Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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中部広布35周年記念代表幹部会 永遠の勝利の道開く名将に

1987.4.22 スピーチ(1986.11〜)(池田大作全集第68巻)

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2  先日、ある実業界の方から手紙をいただいた。その中で、学会がこのように大発展を遂げていることは、奇跡中の奇跡である、と書かれていた。
 無認識の非難、迫害の風雪が学会の歴史であった。その中を、五濁乱漫の衆生世間に根を張り、信心を貫きながら、大聖人の御遺命のままに広宣流布に進んできた。
 それは、あたかも岩壁を削って立派な″道″をつくり、″川″を開き、水の流れをつくっていくような、労作業による発展であったと、感嘆の言葉でつづられていた。
 あれだけの陰謀と策略とマスコミの非難の嵐を、悠々と乗り切っていったということは、これこそが本当の仏法なのか、本当の信仰なのかと思ったとも、つけ加えてあった。
3  中部広布三十五星霜の歴史にあって、多くの功労者がおられる。その中の一人に田原副会長がいる。
 田原副会長は、この地で三十数年間、休みもなく、一年中走りに走ってきた。広宣流布のために、会員同志のために前進また前進の連続であった。生身の人間であるし、いつまでも全力疾走するわけにもいかない。そこで、昨年の秋、中部で開催された世界青年平和文化祭を終えたあと、少々、休養をとった方がいいと皆で進言した。広宣流布は長い長い法戦であるし、中部の将来のために、現在、鋭気を養ってもらっている。
 時代は常に変化していくし、いつまでも一人の指導者が、中心者として、全責任をもって、やっていくことも、まことに難儀の場合も出るであろう。いつかは、必ずや順番で、次の人にバトンタッチしていくのが自然である。
 そこで中部では、田原副会長の休養中は、すべて大野副会長を中心に一切の活動を進めていくことになっている。よろしくお願いしたい。
 また、青年部も立派に成長しているし、各方面で疲れた最高幹部は、少しずつ休んでもらうことも必要ではないかと思う。
4  最極の兵法とは強情なる信心
 ともあれ私どもは、どこまでも「妙法の旗」「信仰の旗」、そして「正義の旗」「広宣流布の旗」を高らかに掲げ、生涯を生きゆく人生でありたい。
 大聖人の「如説修行抄」には「一部八巻の肝心・妙法五字の旗を指上て」と仰せである。有名なこの一節について日寛上人は「如説修行抄筆記」に、こうしるされている。
 「いくさには旗じるしを肝要とす。今またくの如し。権実の法論の場所なれば、未曽有の旗を指し上げて仏法の勝相を表するなり」(文段集七五七㌻)と。
 法の勝劣を争う戦場なるがゆえに、妙法華経の五字を「旗じるし」として、最も勝(すぐ)れた法を高らかに宣揚するのである。
5  一般の社会においても、国旗や社旗など、さまざまな旗印がある。その中で武田信玄の「風林火山」の旗印は有名である。
 信玄といえば、「武田節」の歌で、私どもにもなじみ深い。この「風林火山」の旗は、別名を「孫子そんしの旗」ともいう。それは「呉子ごし・孫子」として並び称される中国古代の兵書『孫子』に由来するからである。
 すなわち孫子の軍争編には、用兵の法にふれて「はやきこと風のごとく、其のしずかなること林の如く、侵掠しんりゃくすること火の如く、動かざること山の如し」とある。
 信玄は、ここから風林火山の四字をとって、軍旗とした。この時、幕僚の一部から、ある疑問が出された。
 ――「風」の一字が不審である。風は確かに速いが、やがておさまり、消えていくものではないか。
 信玄は、これに対し、にっこり笑って答えた。
 ――案ずるのも無理はない。しかし、「風」の旗は先陣に掲げる。先陣は速きをもって貴しとするからだ。まっ先駆けて、すばやく突き進んでいく。そこで本隊が先鋒の旗に続いて、勝ちいくさを握るのだ。ここに「風」の一字を入れた意味がある、と。
6  先ほどの孫子の言には「(敵のきょをついて)動くときは疾風のごとく速く進み、堂々の軍列を進めるにおいては林のごとく、いざ合戦となれば火の玉となって敵陣を焼きつくす。しかしてまた陣を構えるにあたっては泰山たいざんのごとく、どっしりと動かない」とある。
 すなわち、戦いは所詮、変化する相手との駆け引きである。相手の出方の動静を見極め、こちらも″静″と″動″を使い分けて兵を用いてこそ、勝ちを制するにいたる。孫子は、このことを指摘していると考えられる。
 ともあれ、あらゆるものが変化である。社会も変化、変化の連続である。人の心も瞬間、瞬間の変化である。自然にしても、冬から春へ、春から夏へ、刻々と変化と変化の連続である。自分自身が、そもそも刻々と変化し続けてやまない。
 この一切の変化という現実に、どう対処していくか。どう状況の変化をとらえ、勝機をとらえて価値的に動いていくか、そこに「兵法」の必要性が生まれる。
 そして数々の兵法があるなかで、大聖人は「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」と断言なされている。
 十界三千という、変転してやまなぬ森羅万象の宇宙。その変化の実相は妙法である。ゆえに妙法すなわち法華経の兵法にのっとる時、一切の変化の精髄をつかむことができる。そして、あらゆる変化を、最も価値的で、最も創造的な方向へと誘引し、決定づけていける。その意味において正法への強盛な信心こそ、最極の兵法である。
7  最後の勝利を第一とした武田信玄
 ここで「勝負」に関し、信玄の考え方を通して、何点か述べておきたい。
 一つは、個々の勝負に対する余裕ある心構えである。信玄は、合戦における勝敗とは、十のうち六分か七分を勝てば、それで十分な勝利である。とりわけ大合戦においては、この点が肝要である、とした。八分の勝利は危険であり、九分、十分の勝利は、やがて大敗をきっする下地となる、と信玄はいう。
 また戦いでの勝利は、五分をもって「上」とし、七分をもって「中」とし、十分をもって「下」とする、とつねづね語っていた。
 それはなぜか。五分の勝利は励みを生じ、七分はおこたりをもたらす。十分の勝利はおごりを生むからだという。
 五分ならば″なかばは敗れたが、半ばは勝った。次こそ頑張ろう″と励みの心を起こす。七分の勝ちならば″自分も、ついに、ここまで勝つにいたったか″と思い、怠る心を起こす。まして十分も勝ってしまったら、必ずおごりの心を生じる、と。まるで今の傲りたかぶる政府・自民党の姿そのものである。
 こうした理由から、信玄は、あえて六、七分の勝ちを越そうとはしなかった。上杉謙信が、信玄にかなわなかったのは、この一点にあるといわれている。私も、この方式は、経済戦をはじめ現代の万般に通じる含蓄ある見方と思う。
8  また信玄は、勝負の心得として、″四十歳以前は勝つように。四十歳を過ぎてからは負けぬように″とした。
 ここにも、目先の勝敗にとらわれず大局を見る信玄の面目が躍如やくじょとしている。すなわち彼は、将来の最後の勝利を第一に考えた。
 ただ現在のみ勝てばよいというのでは意味がない。現在も大事だが、将来はもっと大事である。将来、勝つために、今をどうするか。指導者は、この一点を夢にも忘れてはならない。
 たとえば、無理に無理を重ね、やっと勝った。しかし、疲弊ひへいしきって次は大敗した、というのでは、あまりにも指導者として無責任である。
 また、それでは個人の人生においても、あらゆる組織の活動においても、長期戦には勝てない。何にもまして大切なのは″最終の勝利″である。
9  四十前には勝ちに努め、四十後には負けぬに努める――という信玄の戦訓も、将来の勝利を大目的にすえたところから生まれている。それを根本に、着実に地力を養いながら、じりじりと敵を追いつめていく。この姿勢を貫ききってこそ、最終にして永遠の勝利の坂を確実に上っていける。
 中部は本年で広布三十五周年。まだ″四十歳以前″だから、信玄流にいえば、「負けぬ」ことの大事さは、まだ理解できなくてもよいかもしれない。それはそれとして、将来のために、今をどう戦うか――この点への深い自覚と思索があるかいなかに、賢将と凡将、そして愚将との岐路があることを皆さまは、将来のために強く銘記されたい。
10  「勝っておごらず、負けてくやまず」という心でなければならない。信玄も目先の勝敗の結果に対しては超然としていた。彼には甲斐の国を守り、永遠に伸ばしていくという、胸中深き遠望があった。
 たとえば信州の村上義清との戦いは見事な連勝だった。勢いに乗っているから、いくらでも勝てると見た武将達は、もっと追い打ちをかけるべきだと主張した。しかし大将の信玄は、さっさと陣をたたみ帰国してしまう。武将達には信玄の深き心事が分からなかった。
 帰国してのちのこと。老臣達は、月に二度もの勝ちいくさで、さぞ主君はご機嫌うるわしかろうと楽しみにしていた。しかし信玄は、一向にそうした素振りも見せない。平常と全く変わりがなかった。
 その反対に、しばらくして今度は負け戦になった。この時、甲府に帰ってきた信玄は、戦のことなど忘れたかのように悠然と構え、″うん、今度は負けたな″と淡々とした顔つきであった。能を三日間舞わせ、将兵の労をねんごろにねぎらった。
 こうした若き日のエピソードにも、信玄が多くの戦国武将の中で、いかに傑出していたかをしのばせる味わいがある。
 広宣流布の戦いも、連戦連勝の順風の時もあった。迫害と策謀の暴風雨の中を進まねならないこともあった。これまでもそうであり、これからも同様である。
 私は一時の勝利にも嵐にも、動じなかったつもりである。また中道の信心と信念で一貫してきたつもりである。常に将来の将来を見つめながら、広宣流布の大道を、いかにして万年へとつなげゆくか、ということだけを考えてきたつもりである。
11  江戸幕府を開いた天下人の徳川家康は、ご存じの通り、ここ中部の地が生んだ英傑である。この家康にとっても、信玄は、偉大なるライバルであるとともに、いわば″軍略の師″でもあった。
 家康にとって、生涯ただ一度の負け戦――それは、信玄とを争った元亀三年(一五七二年)十二月の三方みかたケ原の戦いであった。
 兵力の上でも劣っていた家康の軍は、周到な計画と万全の態勢で臨んだ武田軍に完敗。敗走中に家康が失禁したとのエピソードも伝わるなど、完膚かんぷなきまでの敗北であった。
 うわさ以上の信玄の兵略に、家康は舌を巻いたにちがいない。のちに、かの勝海舟が「信玄の兵法は、欧州の戦術と酷似している」といったほど、その戦法は優れたものだった。
 以来、家康は、信玄の軍学を自らのものとしながら、戦国の世を勝ち抜き天下をとった。そして二百六十五年にも及ぶ徳川幕府のもといを築いたのである。
 敗北が、次の勝利への因となる場合がある。反対に、勝利の時に敗北の原因をつくることも多い。
 家康は、三方ケ原の戦いで信玄に敗れた。しかし、そこから信玄の兵法を学び、最後は天下人としての大勝利を得た。つまり、自らの大敗を、より大きな勝利への源泉力とすることができた。ここに、家康の、指導者としての度量の大きさがうかがえる。
12  友の喜び、成長、満足を
 信玄の思想を伝える書は、数多くあるが、その中の一つに「御大将のほまれ」について述べたくだりがある。「御大将」とは、今でいえば、指導者のことであり、信玄は″指導者の誉れ″として、次の三点を挙げている。
 それは、第一に「人の目利めきき」、つまり人材の正しい評価である。第二に「国の仕置しおき」、つまり国の政治。第三に「大合戦勝利」、つまり大合戦における勝利となっている。
 ″武将″であれば、戦に勝つことこそ、その第一の″栄誉″とするのが普通かもしれない。しかし信玄は、「大合戦における勝利」を第三におき、その上に「正しい人材評価」と「国の政治」をおいている。こうした考え方に、信玄の指導者としての深さと強さの秘密があるように思う。
13  信玄は、この三点について次のようにいっている。
 まず「戦いに勝利することは名誉であるが、その後の内政が悪ければ、国はたちまち乱れてしまう。ゆえに『戦いに勝つはやすく、勝を守るはかたし』」と。
 確かに戦に勝つことは大事である。しかし勝ったあと、内政が悪く、乱れてしまえば、何のための勝利がわからない。まさに「戦いに勝つは易く、勝を守るは難し」なのである。
 このことは、私どもの組織にあっても同様のことがいえる。たとえば、一つの活動に勝利する。しかし、その勝利ゆえに、慢心になって信心の純粋さを失ったり、世法のみに流されて、広宣流布という根本目的を忘れてしまう場合がある。そうなれば、何のための勝利であったか分からない。
 また、戦いには勝ち負けはつきものであるが、勝てば喜ぶ、負ければ愚痴と不平になる。よしんば勝ったとしても、無理な活動で、多くの人達が疲れ、生活や人生にひずみを起こすことになれば、反価値であり、勝利の意味がなくなる。
 つまり、指導者は、勝利したあとのことを、常に考えておかなければならない。そして、どの程度まで勝利のための活動を進めるか、あるいは、メンバーの喜びと成長と満足のために、どのような手段を講じていくかに、心を配っていかねばならない。
 何のための戦いであり、勝利であるかを、常に反芻はんすうしながら、見事なる広布の指揮をとっていただきたい。
14  人材の輩出こそリーダーの誉れ
 さらに、信玄は「国内をよく治めることは大将一人でできることではないから、すぐれた人材を選び出すことが肝要である。それであるから、人材の評価を正しく行うことを、大将の第一の名誉、手柄というのである」と、いっている。
 これは、いかなる国家も社会も、さらには、あらゆる次元の組織にも当てはまる普遍の原理である。
 多数の人々からなる組織を、一人の力で維持し、発展させていくことはできない。やはり、多くの人材を集め、組織の建設へ人々の力を結集していかなければ、とうてい繁栄はおぼつかない。
 まさに、人材の選択と結集、その育成が国家であれ、社会であれ、その組織の命運をにぎっているのである。
 広布の組織においても、同じ原理である。恩師である戸田先生も、″人材こそ、一切の要諦″であることを、鋭く見抜いておられた。ゆえに、人材育成に最も力を注がれたのであり、そこに戸田先生の偉大さがあった。
15  さて信玄は、臣下の意見に、真摯しんしに耳を傾ける武将であった。軍略や戦術を、一人で決めるようなことはせず、必ず、諸将の意見をよく聞き、協議に協議を重ねて、決断した。さらに信玄は、その決定を実行するさいに、何度も演習し、実験を繰り返した。それで確証を得て初めて、実際の戦場で、その戦術を実行に移した。
 こうした用意周到さのゆえに、信玄の戦術は一糸乱れず遂行され、成功を収めたと伝えられている。
 御書にも「謀を帷帳の中に回らし勝つことを千里の外に決せし者なり」との仰せがある。
 広布の活動を進めるうえでも、勝手な独断や安易な実践は、決してあってはならない。熟慮に熟慮を重ね、全員でよく話し合い、協議し合いながら、最後は全員が呼吸を合わせ、気持ちを合わせ活動を展開した場合、すべてが気持ちのよい勝利につながる。この点をくれぐれもわきまえていただきたい。
16  先ほども申し上げたように、私どもの広宣流布の法戦は、人々を幸福に導いていくための戦いである。皆さま方は、その法戦を推進していくための役職についている。学会の役職は、責任職である。それが伝統となっている。つまり、人々を幸福にしていくための責任なのである。
 ゆえに、役職をもつ人は、役職に応じて力をつけ、自分を磨いていかねばならない。そうでないと、役職をもった意味がないし、責任も果たすことができない、ここに、信心鍛錬の深い意義があることを自覚されたい。
17  私どもの活動は、何の報酬を求めるものでもない。人々に「当体蓮華の法」を教え、受持せしめていく最極の行動である。また未来永遠の成仏の種子を植えていく無上の人生の振る舞いでもある。
 この妙法華経の仏道修行は、自らの人生を功徳で飾っていくとともに、今世のみならず、過去遠々劫からのえにしある人々への追善ともなっている。
 どうか「妙法」の旗を高く、「正義」の旗を高く、「信心」の旗を高く掲げながら、三世にわたり、所願を満足させていく、素晴らしき生命賛歌の人生を送っていただきたい。
18  本日、お会いできなかった中部の同志の方々に、くれぐれもよろしくお伝えいただきたい。私は、これからも唱題を送り、皆さま方のご多幸とご長寿を、生命をかけて祈っていきたい、と申し上げ、中部広布三十五年の祝福のあいさつとしたい。

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