Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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アメリカSGI第6回特別研修会 「祈り」こそ人間の証

1987.2.23 スピーチ(1986.11〜)(池田大作全集第68巻)

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1  若さそれ自体が最高の宝
 若き諸君の表情は、まばゆいばかりに輝き、美しい。それは青春のあかしであり、若さのきらめきであるといってよい。
 ″若さ″とは、人間の最高の宝であり、男性であれ、女性であれ、若き青年は、それだけでこうごうしいまでの輝きを放っている。その″輝き″ゆえに、いかなる大統領や博士、富豪や著名人よりも、はるかに尊く、重要な存在なのである。
 いわんや諸君は、無上の大法である妙法をたもち、広布の実践に励んでおられる。日蓮大聖人は「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し」と仰せである。妙法が最高の法であるがゆえに、妙法を信受した諸君も、総じては最高の存在となるのである。また、妙法をたもった諸君が活躍するこのアメリカも、最高の国土として輝いていくのである。
 その意義から、諸君こそ、このアメリカの天地にあって、最も価値ある有意義な人生を送っている一人一人であることを自覚してほしい。
2  人間も、動物も、また草木も、生きとし生けるものは、みな、「成住壊空じょうじゅうえくう」「生老病死」という法理を免れることはできない。生をうけたものは、成長し、やがて老い、ついには滅していくのが、自然の道理である。
 しかし、「妙法」は、永遠にして不滅の法である。この法にのっとって初めて、永遠性に根差した価値を創造することができる。ゆえに、法のため、また社会のため、人々のために生きゆく人生ほど尊い生き方はない。自他ともの永遠の幸福を目指す信心の生き方のなかにのみ、決して悔いることのない、無上の「善」の人生があるのである。
3  私も入信して、本年八月で満四十年を迎える。私が入信したとき、諸君達はまだ生まれていない。日本の創価学会も小さな存在だった。
 入信以来、私は、大聖人の教えのままに広布に挺身してきた。また人生の師・戸田先生の指導のもと、ひたすら信心と使命の道を進んできた。
 その間、実にさまざまのことがあった。迫害の嵐もあった。侮辱の波もあった。中傷非難の風もあった。しかし、私は、信心で、それらすべてを乗り越えてきた。これも、御本尊の大慈大悲を賜ったがゆえと、まことに感謝にたえない。
4  仏法の因果律は厳然である。仏子をいじめ、学会の広布の歩みを妨げようとした人は、痛ましいことだが、自らの悪業の海に漂う人生となっている。
 それに対して、正信の人は旭日が昇るがごとく発展を遂げ、妙法の同志は、多くが陽光さんたる常楽の人生を築きあげている。
 そのように長く信心を貫いた人と、仏法違背の人、退転の人との勝劣は、時とともに明確な実証となって示されていくのである。これが妙法の厳然たる法理である。
5  ゆえに信心だけは、何があっても貫き通していただきたい。そうでないと青春時代の希望を成就することはできないし、生涯の願いである人生の幸の花を咲かすことはできない。
 諸君は、若くして、自身の生命に無量無辺の幸を築きゆく根源的な「種」を植えたのである。将来、大輪の花を咲かすべく、今、一生懸命、信心に励み育てているわけである。信心の歩みを途中でやめてしまったり、せっかく植えた種を腐らせてしまうようなことがあってはならない。それでは、これまでの努力と精進が、すべて意味をなさなくなってしまうからである。
6  アメリカの若き青年の諸君も、実に勤行が正確で上手である。ドミニカの友も、パナマのメンバーもそうであった。日本のメンバーと比べても、決して遜色そんしょくはない。私は感嘆している。この正確に勤行を教えてくださった先輩方の労はいかに大変であったかと、感謝にたえない。
 諸君の姿をみるにつけ、私は「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」との御金言を、しみじみと思い起こす。
 まさに諸君は、久遠元初以来、御本仏・日蓮大聖人のもとに、共に集っていた妙法の同志であったにちがいない。そして、法を弘めるために、ある人はアメリカに、ある人はドミニカやパナマに、また日本にと、それぞれ生まれてくることを、一人一人が誓ったにちがいない。その意味で、いずこの国のメンバーであれ、全員が久遠の昔以来の尊き地涌の友であることを確信していただきたい。
 それにしても、現時代における、青少年は、テレビやマンガに時間を費やしたり、享楽に走る傾向が強い。その中で、人生と永遠の「法」を求めぬいているアメリカの青年が、このように御本尊を受持し、勤行・唱題に励み、仏道修行にいそしんでいる。本当に素晴らしいことだ。加えてアメリカの地には、これだけの立派な妙法の青年達がそろっている。ここに、アメリカの偉大なる発展の未来は、確実に志向されていることを私は疑わない。
 どうか諸君は、この信心と生活のリズムを崩すことなく、尊き広布の道を、たゆまず、どこまでも歩み続けてほしい。
7  究極は御本尊への祈り
 「祈り」こそ人間のあかしである。動物にはそうした祈りや宗教はない、と考えられる。これに対し、人間は最も原始的な時代から、何らかの祈りと宗教を持ち続けてきた。
 原始的宗教では、火をあがめたり、他の自然現象や動物に祈りを捧げたりした。やがて、仏教、キリスト教、イスラム教など、いわゆる高等宗教が出現し、次第に多くの宗派や分派を生みつつ、広がってきた。人類は、これらの数限りない宗教を通し、それぞれ懸命に「祈り」を続けてきたのである。
8  どんな人にも、切実な願望がある。″幸福でありたい″″我が子を立派に育てあげたい″″妻や夫が健康で長生きしてほしい″″我が街、我が社会が安穏で平和であってほしい″――そのほか、あらゆる次元の無数の願いがある。
 動物にも欲望や願望は、それなりにあろう。しかし人間においては、この願望が「祈り」となり、何らかの信仰へと昇華されゆくことができる。ここに「祈り」こそ人間としてのあかしであるゆえんがある。
 では、そうした無数の「祈り」の中で、最も確かに、最も深き次元に相かなっていく祈りは一体何か――。それが根本問題である。そこにこそ正しき信仰、正しき祈りの対境が要請される理由がある。
9  人間は、自分自身の一切の願望を達成したい。そして一家一族の幸福を願望する。さらには先祖や子孫末代までも平安であることを願いたいものである。また自分の住む社会も国も平和であり、幸福であるよう祈りたいものだ。
 そのあらゆる人々の願望にこたえ、すべての満足と充実を与えてくれる祈りの対境が、諸君の眼前におわします御本尊である。その御本尊への祈りこそが「祈り」の究極なのである。
10  御本尊は仏法の真髄であり、あらゆる真理の根幹の御当体である。諸君は、若くして、この御本尊を受持した使命の人である。人類が求めに求めてきた真実にすでに到達し、そこから正法を弘めんと立った勇者である。
 いわば諸君は人類に真実の自由と平和と幸福をもたらす栄光の旗手である。長い人類の歴史にあって、真正の「祈り」の在りかを人々に教えはじめた新世紀の旗手である。
 これからの長き人生を、全アメリカの栄光のためにも、さらに多くの人々の幸福への切なる願いにこたえるためにも、信念と慈愛の旗手であっていただきたい。やがて地球の広宣流布の次には、他の星で再び使命のドラマを繰り広げていくのである。それが久遠の誓いである。その確信と自覚も深く、まずは我が地域で縦横無尽の活躍を――と念願し、本日の研修のスピーチとさせていただく。

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