。
 武田信玄は天正元年(一五七三年)五十三歳で病死する。そのあとを継いだのが四男の勝頼であった。信玄によって天下にを唱えようとした武田家も、その子・勝頼の代で、あっけなく滅びる。
 なぜ武田家が、かくももろく滅亡したか。その理由はいろいろあげられるが次のようにもいわれている。
 「晴信(=信玄)おわりに臨み、遺言していわく(中略)一旦国をもって之に託する時は、泰山よりも安し。汝(=勝頼)、わがことを用ひば、われた何をかうれへんと言い卆す。勝頼、その言に従はず、ついに其国を亡せり」(岡本繁実『定本 名将言行録』新人物往来社)と。
 信玄は死に臨んで、勝頼に一切を託し、自分(信玄)の言った通りにすれば、何の憂うるところもないと言い残した。しかし、後継の勝頼は二十七歳。遺言通りにしなかった。家臣の諌言も聞き入れることはなかった。
4  いかなる世界にあっても、その消長、興亡は、後継者によって決まるといってよい。これは、一国にあっても、あらゆる団体、組織、また一家にあっても同様である。
 ましてや広宣流布は、末法万年にわたる信心の長征である。先輩達が拓き、築いてきた尊き伝統と崇高なる精神を、いかに後継の人材が立派に継承し、発展させていくかに広布の将来の一切がかかっている。
5  その武田家の末路は余りにも暗い。信玄は亡くなる時、「三年間は(自分の)喪を伏せよ」と言い遺した。また無理な戦いをしてはならないと。しかし信玄の死は、やがて近隣の諸将の知るところとなる。
 後継ぎは勝頼である。しかし戦国第一級の武将として、余りにも偉大であった父・信玄に対し、勝頼の影は薄い。本当の苦労をしていないのだから、それも当然である。にもかかわらず勝頼には父との差という現実への認識が十分でなかった。甲斐の悲劇は、ここに始まる。
 すなわち勝頼は、自分は父・信玄と同じように周囲に畏怖されていると思いこんでいた、という指摘がある。勝頼は、父の遺訓に背き、次第に自ら先手をとって動き始めたのである。しかも、信玄が亡くなったとはいえ、武田軍は協力で、次々と勝利する。
6  慢心は怖い。人間は、傲りと焦りから滅びていく。勝頼は、主君である自分の言うことなら、家臣は何でもきくと思いこんでいた。自分は偉い、「力」があると信じ、どれほど社会が厳しいかを知らない。また、甲斐の国を守り栄えさせるための真剣な思索と責任感もなかった。
 父・信玄は常に、甲斐の国をどう守るか、その要件は何か、今よりさらに良い方途があるにちがいない、と考えに考えぬいていた。戦に対しても慎重だった。敵が何を考えているか。現状をどうつかみ、どう対処するか。民の苦しみを、どうやわらげるのか。年がら年中、信玄は思索し、作戦を考えていた。
 その父の心も知らず、勝頼は功名に焦り、戦いを始めた。社会を軽く見、敵を軽く見た結果である。後継者という立場におごり、自分がいかに苦労知らずで、浅慮であるかの自覚がなかった。
 学会においても、これまで道を誤った人間は、みな傲りと焦りがあった。独りよがりで、周囲は誰も信用していない。こういう場合が多かった。何より信心を軽く見、広宣流布を軽く見、創価学会を軽く見ていた。余りにも浅はかな姿である。
7  武田家にとって不幸なことが、もう一つあった。それは勝頼が信玄の教えや遺訓をもとにいさめる家臣の意見には耳をかさず、功績にはやる勝頼の意向に添う家臣の言を受け入れたことである。無理な戦いをしてはならないと戒める者たちは、臆病者と笑われたのである。
 そうした変化の理由の一つに、世代の交代があった。過保護育ちが多くなっていたのである。情勢に対する判断の甘さは、家臣のなかにも生じていたのである。――信玄のもとでなら、主臣一丸となって、どこまでも、とことん戦いぬいていく。世代が代わるなかで、そうした燃えるような、伝統の精神がなくなってきていた。
 学会も、草創の精神が、次第に薄くなってきていることを私は憂える。私どもの使命の舞台は、信玄らとは比較にならないほど広大にして、はるかに長き万年への尊い戦いである。ゆえに私は、伝統の学会精神を永遠に無くしてはならないと、繰り返し申し上げる。
8  信玄は戦国最高の武将の一人であった。しかし後継者の育成に失敗した、と批判されるのも、信玄亡きあとの武田家のたどった結果からすればやむをえない。かわいさの余り、我が子への盲目だけは、克服できなかった。信玄自身は、この大失敗の結末を見ることなく世を去った。
 さて、武田家の没落を決定づけたのは、歴史に名高い「長篠ながしのの戦い」である。
 天正三年(一五七五年)五月、上洛の途次にあった勝頼の率いる武田軍は、三河国長篠で、織田信長と徳川家康の連合軍と戦い、大敗を喫する。そのさい、信長が鉄砲による攻撃を巧みに行い、騎馬と長槍の武田軍を徹底的に破ったことは、余りにも有名である。いわば、時代を先取りした織田軍の新戦法が、時流から外れ、伝統に固執した武田軍の旧戦法を破った。
9  ″時流″をとらえずして、勝ちいくさはない。また″時代″を知らずして、勝利もありえない。それは、いかなる社会、国家、また個人においても、当てはまる法則である。
 むろん、広宣流布を目指す私どもにとっても、例外ではない。富士宮の大切な皆さま方は灯台もと暗しであってはならない。決して、とうとうと流れる時流から遅れてはならない。一閻浮提の大仏法の上からみた場合、自分の狭い地域のみの独善的な見方ではなく、世界に大きく目を開く必要がある。また、その場限りでよしとしていては下種仏法の実践者とはいえない。
10  民衆の心に立つ将であれ
 長篠の戦いに関連して着目すべき一つの事実がある。それは、勝頼が、農繁期である五月に出陣し、決戦を挑んだということである。
 五月といえば、農民にとっては、一年のうちでも、最も重要な季節である。その時期の争乱は、農民達の最もみ嫌うものであった。武田軍に対する不平が募り、民衆の心が離反していったのも当然のことといえよう。
 父・信玄であれば、こうした時期の出陣は、到底、考えられないことであった。信玄は、民衆の生活と心情に、深く、細かな配慮を巡らし、民衆の負担が必要以上に大きくならぬよう心がけていた。
 また勝頼は、長篠の戦いに臨む際に、宝飯ほうい郡(現在の愛知県宝飯郡)の付近で豊川のせきを切り、川の水を平野に流した。梅雨の季節であったため、おびただしい水量が田畑へと流れ込み、農民は甚大な被害をこうむっている。
 戦国時代には、農民への収奪などが繁に行われたのも事実だが、いかに軍事上の作戦とはいえ、このような、農民の生活の基盤までも破壊してしまう言語道断の行為は、他に例をみない。その時の農民達の嘆きと怒りは、いかばかりであったろうか。
 要するに、勝頼は、民衆の心、庶民の心を知ることが出来なかった。それは、苦労をしらずして高位に昇った″権威の人″には往々にして見られることである。しかし、それでは、最後の勝利と繁栄を得ることは出来ない。
 人の心を知り、人情の機微に通じゆくことこそ″将の将″たる要件である。民衆の心が分からずして、真実の指導者とはいえない。ましてや、仏法のリーダーではない。この点を、よくよく銘記していただきたい。
11  さて勝頼は、長篠での敗北が決定的となったさい、″自分も、ここで討ち死にをする″といい出した。これは一見、死をも辞さぬ潔い姿のようであるが、実際は無責任きわまりない″きれいごと″にすぎない。決して、一国の責任ある指導者のいうべき言葉ではない。
 なぜなら、勝頼には、数多くの臣下や領民がいる。そのすべての人々に、全面的な責任を負う重大な立場にある。それを放棄してしまえば、領主でもなければ、指導者でもない。勝頼の言葉は、この責任の放棄を意味している。
 これに対し、父の信玄は、戦の進展しだいでは、戦いを捨て逃げてしまうこともあった。しかし、それはすべて、兵を守り、国を守り、ひいては領民を守るためであった。そして最後には、現実に自国の偉大な繁栄を築いた。逆に勝頼は、悲惨な滅亡を残すことになる。
 このように一人の指導者の優劣で、国や団体は、繁栄もすれば、滅亡もする。その重大な責任を担った存在が、指導者である。
 ゆえに、誤った指導者に率いられた民衆ほど不幸なものはない。かつて軍部権力の愚かな指揮のもと、数限りない辛酸をなめ犠牲になった日本人の悲しい経験も、その一つであろう。そのような悲惨を、絶対に繰り返してはならない。
12  長篠の敗北後も、勝頼の傲りと焦りのいのちはえなかった。その結果、人心は離れ、家臣の離反も相次いだ。
 天正十年(一五八二年)一月、臣下の木曽義昌が、信長と通じ謀反むほんを起こす。義昌は、勝頼の妹の夫であり、いわば親族の反逆であった。
 その義昌が信長に宛てた書状には「勝頼は暴悪がすぎます。家臣の意見をいれず、雅意(=我意)を誇り、下を苦しめています。一門譜代のものはことごとく、別心をいだきはじめました」(武田八州満「評伝・風林火山の大いなる夢」、『現代視点 戦国・幕末の群像 武田信玄』所収、旺文社)と述べさせている。
 義昌の反乱を機に、家運は一気に傾き、武田家は滅亡する。
 ともあれ、人心が指導者から離れてしまえば、その国の発展はありえない。国であれ、会社であれ、これほど恐ろしいことはない。
 広布の前進にあっても、この点を互いに戒め合い、異体同心の団結で仲良く進んでいきたい。
13  ところで、信仰心の強かった信玄は仏寺を、宗旨の別なく大切にした。特に日蓮宗では身延山を保護したようである。
 こうして宗教には寛容で、信仰熱心だった信玄もなぜか富士門流には敵対し、大石寺に危害を加えている。
 日亨上人が編さんされた「富士宗学要集 第一巻」によれば、第三十一世日因上人は、信玄の謗法行為を、概要、次のように注されている。
 すなわち、永禄十二年(一五六九年)二月七日に重須おもすの堂を焼き、六月には大石寺の堂閣どうかくも焼き、僧侶らを責めた。あまつさえ、永禄十三年、信玄が駿河するがに向かって出兵した折には、大石寺の境内に陣を構え、駿河の興国寺城を攻めた。そのさい、原・吉原の道で、大風、大波に襲われ、軍旗を波にさらわれ、軍勢も流されてしまった。そして、ようやくのことで信玄とその近臣のみが大石が原から甲府へ逃げ帰った。
 一方、勝頼も「二箇相承」の御真筆紛失という謗法の因をつくっている。「二箇相承」の御真筆は、大聖人御入滅後三百年ごろ、北山、西山両本門寺の争いが原因で、武田軍(勝頼)の介入を誘って紛失した、とされている。このように父子二代にわたる大謗法が結局は武田一族の衰退を招いてしまったといえよう。
14  多様な人材から最大限の力を
 ここで信玄の幅広い人材観にふれておきたい。
 彼は、一種類の性格のさむらいを好んだり、似たような態度、行動のものばかりを大事に召し使うことを大いに嫌った。彼は言っている。
 「たとえば蹴鞠けまりの遊びの会を開く時には、庭に四種の木(桜、柳、カエデ、松)を植える(それが蹴鞠の取り決めになっている)。
 とりわけ春は桜の色は華やかであり、(その華やかさに対して)柳は飾り気のない緑である。春が過ぎれば花と柳の競い合いは終わってしまう。こうして夏も過ぎ秋を迎えれば、(その葉が)散るのが者悲しげである。カエデが紅葉して、夕かすみにかすみ、秋雨にうたれていくと、様々に歌に詠まれるが、冬になると、これまた散ってしまって残るところがない。そうしているうちに、常に変わることのない松の緑が、いよいよ現れる。
 このような天地の有様に反して、ひたすらただ一つの性格だけを愛好するのは、国持ち大名にとって、全く道理に外れると言わざるを得ない。ただし、特別に優れた大将ならば、同じ性格の人を使っても(事をうまくはこぶだろうから)ほめられることだろう。「三」と「四」をかければ十二、加えれば七とは、このことをいうのである(世の中は多様であり、「三」と「四」といった特定のものでも、その組み合わせによって、さまざまな結果を得ることができる。変化に柔軟に対応すべきであり、また、人の良いところを使っていかなければならない)」と。
15  人間はえてして自分の気の合う人や、使いやすい人ばかり周囲に集めがちである。信玄の言は、指導者としての大切な戒めである。
 こうして信玄のもとには、武田二十四将をはじめ、実に多士多彩な人材が結集している。
 三に四をかけると十二――三に四を足すと七となる――とは、相異なるタイプの人間でも、うまく組み合わせ、かみ合った場合には、両者の力を足した以上の力を発揮することをたとえていよう。
 多様な人材と人材を、どう的確に結びつけ、最大限の力を出させていくか。それは指導者の一念と、適材適所の配置いかんである。このことは戸田先生も常に、重要な指導者論として厳しく教えられた。皆さまも、それぞれの立場で、この点をよろしくお願いしたい。
 一人一人の顔が、みな異なっているように、個性も境遇も、それぞれ違っている。しかし、私どもは大御本尊を根本に、どこまでも「異体同心」で進まねばならない。そこにしか広宣流布の正しき前進はない。
16  御義口伝に説かれる「桜梅桃李」の法義
 このことに関連して、有名な「桜梅桃李おうばいとうり」の法義にふれておきたい。
 御義口伝の「無量義経六箇の大事」のうち第二「 量の字の」には次のように仰せである。これは無量義の三字のなかの「量」の一字についての御義口伝である。
 まず「御義口伝に云く量の字を本門に配当する事は量とは権摂はかりおさむの義なり」と。
 すなわち「無量義」の三字をおのおの法華経の迹門、本門、観心に配当する時、「量」の字は本門に配される。それは「量」には、一切のものをはかり、包含するという意味があるからである。
 一切をはかり包含する義が、なぜ本門に当たるかが次に述べられている。
 「本門の心は無作三身を談ず此の無作三身とは仏の上ばかりにて之を云わず、森羅万法を自受用身の自体顕照と談ずる故に迹門にして不変真如の理円を明かす処を改めずして己が当体無作三身と沙汰するが本門事円三千の意なり」と。
 ――本門の元意は無作の三身を説きあらわすところにある。しかし、この無作三身とは、たんに仏のことばかりを言うのではない。本門では森羅万象、一切の生命活動を、すべて自受用身という如来の生命の顕現であると説く。すなわち妙法に照らされて、一切の生命活動が自体顕照と輝くのである。
 ゆえに迹門において明かされた不変真如の理円(理の一念三千)を、そのまま改めないで、すべての事象のおのおのの当体が無作三身であるとする。これが本門の事円の三千(事の一念三千)の元意である――というのが、この御文の意味である。
17  続いて「是れ即ち桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり」と。
 ――桜は桜、梅は梅、桃は桃、すももは李と、一切の生命が、おのおのの当体を改めずして、そのままの姿で無作三身の仏と開見していく。これこそ一切をはかり包含することであり、「量」の義である――。
 法華経は、すべての生命を、あますところなく包みこみ、おのおのが尊極の仏であると説く。草木も国土も無作三身の仏である。人間も無作三身の仏である。この卓越した思想が世界に広まる時、戦争など起こしようがない。人間が殺し合うことなど、ありえないにちがいない。広宣流布を進める重大な意義がここにある。
18  さらに大聖人は「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無作三身の本主なり云云」と仰せになっている。
 御本仏の、まことに、ありがたい御言葉である。広く万法は、みな無作三身である。しかし、別して無作の三身をいえば、久遠元初の自受用身如来すなわち日蓮大聖人即大御本尊以外にない。そして大聖人は、大御本尊を信じ妙法を唱える門下まで無作三身の本主に含めてくださっているのである。
 広布に生きる皆さま方は、尊き仏子であられる。ゆえに、皆さま方をいじめ、苦しめる者は、因果の理法で必ず厳しく裁かれるにちがいない。
19  大切なことは、自身が成長することである。限りなく我が境涯を開きゆくことである。境涯を開いた分だけ、人生に価値が生まれ、勝利が輝く。また法のため、広布のために、我が人生を捧げ、生きぬいた分だけ福運と功徳がついてくる。常に「現当二世」の信心で、朗らかに前に進んでいっていただきたい。
 最後に、「大切な富士宮を、くれぐれもよろしく」と重ねて申し上げ、本日の話としたい。

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