Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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全国代表者会議 胸中に赫々たる太陽の輝きを

1987.3.4 スピーチ(1986.11〜)(池田大作全集第68巻)

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1  限りある生命を広布へ
 秋谷会長はじめ日本の同志の皆さまの祈りと真心のご支援によって、第二章ともいうべき世界広布への旅路を大成功裏に終えることができた。ここに心より御礼を申し上げたい。
 たしかに多忙な大車輪のような日々であった。ある人から、少々体を酷使しすぎてはいないかとの指摘もあった。その真心は本当にありがたい。また当然、皆さま方は生涯、健康で長寿であっていただきたい。生きて生きて生きぬいていただきたい。しかし御聖訓には「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」とある。私は私の立場として、この御聖訓のまま、せめても広布のために活躍したいと、その方に申し上げた。
2  二十代、三十代で死する人もいる。八十代で死する人もいる。しかし長遠である永遠の生命から見れば、両者とも瞬間であるにちがいない。また短命の人が不幸で、長命の人が幸福であるか――というと、これも、なかなか難しい問題をはらんでいる。
 それは長命にこしたことはない。しかし幸、不幸を決定づけるのは、それのみではなく、その人の生命の内実いかんであるにちがいない。
 ともあれ生命は限りあることは間違いない。ゆえに私は全力をあげて、この一生を惜しまず広宣流布のために送りたいと念願している。
3  この御書で「仏国土」ではなく「仏国」と仰せであることに、私は深い意義が感じられてならない。それは大宇宙の「仏界」という意味にも通じる、宇宙次元の「仏国」と拝せるからである。三千次元という大宇宙にあって、「仏界」という次元、「仏国」という次元に融合・冥合することほど無上の楽しみはないとの御聖訓と拝する。ゆえに、私は、この御聖訓のままの一生でありたいと思っている。
 『源氏物語』『栄華物語』を読んでも、また『平家物語』『源平盛衰記』をひもといても、そこには諸行無常が描かれている。また、ゲーテの『ファウスト』、あるいは『ポンペイ最後の日』『地の果てまで』を読んでも同じことがいえよう。また、天下人になった家康にしても、秀吉にしても、自らの人生は、皆夢の中の夢であったにちがいない。現代の権力者たちもまた同じであろう。
 御書にも「一生はゆめの上・明日をせず」と仰せである。いかなる栄誉栄達の人生を生きても、やはり妙法を護持しなければ、すべて夢である。また未来はわからないし、自分自身でそれを自由にすることもできない。
 ゆえに「いかなる乞食には・なるとも法華経にきずをつけ給うべからず」と。つまり、妙法を抱きしめ、妙法流布に真剣に励んでいきなさいと、大聖人が御指南されていることを忘れてはならない。
4  博士になるには、懸命に学問に取り組まねばならない。一流の科学者になるのも同様である。また大力士になるためには、それだけの修業が必要である。いわゆる社会での勝利のためには、それなりの努力と研さんが必要となることは当然の理である。
 これと同じ道理の上から、仏道修行においても、仏界という境涯に到達するには、唱題と弘教への熱心な修行の持続が必要となるのは当然である。ゆえに、これからも勇んで、たゆまぬ努力と精進をお願いしたい。
5  旭日のごとき生命力で
 東京からロサンゼルスへ向かう機中で、一万メートル上空からの日出にっしゅつを見ることが出来た。それは、大きい、赫々かっかくたる太陽であった。
 地上からの日の出も見たことがある。水平線を昇りゆく日の出を見たこともある。しかし、一万メートル上空からの日の出は、初めてであった。その時の感動は、忘れることが出来ない。機長らも、これだけの日出は初めてだと、話していた。
 その日出に、私は、永遠に消えることのない、大聖人の大境界の、赫々たる光を感ずるような気がしてならなかった。それは、とても言葉では表現できないが、いわば、大黄金の光源から発する力強い輝きであった。とともに、私は、それを光源たらしめる原動力となっている「妙」なる「法」の荘厳さ、そして偉大さを感じとる思いがした。
 御本尊には、大日天という宇宙の働きがしたためられている。皆さま方も、自身の胸中に赫々たる大日天のごとき生命力を輝かせながら、広宣流布への輝く光の一人一人となっていただきたい。
 太陽は水素やヘリウムの原子が集合したガス体である。その太陽の働きも、太陽をつくりあげているこれらの原子が、バラバラであれば強大な力は出ない。いわば異体を同心とした凝結した力こそ太陽のエネルギー源といえるかもしれない。それを、低次元な、役職がどうとか、また怨嫉したり、感情的になったりして、自分自身の心の内に葛藤かっとうをもつのは太陽がバラバラになって力が出ないようなものである。
 その意味からも、広宣流布という目的に向かって、自分自身の信仰という異体を同心とした一念をよくよく深めていただきたい。
6  ″仏法は勝負″である。いかなる勝負においても、決して遠慮があってはならない。また弱気があってはならない。たとえば徒競走においても遠慮があれば勝てない。また、はじめから弱気であれば決して様々な勝負に勝てるはずがない。
 と同じように、信心の世界も遠慮や弱気の行動があってはならない。仏法は勝負であり、また一切は凡夫にとっての試練ともいえる。ゆえに、大御本尊への深き祈りが、どれほど強いかによって、すべてが決まることを銘記したい。

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