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日蓮大聖人・池田大作

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大宮広布三十五周年記念代表者会 時代は「永遠の生命観」を希求

1986.12.21 スピーチ(1986.11〜)(池田大作全集第68巻)

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1  使命の道をさっそうと前進
 大宮は、苦難の風雪にも屈せず、数々の凱歌の歴史を刻んできた、いわば″連戦連勝の地″である。その大宮を久方ぶりに訪問でき、本当にうれしく思う。
 また、広布の拠点の「大宮城」ともいうべき西大宮文化会館が、皆さま方の信心と真心の結晶として、このように立派に誕生した。まことに慶賀にたえない。きょう、お会いできなかった同志の方々にも、くれぐれもよろしくお伝え願いたい。
 私が小学校四年生の頃のことである。学校の先生が、ある国の学者の話をしてくれた。
 第一次世界大戦のさなかであったにもかかわらず、その学者は、世界的な大戦が行われていることを知らなかった。その人は一心不乱で研究に取り組んでいたにちがいない。それは、人類の福祉に寄与するための研究であった。だが、″世界大戦という非常時に何たることか″と非難された。さらには、物にかれた狂人として侮辱もされた。しかし彼は、研究を続行し、見事に成し遂げ社会に貢献した――というのである。
 私には、この話が大変に印象深く、今もって脳裏を離れない。当然、社会の動向に無関心であってよいということではない。しかし、仏道修行に励み、広布の活動を進める私どもにも、ある一面で相通ずる話であると思う。
2  世間の人々は、たとえば休日ともなれば、ゆっくりと休む。テレビでも見ながらのんびりと一日を過ごす。または、行楽に出かけ、レジャーを楽しむ人も多い。そうした人々から見れば、私どもの日常は、いささか異様に映るかもしれない。
 私どもは休日であれ、広布の活動を休むことはない。むしろ皆さま方は時間を見つけては友のために走り、広宣流布のために尊い汗を流しておられる。大法興隆にいそしんでいる。そのために、″狂信″とか″法華気違い″などと、さげすまれたこともあった。
 しかし広宣流布の運動は、恒久平和と全人類の幸福のための戦いである。これほど崇高な使命はないし、尊い人生はない。三世十方の仏・菩薩が「善哉よきかな、善哉」と、皆さま方を深く賛嘆されていることは、経文に照らし、間違いないことと確信する。
3  何事であれ、一事を成す人の人生、生活というものは、とかく常識外に映るものだ。一流のマラソン選手が、神宮外苑を走っている姿を見かけるが、その鍛錬と真剣さは並外れたものである。マラソン選手だけではない。学問でも、仕事でもいかなる分野であっても、一事を究める人は、一心不乱に研さんと修行を積んでいる。その、いわば″狂人″のような執念があってこそ、人並み以上の実績を築けるわけである。
 しかし、こうした人々の鍛錬と成果は、いかに素晴らしいものであれ、来世にまで持っていくことは出来ない。あくまで今世限りのものである。この世で獲得した財産や名声も、また、同じである。
 それに対し仏法の妙縁は、永遠に消えることはない。信心の修行による福徳は三世にわたり輝き、自身の生命を飾っていける。私どもの信心の目的は永遠に、自在・無礙むげの境地に遊戯ゆうげしていくことにある。ここに、単なる「現世論」を超えた「三世論」としての仏法の壮大さがある。どうか、これからもこの点を確信し、誇りとし、妙法流布の使命の道を、さっそうと進んでいただきたい。
4  妙法は″遊楽″と″蘇生″の大法
 さて、日本もこれから高齢化社会へと入っていく。「日本大学人口研究所」が発表した将来の人口推計によれば、三十五年後の二〇二一年には、四人に一人が六十五歳以上の高齢者になるという。
 高齢人口の中でも七十五歳以上や八十五歳以上の高齢者の占める比率は、現在よりもさらに高くなり、高齢化した未亡人も急増する。また、寝たきり老人や痴呆ちほう老人の問題も深刻化するとされている。こうした傾向は、世界の趨勢すうせいともなっており、避けがたい現実である。
5  大聖人の仏法は「太陽の仏法」である。長い人生にあって、生き生きと所願満足の人生を生きていける無限の源泉力である。人生の年輪を刻めば刻むほど、自らの境涯を開き、輝かせていくことができる。また新たな三世への旅立ちをしていける「蘇生」の「大法」なのである。その具体的実践が「信心」なのである。
 その意味で、日蓮大聖人が、ある老夫妻を励まされたお手紙を、ここで拝しておきたい。
 大聖人が佐渡御流罪の折、入信した人々の中に国府こう入道・尼御前の老夫妻がいる。
 佐渡御流罪という大聖人にとって最大の逆境の中で入信し、信心を貫いた人達は、やはりそれだけに深い決意と信念をもっていた。この老夫妻もそうである。
 御流罪中には、夫婦そろって種々の御供養をし、外護に努めた。また、大聖人が身延に入山された後も、はるばる身延を訪れ、御供養を差し上げている。生涯、純粋な信心を貫いた夫妻であった。
6  ところで、同じ佐渡の同志である阿仏房・千日尼夫妻には、立派な子息がいた。しかし、この国府入道・尼御前夫妻には、子供がいなかった。年老いた二人は、ときに寂しい思いにかられることもあったにちがいない。
 大聖人は、この老いたる夫妻に次のような激励のお手紙を差し上げられた。
 「しかるに御子もをはせず但をやばかりなり、其中衆生悉是吾子の経文のごとくならば教主釈尊は入道殿尼御前の慈父ぞかし、日蓮は又御子にてあるべかりけるが、しばらく日本国の人をたすけんと中国に候か、宿善たうとく候、又蒙古国の日本にみだれ入る時は・これへ御わたりあるべし、又子息なき人なれば御としすへには・これ此処へと・をぼしめすべし、いづくも定めなし、仏になる事こそつゐすみかにては候いしと・をもひ切らせ給うべし
 ――あなた方には子もなく、親ばかりである。法華経譬喩品第三の「その中の衆生は、ことごとくこれが子なり」の経文の通りであるならば、教主釈尊は入道殿と尼御前の御父である。日蓮は、また、あなた方の子であるはずである。ただ、しばらく日本国の人をたすけようと、(佐渡の地ではなく)国の中央にいるのである。
 あなた方が、前世に積んだ善業は尊い。また蒙古国が日本に乱れ入る時には、この身延へ避難しておいでなさい。また御子息もないことであるから、年をとった末には、こちらへ移ることをお考えなさい。いずれの地も定めないものである。ただ仏になる事こそ、最終の住み家であると、心を決めておきなさい――と。
7  子供のいない老夫妻を、心から慈しんでおられる、お言葉である。また人生の機微を通しての温かい御指南でもあられる。
 なかでも、夫妻に対して″私は、あなた方の子供ですよ″とまで、言われている。まことに慈愛に満ちた、ありがたいお言葉であると、私は拝するたびに感銘を深くする。このお手紙を拝した国府入道・尼御前夫妻の思いは、いかばかりであったろうか。
 青年に対しては、峻厳しゅんげんな指導も必要であろう。しかし年配の方々には、こまやかな配慮の温かな励ましを、決して忘れてはならない。
 一人一人を心から尊敬し、真心をもって励ましていくことが、いかに大切かを、賢明な広布のリーダーは、このお手紙を通し、よくよく銘記していただきたい。これは、仏法のうえからも、人間としての在り方からも大事なことである。また、信心の組織にあっても、幹部は常に、心がけていくべき重要な点であると思うからである。
8  また、老後の安住の地を心配する夫妻に対して″成仏こそが最終の住み家である″と仰せである。
 だれしも人生の安住の地を求めたいと願っている。とくに年配になれば、人生の最終章を安穏と満足のうちに送りたいとの思いが強い。しかし、いずこに行っても、この地球上には、永続的な満足と安住の地はみつからない。
 それは、自身の生命に不変の金の宮殿を築いていく以外に、真実の遊楽も永続的な満足感もないからである。つまり「成仏」こそが「常」「楽」「我」「浄」の不壊の「家」なのである。その家を自らつくり、自ら楽しんでいくための信心である。大宇宙の妙法と仏界という不壊の家に合致するための信心なのである。
 スペインのことわざに「今から百年後は、すべてが死者」とある。百年後には、今、生きているすべての人は死んでいる。つまり″死は例外なく、すべての人に訪れる″との意味である。確かに、だれびとも「死」を免れることはできない。だが、このことわざは、死者へのなぐさめではなく、現実に生きている人達に、一つの教訓を与えようとしている。
9  ″長寿″の意義は、価値ある人生に
 フランスの作家・啓蒙思想家ルソーの著作に教育小説『エミール』がある。主人公エミールの出生から青年期に達するまでの教育の在り方を叙述したこの小説は別名「教育について」ともいわれる。そこに述べられた教育法は、自然に従い、人為的な努力を排斥して、児童の本性を尊重していこうとするもので、後代の教育論、教育学に深い影響を与えた。
 教育者でもあった牧口先生、戸田先生は、『エミール』をはじめ、ルソーの書を愛読されていた。私も、戸田先生と、幾度となく『エミール』について語り合った。
 昭和二十五年のことであったと思う。戸田先生と小岩のあるお宅を訪れた。その帰路、小岩駅前でおすしを御馳走になり、帰りの車中で『エミール』や文学について、種々、語り合った。そして目黒駅まで先生をお送りしたことを懐かしく思い起こす。当時、私は二十二歳。戸田先生は、一度事業に失敗されて、学会の理事長辞任のころである。
 その『エミール』の中に、次のような言葉がある。
 「生きること、それは呼吸することではない。活動することだ。わたしたちの器官、感官、能力を、わたしたちに存在感をあたえる体のあらゆる部分をもちいることだ。もっとも長生きした人とは、もっとも多くの歳月を生きた人ではなく、もっともよく人生を体験した人だ。百歳で葬られる人が、生まれてすぐ死んだのと同じようなこともある」(今野一雄訳、岩波文庫)と。
 まことに含蓄の深い言葉である。長寿とは、長い年月を生きることだけではない。たとえ百歳まで生きたとしても、生まれて間もない嬰児えいじが死ぬのと同じような、価値のない年月であれば、その人生は意味がないというのだ。
 結論すれば、最も価値ある人生は、正しき″大法″に生きる以外ない。一生成仏と広布に、日々、悔いなく生きゆく人生――その人こそ、本当の意味の″長寿″の人といえる。
10  こうした「老」そして「死」という問題に関して、思い出す言葉がある。それは「汎ヨーロッパ」思想の提唱者、オーストリアの故クーデンホーフ・カレルギー博士の言である。
 私がカレルギー伯爵と初めてお会いしたのは、一九六七年(昭和四十二年)。もはや二十年前のことである。一九七〇年(昭和四十五年)にもお会いし、対談を重ねた。その内容は翌年、サンケイ新聞紙上に長期連載され、のちに対談集『文明・西と東』(サンケイ新聞社)として上梓じょうしされている。
 対談の席上、博士は、こう言っておられた。
 「東洋では、生と死は、いわば本の中の一ページです。そのページをめくれば、つぎのページがでてくる、つまり新たな生と死がくりかえされる――こういった考えだと思います。ところがヨーロッパでは、人生とは一冊の本のようなもので、初めと終りがあると考えられています」と。
 東西の生死観を端的に要約した有名な言葉である。西洋ではキリスト教でも唯物論でも、人間のこの世での生は、ただ一度と考える。ゆえに「死」への恐怖感は東洋人よりも激しく、深刻になりがちである。
11  博士も、こう指摘された。「ヨーロッパ人は一生涯、死におびやかされながら、人生を生きています。たいていの人が、口にこそ出さないだけで、つねに死の観念につきまとわれて生きているわけです。東洋、とくに日本で、ヨーロッパよりも死への恐怖心が少ないのは、来世観ないし永遠の生命観を持っているからではないでしょうか」と。
 このような西洋人の「死」への恐怖感は、老いを迎えればなおさらである。また洋の東西を問わず、人間としての知性が高ければ高いほど、そして人生を真摯しんしに見つめれば見つめるほど、死との対決は深刻であるにちがいない。
 故アーノルド・トインビー博士も、死の解決を摸索していた。故アンドレ・マルロー氏も同様である。しかし西洋の思想には、ついに死の解決法を見いだせなかったのではなかろうか。そこで、どうしても東洋の思想に、なかんずく大乗仏教に注目せざるを得なかった。とくにトインビー博士は、晩年には、仏法の生死観を深く志向されたことを、私はよく知っている。
 トインビー博士たちが私との対談を求められ、実現した背景にも、死の本源的解決の道を示した仏法の真髄への熱い注目があったことも、事実である。
12  カレルギー博士もまた、仏法が現代から未来の人類に果たす巨大な役割に着目していた一人であった。対談の席で博士は明言された。「私も、仏教をたいへく深く尊敬しています。なぜかといいますと、世界のあらゆる宗教のなかで、理念的にも、歴史のうえでも、仏教だけが唯一の平和的な宗教だからです」と。
 さらに「宗教の退廃は、今日、世界的問題です。そして他の宗教が全部衰退しているとき、日本では生まれかわった仏教が興隆しつつあることを知って、たいへん喜ばしいことだと思っているのです」と述べ、日蓮大聖人の仏法が、日本の民衆の中で、生き生きと躍動している姿を称嘆されていた。
 このように、世界の最高の英知は「死の解決」という一点を逃さず見つめ、その一つの結論として東洋の仏法に光をあててきている。日本人の方がむしろ、人生への真剣な求道の心もなく、低次元の批判に終始している場合が多いようだ。このことは、体験上、皆さま方も、よくご存じの通りである。
13  仏法は「生死」の本源的解決示す
 大聖人は信心を全うした境界について「松野殿御返事」に次のように仰せである。
 「世の中ものからん時も今生の苦さへかなしし、いわんや来世の苦をやと思し食しても南無妙法蓮華経と唱へ、悦ばしからん時も今生の悦びは夢の中の夢・霊山浄土の悦びこそ実の悦びなれと思し食し合せて又南無妙法蓮華経と唱へ、退転なく修行して最後臨終の時を待つて御覧ぜよ
 ――世の中がつらく苦しく感じられる時も、″今世での苦しみでさえ、このように悲しい。いわんや来世の苦しみは、これ以上である″と思って、強盛に題目をあげなさい。また、逆にうれしいことがあっても″今世の喜びは夢の中の夢のごとく、はかないものである。成仏した後の霊山での喜びこそが、真実の喜びである″と見定めて、また唱題に励んでいきなさい――との深き生命観からのお言葉である。
 悲しいにつけ、楽しいにつけ唱題する以外に幸福への道はない。何があっても、常に勇んで題目をあげきっていきなさい。また題目を弘めぬいていきなさい。最後の最後の臨終の瞬間まで、絶対に退転することなく、妙法を修行しきっていきなさい――との御教示と拝する。
 これ以上の苦しみはないと思っても地獄の業苦とは比較にならない。また一時は、どんなに幸せで有頂天であっても、永続する喜びはない。新婚の天にも昇る喜びが、あっというまに、ケンカと反目の修羅闘諍しゅらとうじょうの日々に変わることも、決して皆さんのお宅のことではないが、少しも珍しいことではない。どんな喜びも時とともに色あせていく。これが現実である。
 この御文に続けて、大聖人は、こうしたためられている。
 「妙覚の山に走り登つて四方をきつと見るならば・あら面白や法界寂光土にして瑠璃を以つて地とし・金の繩を以つて八の道をさかへり、天より四種の花ふり虚空に音楽聞えて、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき娯楽快楽し給うぞや
 ――妙覚の山、すなわち成仏の高き境涯に立って四方を見わたせば、そこには素晴らしい世界が広々と続いている。全宇宙がすべて寂光土となっている。地面はすべて青く輝く瑠璃の宝珠でできている。金の縄をもって八つの道の境界をつくり、空からは赤と白の大小の華が舞い落ち、たえなる音楽が聞こえてくる。諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき、自在に楽しみきっている――と。
14  この「死」という問題は、いつか将来、論じていきたいと思っているが、仏法では生命の実相を「十界三千」と説ききわめている。宇宙に十界があり、我が生命にも十界がある。また宇宙に三千世間(如是)の次元があり、我が身にも同じく三千の次元が備わっている。その大宇宙の十界三千の当体が御本尊である。ゆえに御本尊に唱題することによって、いわば宇宙の中の仏界という最高の境界に、我が生命の波長を合わせていく――ここに妙法の修行の根本の意義がある。
 たとえていえば宇宙空間には、目には見えないが、様々な電波がある。受信機次第で、各国の電波に合わせ、音声を聞くことができる。このように宇宙の仏界という最高にすばらしき実在の次元に我が生命を三世永遠にわたり融合一体化していくのが信心なのである。要は、それを可能にする強盛な信心の持続である。
 大聖人は「我れ等も其の数に列なりて遊戯し楽むべき事はや近づけり、信心弱くしてはかかる目出たき所に行くべからず行くべからず」と仰せである。
 一生成仏の「死」とは諸仏・菩薩の列に加わって、ともに遊戯ゆうげし、楽しんでいくことである。しかし信心が弱ければ、この素晴らしい仏界の、厳たる次元の世界に入ることはできない。ゆえに不退の強盛な信心を全うしていきなさい、とのまことに厳しき御指南である。
15  このことに関連して、戸田先生の指導を紹介しておきたい。昭和二十六年、初信者中心の合同座談会でのお話である。
 「山にみた場合、最高の山の頂上が成仏であり、利益の最高である。成仏とは、永遠の生命を感得することであって、いつ、いかなるときにでも、絶対の幸福で、成仏といっても、ことばではあらわせないため、死ぬまでに物心両面が満ち、その証拠となる。
 初信の功徳は、山へ登ることであり、成仏は、それよりも高い山へ登るのであって、これは世法のご利益を得るのではない」。すなわち成仏という″妙覚の高山″に登るのが信心の目的である。初信の利益は、その手前の低い山である。
 「低い山から最高の山へ登る中間には、かならず谷があり、この谷に、みなさんは迷う」――初信の功徳の次には、三障四魔と宿命転換の谷を通らなければならない。その谷の向こうに高い山がある。それなのにこの谷で疑いを起こしてしまう。
 「これこそ鬼子母神、十羅刹らせつ、魔王の試練で、初信の者は、これに驚き負けてしまう。この第六天の魔王の試練の罰に負けてはならない。谷へ落ちたとき、これでなるものかと、最高の山へ登るためにいちど谷へ落ちたことを信じ、よくよく小山より大山へ登る谷へ、考えをいたさなければならない」と。
 どうか、この指導を深くかみしめ、成仏の山への不退の登はんを、お願いしたい。
 ともあれ、競い起こる障魔に屈し、退転の道を歩むようなことだけはないよう厳に戒めていきたい。
 日蓮大聖人は「十王讃歎鈔さんだんしょう」に「火のやくはけしつべし、悪業の焼はけすべからず」とおっしゃっている。火の燃焼は消すことが出来るが、悪業により身を焼く業火は、絶対に消すことが出来ないとの峻厳な御教示である。
 続いて大聖人は、こうも仰せである。「かくの如き重苦をうけん事ただ汝が心一つより起れり」と。無量の地獄の苦しみも、私どもの「生命」つまり「心」の在り方いかんによって起こるものであるとの、これまた、まことに深き生命の法理の上からの御指南である。
 つまり、信心にあっては、善悪はすべて「心」によって決まってしまう。御本尊を賛嘆し、仏道修行に励んでいこうとする「心」は成仏への道を開く。反対に正法を誹謗し、和合僧を破りゆく「心」は無間地獄への門を開くのである。ゆえに私どもは「心こそ大切なれ」との御金言を胸中深く拝しながら、さらに広布への王道を進みゆきたいものだ。
16  熱原法難にみる反逆の構図
 ここで、ご一家ご一族の中で信心していない人がいる場合の考え方について、少々、述べておきたい。これは、親戚の中に信心に反対する人がいたり、あるいは親や兄弟など、一家の中の誰かが退転していく場合など、さまざまな実情があると思う。皆さまの中にも、こうしたケースに直面して、悩み苦しまれた方もおられるかもしれない。結論からいえば、これはすべて、それぞれ個人の責任に帰着する問題である。
 例えば兄が退転した場合、弟は弟の立場で、真心込めて忠告してあげれば、立派に責任を果たしたことになる。あとは本人の問題なのである。すべてがこれに準ずるといってよい。
17  ところで、日蓮大聖人御在世の熱原法難については、皆さまもよくご存じのことと思う。熱原三烈士の神四郎、弥五郎、弥六郎の三兄弟には、弥藤次入道という長兄がいた。この兄こそ実は、滝泉寺の院主代・行智という悪名高い僧にそそのかされ、反法華党の一味となって、正法に敵対した人物なのである。こともあろうに弥藤次は、血をわけた弟達をでっちあげの罪で幕府に訴えた訴人そにん(告訴人)であった。そのため、神四郎以下、二十人の熱原の農民は鎌倉に連行され、三人の弟達は、斬首されるという大法難にあった。
18  兄の弥藤次の人物像について、日亨上人は『熱原法難史』(中国報編集室)の中で、こうお述べられている。「強欲奸智かんち曲者くせもので村での口利くちきき(=談判などに立ち入る人物)である」と。
 強欲にして奸智の曲者とはまさに反逆者の本質を鋭くつかれた言葉といえよう。
 いつの世にも善良な人達を悪縁に巻き込み、紛動させ、言葉巧みに操作する徒輩がいるものだ。学会にあっても、さまざまな策謀をもって、和合僧の団体を破壊しようとの輩がいた。これもすべて大なり小なり同じ方程式であった。
 ともかく、こうした弥藤次であったから、純真に弘教に励み真面目な信心を貫く神四郎ら弟達と、気性として合うわけがなかったのも当然である。真面目さこそ信心の生命線である。真面目な人でなければ信心を全うすることはできない。これは何事にあっても同じ道理である。
19  弥藤次の誹謗は、やはり真面目な神四郎ら弟達への嫉妬から始まっていると考えられる。正法を信じ弘教に励む弟達が純真であればあるほど弥藤次は、家兄の権威で元の念仏信仰に戻そうとやっきになって誹謗中傷する。だが、仏法の道理にしたがって諄々じゅんじゅんと兄をさとす弟達には、面と向かって議論してもかなわない。その悔しさ、嫉妬から、なんとか退転させようとたくらみ、彼はその機会をうかがっていた。
 さらに弥藤次の奸策の陰には、行智という破戒僧が黒幕として存在していた。このことについて、大聖人は「伯耆殿等御返事」の中で次のように仰せである。
 「大進房・弥藤次入道等の狼藉の事に至つては源は行智の勧めに依りて殺害刄傷する所なり」と。
 ――(三烈士ら法華信徒に対する)大進房や弥藤次入道らの狼籍(暴行)の根源は、行智のすすめによって殺害刃傷したことにある。弥藤次が狂ったのも、その源は行智であった――と厳しく見破っておられる。
 行智の陰の画策について、日亨上人は「弥藤次入道の悪漢しれものをも酒で殺して味方に入れて法華信者の虐待役いじめやくもうしつくる」(前掲『熱原法難史』)と表現されている。
 「酒で殺す」――退転者や反逆者の一味に引き入れる方程式は、昔も今も変わりない。これからも同様であろう。せんじつめれば酒におぼれ、金銭欲、名誉欲にそそのかされて、正常な心を殺され、反逆、退転の道に走っていくのがその構図である。
20  人生を勝利と栄冠で飾りぬけ
 さらに、日蓮大聖人は南条時光に与えられた御手紙の中で「相かまへて相かまへて自他の生死はらねども御臨終のきざみ生死の中間に日蓮かならず・むかいにまいり候べし」と仰せである。
 ――自分についても、他人についても、いつ死ぬか分からないが、臨終の時、「生」から「死」に移る瞬間に、大聖人が必ず迎えにいくであろう――と信心ある人の成仏をば約束してくださっている。
 大聖人はまた、熱原法難の折にしたためられた「聖人御難事」の中でも「我等現には此の大難に値うとも後生は仏になりなん、たとえば灸治のごとし当時はいたけれども後の薬なればいたくていたからず」と仰せられている。
 ――我らは、現在は仏法のために大難にあってはいても、後生は必ず仏になれる。それは、例えばきゅうのようなもので、その時は熱くて痛いけれども、後には薬となるのであるから、痛くとも本当は痛くないのである――と仰せである。
 また熱原三烈士の処刑(一二七九年・弘安二年十月十五日)後、約九カ月、いまださまざまな苦難のなかにあった南条時光に「しばらくの苦こそ候とも・ついには・たのしかるべし、国王一人の太子のごとし・いかでか位につかざらんと・おぼしめし候へ」と励まされている。
 しばらくの間、苦しいことがあっても、未来は必ず楽しみとなるのである。それは、国王のたった一人の太子が必ず王位を継ぐのと同じように、法難に際して奮闘し、広宣流布のために尽力した時光がどうして成仏しないことがあろうか。必ず成仏できることを確信していきなさい、との励ましであった。
 戸田先生が逝去される前年(一九五七年・昭和三十二年)、私にとってもまことに多難の時であった。その時に戸田先生から「勝ち負けは人の生命いのちの常なれど最後のかちをば仏にぞ祈らむ」との歌をいただいた。人事を尽くしたあとの「最後の勝」は御本尊に祈るしかない。
 大聖人の門下として、また仏子として、広布と信心に励みゆく私どもは、必ず成仏し、幸福の人生を築いていける。ゆえに信心でこの人生の最終章を、輝く勝利と栄冠で飾っていただきたいのである。
21  次に信心の会合の重要性について述べたい。
 大聖人が佐渡流罪の途上、越後の国(新潟県)寺泊の地から富木常忍に与えられた「寺泊御書」の冒頭の部分には、次のようにしるされている。「心ざしあらん諸人は一処にあつまりて御聴聞あるべし」――信心の志(こころざし)ある人々は一処に集まって、この御文の法義を聴聞しなさい――と。
 また、「佐渡御書」にも「此文を心ざしあらん人人は寄合て御覧じ料簡候て心なぐさませ給へ」――この手紙を志のある人々は寄り合って読み、よく理解して、心を慰めなさい――と仰せである。
 さらに、佐渡の大聖人のもとを訪ねた四条金吾に託して夫人に送られた、有名な「同生同名御書」にも「此の御文は藤四郎殿の女房と常によりあひて御覧あるべく候」――この文は藤四郎殿の夫人と常に寄り合って御覧なさい――と御教示されている。
 このように諸御抄で、同志と一緒になって御書を拝し法義を学び合い、共々に励ましあっていきなさい、と異体同心の前進の重要性を教えられている。
 ともあれ信心ある同志や広布の目的に生きる組織から離れ、寂しい一人よがりの人生になってはならないと私は思う。信心の基準がなくなることは恐ろしいことである。
22  拠点、近隣に細やかな配慮
 話はかわるが、大聖人の御在世当時、駿河するが国富士郡には、この地域の弘教の中心的存在であった、高橋六郎兵衛入道という方がいた。六郎兵衛入道の夫人は、日興上人の叔母にあたり、その縁から日興上人の化導をうけて、早くから入信し、強盛な信心をなされていた。
 また六郎兵衛入道の屋敷は、富士地方の弘教の拠点となっていた。弘安元年(一二七八年)三月、日興上人が平左衛門尉の迫害により寺内から追われた「四十九院の法難」の折も、またそれに続く「熱原の法難」の折も、富士方面の大聖人門下を外護する拠点ともなった。まさに地域広布の最前線を担う一家であった。
 大聖人の御手紙のなかに、「其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ」という一節がある。これは今では、断簡(きれぎれになった手紙)となっているため、いつ、だれにあてられたものであるかは断定できない。だが、前後の内容から、また「其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ」とのお言葉から、信心の面でも社会的にも力のある方であったと考えられ、高橋六郎兵衛であろうと推測されている。
 それは、富士地方一帯の仏法流布の使命と責任を、大聖人が「まかせたてまつる」と仰せになるほど高橋六郎兵衛入道は、信頼も厚い、その地域の大功労者であったからにちがいない。
 今日、学会では各副会長をはじめ、県、区(圏)の幹部の方々が、それぞれの地域の全責任を担い、広宣流布の運動も一段と多角的に推進されている。これも、御書に仰せの通りの方程式と思っていただければありがたい。
23  さて、今でいえば地域広布の大功労者ともいえる高橋兵衛入道が病気になる。それも重病であるとの報告に対して、大聖人が大変に心配されて「高橋入道殿御返事」をしたためられた。
 佐渡流罪御赦免の後、大聖人は鎌倉に帰られた。そして平左衛門に会って三回目の国主諌暁かんぎょうをされたあと、故事にならって身延の山に入られる。この御手紙はそこで認められたようである。
 「かまくらに有るべきならねば足にまかせていでしほどに便宜にて候いしかば設い各各は・いとはせ給うとも今一度はたてまつらんと千度をもひしかども・心に心をたたかい煩悶ぎ候いき、そのゆへはするが駿河の国は守殿の御領ことにふじ富士なんどは後家尼ごぜんの内の人人多し、故最明寺殿・極楽寺殿のかたきといきどをらせ給うなればきつけられば各各の御なげきなるべしとおもひし心計りなり
 ――高橋兵衛入道の屋敷は、鎌倉から身延へ行く道の途中なので、おのおのには迷惑になるかもしれないが、重病である入道にはいま一度はお目にかかりたいと、千遍も思ったけれども、心に心を戦わせてお目にかからずに通りすぎてしまった。それというのも、駿河の国は相模守殿(鎌倉幕府の執権・北条時宗)の直轄の領地である。ことに富士地方などには、故最明寺殿(北条時頼)や極楽寺殿(北条重時)らの未亡人のゆかりの人々が多く住んでいた。そしてこれらの人々は、大聖人は、北条時頼や重時のかたきであると憤っていた。そのために、もしか大聖人が高橋殿の屋敷に立ち寄られたと聞けば、いわれなき理由をつけて高橋入道一族に迫害や弾圧が加えられるかも知れない。あなた方のご迷惑になるだろうから寄らなかった――との仰せである。
 つまり大聖人は、何よりも相手の立場を考え、あえて訪問をやめておられる。こうした弟子門下のことをおもんぱかっておられる熱き心情を、私どもは、よくよくくみ取っていかねばならない。
 広宣流布のために自らの家を個人会館として、またその地域の拠点として提供してくださっている方々にも私どもは、このようなこまやかな精神で接していかねばならない。例えば夜の会合が終わったあとなど、路上で声高に話したり、タバコを投げ捨てたり、車のエンジンを一斉にふかし、近隣のひんしゅくを買い、そのお宅に迷惑がかかるようなことがあっては絶対にならない。また、とくに幹部は、会場を提供してくださっている家庭やご家族に心から感謝し、最大に守らねばならないと申し上げておきたい。
24  成仏は強情なる信心に
 本日は、老後の問題から話を進めた以上、死後の問題にも、言及しないと話は終われない。そこで少々、「成仏」について申し上げておきたい。
 大聖人が阿仏房に与えられた御書に「既に生を受けて齢六旬に及ぶ老又疑い無し只残る所は病死の二句なるのみ……」――日蓮も生を受けてすでに六十歳になる。老いていることもまた疑いない。ただ残るところは「病」と「死」の二句のみである――と仰せになっている。私は、この文を拝するたびに、生死の実相を達観された御本仏としての御境界に強く胸を打たれる思いがする。
 ところで日寛上人は「臨終用心抄」の中で「他宗謗法の行者はたとひ善相有りとも地獄にき事」として次のようにも仰せである。
 「中正論八に云く、たとひ正念称名しょうみょうにして死すとも法華謗法の大罪在るゆえに阿鼻獄に入る事疑ひ無しと云々。私に云く禅宗の三階(中国・三階教の開祖・信行のこと)は現に声を失ひて死す、真言の善無畏は皮黒く、浄土の善導は倒狂乱す、他宗の祖師すでに其れくの如し末弟のやから其の義知る可し、師は是れ針の如し弟子檀那は糸の如し、其の人命終して阿鼻獄に入るとは此れ也」(富要三巻)
 つまり、正法誹謗ひぼうの者は、その祖師が阿鼻獄に入っているのであるから、たとえ臨終の相がよいように見えても地獄に堕ちてしまうことは間違いないとの仰せなのである。
 さらに日寛上人は「法華本門の行者は不善相なれども成仏疑い無き事」と、お述べになっている。つまり御本仏である大聖人の門下として、仏法を弘める人々は、かりに臨終の相がよくないことがあっても、成仏することは疑いないとの仰せなのである。
 長い広布の途上には、確かに交通事故等の不慮の事故や病気等で亡くなられる方もおられる。しかし日寛上人は、信心ある人は成仏疑いないと断言されている。ゆえに、一生涯にわたる強盛なる信心が大切である。″信心の心こそ大切なれ″なのである。いかに財産や社会的な名声や地位があっても、その一点を忘れては成仏できない。
 日寛上人は、享保十一年(一七二六年)三月、江戸での布教を終えて大石寺に帰られる。以来、何となく御健康がすぐれず日々衰えられていく。
 同年五月二十六日、法灯を日詳上人に付嘱され、後事を一切委ねられる。六月に入ってからは衰弱は日々重くなるが、病の苦しみは全くなかった。
 日寛上人は御自身の病気について、日詳上人に次のように語っておられる。
 ″当山(大石寺)は今、年を追って繁栄し、観解かんげ(御本尊に題目を唱えることと大聖人の教えを学ぶこと)が倍増している。まさに三類の強敵が競い起こるであろう。私はこの春以来、災をはらうことを三たび三宝に祈願した。ゆえに、仏天はあわれみをれたまい、私自身の病魔をもって法敵に代えられたのである。これこそ「転重軽受」なのであるから、決して憂えてはならない″(趣旨。「日寛上人伝」、『富士宗学要集 第五巻』所収)と。
 つまり、正法が繁盛しているので、もっと大きな、三類の強敵が起こるところを、御自身お一人が病気の災をえて、大難を防ぎ、本山もすべて守っているのだ、との御言葉と拝察される。ちなみに、この年の四月に、いわゆる金沢法難の発端が起きている。
25  御遷化の一両日前に、日寛上人は法衣を着けられ、寝所より駕篭かごに乗って、お別れのいとま乞いに出られる。
 初めに本堂に詣で、読経・唱題され、次に御廟所ごびょうしょに参詣される。そして御隠居所の日宥にちゆう上人(第二十五世)、学頭寮の日詳上人の所へ寄られ、いずれも輿こしの中からねんごろに暇乞いをなされたという。
 日寛上人はそのあと、三門前で師・日永上人(第二十四世)の妹御にも別れを告げ、門前町を通って大坊まで帰られる。沿道には人々が伏して別れを惜しんだといわれる。
 そして戻られると、番匠ばんしょう(大工)、桶工おけこうに命じ、急いで葬式の具を造らせ、その棺桶かんおけふたに自ら筆をとって一偈一首を認められている。
 八月十八日の深夜にいたり、命じて床の前に大曼荼羅を掛け奉り、香華、灯明を捧げて侍者に「吾れ間もなく死すべし」と告げられる。
 そして、周囲に知らせるのは必ず死後にすること、臨終の時の付け人は一、二人であること、読経・唱題の注意等、臨終に際しての指示を細かくされる。
 その後、末期の一偈一句をお書きになって、書き終わるや直ちに、好物のソバを作るよう命じられる。侍者が即刻につくると、七はしこれを召し上がって、にっこり笑みを含み、「嗚呼ああ面目おもしろや寂光の都は」と述べられたと伝えられる。まさに、三世の生命を通観された御境界であられた。
 その後、うがいをなして大曼荼羅に向かわれ、一心に合掌して唱えつつ、半眼半口にして眠るように御遷化されたのである。時に享保十一年八月十九日の辰の刻(午前八時)、朝のことである。御年六十二歳であられた。
 こうした日寛上人の御振る舞いをみると、はたして「死」は、「悲」なのか「喜」なのか、と思えてくる。世間では、「死」は悲しく、つらいものである。しかし、三世の生命観からみれば、妙法に照らされた「死」は「喜」ともなっていくことを日寛上人は教えてくださっているように拝せるのである。
26  広布の栄光は″一歩また一歩″から
 次に、江戸時代後期、本格的な日本地図を完成させた伊能忠敬いのうただたかについて紹介しておきたい。彼は、五十歳で隠居し本格的に歴学を学び始めた。そして、日本地図の作製のために五十六歳の時から十七年間かけて全国を測量に歩いた。その一歩一歩の歩みは実に四千万歩にも及んだといわれる。
 一般に「伊能図」と呼ばれる「大日本沿海輿地全図」は、伊能忠敬の死後三年にしてようやく完成をみた。まさに血のにじむような労作であった。
 この伊能忠敬の生涯と業績から思うことは、まさに「人生は五十歳代、六十歳代からである」ということである。また、一歩一歩、自らの足で大地を踏みしめて歩いてこそ、勝利の栄冠はあるということである。
27  この大宮広布の勝利も、我が創価学会の勝利も、全世界の広宣流布の勝利も、これと同じ方程式で一歩また一歩と、歩きに歩いたうえに築き上げたものである。今日までの広布の伸展はこうした堅固な土台のうえに構築されたものであるがゆえに強い。
 それは決して、単にテレビや出版物や講演などによって築かれたものではない。一人一人を、また一軒一軒をくまなく歩き、法を説き、指導・激励をしてこられた、皆さま方の尊い活動があったからである。私は、この″一歩また一歩″と、忍耐強く、信心の大道を進んでこられた皆さま方に、心から感謝申し上げたい。
 最後に「常楽と確信の大宮」たれ、と申し上げ、本日の話とさせていただく。

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