Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第1回アメリカSGI各部合同記念研修会… 信念貫く勇者の振る舞いを

1987.2.7 スピーチ(1986.11〜)(池田大作全集第68巻)

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1  妙法こそ「生死の海」渡る船
 本日は、アメリカSGIの第一回各部合同記念研修会とさせていただいた。私の今の願いは、広布の力ある新しい人材を数多く育てていきたいということである。訓練をし、指導を重ねていけばいくほど、人材は成長していくものだ。その意味から、この合同研修会の開催となったわけである。
 皆さまは、将来、広布の枢要なリーダーと育っていくべき大切な方々である。どうか、その使命と責任を深く自覚していただきたい。本日は、私のさまざまな思いの一端を、広布の未来を担いゆく皆さまの胸中に、強く訴えておきたいのである。
2  訪米中のある著名な日本の学者から、本日電話があった。
 その学者は、私が昨日、お会いした″アメリカの良心″といわれるノーマン・カズンズ教授との対談の内容を、「聖教新聞」を通して知った日本の友人から連絡をうけた。そのさい、伝えられたカズンズ教授の「人生の最大の悲劇は死ではない。生きながらの死である。生あるうちに自らの中で何かが死に絶える。これ以上に恐ろしい人生の悲劇はない」との言葉を聞き、稲妻にうたれたような衝撃をうけた、という。そして「大変に重要な対談でしたね」と言っておられ、恐縮もし、うれしくも思った。
3  今回は、三年ぶりのマリブ研修道場の訪問となった。この研修道場からは、太平洋を望むことができる。旭日が昇りゆく朝の海も、陽光にキラキラと輝く明るい海も、また夕日に染まりゆく海も、実に美しい。
 研修道場に到着して、何人かの東京から来た人達と、詩情豊かなマリブの海岸と、青く美しい太平洋を遠望していた。すると沖合に一そうの船が浮かび、ちょっとみると漂流しているようでもあった。
 東京から来た幹部は「難破船だ」という。すると地元のアメリカSGIの幹部は「いや、あれは何か作業をしている船だ」と。そこで、よく調べてもらったところ、アメリカSGIの幹部の方が正しく、どうも東京の幹部の方は、時差で頭がもうろうとして、そのように見えたようであった。
 やはり、″アメリカのことはアメリカの人に聞くべきだ″ということで笑い話になったが、マリブ研修道場の訪問が、談たまたま″難破船″の話題で始まったことでもあり、本日は、それにちなんだ話をしたいと思う。
4  さて、海といえば、仏法では、人生を「生死の海」つまり″苦しみの海″にたとえる。そして「生」と「死」の厳しき「生命航路」を、いかに難破も沈没もなく進みゆくか、その解決の道を説いたのが正法である。
 人間の作ったもので、永遠にして完ぺきなものはない。家であれ、車であれ、船であれ、すべてそうである。
 だが、永遠にして絶対的なものは何か。それは「妙法」しかない。この永遠して無限の大法である妙法を、信じ、行じ、妙法にのっとりながら人生を生きていく、そこに″永遠なる福徳″と″無限にして絶対性の幸の宮殿″の生命が築かれていくのである。
5  タイタニック号遭難の不運
 さて海難事件で有名なのは、イギリスの豪華客船・タイタニック号の遭難である。その遭難事件は、当時、世界に大きな衝撃を与えたし、今なお、さまざまな形で語り継がれている。
 それは、タイタニック号が当時、科学技術のすいを結集し″不沈艦″といわれた客船であった。また、千五百人が一度に死亡するという、当時では想像もできない海難事件であったことにもよるだろう。さらに、生死の危機に直面した人間のおう悩、救助の時の人間性の美醜、藤など、数々の人間模様を描いた事件であったからでもあろう。
 ここで私は、こうした「生」と「死」の激しき人間ドラマを、仏法の眼からとらえ、話をしておきたい。
6  豪華・完全を誇ったタイタニック号が、イギリスのサザンプトン港を出港したのは、一九一二年四月十日の午前十一時四十分。まず最初の港・フランスのシェルブールに、同日午後七時に入港する。そして、シェルブール港を同日午後九時に出港。翌十一日の午後零時半に、アイルランドのクイーンズタウンに入港。同港からニューヨークへ向けて、大西洋へ運命の航海に出発したのが、四月十一日の午後二時であった。
 それは楽しく、優雅な処女航海であった。しかし、北大西洋上を三分の二ぐらい進んだ、ニューファンドランド島沖(北緯41度46分、西経5〇度14分)のところで、氷山に衝突。四月十五日午前二時二十分、千五百人の乗客らとともに沈没したのである。それは、処女航海の途について、五日後のことであった。
7  タイタニック号の所属会社は、イギリスのホワイト・スター汽船会社であった。またタイタニック号の建造規模は、総トン数が四六、三二九トン、全長二六九メートル、船幅二八メートル。船底より大煙突までの高さ五二メートル。三基で五五、〇〇〇馬力の機関をもち、二五ノットの高速で航海することができた。最大の自慢は、二重船底と十五の耐水隔壁をもっていたことで、″不沈艦″ともいわれた。
 それゆえか、救命用のボートは十八隻しか備えておらず、それでは乗船定員の半数にしか及ばなかったという。油断といえば油断であった。定員人数分の〇ボートを積むことが義務づけられるようになったのは、この教訓からである。
 さて、沈没の原因は、海面に出ている部分だけでも長さ約一〇〇メートル、高さ約四〇メートルもある最大級の氷山との衝突であった。このような大きな氷山は、この季節には珍しいものであった。氷山との衝突で船体に裂け目を作ったかあるいは穴があいたと考えられている。それは自慢の防水壁が役立つには、位置が高すぎ、そこから浸水が始まったとされてきた。
8  ところで、タイタニック号には、航海の途についた四月十日、思わぬ出来事があった。
 それは、お祭り騒ぎの中、サザンプトン港を出港したが、ドックを離れた直後、アメリカの定期船ニューヨーク号と、あやうく接触事故を起こしかけた。あたかも、未来の大惨事を暗示するかのようであった。
 サザンプトン港で、タイタニック号に乗船したのは、上級(一、二等)船客のみであった。そしてフランスのシェルブール港と、アイルランドのクイーンズタウン港で、移住者などの三等船客が乗船する。
 乗船者の内訳は、一等船客三百二十二人、二等船客二百七十七人、三等船客七百九人、乗組員八百九十八人の合計二千二百六人であった。
 このうち、遭難の犠牲者は、一説によれば千五百三人で、生還者は七百三人。生還者のうち、船客四百九十三人(全体の四〇%弱)、乗組員二百十人(全体の約二〇%)で、上級の婦女子や名士ほど多く助かった。三等船客では子供七十六人のうち救われたのは二十三人であったという。
9  タイタニック号は、当時としては、史上最大の巨船であり、世紀の豪華客船であった。ゆえに、ナポレオン一世の栄華を映すような贅沢ぜいたくな作りの寝室や、英国王朝風の船室には、数多くの名士や富豪がおさまっていた。
 そして、乗船客は″沈没″など予想だにしなかった。氷山との衝突が起きた時も上等船客の中には、飛び散った氷片を水割りウイスキーに浮かべて楽しんだ者もいたともいわれている。
10  人生には、いつ、どのような運命が襲うか分からない。交通事故や山での遭難など、長寿であるべき人生が不慮の死に出あうことも多い。
 先ほど連絡があったが、先月十八日に東京でお会いした、フランス革命・人権宣言二百周年記念委員会のバロワン会長が、アフリカの上空で墜落事故にあわれたという。すぐ私は、追善の唱題をしたが、同会長は、フランス財界の要の存在であり、大変な名士であった。本当に惜しい方を亡くしたと思う。
 バロワン会長の最愛の娘さんも、実は昨年四月に交通事故で亡くなっている。人の運命は本当に分からない。その生命の宿命、運命を転換し、生死を超克した″幸の人生″を開いていくのが、私どもの信心であることを深く銘記しあいたいものである。
11  「無常の富」はわが生命の中に
 ところで、タイタニック号に乗船していた名士や富豪達にとって、「死」という峻厳しゅんげんな現実を前にした時、その富や名声は、いかなる力を発揮したであろうか。現実には、いささかもその力を発揮することはなかった。
 作家のウォルター・ロードは、タイタニック号の悲劇を描いた『忘れ得ぬ夜』(邦訳「タイタニック号の最後」佐藤亮一訳、『世界ノンフィクション全集5』所収、筑摩書房)の中で次のように述べている。
 「あの寒冷な四月の夜に、富があれほどわずかな意味しか持たないとすれば、他の日にも、それは何ほどを意味するであろうか」と。
 財産や権威、また社会的な地位といったものは「死」という問題に直面したとき、いかにはかなく、無力なものであるか。ゆえに、それらのみを求める人生がいかに意味のないものであるかを鋭く破した言葉といえよう。
12  では、永遠にして金剛不壊の「富」とは何か――それは「妙法」という不変の大法であり、信心である。
 この「無上の富」を、日々、自らの生命にも輝かせながら、多くの人々に与えゆくことが、地涌の勇者の使命である。この至高の使命に生きゆく誉れと、誇りを決して忘れてはいけない。
 日蓮大聖人は、極寒の佐渡の地にあって「日本国に第一に富める者は日蓮なるべし」と仰せになっている。念仏者に命をねらわれ、寒さと飢えに苦しむ″地獄″のような環境のなかでも、大聖人の御生命には、無上の富が輝いていたわけである。この峻厳な事実を見失ってはいけない。
 また、次元は異なるが、私どもも、御本尊に唱題する時、仏の生命と境智冥合し、無上の生命を顕現することが出来る。その意味では、信心に励む私どもも「第一に富める者」との深い自覚で進みたい。
 この透徹した信心に立つ時、無限の生命力と創造性が内面から涌きいずるのである。
 だが、いかに唱題に励んだとしても、仕事や生活をおろそかにしては″第一の富″は得られない。「信心」は即「生活」であり、生命に薫る不滅の「富」は現実生活のなかに実現され、輝いていくものだからである。
13  「タイタニック」の名は、ギリシャ神話の巨人族の神「タイタン」に由来するが、当時、海運・造船の″巨人″ともいうべきイギリスが潤沢じゅんたくな資金と技術の粋を集め、建造したのがタイタニック号である。
 それだけに、処女航海で、もろくも海のもくずと消え去ったことは、当時の社会に計り知れない影響を及ぼした。とくに科学技術にたずさわる人々にとっては、″青天の霹靂へきれき″であった。
 事件後、ある聖職者のグループは、この事件は、自己満足から人々を呼びさまし、物質的進歩に対する過信を戒めるための天の与えた教訓である、と力説している。いくつもの不運が重なって起きたこの大事件は、社会一般の″技術″に対する厚い信頼を一気に打ち砕いたのである。
14  悲劇が移した人間の真実
 さて運命のその日――タイタニック号の正面に、突然、巨大な氷山が現れた。夜の十一時四十分のことである。あわてて船首を左に向けたが、氷山は右舷に衝突。厚い板状の氷が前部甲板に落下し、致命的なダメージを与えた。
 乗船していた建造者のアンドリュースは難破は必至と見て、スミス船長に警告。船長は直ちに無電室に救助の打電を命ずる。「SOS……SOS」という必死の救助信号は、翌日午前零時十五分より二時十分まで打電され続けた――。
 午前零時半には、「婦人および子供をボートへ」との命令がくだる。白い救命帯をつけた婦人・子供が、次々とボートに乗り込んでいく。船内は、あわただしさを増していった。
 そんな折、甲板では、静かな調べの音楽が、八人の楽士により演奏されていた。限界状況におかれた人々の心を、少しでもいやし、鎮めようとしたのだった。人間として、まことに立派な行為であったと、私は胸に深く響いた。
 人々の不安や恐怖の心をやわらげ、温かな希望の光を広げゆく美しい音楽の響き――勇気ある楽士らの演奏は、学会の音楽隊、鼓笛隊の使命にも相通ずる姿であると私はつねづね思ってきた。
 また終始一貫、勇敢に救出の識をとった二等運転士のライトラーは証言している。
 「乗客が静かに落ち着いていたこと、また乗組員の規律が乱れなかったことは、いまでも決して忘れられない。乗客の多くは静かに救助を求めてきた」(ジャック・ウィノカー編『SOSタイタニック』佐藤亮一訳、旺文社)と。このことも、絶望的な状況のなかに、一つの救いをみる思いがする。
15  女性や子供を真っ先に避難させる――こうした婦女子を大切にする姿勢は、広布の指導者にとっても重要な要件である。とくに広宣流布の組織にあっては、婦人部の方々が伸び伸びと、安心して実践に励めるよう壮年・男子部のメンバーが十分に心を配ってほしい。婦人部の方々はまことに純真にして真剣に、広布の活動に取り組んでおられるからである。このことを、よくよく心していただきたい。
16  ところで、数多く乗船していた名士の一人に、鉱山王グッゲンハイムがいた。彼は、この危急に際し、我が身を顧みず、他の人々の救出に没頭した。そして救命ボートに移りゆく人に「もし私に何ごとか起こったら、私は最善を尽くしたと妻に伝えてください」(前掲「タイタニック号の最後」)という伝言を託すとともに、「私達は最上の服を着て、紳士らしく死ぬ覚悟です」(同前)と語り、やがて船と運命をともにするのである。
 彼には地位もある。富にも名声にも恵まれている。しかし、決してそれに溺れてはいない。一旦緩急の際には、自らをなげうって、人々の救出に当たった。これこそ真実の勇者の姿である。また、十界論に約すならば菩薩の生命であり、苦しむ衆生を救済せんとする仏法の根本精神に通ずる姿であったといってよい。
 ともあれ私どもは妙法の信仰者としての、慈悲の振る舞いを決して忘れてはならないのである。
17  また、アメリカの元国会議員で実業家のストラウス夫妻が乗船していた。夫人は、ひとたびボートに移ったものの「今まで、私達は長年にわたって一緒だったのですもの。あなたのいらっしゃる所に私もまいります」(同前)といって、夫のもとに引き返してきた。
 夫人は、自分だけ避難しようと思えば、それは可能であった。しかし、その選択を退け、他人のために命を捨てる覚悟の夫のもとへと引き返す――まことに美しい夫婦愛の姿であった。私はタイタニック号の悲劇における、この段を語るたびに、いつも胸が熱くなる。
 広布という未聞の大業へと進む私どもも、どのような運命の嵐に見舞われようとも、一方を裏切ることなく、麗しい夫婦の絆を一段と強めつつ、ともどもに広布と信心に前進していきたいと思う。
18  救出用のボートには、操縦のために若干の男性が乗り込んではいたが、あくまで婦女子が優先されていた。男性の多くは、グッゲンハイムやストラウスのように、自身の生命を失うことを覚悟しつつ紳士としてその方針に従った。が、なかには、死への恐怖からであろうか、何とかしてボートに飛び乗り、自分だけは助かろうとした男性乗客もいた。
 三等船客にいたアイルランドの青年ダニエル・バックレイは、女性の肩かけで顔をつつみ、ボートにまぎれこんだ。また、船のオーナーであるホワイト・スター社のイズメイ社長は、衝突後、船の乗組員の一人として救命ボートの指令を行っていた。しかし、一隻のボートが船から離れようとした刹那、さっと身をひるがえし、乗り移った。
 いずれも、自己の保身に汲々きゅうきゅうとした、卑怯ひきょうな姿である。
 イズメイ社長は、この事件以来、仕事からは身を引き、隠遁者いんとんしゃとしてわびしい生活を送っている。人間としての信義を失い、憶病の道を歩み始めた人の人生は、はかなく惨めなものである。この方程式は、きわめて多くの人々の生涯を見てきた私の一つの結論でもある。どうか皆さま方は、ひとたび決めた信念と信義の道を、生涯、凛々りりしく進み抜いていただきたい。
19  イズメイ社長については、このほかにもタイタニック号遭難にまつわる注目すべき事実がある。彼は、社長の立場を利用し、スミス船長には一言も相談することなく、かってにニューヨークへの航海の日程を一日早めてしまったのである。この独断がなければ、あるいはタイタニックは、巨大な氷山にも出あうことなく、無事、目的地に到着していたかもしれない。
 ともあれ、決定にさいしては″合議″が前提である。ワンマンな独断ほど、その集団にとって危険なことはない。広布の組織にあっても、この原則を決して、ないがしろにしてはならないと申し上げておきたい。
20  これらとは逆に、勇敢な人々もいた。エドワード・J・スミス船長は、ホワイト・スター汽船に三十八年、勤続した最長老の船長であった。船員からも、船客からも等しく尊敬を集めていた。学会でいえば、数十年の間、地道にして実直なる信心即生活を貫き、人々を幸福へと指導・激励してこられた指導部の方々に通じる存在であったろう。
 午前二時五分、スミス船長は、もはや沈没は避けられないと判断。SOSを懸命に打電し続けている無電室へと入っていった。そして言った。
 「諸君は、君たちの任務を完全に果たしてくれた。――自分の身を守りたまえ。君たちを解任する」(同前)
 船長は、そう声をかけて、無電士たちの労を心からたたえた。そのあと彼は、沈みゆく船と運命をともにしたのである。
 また建造者のアンドリュースは、女性達の避難に全力を注いだ。この後、彼は救命帯もつけることなく、沈みゆく巨船の船尾をぼう然と見つめていた。――彼もまた最後まで船から離れず、船とともに波の底に沈んでいった。
 甲板上ではバンド演奏がまだ続いていた。曲はやがて聖歌「秋」に変わっていった。甲板は大きく波をかぶり、船尾は星空に向かって高く持ち上がっている。
 午前二時十分。最後の無電信号。船体はゆっくりと、そして急速に海の中にすべりこんでいく。
 最後の最後まで演奏を続けた八人の楽士たち。凛々しきその勇者達の行為を私は決して忘れることができない。
 勇敢な人がいる。卑怯ひきょうな人がいる。卑怯な人は、人間として最も哀れな人である。先ほどふれた″生きながらの死″の惨めさに通じる。真実の紳士、ジェントルマンとは、地位や格好ではない。いざという時に、卑怯にして未練な振る舞いをすることなく、潔く身を処していけるかどうかである。
21  午前二時二十分。世界一の巨船は遂に沈没する。氷山との衝突から約二時間四十分後のことであった。
 海に放り出されたものの多くは、氷点下三度という凍てつくような海水に命を奪われていった。
 一方、救命ボートの方でも混乱と悲惨の情景が繰り広げられていた。ボートは装備も乗客の配分も悪く、定員いっぱいにまで乗せたていは、ごくわずかだった。間近には溺死できししそうになっている多数の人々がいる。しかし、十四号艇を除くどのボートも、ついに引き返そうとはしなかった。
 それどころではない。ボートの中には溺れかけている者の頭をなぐりつけて乗船を拒否するものがあった。助けを求める人を海にたたき落とす艇もあった。またボートの中でも、さまざまないざこざが展開されていた。あまりの恐怖のために正気を失する人もいた。まさに現実の地獄図ともいうべき光景であった。
 人間の心は、こわいものだ。生死のきわに直面した時、限りなく醜悪にもなる。卑しくもなる。タイタニック号沈没時の地獄の様相に思いをはせる時、私は、せめても、そこに題目を唱える人がだれかいたならば、と思わずにいられない。また犠牲者の追善を祈らずにはおれない。
22  ″小事が大事″の教訓
 救出の状況は、どうだったか。氷山をぬうようにして、タイタニック号救助にかけつけたのは英国船カルパチア号であった。
 ロストロン船長は、タイタニック号のSOSを受けとるや、直ちに非番の船員もみな招集し、全速力で救出に向かった。医師、食糧、毛布の用意。全船あげて救助の準備に奔走した。
 救出が始まったのは午前四時十分。すべてのボートを救出するには約四時間かかった。カルパチア号の乗客も徹夜で救護に加わった。
 カルパチア号がニューヨークに入港したのは十八日の午後九時三十五分。港の通りは待ち受ける三万人もの人達であふれていた。最初に上陸したのは一人の女性だった。彼女はなかばよろめいて歩き、やがてうずくまってしまった。この痛ましい情景を見ていた群衆から、思わずうめき声があがった。その声は大きく高まったあと、また静かになった――と記録は伝えている。
23  さてカルパチア号の活躍の陰で、他の船は何をしていたか。事故当時、タイタニック号から一番近い距離にあったのはカリフォルニア号であった。一説では十六キロの距離だったとされている。一方、カルパチア号は九十二キロの場所にいた。
 カルパチア号よりも、はるかに近い位置にいたカリフォルニア号が、なぜ救出に向かえなかったのか。ここに重大な教訓が秘められている。
 カリフォルニア号は、タイタニック号の必死のSOS信号を受信できなかったのである。カリフォルニア号の無電士が勤務を終え、眠ってしまっていたからである。遭難の夜、彼が器械を閉鎖したのが十一時半。タイタニック号の氷山衝突は、そのわずか十分後であった――。
 もし無電士が、なお、しばらくの時間、受信の態勢を解かず、タイタニック号の遭難信号をキャッチしていたならば、どれほど多くの人命が救われていたことか。全員の生命が救われていたかもしれないとさえいわれている。
 またカリフォルニア号では、タイタニック号が最初にあげた花火信号を、複数の人間が目撃していた。それにもかかわらず、誰もが、マストの上の灯火が揺らめいているに過ぎないと思い、タイタニック号の異常には気づかなかった。万一を考えて確認してみようということもなかったのである。この時に、誰か一人でも連絡をとり、無事かどうかを確かめていたならば、あの大惨事を防ぐことができたにちがいない。つねづね申し上げている″小事が大事″であるという教訓である。
24  救出に成功したカルパチア号は、ロストロン船長が「彼はこれ以上、決してできないほど最善を尽くした」と絶賛されるなど、その誉れの名は史上に長く刻まれ、今なお光彩を放っている。
 しかし、これとは逆に、カリフォルニア号は、ごうごうたる非難を浴び、消し難い汚名を残してしまった。「後悔先に立たず」である。救出するのに最も有利な条件を持ちながら、ほんのわずかな油断と錯誤のために、とりかえしのつかない失敗を招いてしまった。この厳しい歴史の事実を直視しなければならない。
25  ほんのわずかな一念の狂いが、とりかえしのつかない結果に終わってしまう。この方程式は、一個の人生においても同様である。様々な社会や組織においても同じである。峻厳なる信心と広布の世界においては、なおさらである。
 正法を持った私どもは、生命の″永遠の勝利″への大道を歩んでいる。求めて得がたき無上道の人生なのである。もしも、ささいな見栄みえや、つまらない慢心、憶病等の心にとらわれて、信心の″心″を紛動され、退してしまったならば、三世永遠にわたって苦悩の連続となってしまう。また退転者の汚名を残してしまう。そうなったあとで、悔やんでも悔やみきれない。
 ゆえに断じて退転だけはしてはならない。今世の人生は、永遠から見るならば、文字通り瞬時に過ぎない。それに執着し、とらわれるのは無常の仮諦けたいの領域である。今世のみの、はかなくうつろう表面の現象に迷い、永遠にして不壊の幸福を開きゆくための″信心″を失うことほど愚かなことはない。
26  タイタニック号の悲劇。そこに込められた数々のドラマや教訓を、単なる過去の歴史と見れば、それまでである。しかし、「三世永遠」という仏法の生命観に照らして、それらを見る時、正しき人生の生き方へのあまりにも多くの示唆を得ることができる。
 ――目前に「死」という現実と直面した時、人はその奥底の生き方、生命の「我」の実相を如実に浮かびあがらせる。タイタニック号の悲劇においては、遭難という極限状況が、人々のありのままの生き方を鮮明に照らし出してみせてくれた。
 しかし実はタイタニック号の乗客ばかりではない。すべての人間が「死」を絶対的に決定づけられた存在である。誰もが「生死の大海」を航海せざるを得ない。免れ得る人は一人もいない。
 この厳しき「生死の海」をいかに無事安穏に越えゆくか――。それこそが、あらゆる人間にとって最大の課題である。その解決の道を教え示しきったのが妙法なのである。
27  末法の「如渡得船」とは御本尊
 そうした意味から、ここで、妙法が「生死の大海」を渡る大船であることを御教示された御書と経文の幾つかを拝しておきたい。
 法華経の薬王品には「如渡得船」(開結六〇二㌻)とある。「わたりに船を得たるがごとし」と読む。
 生死の苦しみの世界である娑婆世界を「大海」にたとえ、それを渡り切ることができるのは妙法蓮華経の船だけであるとの意味である。他の権経、外典・外道の小船では渡ることができない。
 「弥源太殿御返事」には、妙法のことを「やみには燈となり・渡りには舟となり」うんぬんと仰せになっている。
 また「椎地四郎殿御書」では「此の経を一文一句なりとも聴聞してたましいにそめん人は生死の大海を渡るべき船なるべし(中略)生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらずんば・かなふべからず」と仰せである。
28  さらに同抄には「如渡得船」について、具体的に次のように仰せである。
 「そもそも法華経の如渡得船の船と申す事は・教主大覚世尊・巧智無辺の番匠として四味八教の材木を取り集め・正直捨権とけづりなして邪正一如ときり合せ・醍醐一実のくぎを丁と・うつて生死の大海へ・をしうかべ・中道一実のほばしら帆柱に界如三千の帆をあげて・諸法実相のおひて追風をえて・以信得入の一切衆生を取りのせて・釈迦如来はかぢを取り・多宝如来はつなで綱手を取り給へば・上行等の四菩薩は函蓋相応して・きりきりとぎ給う所の船を如渡得船の船とは申すなり」と。
 要約していえば、ここで大聖人は、釈尊を巧みな知恵をもった「船大工」に、また爾前の諸経を「材木」に、実教である法華経を材木を船へと形作る「釘」に、たとえられている。不必要な部分を削りとることが「正直」に「方便」を捨てることである。
 結論して言うなれば、末法において、「如渡得船」の船とは御本尊のことである。この船に乗ることができるのは「以信得入の一切衆生」と仰せのように、御本尊を信じきるすべての人々である。
 この妙法という「大船」に乗る時、釈仏・多宝仏、四菩薩をはじめとして、三世十方の仏菩薩に守られつつ、波荒き「生死の大海」を、悠々と楽しみ切って渡っていくことができる。御本尊以外の他の「小船」では決して成仏という彼岸に至ることはできないのである。
 その最後の目的地に達するまで、何があっても、妙法への確信強く、自行化他にわたる不退の実践を貫き通していただきたい。そして御本仏・日蓮大聖人から、また三世十方の仏菩薩から、称賛される誉れの信心と人生を全うしていただきたい。そのために本日の私の指導が何らかの参考になれば幸いである。
 最後にアメリカSGIの大切な友のますますの活躍と栄光の人生そしてアメリカ広布の一段の発展を心より念願し、本日の私のスピーチとしたい。

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