Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「3.16」記念各部代表者勤行会 ″後悔″から″歓喜″の人生へ

1987.3.14 スピーチ(1986.11〜)(池田大作全集第68巻)

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2  ″生涯不退″の信心の大切さについて、少々申し上げたい。
 釈尊の爾前の仏法では、成仏のために「歴劫修行」が必要である。また、「行布を存するが故にお未だ権を開せず」と仰せのように、十界の間には差別があり、成仏への道は、複雑にして難解である。
 それに対して、大聖人の仏法では、「一生成仏」と説く。その修行は、三大秘法総在の御本尊に、信行の唱題をしていくことに結論される。まことに簡潔なる修行である。もったいなくも、御本尊を機械という次元でたとえるならば、精妙・緻密にして無限の力を備えた最極の機械なのである。
3  しかし、「一生」は、短いようで、長い。たとえば、広布の記念式典に参加した六千人のなかには、三十年をへずして、退転した人がいる。しかし、それでは「一生成仏」とはならない。十年間、信心しても、十一年目に退転している人もいる。五十年間、信心しても、五十一年目に退転していく人もいるかもしれない。
 退転へといざなう原因や環境も様々である。社会的な地位に恵まれたがゆえに、破仏法への道を歩み始める人もいる。ともあれ、「一生成仏」といっても、それを達成することは、決して容易なことではない。どうか皆さま方は、一生成仏の完結の日まで絶対に退転してはならないということを、銘記していただきたい。
4  退転していく人の姿として共通しているのは、生活上の姿勢に欠陥のあることである。それから強き「慢」の人であり、名聞名利の人といえる。これは、皆さま方もご存じの通りの方程式である。
 また、表面では御本尊に唱題し、活動に励み、和合の姿であるようにみえても、その一切は、自分の「我」が根本であり、すべてを自分の名利のための″手段″としている場合がある。つまり、「無明」に基づく障りの一分として、「自分」という小さな自我にとらわれ、目的観を忘れるという障りに侵され自分を飾るために、一切を手段化している。自分という次元にのみとらわれ、広布という根本の目的を見失った時に、かえって自分自身がみえなくなっていく。つまり、一生成仏という信心の目的を忘れて、自分のエゴだけを目的にしていくような場合は、いつの日か退転に走るものである。
 要するに本末転倒の心であってはならない。
5  「慢」や「エゴ」の心は、信心の狂いを生ずる。
 船舶でも、飛行機でも、計器が狂えば、″迷走″となる。人生も信心も同じである。とくに、最も緻密にして確実な宇宙の大法則である「信心」に狂いを生じた場合には、その狂いの結果も、重大なものとなる。自らの人生の″迷走″、そして三世にわたる苦しみをもたらすだけでなく、多くの人にも迷惑をかけ、一切の不幸の原因を作ってしまうのである。
6  世の中には、″迷走・流転″の人生にさすらう人は多い。その人々を幸せへの確実なる軌道にのせゆくために、私達は活動しているわけである。
 「一生成仏」への道は、三大秘法の大御本尊に唱題し、自行化他の信心の実践を貫いていくしかない。この点を強く確信し、皆さま方は″迷走″の人々に紛動されることなく、生涯、強盛な信心を堅持していただきたい。
 ともあれ、創価学会こそ、全民衆を″迷走″から救い、恒久の幸福へと導く確かな軌道を教えているのである。その伝統の継承に、「3・16」の意義があったのである。
7  譬喩品での舎利弗の歓喜
 法華経譬喩品第三に「身意しんに泰然たいねんとして、こころよく安穏なることを得たり」(開結一九四㌻)との文がある。――身も心もいささかの動揺もなく、快く安穏であることを得た――との意味である。
 この経文は、諸法実相の妙理を悟り、未来成仏の記別を受けた智慧第一の舎利弗が踊躍ゆやく歓喜して、釈尊に申し述べた言葉の一節である。舎利弗は、この譬喩品の前の方便品第二で、「諸法実相」「理の一念三千」の妙理を聞き、大歓喜の中に悟りを得ることができた。
 譬喩品で舎利弗は釈尊に言う。「はなはみずから、如来無量の知見を失えることを感傷かんじょうしき」(同一九三㌻)――私はこれまで自分には、仏の無量の智慧がないことを大変に感傷し、悩んでおりました――と
 。さらに舎利弗は、次のように言う。
 「われ昔よりこのかた終日ひねもす竟夜よもすがらつねみずか剋責こくしゃくしき。しかるに今、仏に従いたてまつりて、いまだ聞かざる所の未曽有みぞうの法を聞いて、もろもろ疑悔ぎけを断じ、身意しんに泰然たいねんとして、快く安穏なることをたり。今日こんにちすなわち知んぬ。真にれ仏子なり」(同一九四㌻)と。
 ――私は昔からこのかた、昼も夜も絶え間なく、自責の念にかられておりました。しかし、今、仏に従って未だかつて聞いたことのない未曽有の法(妙法蓮華経)を聞くことができました。それで、これまでの疑問や後悔は一時に氷解した。そして、身も心も、いささかの動揺もなく、快く安穏であることを得た。今こそ、私どもは真の仏子です――。
8  この文で舎利弗は「如来無量の知見を失えることを感傷しき」と述べている。
 「感傷」というのは、世間でいわれているような失意とかセンチメンタルということではない。人生の根本、精髄に迷うことを「感傷」した、というのである。人生の高次元からのとらえ方なのである。
 信心でいえば″広宣流布を推進していく力を与えたまえ″″偉大なる広布の指導者と成長させてほしい″″仏法の精髄を、信心の根本を分からせてほしい″というのが「感傷」の思いなのである。人生にあって、胸中の生命の奥深くに、三世永遠に輝きゆく″宮殿″を築いていきたい、そこに「感傷」の真実の意味があることを知っていただきたい。
9  また、舎利弗は「未曽有の法を聞いて、諸の疑悔を断じ」て安穏の境地を得た、と言っている。
 ここで「疑悔」とは「疑い」であり「後悔」である。「疑い」が仏への道を閉ざすことは当然である。「後悔」とは、仏の真実の教えを会得できないことを指すのである。
 世間の次元でよくあるような、抽選に当たらないとか、嫁がどうとか、経済力がどうとか、子供がどうとか、といった次元の後悔ではない。とはいっても、社会の事柄を大事にしなくてよいというのでは決してない。
 舎利弗は、疑いと後悔を断じることによって、安穏なる成仏の境地を会得できた。そして、真の仏子となったのである。私どもも三大秘法の御本尊を信受し、仏子であり、地涌の菩薩の眷属であるとの自覚に立つとき、必ずや安穏の人生を開くことができる。偉大なる力を発揮することができる。そこには「感傷」も「後悔」もない。目先にとらわれない、き然たる態度で人生を悠々と生ききっていけるのである。
 「感傷」「後悔」の人生を「歓喜」と「安穏」の人生へと転換していくのが、大聖人の仏法であり、信心なのである。
10  身口意のすべてが歓喜と安穏へ
 この「身意泰然快得安穏」の経文について、御義口伝では次のように仰せである。
 「御義口伝に云く身意泰然しんいたいねんとは煩悩即菩提生死即涅槃なり、身とは生死即涅槃なり意とは煩悩即菩提なり」と。
 短い御文であるが甚深の意義を含んでいる。すなわち身の泰然とは生死即涅槃のことである。生死とは、身相、身形の上に受けていく苦しみであり、妙法への信心により、すべて涅槃へと開いていける。
 また意の泰然とは煩悩即菩提のことである。煩悩とは、意業いごうの上に受ける心の苦しみであり、それを即菩提つまり安穏の幸福境涯へと開いていけるのである。
11  身と心の苦しみを即幸福へと開いていくのは「信心」の力である。「即」とは信心のことである。ゆえに、御本尊への「信」が、どれだけ深いか。またどれだけ強く、清らかであるか。どれだけ粘り強いか。それによって一切が決まる。
 そして信心によって、我が身を苦しめる小さな煩悩を乗り越え、法のため、人のため、社会・国土のための大きな煩悩へと境涯を開きつつ、悠々と生き抜いていける。すなわち広宣流布のための苦労、一切衆生のための苦労、仏法求道のための苦労など、信心を根本とした労苦や悩みは、すべて、我が人生を揺るぎなき幸福の生命で立派に飾っていくのである。
12  御義口伝にはまた「従仏とは日蓮に従う類い等の事なり」とある。
 譬喩品に「今、仏に従いたてまつりて」とあるのは、末法においては御本仏・日蓮大聖人に随順する門下のことであるとの仰せである。
 大聖人に随順するとは、大聖人の仰せ通りに広宣流布に励んでいくことである。自行化他の実践に力の限り進んでいくことである。すなわち創価学会の前進こそ真実の「従仏」の姿である。ゆえに私どもの広布への実践を軽侮し、笑するようなことがあれば、それは御本仏を侮辱し、あざけることに通じる。
 この「従仏」とは、身・口・意の三業の喜びのうち、「身の喜び」を示している。
13  さらに御義口伝には「口の喜とは南無妙法蓮華経なり意の喜とは無明の惑障無き故なり」とある。
 ――「口の喜び」とは唱題行のことである。「意の喜び」とは、不幸の根源である無明惑のさわりを除いていることである――との御教示である。すなわち、信心によって、身口意のすべてが最高の歓喜と安穏に輝いていくのである。
14  意(心)の喜びのところでは「無明」という生命の根本の障りを乗り越えた境涯を教えられている。これは、生命と宇宙の根本の「法」に合致した境涯とも拝される。この「法」にのっとって生きゆく時、真実の自在の境涯となるのである。
 たとえば大空を飛ぶ鳥たちがいる。鳥と鳥とは決して衝突することがない。また大海に舞う魚たちがいる。魚と魚とも決してぶつかることがない。広々とした空と海。そこで鳥と魚たちは自在に生き、動いている。これは本能的に彼らが空と海の道を知り、飛行と遊泳の法則を知っているからに違いない。
 と同じように、生命の内なる「法」に通じ、その法にのっとっていく時、人間同士も決して無益な衝突をすることがない。嫉妬や怨嫉、慢心をはじめ、もろもろの小さな悪感情によって、互いにぶつかり合い、不幸を生んでいくことがなくなる。すなわち、「信」強く題目を唱えゆく時、大空のごとく、大海のごとく、心広々と、互いに尊重しあい、互いに生命の境涯を拡大しあっていける力が涌現していく。ここに「意の喜び」の重要な側面がある。
15  御義口伝には続いて「ここを以て之を思うに此の文は一心三観一念三千我等が即身成仏なり方便の教は泰然に非ず安穏に非ざるなり」と仰せである。
 ――この「身意泰然快得安穏」の経文は、一心三観・一念三千の理法、我ら衆生の即身成仏の法門のことである。これに対して法華経以外の方便の教えは泰然でもなく安穏でもない。決して成仏への道ではない――と結論づけられている。
 成仏という永遠の幸福境涯への道は他の方便の教えにはない。いかなる世界の哲学・学問のなかにもない。また世間の名声や地位のなかにもない。ただ御本尊を強盛に信じ行じゆく一念、広宣流布への強盛なる実践のなかにある。このことを、深くまた深く確信していただきたい。
16  このことに関連して、もう一つの「御義口伝」の一節を拝しておきたい。
 法華経の普門品(観世音菩薩普門品第二十五)に「観音妙智の力 く世間の苦を救う」とある。世間の苦とは次下つぎしもに「生老病死の苦 ってようやことごとく滅せしむ」とあるように、その根本は生老病死の四苦である。
 この「生」「老」「病」「死」という人生の根本の苦悩を、観世音菩薩は、法華経の力によって、次第に、ことごとく滅していくというのである。
 御義口伝にはこの「観音妙智の力」云々の経文について、次のように仰せである。
 「今末法に入つて日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る事は観音の利益より天地雲泥せり」と。
 日蓮大聖人の門下として、題目を唱えぬいていくことは、観音の利益よりも大なること百千万倍であり、天と地、雲と泥の相違があると断じておられる。
 私どもの日々の自行化他の実践こそ、「生死」の苦しみを打開しゆく根本の実践であり、いかに無量無辺の福徳を積んでいるかを確信していただきたい。
 ともあれ、私ども創価学会の実践こそ、仏法の真髄である日蓮大聖人の教えに正しくかなったものである。この明確なる正法正義の道を私どもは勇んで、堂々と進んでいけばよいのである。
 このことを申し上げ、意義ある″3・16″に際しての、私の話としたい。

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