Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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兵庫代表幹部会 師子王のごときこの人生

1987.4.18 スピーチ(1986.11〜)(池田大作全集第68巻)

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1  「現当二世」の信心を旭日のごとく
 盛大な、また朗らかな兵庫代表幹部会の開催、心よりおめでとうと申し上げたい。この兵庫の地は、人材も多い。知性派の人をはじめ多彩な人材の広がりがある。個性が豊かすぎて、うまく団結できないきらいもあった。しかし、この素晴らしき多士済々の人材群が、異体を同心にして、存分に活躍していった時、どれほど絶大なる力を発揮していくか。そのことを私は、はっきり見通している。また、まぶたに描き、楽しみにしている。
 関東でいえば兵庫は、東京に対する神奈川に似ている。神奈川、埼玉、千葉が盤石となり、東京もさらに盤石となった。神奈川は、私も何度となく足を運んだ。兵庫は、いよいよこれからである。この魅力ある、かけがえのない国土に、日本の広布の象徴ともなる厳然たる建設をしておきたい。
2  広宣流布の法戦は末法万年への壮大なる前進である。私どもは、その実践を誓って出現した地涌の眷属けんぞくである。何ものにも揺るがない、妙法の師子王のごとき一人一人である。ゆえに広布の一時の局面によって、一喜一憂したり、まして信心の一念が紛動されたりしては決してならない。
 ところで、信心していながら、なぜ不幸な出来事にあったり、負けたりするのか、との疑問をいだく人もいるだろう。この仏法と世法の関係は「宿命」の問題とか、「転重軽受」とか、さまざまな角度から考えることができる。
 ただ″仏法は道理″であり、世間の出来事は、世間法の因果にのっとっていくものだ。例えば、いくら信心をしていても、車が走る所へ飛び出せば、事故にあう。また、人間はみな生身なまみだから病気もするだろう。数で勝負が決まる場合は、数が少なければ負けとなる。
 もちろん「正法」は絶対である。しかし現実の社会や生活は、″競争″と″戦い″の世界である。その世界で生きていく限り、勝ち負けや、苦楽があるのは当然といってよい。
3  インドにマカダ国という国があった。マカダ国は古代インドでは十六の大国の一つで「無害」「無毒害」とも訳された。つまり、平和で善なる国とされたのである。
 マカダ国には仏教に関係の深い王舎城や霊鷲山がある。私も二十六年前、日達上人を御案内して霊鷲山におもむいたことが、大変懐かしい。
 インド応誕の釈尊は、この国で、悟りを開き、説法教化した。仏弟子である釈子も多くいた。しかし、マカダ国は、一時はインドの中心地として栄えたものの、釈尊有縁の国、仏法興隆の国でありながら、ついに他国に攻め滅ぼされてしまう。
 また、仏である釈尊でさえ、多くの大難をうけている。それは釈尊に師敵対した提婆達多が、釈尊を殺そうとした陰謀から始まる。
 そして提婆達多にそそのかされ、マカダ国の阿闍世王が酔象を放って、釈尊を殺害しようとした難。また九十日間も食事が出されず、馬のとなる麦を食べて飢えをしのいだという難。波瑠璃はるり王によって、釈族が滅ぼされた難などがある。さらに、多くの仏弟子達も殺害されたり、種々の難を受けている。仏法をたもったからといっても、決しておとぎの国のようなわけにはいかないのが現実である。
 さらに時代は下って、八世紀から十三世紀初頭にかけて、インドは、イスラム教によって侵略される。仏教寺院の破壊や僧尼の虐殺が行われ、インドで仏教が滅亡する。
 確かに、仏教国・マカダ国は滅びた。しかし「正法」は厳然と残った。そして信心を貫いた人は、立派に成仏をしている。また、インドで仏教が滅びても、「正法」は、中国の天台、日本の伝教等によって継承され、末法の御本仏・日蓮大聖人の御出現によって、人類の闇を開く永遠なる大法が確立されたのである。
4  さらに、御本仏であられる日蓮大聖人も、伊豆・佐渡の流罪をはじめ、身命に及ぶ数々の大難を受けられた。
 御本仏であられるから、何もかも自由自在のようにみえるがそうではない。正法を持てば、みな安穏な人生になると説かれているのに、なにゆえ大難にあわれるのか。こうした疑問をもつ人もいる。
 大聖人のあわれた大難は、御本仏にとって甚深の意義がある。それは「仏」と「魔」との壮絶な戦いである。経文に照らして、大難は必定だったのである。
 また、末法濁悪の世界で、妙法流布の旗を掲げて進むことは、決して容易な、華やかなスポットライトを浴びるようなものではない。
 このように仏法の流布には、さまざまな難が競い起こる。また、現実生活では、幸・不幸や勝ち負けがある。そこで大事なことは、苦難のなかで、勝ち負けの出来事のなかで、どう自分の信心を深めていくかである。言い換えれば、一切の出来事は、それが良い事であれ、悪い事であれ、各人の信心を試し、鍛えるものとなっていることを知ってほしい。
 妙法は「蘇生の法」である。ゆえに、人生の不幸も、敗北の現象も、信心を根本とするとき、すべてが次の幸福、勝利、発展へと生かされてくる。必ず「変毒為薬」していけるのである。
 物事は変化していく。その変化の中で、どのように戦って、良い方向へ、喜びの方向へと進ませていくかに、人間としての偉さがある。仏法者としての生き方がある。
 どうか、兵庫の皆さまは、何があっても「現当二世」の精神で、明るく、旭日の輝きゆくがごとく、未来に向かってほしい。そして「勝っても、負けても大勝利」をモットーに進んでいただきたい。
5  さて、正法の世界にあっては、いずこの地にも、またいずれの時代にも、人々の依怙依託(頼りにすること、もの)となる″貴重な存在″の人たちがいる。
 たとえば、牧口門下には、小泉隆先生や和泉覚先生らがおられる。また、現在の学会本部には秋谷会長をはじめ、森田理事長、青木・山崎(尚)副会長らがいる。ここ関西にも、和田・西口・辻(仁)副会長ら数多くの友がいる。私にとっては、みな三十年、四十年と苦楽を分かちあってきた信頼の同志である。
 また婦人でいえば、ここにいる林智栄子関西婦人部長も、私が三十年にわたり活躍の軌跡を見てきた長年の同志である。彼女も婦人部きっての名リーダーであり、学会の貴重な存在の一人である。皆さま方は、信心の依怙依託となる、こうした立派なリーダーから離れてはならない。
 生命は厳粛なる三千羅列られつであり、刻々と三千の次元を変化していく。ゆえに、信心の正しき軌道を教えてくれる善知識に親近しんごんしていくことが最も大事である。
 反対に、良き先輩をさけ、信心を狂わせる悪知識に近づけば、地獄への道となる。ここに、互いに錬磨し合う信心の組織の大切さがある。
 関西には、尊い存在の指導者が、数多くいる。どうか、この良き先輩達と生命の絆を強め、常勝関西の広布の大道をともどもに進んでいただきたい。
6  苦難のなかに″光る源氏″の証を
 ここで『源氏物語』について少々、ふれておきたい。
 かつて創価大学で学生諸君に源氏物語についてのスピーチをした。話を終えて、うしろを振り返ると、ある国文学者の先生がおられた。私は驚いた。「どうだったでしょう」とうかがうと「全くその通りです。大変よいスピーチでした」と言われたことを、うれしく思い、今でもよく覚えている。その内容とストーリーについては本日は時間の都合上、割愛させていただきたい。
 『源氏物語』の中には有名な「須磨」「明石」の巻がある。これはご承知のように、この兵庫の地名を冠した二巻である。一説によると、作者・紫式部の伯父が摂津守せっつのかみ――現在の県知事とでもいおうか――を務めていた関係から、式部はこの地を訪れたことがあり、多分に心ひかれるところがあったようだ。
7  さて、この「須磨」「明石」の巻が描くのは、主人公・光源氏にとって最も逆境の時代である。父である桐壷帝の死後、源氏は、その威光のうしろだてを失い、うず巻く周囲の嫉妬や策謀が彼を苦境に追いつめていく。そしてついに政治的に失脚し、都から逃れて流離の生活を送ることを余儀なくされてしまう。
 時に源氏は二十六歳から二十八歳。二年余の流浪の毎日であり、青春時代のヤマ場ともいうべき苦難との戦いであった。その舞台が兵庫である。青春といえば、私が関西の地で本格的な指揮を執ったのも二十八歳の時であった。
8  いかなる人にも逆境の時がある。順境ばかりの人生などあり得ない。もし、あったとしても、それでは人間としての成長はない。苦労知らずは、いたずらに驕慢きょうまんになるばかりである。苦しんでこそ、はじめて人間ができる。これが内外の多くの人々を見てきた私の一つの結論である。
 また嫉妬や卑劣な画策も人の世の常である。そして歴史上の人物もみな、迫害や苦難と戦い、そのなかから立ち上がり、打ち勝って、後世に残る偉業を成したのである。
9  須磨といい、明石といい、まことに自然が美しい。海も美しい。四季の巡りも都会にはない味わいがある。その風光明美の地にあって、源氏の心は楽しまなかった。思えば、それまでは順調すぎるほど順調な年月であった。みかどの子として生まれ、臣籍に下って源姓となったものの、無類の美貌と才質である。華やかすぎるほどの人生行路を歩んできた。
 その源氏が迎えた最大の試練である。なぜ、ほかならぬ自分がこれほど苦しまなくてはならないのか――。人生の冷厳な現実に自問自答するような心境もあったろう。人間の世界とは、かくも残酷なものかと、悲哀と無常観を幾度となく、かみしめてもいる。
 しかし、ただ意気消沈しているだけでは、人間として余りにも浅薄である。ことあるたびに紛動されるのでは、人間としての内容がナッシング(何もない)と言わざるを得ない。源氏には逆境をバネにする、人間としてのサムシング(何か)があった。彼は須磨・明石での苦悩を経て、心の成長と鍛錬を遂げていった。
 たとえば、人の心の常として、落魄らくはくと敗北の時には、寄りつく人もいなくなる。そうしたなか、親友の頭中将とうのちゅうじょうが、わざわざ訪ねてくる。露顕すれば罪にあたるかもしれない危険を、あえて冒しての訪問である。
 中将の友愛の心に、源氏は人の情けの真実というものを深く学んでいく。このあたりは、まことに巧みな描写であると思う。
 苦境に陥った時にこそ、本当の友人が分かる。また同志のありがたさ、尊さがわかる。順調な時はよい。友の苦しみの時にこそ、最大の真心を差し伸べる人こそ、まことの友人である。
10  やがて源氏は晴れて都に帰る日を迎える。逆境のなか、彼はいったんは悲しんだものの、ついに自分に負けることはなかった。腐ることなく耐え、次なる舞台を開いていった。
 人間、何があっても、腐ってはならない。腐ったなら、魚だって誰も食べない。人間も腐って、文句と愚痴ばかりになってしまったら、誰も相手にしない。周囲の顰蹙ひんしゅくと軽蔑を買い、その実、自分だけが正しいとおごっている。環境のせいではなく、そうした人間は、自分自身のせいで、どこの世界でも通用しなくなってしまう。峻厳なる仏法の世界ではなおさらである。
 この流離りゅうりの日々にあっても、彼はその名の通り、いかなる境遇においても「光る君」である、との内実を見事に勝ちとったといってよい。すなわち、常に″光って″いたからこそ「光の君」だった。
 妙法を持つことは、胸中に太陽を昇らせることである。ゆえに、いずこにあっても光り、輝き続けることが″信心の証″である。くさったり、くすんだりしては、信心と自身の敗北である。
11  都に戻った源氏は、一陽来復いちようらいふくの栄華の春を迎える。その威光と勢力も年ごとに増加。やがて太政だいじょう大臣からじゅん太上天皇の地位に昇り、地上の″天上界″ともいうべき理想の楽園・六条院も建設するなど、繁栄の極点に登りつめた。
 しかし、このころから、次第に源氏の身辺に暗い陰が色濃くなっていく。複雑な人間関係の藤に加え、晩年は最愛の人・紫の上との死別を引き金に、急速に孤独と悲傷の心境へと入っていく。悔恨と追憶に彩られた源氏の最晩年を描いた巻は、その名も「幻」の巻と名づけられている。
 その名にすべて象徴されているが、この世の栄華、幸福とは何か、何とはかないものかという「諸行無常」の思いが源氏の心に深まっていった。同じく位人臣を極めた豊太閤ほうたいこうが、人生の終章に当たって″なにわの事もゆめのまたゆめ″と述懐したという心境にも通じよう。
 かつての栄光が大きい分だけ、その寂しき思いも比例して大きくなるともいえまいか。
12  無常の世間にのみ生きる人生は、所詮、無常を免れ得ない。世間の栄華もまた無常である。常住のものは、ただ「妙法」のみである。ゆえに、この「常住の大法」に則った幸と栄えのみが永遠である。
 御本尊ましますところこそ常楽我浄の霊鷲山である。その御本尊を我が身も拝し、また民衆の中に飛びこんで弘通していく。その実践の中に常楽の「本覚のうつつ」の境涯が築かれていく。
 人間と人間、生命と生命はすべて互いに連鎖している。そのつながりに生命と社会の実相がある。ゆえに人々への化他の働きかけなくして、自分一人だけ、御本尊を拝していても、大聖人の極理の御指南には徹していないことになる。
 水も動かなければ腐ってしまう。信心も動かなければ成長はない。勇んで庶民の中に入り、指導・激励し、弘教していく。そこには大きな苦労と人一倍の悩みもある。そのなかで唱題し、繰り返し、その労苦に挑んでいく。その自行化他の反復と持続の行動のなかに、その人自身が崩れざる常楽の幸福境涯の当体へと建設されていくのである。
 ここに妙法を持った人の永遠の「安楽」と、世間無常の「安楽」との根本的違いがある。
13  真実の「安楽」は勇敢なる信仰に
 『源氏物語』について光源氏の生き方を通して、種々、述べてきた。『源氏物語』には、仏教思想、特に天台の教えである像法時代の法華経思想の影響が色濃く投影されている。この点については、創大の故・根本誠教授との対談集『古典を語る』でも、縷々るる論じた通りである。しかし、天台の教えは、あくまで「理」の次元にとどまった「文上」の教えであり、「文底下種独一本門」の大聖人の仏法とは、天地雲泥の違いがある。
 ここで、大聖人の御指南を拝しながら『源氏物語』の中でもふれた「安楽」について、少々、述べておきたい。
14  法華経安楽行品についての御義口伝には、次のように仰せである。
 「妙法蓮華経を安楽に行ぜむ事末法に於て今日蓮等の類いの修行は妙法蓮華経を修行するに難来るを以て安楽と意得可きなり」と。
 安楽行品には、妙法華経を「安楽」に修行する方法が説かれている。それは「文上」で拝すれば、正法・像法時代における摂受の修行の在り方となる。
 しかし、末法における日蓮大聖人およびその門下の修行に約していうならば、大御本尊を信じ、自行化他にわたる仏道修行に励めば、必ず難がある。難が起きてくることが、実は安楽であると心得なければいけない――との仰せである。
15  普通「安楽」といえば、難や苦悩と直面した時のことではない。むしろ反対に、穏やかな安穏、安心の状態にあることを連想する。しかし、そこに真実の安楽が開かれるのではない。
 末法にあって、自行化他の信心の実践に励むとき、必ず障魔が競い起こる。その障魔に立ち向かい、苦難と正面から戦うところに、真実の「安楽」がある。近年においても難があった。難を受けるということは、最大に信心を貫き通しているあかしでもある。
 どんな船でも遠洋に出れば、激しい風雨や波浪にさらされる。しかし、それを乗り越え、前進していかなければ、目的の″港″に到着することは出来ない。
 「成仏」という″港″を目指す私どもも、苦難の風雨におびえ、困難の波浪に負けてしまえば、決して「成仏」という″彼岸″に着くことは出来ない。要するに、信心とは、仏と魔との戦いであり、その戦いの渦中で、「難」に負けない力強い生命境涯を築く以外に、真実の「安楽」への正道はない。
 かつて私は、「御義口伝」講義のさいにも次のように述べた。「あらゆる人が安楽を求めぬいている。病人は健康になろうとし、貧者は富者になろうと努力する。限りなく、苦をば、安楽に脱却しようとするのは、人間自然の姿である。しかるに、このような安楽は、相体的な安楽である。真実絶対の安楽は、成仏である。何ものにもおかされず、永遠に安楽してゆける境涯を確立することこそ、最高の安楽なのである」と。
 つまり、どのような苦難にも崩れない絶対の「安楽」の境涯は、いかなる「難」にも屈せぬ強き信心の確立にあることを銘記してほしい。
16  ところで、安楽行品には「遊行ゆぎょうするにおそれなきこと 師子王のごとく 智の光明 日の照らすが如くならん し夢の中にいても ただたえなるを見ん」(開結四六九㌻)――(正法信受の者が)あちらこちらに経を説いて回るのに何の畏れもないことは、師子王のごとくであり、智の光明は、太陽の照らすがごとく明るいであろう。夢のなかでも、ただすぐれたことを見るだけであろう――との一節がある。
17  ここで「師子王」とは、いかなる苦難をも恐れず、妙法流布へまい進する勇者の姿をいう。
 また、太陽のような「智慧の光明」とは、一切を赤々と照らし出す、限りなき智慧の涌現を表している。さらに、夢の中でも「但妙なる事を見ん」とは、つねに妙法弘通、広宣流布という″大事業″の完遂を思念していることになろう。
 ゆえに、この一節は、広布の大業に向かいゆく、勇気と知恵を輝かせる広宣の友の凛々りりしい姿を表している。
 どうか皆さま方は、長き人生にあって、敗北を喫する時もある。また挫折にあうこともあるかもしれない。しかし、決してくじけることなく、師子王のごとき人生を生き抜いてほしい。希望を持ち続けることが信心である。そして、つねに、勇気凛々りんりんとまた知恵豊かに、広布大願へと進みゆく一人一人であっていただきたい。
18  ご存じのように、本年、関西は、広布三十五周年の佳節を刻んだ。その起点となった昭和二十七年(一九五二年)は、前年に第二代会長に就任した恩師戸田先生の雄渾の指揮のもと、広布の大躍進を遂げた年であった。
 先ほども、関西戸田記念館を訪れ、しばし恩師をしのんだ。同記念館の庭には、「勝ち負けは 人の生命いのちの 常なれど 最後のかちをば 仏にぞ祈らむ」との歌碑が立っている。恩師がくださった最後の和歌でもあり、ひときわ感慨深かった。
 また、昭和二十七年には「つらくとも 嘆くな友よ 明日の日に 広宣流布の 楽土をぞ見ん」との和歌をいただいた。
 以来、三十五星霜。この間、広宣流布は、それぞれの地域で、日本で、また世界で、いまだかつてない発展をとげた。さらに五十年、百年後、そして千年、一万年後にはどれほどの発展を示していることか。それを思うと私の希望は限りなく広がる。
19  広布の前途は洋々と開けている。二十一世紀の新舞台も、間近である。地涌の勇者である皆さまは、末法万年への遠大なる「希望」と、壮大なる広布の指導者としての″責任″と″誇り″を胸に、これからも朗らかにして厳然たる前進の指揮をお願いしたい。最後に、きょうお会いできなかった同志の方々に、くれぐれもよろしくと申し上げ、スピーチとさせていただく。

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