Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

東京第六・第八総合本部記念幹部会 広宣流布の組織を守れ

1986.12.23 スピーチ(1986.11〜)(池田大作全集第68巻)

前後
1  組織は時代の要求
 戸田先生は、ある人が休暇を申し出た時、「世間には休暇はあるが、仏法には休暇はないのだよ」と笑いながら言われた。またユーモアをふくめつつ「師走といっても、文字通り″師も走って″いる。多忙だと思うが、広宣流布のために、ひとつ頑張ってくれ」と話されたことがある。
 私も戸田先生と同じ気持ちである。ゆえに今日も、全国、全世界の求道の友のため、また三十年、五十年、百年先の未来のために、少々、指導しておきたい。
 近代は「組織の時代」といわれる。国家、企業、諸団体等、あらゆる分野にわたって、組織は時代の要求である。また生命体そのものが最も微妙にして完ぺきな組織であるともいえる。ともあれ、現代にあっては、組織なくして、大きな価値を生むことは、もはやできないと言ってよい。
 戸田第二代会長が戦後いち早く「組織」の絶対の必要性に着目し、広布の組織を作り、整備・確立された。しかしつねづね「戸田のいのちよりも大切な広宣流布の組織」といわれた。これには、まことに深い意義があると思う。
2  かつて、ある一流評論家が民衆の「抵抗」の組織を守る必要を論じていた。
 抵抗の組織を守れ――との論調は、私の胸に深く焼きつき、残っている。″抵抗″には国家権力への抵抗をはじめ、腐敗した旧勢力への抵抗等、正義と人間主義のあらゆる闘争が含まれていよう。
 私どもは、どこまでも民衆の幸福のために、断じて、この広宣流布の組織を築ききり、守りきっていかなければならない。
 時には組織に束縛感を感じることがあるかもしれない。しかし何ら責任もなく一人のみの信仰をしても、そこには大きく成長への飛翔をしていくステップ台がない。空転と堕落へと後退してしまうことが、あまりにも多い。ゆえに信心の組織にあって、ともに一生成仏への修行を重ねているのだとの自覚も深く、強き責任と労苦の中に、人生の充実と歓喜を感じとっていっていただきたい。
3  「開目抄」に「沛公が項羽と八年・漢土をあらそいし(中略)此にはすぐべからずとしるべし」――劉邦と項羽が八年にわたって中国で戦った(中略)それよりも、日蓮と諸宗とは、さらにはげしい重大な闘争であることを知るべきである――との御文がある。
 私どもの広布への法戦は、御本仏・日蓮大聖人の御遺命をうけての戦いである。それは劉邦や項羽の戦いのように八年間という短いものではない。何十年、何百年とわたる漸進的革命、平和革命なのである。
 しかも、この法戦は武力や財力によるものでもない。″大法″を根本とした一対一の生命と生命の打ち合いによる平和と幸福への戦いである。
 これから何十、何百年と続いていくかもしれないが、この妙法広布の法戦は、全人類のための戦いであり、これほど尊い活動はないと確信をされたい。徹底して、この法戦を続けていかねばならない。
4  項羽と劉邦にみるリーダーのあり方
 昨年、江東区第五回懇親会の折に、中国の希代の英雄・項羽の「江東子弟八千人」のエピソードを紹介したが、本日は、司馬遷の『史記』等を通しながら、さらに一歩深く話しておきたい。
 劉邦と項羽の両者の戦いは、項羽の自害で終わったわけだが、項羽について、司馬遷は″項羽は、これといった基盤があったわけではない。しかし、時代の勢いに乗って、農民蜂起ほうきのなかから、がぜん頭角を現した。こころざしまっとうしえなかったとはいえ、ここ何百年というもの、これほどの人物は出なかったといってよい″と高く評価している。
 何事を成すにも″勢い″また″時″というものがある、それをうまくとらえ、リズムに乗ることができれば、成長もするし、目的を成就させることができる。その時勢を知らなければ、悔いを残すにちがいない。
 私も十九歳のときから広布の活動に挺身し、今日では何の悔いもない。その経験からも言えることが、やはり人生にも″時″というものがある。青年時代には、大いに苦労し、自分を磨いていただきたい。その時をのがすと未来の大きな飛躍はできないものだ。
 また、人生は長いようで短い。ゆえに健康で生き生きと活動できるときにこそ、弘教、唱題、友の激励、指導にと悔いなき広布と信心の活動に励んでいただきたい。それらがすべて自身の人生の歴史を飾っていくからである。
5  司馬遷は、項羽が、その才気にもかかわらず天下統一の戦いに敗れた原因について四点をあげている。
 それは、項羽が、(1)故郷の楚を懐かしむあまり、要所であり地の利を得た関中(長安、洛陽などが位置する要衝の地)の経営を放棄した。(2)秦の義帝を放逐して、自分が帝位に就き、そむいた王侯を怨んだ。(3)我と我が功を誇り、自分一個の知恵を頼って、教訓に学ぼうとしなかった。(4)覇王はおうとは、武力によって天下を征服することだとはばからず振る舞ったことにある、という。
 いかなる戦いであれ、指導者が感傷的に″情″に流されてしまえば、最後の栄冠を勝ちとることは絶対に出来ない。歴史の教訓や家臣の忠言などに深く耳を傾け、冷厳に情勢を分析しつつ、戦いを進めていくべきである。しかも、そこに″おごり″があってはならない。項羽には、自らの才気や出自に慢心を抱くとともに、権力者としての抜きがたい傲りがあった。権力のもつ魔性とは、いつの世も変わらぬものだ。
 項羽は自らの敗北が決定的になった時にさえ「天が自分を滅ぼしたのであって、戦術がまずかったからではない」としている。司馬遷が伝えている通り、自ら招いた破滅であったにもかかわらず、項羽は自らの数々の過ちを、最後まで認めなかったわけである。ここに、明晰な心を曇らせ暗愚としてしまう″傲りの心″の恐ろしさがある。
6  次に、臣下に対する項羽と劉邦の態度を種々比較していくと、人材登用の成否こそ、一切の勝敗を決する最大のポイントであることが分かる。両者の人間的な資質はというと、臣下自らが語っている通り、旗上げをした当初、身分の低い出身である劉邦は、性格が粗野で、すぐ相手を罵倒して礼を欠いた。それに対し項羽は、言葉づかいがやわらくて、情け深かった。人間的な魅力としては、項羽の方が、はるかに優れていたようである。
 しかし、最後に勝利を収め、漢を創建したのは劉邦であった。その過程に、いかなる変遷があったか。その点について、いくつかの角度から、少々論じていきたい。
 大集団すなわち大組織になれば、人材の登用の在り方も、小さなときとは異なってくることに注目しなければならない。項羽は、自分のけたはずれの才能におぼれ、自負しすぎてしまい、優れた者を嫉んだ。したがって部下のすることに全幅の信頼を置くことができない。また部下のたてた功績も微小なことにしか見えず、その功に正当に報いることがなかった。つまり、人情のこまやかな機微の大切さを理解できなかったのである。そこに項羽の失敗がある。
 これは、組織の長になる人にも通じるといえる。才におぼれるようなことがあっては絶対にならない。会員のためにどうするかという目的と使命に生きることが大事なのである。どこまでも会員のための責任感に徹しゆく包容力豊かな幹部であっていただきたい。広布のリーダーとして細かな所に心を砕き、一人一人が喜びと張り合いをもって前進できるよう、賢明な指揮をお願いしたい。
7  これは仏教説話の一つであるが、ある所に性行も悪く、凶暴で度し難い人々がいた。釈尊の弟子の中で目連がその国の教化を願い出て、済度さいどに出かけた。しかし、かえって目連をののしり、だれもその教えに耳を傾けようとはしなかった。次に舎利弗が、また摩訶迦葉が順次おもむき、手を尽くし人々の教化にあたった。だが彼らも、侮辱されるのみでうまくいかなかった。
 そこで釈尊は文殊菩薩を遣わした。文殊は、その国につくと、あらゆるものを賛嘆した。人々に対し、誰々は勇健であり、誰々は仁孝じんこうだ。また、胆力もあれば知恵もある、といった具合にその人の特色に応じてほめ、たたえた。やがて人々は、大いに喜び、信伏して教えを聞いたという。
 この説話の教えていることは、要するに、その人の長所をほめ、包容し、大きく評価してあげることが、いかに大事であるかということである。人には長所も短所もある。それゆえに、人を見下し、短所ばかりをあげつらうような幹部であっては決してならない。
 このことは、項羽と劉邦の臣下に対する姿勢についても同じことがいえる。例えば、項羽は論功行賞に細心さを欠き不公平であった。それに対し、劉邦は謙虚に部下の言に耳を傾けながら、「責任は全部、私がもつから」と大きな権限をゆだね、部下の優れた点を尊び、部下の″やる気″を引き出した。さらに、その功績に対しては、即座にその場でばく大な恩賞を気前よく与えた。
 また日蓮大聖人は、妙法尼御前の夫の重病、そして死の報告を聞くや、それぞれ即座に御手紙を与え激励されている。
 このように″迅速″な処置というものは、常に人に安心を与え納得させ、また喜びを与え、次の実践へと進む原動力となる。それを、いつかやろう、とか、ゆったりしたり、忘れてしまうのでは、多くの人に不安を抱かせてしまう。優柔不断であってはならない。ここまで広布が進み、学会が発展してきたのも、″迅速″な実践の積み重ねがあったからである。
8  次に、戦略という観点からみれば、小集団の統率と大集団を指揮することとは異なり、そのやり方に大きな転換が必要となる。しかし項羽は、その転換に失敗し、劉邦は成功した。
 学会も草創期にあっては、ともかく力の限り、ひたすら広布に走り抜いてきた。当時は小集団でもあり、広布の骨格をつくり、基盤を確立していくために、それが必要不可欠であった。しかし、今は、その行き方では青年はついてこないし、必ず行き詰まりを生じてしまう。
 時代の流れとともに、人々の心は変わってくる。その変化に対応していくためには常に指導者自身が、成長していかなくてはならない。成長のない指導者からは、次第に民衆は離れていってしまう。そうなると指導者は、すぐに威張り、権威によって人々を抑え付けようとする。その結果、民衆から、完全に捨て去られてしまう。古今東西を見ても、この悲劇は枚挙にいとまない。ここに失敗をもたらす一つの方程式がある。
9  さらに、項羽は名門の貴族の生まれで、エリート意識も強かった。民に強圧的に臨み、民心の離反をまねいた。一方、劉邦は、名もない庶民の出であり、粗野ではあったが人心の機微に通じていた。民の負担を軽くするなど、寛大な態度で民心をひきつけてきた。
 皆さま方も広布のリーダーとして人心の機微を知り、一人一人を温かく包容していくことが肝要であると申し上げたい。
10  また、大きな目から見ると、統一国家の出現が当時の時代の要請であった。しかし、項羽の意図していたのは、戦国の旧秩序を復活するという、時代の流れに逆行し、そのために、民衆の支持を得られなかったといえる。時代に即したリーダーの指導性がいかに大切であるか、私どもは肝に銘じていきたい。
 歴史の教訓は、未来に向かって勝利するために、極めて深い示唆をあたえてくれるものである。広布を担いゆくリーダーたる皆さま方の、参考になればと、本日は項羽と劉邦について話をさせていただいた次第である。
11  広布は幸福への大道
 昭和三十年(一九五五年)四月の、第二回向島支部総会の折の戸田第二代会長は、次のように指導されている。
 「時にめぐりあい、その時に生きるということは、人生の重大な問題である。日蓮大聖人様御在世の時に生まれることもできず、また、中興の祖、日寛上人様おでましの時にもおともできなかったことは、まことに運勢のない者と一応は悲しく思います。
 しかし、またふり返ってみますれば、七百年以前の大聖人様の御命令が、未来において広宣流布せよとある。御開山日興上人様も『未来において広宣流布せよ』とある。その広宣流布の時に生まれあわせた身の幸福しあわせは、まことにありがたいものと私は思っております。
 初代の会長は、実に立派な方でありまして、われわれが、その下について指導を受けました。創価学会の会員として、初代の会長にめぐりあわなかった人は、どれほどなさけなさを感ずるかわからないと思います。
 しかし、このたびの広宣流布にめぐりあわせ、そして、われわれの手で広宣流布できたそのあかつき、また私ども、初代と会えなかった人達を思い、また大聖人様とお会いできなかったことを悲しむと同じような悲しみを、この広宣流布に参加できずに戦わなかった人々が、皆いだくのではないでしょうか。『あれ、みよ。私のおじいさんは、わが親は、広宣流布のために働いたのだ。二十余年前の闘士として、みな働いたのだ』という名誉を子に残すことは、まことにうれしいことではないだろうか。
 広宣流布というと、人のためのように聞こえるが、それはことごとく、わが身のためなのです。(中略)
 いま、広宣流布の大使命に遅れて、なんのしあわせをつかむことができましょうか。私の法難(=戦時中の投獄)のときに退転したものは、みんな食えない。やっと生きています。名前をあげて申しあげてみても、いっこうにさしつかえない。現証歴然です。あなた方が、この信心から退転して、もししあわせが得られるならば、得てごらんなさい。断じて得られない。
 広宣流布の大道へ手をつないで挺身したものは、五年、十年とおやりなさい、必ず幸福な生活がつかめますから。本日の私のことばを忘れることなく、日々の信心をつとめられんことをお願いして、私の講演とします」(『戸田城聖全集 第四巻』)――。
 私も、この戸田先生の気持ちと全く同じである。どうかわが身の成仏のため、そして子孫末代のため、全人類のために、「これ以上の幸福の人生はない」「私以上の幸福者は断じてない」との確信で、不退の人生を全うしていっていただきたい。
 最後に、よいお正月を迎えていただきたい。来年もまたともどもに前進を、と申し上げ、本日の指導とさせていただく。

1
1