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日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

大学会・豊島区合同研修会 信心と人格光る後継者に

1986.12.7 スピーチ(1986.11〜)(池田大作全集第68巻)

前後
2  私は、この二十数年間、立場上、日本各界の多くの著名人と会った。また、さまざまな分野における世界の指導的人物とも会見・会談を重ねてきた。また数限りないほどの、内外の市井しせいの方々ともお会いした。
 そうした出会いを通して、私が痛感することは、会って、大へんに誠実な印象を受ける人がいる。すがすがしさを残す人もいる。反対に何とも卑しさや、臭みを感じさせる人もいる。明朗な人もいれば、陰険な人もいる。傲慢な人もいる。飾らない人柄で、会うだけで友情の心を通わせていく″友好の名人″もいる。腹ぐろい策の人もいる。また軽率な人もいる。重厚な人格者もいる。権威をカサにきて、いばっている人もいる。当然、初対面の姿だけで、相手を評価することは難しい。また危険でもあろう。しかし、その初対面の実相の中に、直観的に、また経験の上から、その人の傾向性を多々知ることが、できることも間違いない。
 ともあれ、その方々の長い軌跡を通していえることは、初対面で感じとった傾向性の延長が、それぞれの人生の結果の姿となっているような気がしてならない、ということである。つまり、要領や策で会いにきた人、利用する下心できた人、驕慢やふざけの心できた人、心に侮辱をもって接してきた人等々と、反対に、信頼の心でぶつかってきた人とは、その結果はおのずから明確な違いがあるような気がしてならない。これが二十数年間の体験を経た、私の一つの結論である。
3  いずこの地もみな使命の舞台
 諸君は、まさに、これから社会に出て、活躍していく人達である。また、すでに実社会の舞台で苦闘している人もいる。社会も人生も、人間と人間のつながりなくしては決して成り立たない。その意味で、諸君は自分らしく、人々の友情と信頼を勝ち得ていける一流の人物へと自己を磨きぬいていってほしい。
 日蓮大聖人は「自体顕照」と仰せである。これは妙法の光によって、ありのままの自己を照らし、輝かせていくことであり、本来のすぐれた個性を発揮しきっていくことともいえよう。また「無作三身」とも仰せである。これは別しては御本仏のことである。総じては妙法を信じ行じている私どもが、人間らしい、つくろわぬ、ありのままの姿で、生き生きと、正しき人生を闊歩かっぽしていける姿を教えられているとも拝せる。
 こうした観点からも、私どもが仏法を受持したという事実が、価値ある人生を生きゆくうえで、いかに深く重大な意義を持っているかを銘記してほしい。
4  大切なのは、一生涯の″不退″の信心である。先日も、ある婦人部の方と懇談をした際、「一生成仏」というのは、大へんなことであるということが話題になった。ご存じのように、釈尊の爾前の仏法では基本的に歴劫修行を説く。幾世にもわたる長き仏道修行によって成仏すると教える。これに対し、日蓮大聖人の仏法は、この一生という現世において成仏できる、まことにありがたい大法である。歴劫の修行に比べると、実に容易に思えるかもしれない。
 しかし現実には一生も、短いようで長い。十年信心しても十一年目に退転していく人もいる。青春時代には真剣に仏道修行に励んでも、中年を迎えたころには純粋さや情熱を失う場合も多い。今まで青年リーダーとして華やかに活躍しながら、生活の乱れから、後に多くの人に迷惑をかけ、退転していく人もいる。
 要は人生の最終章において「自分としてのなすべきことはなした。一点の悔いもない」「我が人生は勝った。最高の満足である」といえるような、安心立命あんじんりゅうみょうの無辺の境涯に遊楽していけるかどうかである。一生の最後の総仕上げに、人間としての凱歌と栄光に包まれ、自分らしい人生を荘厳に飾っていく――そのなかに一生成仏の証がある。また、そのために現在の修行があり、自己を磨いていく精進があるわけである。
 諸君は、これから社会で思う存分、力を発揮し、輝いていかねばならない。深いまなこからみれば世間の一切法は即ちこれ仏法であり、仏法の実践を根幹に、日々月々、あらゆる機会を通して、自己を練り、鍛え、生活と社会の上での勝利を完成させていっていただきたい。そのために、本日を一つの契機として、ともどもに「一生成仏の信心」を生涯全うしていくことを深く決意していただきたいのである。
5  信念と正義の人生の年輪を
 今まで数多くの方々とお会いしたなかに、私が深く印象に残る老作家がいる。それは九州文学界の″長老″・原田種夫氏である。昨年の二月、私は福岡市の九州文化会館で、氏と三十分ほど懇談のひとときをもった。人生の年輪が深く刻まれた氏の豊かな人格に、信念と正義に生き抜いてこられた、何ともいえぬ生命の輝きを感じた。まことに印象的な、感銘深い出会いであった。
 氏には、福岡・柳川市の九州池田文学会館での「九州文学資料展」開催の折をはじめ、さまざまに格別の協力をいただいている。
 原田氏は、一九〇一年(明治三十四年)生まれで、現在八十五歳。恩師・戸田先生より、一歳年少に当たる。氏は、その生涯を文学に捧げてきた。同じ福岡出身で、芥川賞作家の火野葦平あしへい氏らの友人は、尊敬を込め、氏を「文学の鬼」と呼んだほどである。そして、自らの文筆活動にとどまらず、雑誌『九州文学』を発刊するなど「九州の風土に文学高揚の大計を進めるという使命感に人生をけてきた」(『原田種夫全集 四』国書刊行会)のである。
 氏の友人はいう。「彼は九州をはなれずに『九州文学』に一生をけた。地方で文学によって生活するのがいかに困難であるか、想像をこえるものがある。原田種夫はその困難に耐え通してきた。九州文学の長い歴史は、原田種夫たちの苦闘の歴史である。この点はどんなにほめても、ほめすぎることがないと言える」(前掲『原田種夫全集 三』)と。
 氏に対するこうした数々の評価に、私も感銘を深くせざるをえない。限りなく「九州」を愛し、その大地に根差した″九州文学″の興隆を願い、真摯に行動する――ここには、郷土を愛してやまない氏の麗しい真情が脈動している。
6  次元は異なるが、広宣流布を目指す私どもの運動も、それぞれの国土・地域を愛し、その地の広布の発展に生命を燃やす多くの同志の活躍が、一切の基盤となっている。
 ここ華やかな東京でも、多くの友が戦っている。それに対し、最北の町・稚内わっかないでも、南国の地・鹿児島の大隅半島でも、さらには佐渡など離島にあっても、同志は誰に認められなくとも、ただひたむきに黙々と、郷土の発展を願い、行動している。こうした各地の同志の営々たる活動が、全国、いな全世界の広布を進め、盤石な広布の基盤を築いてきたことを、私は決して忘れない。
 ゆえに私は、厳寒の地で、また熱暑の中で、さらには交通の便の悪い地域で、尊い法戦に挺身されている全世界の同志の皆さま方に真心の題目を常に送り、一層の健勝と健闘を祈念させていただいている。
7  原田氏は、「九州」という一地方を舞台に、黙々と、自身の使命の道に徹してこられた。そのためであろうか、九州の文壇、いな日本の文壇にとって、これだけの功労者でありながら、華やかなスポットライトを浴びた存在ではない。
 それに対し、確固たる文学への貢献もないままに、時流に乗じ、マスコミ等で広く名を流している文学者も少なくない。ともすると人々も、名が売れている作家のみを好み、評価するものである。ここに、マスコミ等の影響がもたらす怖い落とし穴がある。
 人は、とかく大都市や華やかな舞台にあこがれる。そして、そこで活躍している人を立派であるとか、過大視していく傾向が強い。しかし、華やかな舞台で活躍するところに、本当の人間の偉さがあるわけではない。たとえ、いかなる辺ぴな地であっても、また、日の当たらない陰の舞台でも、自らの使命に生き抜いていく人こそ、最も尊く、偉い人であると私は思う。平等大の仏法をたもつ私どもは、いつの時代にあっても、すべてにわたり真贋しんがんを鋭く見極めていく姿勢を忘れないでいきたい。
8  氏の主宰する『九州文学』の実質的な創刊は、昭和十三年(一九三八年)である。そのし方を振り返って、氏は述懐する。
 「『九州文学』は、じっさいのところ、九州の文学の拠点であり、文学の道場である。ひろく門戸を開放して、たとえ無名の人といえども、優れた才能を発掘し、作品発表の場を提供して来た。わたしたち老作家も、若い作家たちとともに勉強に精を出して来た」(『記録九州文学 創作編』梓書院)
 「文学は生涯かけて勉強しなければならぬ営為えいいである。気をゆるめたら退歩が始まる。つねに、気を張っていなくては、優れた仕事が出来ないのだ。ただ、そのような文学の道場を、わたしたちは守りぬいて来たのであった」(同前)と。
 いかなる分野であれ、一事に精通せいつうし、また、社会の一隅を照らしゆく何らかの貢献を果たす人は、共通した″道″を歩んでいる。それは、絶えざる精進を忘れない努力の道である。″努力″と″精進″なくして、魂の結晶としての人生の成就はないのである。
9  さらに原田氏は「どんな小さい仕事であろうと、私は全身をける」(『ペンの悦び』西日本新聞社)と。これが氏の信条である。短い簡明な言葉であるが、人生の生き方を、まことに鋭くとらえた言葉といえよう。
 御書には「師子王の剛弱を嫌わずして大力を出すがごとし」と仰せである。
 師子は、相手が強い、弱いにかかわらず、全力を出していく、というのである。ここには、何事かを成し遂げんとする指導者の根幹ともいうべき姿勢が明快に示されていると思う。
 たとえいかなる「小事」でも全魂を込めていく――そうした強い一念がなくしては、すぐれた一流の人格を築いていくことはできない。また、完ぺきにして永遠に崩れない仕事をめざすこともできない。
 よく″信心してさえいれば、商売が繁盛する。成功するものだ″と言う人がいる。それは、短絡的な考えであり、安易な信心利用の行き方である。
 信心は人生と生活との源泉力である。ゆえに人一倍の研究と努力を重ね、人生と社会での仕事に精通してこそ、その信心が結実されることを、決して忘れてはならない。
10  また原田氏は、幾山河を越えてきた自らの人生を振り返り、次のように述懐している。
 「ある日のわたしは、甲斐性かいしょうなしと伯父おじ叔母おばたちにののしられ、ある日のわたしは三文さんもん文士、文学的ルンペンと悪罵あくばされ、ある日のわたしは貧民と軽蔑けいべつされた。
 『よくぞ、ここまで来たねえ』
 と、わたしは妻にささやいた。短い言葉だが、含む意味は重たいのだ。妻は涙ぐんで、こくりとうなずいた。わたしも妻も、それきり語らなかった。語らなくとも、心と心で語り合い、うなずき合っていたのだ」「それは昭和二十六年からペン一本に生活をけ、苦闘二十年を超えて今到達した、ペンの悦びでなくて、なんであろうか」(前掲『ペンの悦び』)と。
 ここには、生活と人生の苦闘の中で、ペン一筋に生きてきた、氏の感慨が語られている。他の人の言はどうであれ、自らの決めた信念の道に生き抜いていくところに、人生の喜びと、幸福がある。
11  また「生きがい」について、氏は次のように述べている。
 「人間六十、七十にもなると、生死のことを真剣に思考するようになるものだ。だが、老境に達した人は、目は前方を見ず、過去か現在に視点をおきがちになる。それでは、明日には″死″か″無″しかない。人間、つねに、目を前方に向けて、何かすべきことを持っていないと、未来が喪失そうしつして、一途(いちず)に老化の道を辿たどることになろう。なんでもよい、生き甲斐を見つけることが大切ではないか。思うに、現実を肯定こうていする最後の拠点は、なにか自分が為すべき仕事をもっていて、それに生きがいを感じることではないのか」「『希望すること、これが幸福なのだ』という、アランの言葉の意味は深い。千度不幸にめぐり会っても、ひとつの希望を失ってはなるまい」(『あすの日は あすの悦び』財界九州社)と。
 私どもが長い人生を生きていくうえでも、折々にかみしめていきたい言葉であるにちがいない。
12  ″足下を掘れ そこに泉あり″
 ここで「国土」と「人間」について、少々、述べておきたい。
 大聖人は南条時光の父・南条兵衛七郎に与えられた御書のなかで、次のように仰せである。
 「国をるべし・国に随つて人の心不定なり、たとへば江南の橘の淮北にうつされて・からたちとなる、心なき草木すらところによる、まして心あらんもの何ぞ所にらざらん」。
 ――国を知らなければならない。国に随って人の心も異なるのである。たとえば揚子江ようすこう南岸のたちばなを、淮河わいがの北岸に移せばからたちとなる。心をもたない草木でさえ、所によって、これほどの影響をうける。ましてや心をもつ人間が、どうして所によって影響をうけないことがあろうか――と。
13  この御文で、譬えとして引かれている「江南の橘、淮北の枳」は中国の故事で「南橘なんきつ北枳ほくき」といわれる。『晏子春秋あんししゅんじゅう』という書には「橘は淮南わいなんに生じれば、すなわちたちばなとなり、淮北に生じればすなわちからたちとなる」とある。つまり、植えられる場所によって草木の性質も変わる。と同じように風土の違いが、人の気質などを左右するというわけである。
 国土、環境が、そこに住む人の気質や生き方を決める一つの要素であることはいうまでもない。しかし、より大切なことは、その環境に負けてしまうか、逆に環境を切り開いていく力をもつかである。そこにも幸福というものへの大切な要因があることを示された御文であるともいえよう。
14  また大聖人は、「御義口伝」で「此人とは法華経の行者なり、法華経を持ち奉る処を当詣道場と云うなりここを去つてかしこに行くには非ざるなり、道場とは十界の衆生の住処を云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野せんごくこうや皆寂光土みなじゃっこうどなり此れを道場と云うなり」と、仰せである。
 これは、「法華経普賢品第二十八」の、末法に法華経を受持し、信行に励む人について「此の人は久しからずして、まさに道場にいて」(開結六七〇㌻)と述べられた文についての御義口伝である。
 「此の人」とは、法華経の行者であり、別しては日蓮大聖人である。総じては三大秘法の南無妙法蓮華経を受持し、実践する人である。そして、この三大秘法の仏法を受持し修行しているその場所こそ、一生成仏に至る「当詣道場」なのである。
 この娑婆世界を去って、極楽浄土等の他土へ行くのではない。道場とは十界の衆生の住処をいうのである。いま、日蓮大聖人およびその門下として南無妙法蓮華経と唱える者の住処は、それが山谷曠野いずこにあっても、すべて「寂光土」すなわち「仏国土」なのである。これを道場といったのである、との仰せである。その人がいる、その場所が「寂光土」になっていく。その「一念」の深さを示唆された御文である。
15  人は往々にして、幸福を観念の彼方に描きがちである。例えば、別の地域に行けば、もっと幸せになれるかもしれない。他の会社に移れば、より豊かな楽しい生活があるかもしれない等々、常に、他に夢をいだき、期待を寄せようとする。若い方々は、なおさらであろう。
 しかし、人それぞれに使命も、生きるべき場所も異なる。自分はここで、この世界に深く根を張ろうと決め、現実と格闘しつつ、日々忍耐強く希望の歩みを運んでいった人が勝利者なのである。心定まらず、浮草のような、さすらいの人生であっては断じてならない。
 ゆえに私は、″足下を掘れ そこに泉あり″″自己自身に生きよ″と申し上げておきたい。
 要するに、幸福という実感も人生の深き満足感も、自分自身の生命の中にある。その根本的″法″が妙法であり、それを自身の大原動力としていけるのが信心である。ゆえに今、信心修行している所が「寂光土」であり、社会が即「寂光土」となるのである。また今生きているところそれ自体を勝利と幸福の国土としていけるのである。
16  基礎工事なき人生は″虚像″
 「大学会」の皆さま方は若いゆえに、一言申し上げたい。それは、青春は夢を追い華やかさにあこがれやすい時代かもしれない。しかし″砂上の楼閣ろうかく″を求めてはならない。今こそ人生の基盤を地道につくり、固める時であると申し上げておきたい。その意味からも仏典の中の次のような説話を紹介しておきたい。
 「あるところに、一人の愚かな富豪がいた。あるとき、彼は他の富豪の屋敷に行って、そこの家が三階建てであるのを見て、その壮麗なのに驚きの目を見張り、自分も急に欲しくなった。
 彼は、家に帰ると、早速、大工を呼んだ。
 『あの富豪の家のような、壮麗な三階建ての建物が出来るか』
 大工の答えは意外であった。
 『あれは、わたしが建てた家です』
 『では、私の屋敷にも、早速、あのような三階建ての家を建ててもらいたい』
 大工は、一も二もなく承知して、とり急ぎ地をぼくして、基礎工事に取り掛かった。ところが、愚かな富豪には、その基礎工事が呑みこめなかった。せっかく、平らな地所を掘り下げて、何をするのだろうか、と疑い惑った結果、大工にたずねた。
 『お前は何をしているのだ』
 大工は、けげんそうな顔をして答えた。
 『三階建ての高殿たかどのを造るのです』
 けれどもこの愚かな男には、この答えが呑み込めなかったと見えてこう言った。
 『わたしは、第三層の高殿が欲しいのだ。下の高殿はらないのだよ』
 大工は、あきれながら、諄々じゅんじゅんと次のような説明を加えた。
 『それは出来ない相談です。第一層を造らずに、二階の部屋を造ることは、出来ません。また、二階の部屋を造らず、三階の部屋を造ることは出来ません。三階建ての家を造るために、その準備をしているのです』
 けれども、彼はなお納得しなかった。そしてこう言い張った。
 『私は、第一、第二は要らない。第三の高殿だけ拵(こしら)えてほしいのだ』――」(仏教説話文学全集刊行会編『仏教説話文学全集5』降文館)と。
17  この説話は、時代を超え、今の若い多くの人達の心の傾向性を鋭く突いたものと私は考える。つまり、家を建てるのも、仕事も、学問も、また人生も、何事も基礎が大切であり、不可欠である。その人生の重要な基礎を築くべき時に、努力もしない、苦労もしない、勉強もしない。それでいながら、早く偉くなりたい。豊かな生活でありたい。華やかな脚光浴びる人生を生きたいと願う。こうした安易な人生の生き方が、いかにむなしく、無意味なものであるかを教えている。
 多くの信心なき青年が、このような傾向になりつつある。若いうちは安易な風潮に流されても、それなりに生きていけるであろう。しかし中年、老年に入った時、苦しみ、嘆き、後悔は必ず大きくなることは間違いない。華やかな虚像に流されれば流される程、真実の実像の幸福は見えなくなるからである。
 ともかく、社会の中を歩む上において、苦難に勝ち得ることなくして、栄光を勝ちとった人はいない。その全ての苦難と苦労が勝利へと展開され、開かれていくのが「妙法」の世界であり、「信心」の力なのである。
18  広布の大理想へ忍耐と持続
 次に、今までの内容とも関連することであるが、ドイツの著名な社会学者であるマックス・ウェーバーは、講演「職業としての政治」のなかで次のように述べている。
 「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくりいていく作業である。もしこの世の中で不可能な事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束おぼつかないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している」(脇圭平訳、岩波文庫)と。
 広宣流布への前進もまさに同じ方程式である。偉大な仕事、偉大な事業は、すべて不可能と思われる事に、粘り強くアタック(精力的に挑戦)することなくして、成し遂げられるものではない。広宣流布の未曽有の発展も、まさに我が同志の、不可能を可能としていく情熱と、粘り強い不屈の実践によって築かれてきたのである。
 マックス・ウェーバーは、政治家は、見えとお金の二つを駆使して、要領よく票を集めてなどとは、決して言っていない。多くの政治家は、ウェーバーの言う逆を行っているとの指摘もあるが、どうだろうか。
 彼はこうも言っている。
 「しかし、これをなしうる人は指導者でなければならない。いや指導者であるだけでなく、――はなはだ素朴な意味での――英雄でなければならない」
 広布のために労を惜しまず活躍している人は、すべて指導者であり、英雄であるといってよい。それはいまだ人が知らざる「妙法」を教えている。そしてだれびともなしえなかった「広宣流布」への修行と指導をしている。また迫害を受けつつ、社会の中、民衆の中に、この「妙法」の根を張りめぐらしながら一生を全うしてきた。その多くの同志の姿を見る時に、まことに立派な信心の指導者であり、英雄であると私は思うのである。
19  さらに彼は「指導者や英雄でない場合でも、人はどんな希望の挫折ざせつにもめげない堅い意志でいますぐ武装する必要がある。そうでないと、いま、可能なことの貫徹もできないであろう」(同前)と述べている。
 私どもにとって「信念」を何によって固めるか、それは「信心」である。人間を磨くことも、生命力を増していくことも、また幸福を確立していくことも、平和を築いていくことも、すべて信心によって可能になる。ゆえに信心によって、我が内なる世界を「武装」してこそ、どんな挫折にもめげない希望の人生を開きゆくことができると私は確信したい。その意味で、妙法と信心こそ、人生を飾る最大の、正義と幸福の武装であると申しあげたい。
20  またマックス・ウェーバーは「自分が世間に対してささげようとするものに比べて、現実の世の中が――自分の立場からみて――どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてくじけない人間。どんな事態に直面しても『それにもかかわらずデンノッホ!』と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への『天職ベルーフ』(同前)を持つ」と講演を結んでいる。マックス・ウェーバーが提示した要件は、政治を志す者だけの心構えと考える必要はない。むしろ、現実に、何らかの大事業に挑戦していく者すべてにとっての条件と捉えてよいといえよう。
 私どもの掲げる「広宣流布」の大理想が、いかに社会の醜い、濁った現実と、かけ離れていたとしても、このウェーバーの言葉は正しいと思う。要するに経文に照らし、広宣流布の大業に、さまざまな苦難は当然である。しかし、何があっても、ウェーバーが言う″それにもかかわらず″との不退の信念と強い確信をもって、自らの道を進んでいくことを忘れてはならない。彼のいう「忍耐」と「持続」こそ、一切を成し遂げていく最大の力だからである。
21  人は表舞台で踊る華やかさに目を奪われ、あこがれるものだ。そして、舞台を作る基礎工事のような、人目につかない所での地道な努力と精進を評価する人は少ない。しかし、仏法の世界にあっては、絶対にそうであってはならない。
 草創の先達の方々は、いかなる労苦をもいとわず、営々と広布の舞台の基礎を築いてくださった。心から感謝申し上げたい。こうした草創の労苦があってこそ、今日の広布のひのき舞台がある。どうか、若き後継の諸君は、草創の同志の尊き労作業への感謝を忘れないでいただきたい。そして、見事に、その偉業の後を継ぎ、二十一世紀の晴れの舞台を、開いていっていただきたいのである。
22  五座三座の勤行の形式
 先日(十一月十二日)の第八回関西総会で仏道修行の基本である「勤行」について少々述べた。そのなかで私は「五座三座という勤行の形式それ自体は御書の記述には残っていない。また、日興上人の記述も残っていない。日寛上人の『当流行事抄』にさえ記されていない。長い伝統の中に自然に今のような形に整っていったようだ」と申し上げた。
 その後、日寛上人の書状の中に「五座三座」の勤行について記述されていることをうかがった。それは享保四年(一七一九年)の「報福原式治状」という加賀の信徒・福原式治に与えられた未公開のお手紙であり、写本が現存している。
 それによると、すでに日寛上人の当時には、「五座三座」の勤行の形態が整えられていたことが明らかにされている。まことに重要な文書であり、ここに紹介させていただく。
 「林氏勤行の次第を尋ねられそうろう。当山行事の次第、初座は十如じゅうにょ寿量諸天供養くよう、二座は十如世雄せおう寿量本尊供養、第三座は十如寿量祖師そし代々、四座は十如寿量祈祷きとう、五座は十如寿量法界ほうかい回向えこうなり。すなわうしの終わりとらはじめの勤行なり。黄昏たそがれは初座十如寿量本尊供養、二座十如寿量祖師代々、三座自我偈三巻法界回向なり。若しえたらん人は本山のごと相勤あいつとむべし。若し爾不しからずんば十如自我偈題目なりとも五座三座の格式相守あいまもるべし。ただし仕官の身公用などの時は乃至ないし題目一遍なりとも右の心むけに相勤むべしと御伝おんつたえ候く候」(原文は漢文)
 ここに改めて先日の話に補足させていただきたいと思う。
23  謙虚な心に人間の輝き
 先程も申し上げたように、学会の内外にわたり、私は、たくさんの人と会ってきた。その中には、理論に大変すぐれた人、また弁舌さわやかな人、話に説得力のある人、博学な人など様々な才能を持つ人も多くいた。たしかに、こうした能力は指導者として備えるべき大切な要件である。
 しかし、知識とか、すぐれた才能だけでは、信心とは別次元であることを知らねばならない。知識は知識の次元、どちらかといえば仏法は智慧の次元であり、知識を生かしていく次元である。ゆえに知識で仏法がわかるものではない。そこに信心の重要性がある。
 どのような世界であれ、一つの道を究めるためには、その道の達人について教えをこい、修行していかねばならない。例えば剣道の次元で言えば、いくら経済理論を知っていても、それが剣道の奥義にそのままつながることはない。剣道の奥義に通じるには、それなりの原理原則があろう。
 ゆえに、一事が万事で、たとえ博学であり、高学歴をもち、社会的地位があっても、信心のことは、信心の深き実践者に学んでいくことが大事となる。我見で信心を推し量ることは最も危険だからである。諸君は信心のあるべき姿だけは失わないでいただきたい。
 退転者に共通することは、我見の人であることだ。また自己中心主義であり、増上慢である。御書に「未だ得ざるをれ得たりとおもい我慢の心充満せん」と仰せの通りである。どうか、深く大いなる自分を築くために、信心だけは、増上慢の心に染まることなく、謙虚に、純粋に貫いていっていただきたい。
24  さて、修利槃特について述べておきたい。
 修利槃特は、バラモン出身で釈尊の弟子である。修利槃特については諸説があり、兄弟二人のうち弟をさす説と、兄弟両方の名前とする説がある。
 また、兄弟のうち、兄は聡明であったが、弟の方は愚鈍であったという説と、兄弟二人とも愚鈍であったとする説がある。
 大聖人は、富木常忍に与えられた「忘事御書」の中で「夫れ槃特尊者は名を忘る此れ閻浮第一の好く忘るる者なり」と仰せになっている。――修利槃特は、自分の名前さえ忘れたというから、これこそ世界第一の物忘れの人である――と。
 また、この御書を、戸田先生は次のように講義されている。
 「槃特尊者というのは釈尊の弟子で、修利・槃特といって二人兄弟であったが、名前を忘れてしまって、どちらかの名前を呼ぶと、二人で返事する。自分の名前を忘れるのだから、忘れる方の豪傑です。だがお釈さんのいうことだけは信じて、仏になったのです」(『戸田城聖全集 第七巻』)と。
 愚鈍であった修利槃特は、釈尊に教えられた短い教えを、ひたすら純粋にたもって修行し、ついには、小乗教の悟りの境地である阿羅漢果あらかんかを得ている。そして法華経にいたって、兄弟ともに普明如来の記別を受け、成仏が約束されるのである。
 また修利槃特に、聡明な兄がいるとする仏典では、二人の出生について、次のように述べられている。
 修利槃特の祖父は王舎城に住む豪商であった。その豪商の娘が父に仕えている下男と恋仲になったが、父の怒りを恐れた娘は、男とともに王舎城を離れ、見知らぬ町で夫婦として暮らすようになった。
 そのうちに妻は身ごもり、臨月を迎えた。妻は、「帰って両親に詫び故郷の家で産ませてもらいたい」と夫に相談する。夫は賛成したものの本心では気が進まず、なかなか出発しなかった。
 夫の様子を見てとった妻は、隣人に伝言を託し、一人で出発した。気が付いた夫はすぐに後を追ったが、ようやく追いついた時、妻はにわかに産気づいて道のかたわらで男の子を産み落とした。生まれてみると、王舎城へ戻る必要もなくなったので、二人は自分たちの家へ引き返した。
 家に帰り着いた二人は、生まれた子供に「マハーパンタカ(摩訶槃特まかはんどく)」と名前をつけた。これは、大きな道で生まれたので″大道″という意味である。その後、彼女はまた妊娠し、同じようなことを繰り返した。この時に生まれた男の子は小さな道で生まれたので″小道″という意味の「チュッラパンタカ(修利槃特)」と名づけられた。
25  話は少々、横道にそれるが、修利槃特の両親が陥った男女関係は、久遠の昔から、よくあるようだ。若い諸君にとって、結婚は第二の人生のスタートであり、人生の幸福を築いていくうえで大事な問題である。その意味でも結婚は、両親をはじめ、周囲の人々から祝福されるスタートであっていただきたいと思う。
 一時の感情に流されて、賢明な判断を欠くと、自らの希望の未来を閉ざしてしまうことになりかねない。また相手の人も、父や母も、多くの関係者も悲しませ、苦しませてしまうことになる。さらには、生まれてくる子供までが苦しむ場合がある。そうであってはならない。前途有望な諸君らの使命は重いがゆえに、一言申し上げておくのである。
26  ところで、摩訶槃特、修利槃特の二人の男の子は無事に成長し、「祖父母に会いたい」と母にせがむようになった。父と母は相談しあった末、故郷へ帰ることに決め、使いを頼んでこのことを王舎城の両親に伝えた。
 これを聞いた両親は、使いの者に手紙を託して返事を伝えてきた。「娘よ、お前たち二人を許すことはできないからそのまま他国で暮らすように。しかし、私たちが育てるので、孫たち二人はこちらへよこすように」と。
 夫婦はこの申し出に従った。このようにして摩訶槃特、修利槃特の兄弟は王舎城の祖父母のもとで育てられることになったのである。
27  次に、修利槃特の出家のいきさつについては、こう説かれている。
 兄の摩訶槃特は、生まれつき非常に賢く、釈尊の教えを聞き、祖父の許しを得て出家した。熱心に修行して阿羅漢の悟りを開くことができたので、摩訶槃特は自分の得た楽しみを弟にも分けてやりたいと思った。そして、祖父の許しを得て、弟の修利槃特を出家させたのである。
 ところが、弟の修利槃特は兄から教えられた短いお経を四カ月かかっても暗唱することができないほど、たいへんな愚鈍であった。
 この修利槃特が生まれつき愚かな理由については、次のようにある。
 彼は前世において非常に賢かった彼が、仏のもとで出家したとき、お経を暗唱できないでいる他の愚かな弟子たちをあざけり笑った。今の世で愚鈍の人となったのはその報いである――と。
 これは、経典の説話であるが、生命の厳しき因果のうえからも、信心の世界においては、同志を侮辱ぶじょくしたり、あざけるようなことは、絶対にあってはならない。
 仏法を信受した人を軽蔑し侮辱すれば、結局は自分自身の心を侮辱し、我が身を破壊するようなものである。始めは事なきようにみえても、最後は、坂をころがり落ちるように、自らの功徳を消し、三悪道・四悪趣の道に入ってしまうのである。
28  また、修利槃特は、三年かかっても経文の一偈も覚えることができなかった。一方、提婆達多は、六万法蔵をそらんじたといわれる秀才であった。今でいえば、小学生と大学院を最優秀で卒業した人と対比できるかもしれない。しかし、修利槃特は、愚直の信心で成仏の境涯を得た。提婆は、仏弟子となりながら、釈尊に師敵対し、地獄へと堕ちている。
 仏法の因果律は、厳しい。学問を身につけ、優秀であればあるほど、謙虚な信心が大切であると申し上げておきたい。
 広布の、一切の未来を担いゆく、若き俊英の諸君である。どこまでも、信心を深め、自身を磨きながら、広宣流布と創価学会の立派な後継者と育ちゆかれんことを心より祈り、念願して、本日の話とさせていただく。

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