Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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アメリカSGI特別研修会 深き根あれば広布の花は万朶と

1987.2.12 スピーチ(1986.11〜)(池田大作全集第68巻)

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1  勤行は宇宙・仏界との感応の儀式
 御本尊への勤行・唱題は、我が一念に全宇宙を包みこんでいく荘厳にして偉大な儀式である。仏界という最高の境界の高みに立って、壮大なる大宇宙の生命へと相通じていく厳粛なる儀式である。
 元来、人間は、煩悩や宿業によって、地獄界、修羅界、人界、せいぜい天界等という低い境涯をめぐりゆくものである。しかし大御本尊への勤行・唱題によって大宇宙の仏界にも通じ、さらに胸中の仏界をも涌現できるのである。たとえばテレビやラジオのスイッチを入れれば宇宙空間にある電波を感受し、映像が映り、音が聞こえるようなものである。
 すなわち妙法の力用により、我が生命の「我」が仏界の次元に完全にのっとっていくのである。
 ゆえに、煩悩即菩提の法理で、現実のいかなるものをも悠然と乗り越えていける自身となる。また三世永遠にわたって崩れざる幸福、すなわち絶対的幸福境涯を強く築いていけるのである。そうした自身の「我」をつくり上げる根本の修行が勤行・唱題である。
 また唱題する一念は、大宇宙のあらゆるところへと広がり伝わっていく。
 こうした偉大な力用を持つ妙法を、キリスト教等の古来の宗教も根底では志向していたと考えられる。
 皆さま方は「無上道の妙法」を持った地涌の勇者として、「無上道の人生」を歩んでいることを自覚してほしい。
2  歴史上の釈尊にしてもその外見の姿は、普通の人と特別に違ったものではない。後世に、その姿は仏像に刻まれるなど、いろいろと尊厳化された面もあるが、いわば凡夫の姿であった。しかし、一般の人と違っていたのは、慈愛の広さである。さらに深い永遠の生命観に立って、人類を最大の充実と永遠なる生命の幸福の方途へ導こうとした師であったことある。
 世間で幸せそうに見える人は多くいる。しかし、妙法に照らされていない幸福観は、虚像、つまり実体のない影のようなものである。
 しょせん、実像の幸福は信心にしかない。生涯、題目を唱え抜き、信心を貫いた人にこそ、後悔のない、所願満足の人生が輝くことを確信されたい。信心からの退転は、一見、楽のようにみえるが、必ず苦しみの深い人生を知ることになるだろう。
 折伏・弘教や勤行・唱題の仏道修行に励むことは、大変なことである。しかし、それは自らの宿命転換をなしとげ、最高に充実した人生、崇高な人生、価値ある人生、大善の人生、永遠の福徳を積む人生を築きゆくものである。
 ゆえに、若き諸君の時代には、さまざまな苦労があるかもしれないが、それらを乗り越えて、立派な一生を飾っていただきたい。(青年部特別研修 二月十二日)
3  朗らかな活動、生活、人生を
 本日は日蓮大聖人御聖誕の佳き日に当たり、ただいま勤行で、宗祖日蓮大聖人にねんごろに御報恩謝徳申し上げるとともに、皆さま方の先祖の追善も祈らせていただいた。
4  この佳き日の意義をとどめるためにも、少々、指導をしておきたい。
 アメリカ東部には、ウィリアムス理事長のもとで、若き未来性に富んだ人材が輩出した。諸君の姿をみて、それを、しみじみと実感する。アメリカ広布の将来の発展は間違いない。また、その方向性は定まったと確信する。
5  何事においても基盤を強固にしていくことが重要である。
 この研修道場にはたくさんのアボカドの木がある。たとえば、このアボカドの木にしても、根っこを深く、広く張っていくときに、立派な大木と育っていくにちがいない。大木になれば自然と多くの実をつけ、アボカドの林となって繁茂していく。もし、根が浅ければ、大きく繁茂していくことができない。
 また、冬から春へと季節が移りゆくとき、早咲きの一輪の花が咲く。すると時を待っていたかのように、一気に万朶ばんだの花を咲かせる。それが自然の道理である。
 広布の発展も、また同じである。将来の発展は、現在の人数の多少が問題なのではない。どこまで深く、強く、信心の根を張り、人材の基盤を築いていくかである。アメリカSGIも、多くの人材が輩出し、広布の盤石なる基盤は築かれた。あとは、諸君の一人一人が、どう信心を深め、自分自身を磨き、力をつけていくかである。
 決してあせる必要はない。未来の大いなる発展を確信し、常識豊かな着実なる前進をお願いしたい。
6  御書には「行学の二道」と仰せである。大聖人の門下として、勤行・唱題に励み、また折伏・弘教を進めていくことは、当然である。しかし、弘教に際しては、数を競い合うような安直な″結果主義″ではいけない。
 大聖人の仏法は「下種仏法」であられる。悩める友に仏法を説き聞かせ、相手の生命に仏種を植えていくことが基本となる。ゆえに、たとえ話した相手の方々がすぐに入信しなかったとしても、それは「聞法下種」となっており、折伏行の功徳は相手の人が入信したと同じようにわが身に返り、かおっていくのである。
 御書に、「仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり」と仰せである。
 「行体即信心」で、唱題に励み、妙法のために行動した分だけ、無量無辺の福徳を積んでいけるのである。
 信心に励んでいる諸君は、いわばダイヤモンドのような存在である。そのまばゆいばかりの輝きのために、信心の素晴らしさの分からない人々から、さまざまに非難され誤解を受けることがあるかもしれない。しかし、それは、すべて信心の素晴らしさへのジェラシー(嫉妬)なのである。
 世間には、有名といわれる人は多いが、永遠なる幸福と最も価値ある人生への大法を知らない。ゆえに、最極の価値ある人生を知らないであろう。諸君は若くして、それを知りえたのである。
 御本尊を受持し、信心に励んでいる諸君は、今は、社会的には有名でないかもしれない。しかし、青春時代からすべてに満ちたりるようでは、かえって信心の求道がなくなる場合があるであろう。社会的に有名の人以上に、仏法流布という次元においては、人間としての最高の指導者である誇りを忘れないでほしい。
7  すべての大成と完成には、それなりの修行がある。仏道修行には「信」「行」「学」を実践は、当然のことである。その中でも正法の弘教は大変である。しかし、その労苦があればあるほど、その心は、自分自身の「慈悲の心」に通じていくのである。
 人のため、法のため、社会のため、そして平和のための、妙法を根幹とした労苦は「煩悩即菩提」の原理の上から、最高の奥底の喜びと変わっていくのである。
 凡夫の世界であるがゆえに、成果を焦って、叱ったり叱られたりする場合があるかもしれない。しかし、人がいばったり、叱ることはさほどこわいものではない。ただ、大聖人のお叱りがこわいのである。また、大聖人のおほめが最高なのである。
 このことを銘記し、いかなる労苦も悠々と乗り越えゆく、信心強き人であっていただきたい。
8  ともあれ、信心を根本とした活動は、全部、自分自身のためとなる。決して無駄がないのである。ゆえに御本尊への祈りの姿勢は、真剣であらねばならない。
 しかし各地での活動や生活、また社会の中での人生は、いつも朗らかであっていただきたい。いな、朗らかでなければならない。朗らかな人の所へは、安心して人が集まるにちがいない。
9  この数日間のマイアミでの諸行事を、真心込め大成功で進めてくださった諸君の労苦に対し、心から感謝したい。明日、パナマに向かうが、パナマ終了後、再びマイアミの地を訪れることになっており、再び、諸君にお会いできることを楽しみに、この日の研修会を終えたい。(第四回特別研修会 二月十六日)
10  「生死不二」の仏法の生死観
 コロンブスの偉業については、先日(二月九日)、少々、語った。英雄であった彼の晩年は、必ずしも幸福とはいえなかった。弟の蛮行にも悩まされた彼は、失意と苦しみの中でマラリアにかかり、さびしく一生を終えている。
 また、ヨーロッパ人としてパナマ地峡を初めて横断し、太平洋を初めて発見した英雄バルボアも、最後は権力闘争に巻き込まれ、断頭台で処刑された。バルボアについては、またの機会に詳しく述べたいと思っている。
 ともあれ、いかに歴史上に名声を博し、この世の栄華を謳歌した英雄や地位、財宝を持っていた人たちも、またいかに高井社会的地位や多くの財宝を持っていた人たちも、その人生の最終章である死が、あまりにさびしく、わびしい場合が多すぎる。ここに人生の絶対的な最重要の課題が残っている。仏法こそ、その解決の大法なのである。信心のみが、その厳粛にして最も重要な課題の解答を与えうるのである。
11  歴史上においても、今日の現実の世界においても「死」という厳粛な姿は、変わらない。この、避けることのできない「死」という根本課題を解決していかない限り、真実の幸福はありえないであろう。
 つまり真実の『安穏』の死という最終章であったか、それとも苦悩の幕切れであったのか――。
 「妙心尼御前御返事」には「ただいまに霊山にまいらせ給いなば・日いでて十方をみるが・ごとくうれしく、とくにぬるものかなと・うちよろこび給い候はんずらん」と。
 この御文を拝すると、成仏の一つの次元である、安楽の死の姿について″太陽が出て、十方を照らしているがごとくうれしくてたまらない″と仰せになっている。これが「生死不二」であり、永遠の生命につながる幸福境涯の次元に冥合せんとする、信心と人生の決着なのである。
 ゆえに退転してはならない。どんな苦難があっても信心を貫き通すべきであるとつねづね申し上げるのである。
 また、死して、悲しき暗闇の中に入るのではない。御本尊への「信」を貫き通した人は晴れ晴れとした十方の世界を見下ろすような境涯となる。御聖訓の通り″よくぞ早く死にぬるものか″と、喜びでいっぱいの死である。さらには、歓喜きわまりない感動の「死」なのである。
 つまり、生きていても、「常」「楽」「我」「浄」の次元の人生であり、死してもまた「常」「楽」「我」「浄」の宇宙の次元、仏界の次元に冥合していくのである。
 ゆえに私は、この御文を拝するたびに、仏法の深淵しんえんさ、壮大さ、厳粛さを感じてならない。
 諸君は若くして、仏法をたもった。実に素晴らしいことである。
 仏法をたもったがゆえに、多々苦労はあるにちがいない。しかし、信心の上の苦労はすべて、いうなれば、生命の中の無量の貯金をしているようなものである。その貯金は、大事な時に必ず使われていく。ゆえに信心の年輪を刻んでいけば、長い人生にあって、いくつかの苦境に遭遇しても、必ずやその貯金を出して、すべてを乗り切っていけるのである。
 したがって、若い時ほど、信心に励み、この目に見えない福徳の貯金をしておかねばならない。自分自身の福徳と永遠なる幸福の貯金のために、絶対に退転してはならない。
 また、仏子を誹謗ひぼうしてはならない。それは、太陽に向かいゆく光の一念を、暗闇の中に入っていく一念へとかえていくようなものである。仏法の法則、宇宙の法則に立った微妙な一念の差なのである。
12  世界一有名なスピーチは古代のある政治家の三分間の演説であった。時間の都合もあり、短時間であるが、本日の研修をこれで終わらせていただく。(第五回特別研修会 二月十七日)

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