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日蓮大聖人・池田大作

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三郷広布三十五周年記念代表者会 人生の機微を知る人たれ

1986.11.24 スピーチ(1986.11〜)(池田大作全集第68巻)

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1  子供の創造性を豊にはぐくむ母に
 三郷みさと広布三十五周年を記念する本日の会合は、決して大きくはないが、誠にさわやかで、埼玉広布史に輝く歴史的な集いであると確信している。先ほどの勤行のさい、皆さまの更賜きょうし寿命、ご健勝とご多幸を厳粛に祈念させていただいた。また、埼玉広布に貢献されて亡くなった、すべての同志の方々の追善をさせていただいた。
 指導者は、どこまでも限りなく指導していかねばならない。歴史に残すべきものは残さねばならない。それが指導者の責務であるからだ。仏法のため、広宣流布のため、とりわけ会員一人一人の方々が、より以上に生き抜く力を増し、より以上に境涯を広げながら信心を深めていく糧になればと思うからである。これらの意義を含めて、本日も少々の時間、話をさせていただく。
2  私はこれまでも折にふれ、雑誌社から依頼され、寄稿してきた。とくに婦人誌には、何回となく執筆を続けてきた。
 というのは、広宣流布といっても、社会に広く納得と共鳴を与えゆく思想運動でなければならないからである。排他的、独善的、また閉鎖的であっては決してならない。その意味からも、仏法から見た人生観、生活観、そして社会観を、出来るだけ分かりやすく述べてきたつもりである。とりわけ婦人の方々は、一家にあって子供を育て、またご主人を陰で支えなくてはならない重要な存在である。そこで私は、特に婦人雑誌に力を入れて執筆させていただいた。
 先日も、二誌の婦人誌の新年号に寄稿した。依頼されたテーマは、一誌が″子育て″の在り方、もう一方は″家族の絆″についてであった。どちらも、まことに身近な問題であり、簡単なテーマにも思える。しかし現代では、それが論議の的となり、社会の深刻な課題となっている。
 ″教育の不毛″や″家庭の崩壊″が叫ばれる現代にあって、″子育て″や″家族の絆″はいかにあるべきか――本日は、執筆した内容にも少々、ふれながら、その一端を述べてみたい。
3  ″子育て″の一つの考え方として、私は、ドイツの文豪ゲーテの少年時代のエピソードを婦人誌で紹介した。
 詩人でもあったゲーテは、八十二歳の長き生涯で、数々の不朽の名作を残している。彼の豊かな創造力の源泉は、どこにあったのか――少年時代の彼のエピソードは、その源泉が、母親との温かくもほほえましい心の触れ合いにあったことを、教えてくれる。
 幼き日のゲーテは、母親エリザベートの話す物語を聞いていると、いつも時間がたつのも忘れそうになった。というのも、母親が、興味をひく楽しい物語を次々とつくり出しては、想像力豊かに話してくれたからだ。
 ゲーテは、物語に熱中するあまり、お気に入りの人物の運命が自分の思い描いた通りにいかない時には、涙を浮かべんばかりに、悔しがったという。そうしたゲーテの心を知っていた母親は、その日のうちに物語を完結させず「この続きは、あすの晩にね」と、翌日の楽しみとした。するとゲーテは、ストーリーの進行をあれこれと自分で想像する。そして、その内容を彼をかわいがっていた祖母にだけ打ち明けるのである。
 翌晩、母親の物語の続きと、ゲーテの想像は、多くの場合、一致した。というのも、母親が、祖母からゲーテの想像した内容をそっと聞き、その通りに物語を創作していたからだ。
 ゲーテは、自分の想像が母親の話と同じになる楽しさに夢中となった。喜びのあまり、小さな心臓がドキドキ波打つほどであったという。幼きゲーテは、母親の語る楽しい″おとぎばなし″とともに、その想像力の翼を伸び伸びと広げていったのである。
 母親のエリザベートは、こうした心の交流を回想し、「私たちの間には、どちらも相手にもらさない秘密の外交工作がおこなわれていました。それで私は聴き手たちの喜び驚くような工合ぐあいにおとぎ噺を聞かせるのがたのしいし、またヴォルフガング(ゲーテの名)のほうは自分がいろいろの不思議な出来事の作者であることをうちあけずに、自分の奇抜なプランが実現してゆくさまをながめて、目をかがやかせ、その話の進むのを手をうって喜ぶのでした」(『ゲーテ対話録 第一巻』お恩俊一訳、白水社)と述べている。
 何と聡明な母親であろう。こうした生き生きとした母と子の心の触れ合いのなかに、ゲーテの創造力を存分にひき出し、限りなく才能の芽をはぐくんでいったに違いない。
4  幼少年期の″心″の広がりほど大切なものはない。この時代に培われた豊かな想像力は、生涯にわたる発想と情操の基盤となり、人間としての″豊かな心″の広がりを決定づけていくからだ。
 しかし、″子育て″といっても特別な論理をこね回す必要はないと思う。何よりも大切なことは、子供が、自由に夢をつむぎ、伸び伸びと想像の翼を広げていけるよう、楽しく、伸びやかな環境を作っていくことである。また、母親自身が、子供達と楽しい「秘密の外交工作」をするような、子供の創造性を豊かにはぐくんでいく存在であらねばならないと私は思っている。
5  めまぐるしい現代では、ゆとりをもって、子供の心を豊かに育てていく親と子の関係を築いていくことは、なかなか思うようにできないかもしれない。
 しかし、皆さま方は大宇宙の根本法である御本尊を受持し、自らの生命を生き生きと蘇生させゆくため、日々唱題を重ねておられる。この唱題の力用は、これから生まれてくるであろう生命にも、妙なる音楽の調べとなり、無限のはぐくみをもたらす確かなる源泉となっている。
 いわんや幼い生命をはぐくんでいく上で、無量無辺の唱題の力用が、我が子のあらゆる可能性と創造性を発動、躍動させゆく妙音となっていくことを確信すべきである。その意味からいえば、お母さんが唱題するその音声は、無限の可能性を秘めた子供たちの生命への、素晴らしき、最高の″生命のおとぎ噺″といってもよいかもしれない。
6  しかし、信心し、唱題しているからといって、そのままでよいわけではない。ささいな日常の生活、行動のなかで、いかに子供の「心」の翼を広げていく手助けができるかと、母親の賢明な知恵で考えるべきである。
 また時には、ゲーテの母の如く、それぞれのお母さんらしい発想で、短くてもよいから、子供に夢を与えていただければと思う。
 ただいつも「早く起きなさい」、「テレビばかりみて。勉強はしたの」、「早く寝なさい」といった、同じ決まり文句だけでは、賢明な子供は創造力を培うことは出来ないであろう。創造力を培うことが大事なのに、反対に創造力を枯らしてはならない。
 天候も、晴れの日もあれば、曇りの日もある。雨の日もあれば、雪の日もある。また秋の菊の香る日もあれば、春の桜のにおう日もある。毎日自然には、何らかの変化があるものだ。と同じように、子供に対しても、いつも曇天の寒い日のような心の対応ばかりであってはならない。
 子供の心は、四季の鮮やかな移り変わりのように多彩である。あらゆるものに敏感に反応し、吸収していく柔軟性に富んでいるものだ。その限りなき未来性をもった子供の心にとって、最大の教育環境は母親である。どうか、母親の皆さまは、明るく聡明に″子育て″に取り組んでいただきたい。
7  ″夫婦の絆″も思いやりの心から
 もう一誌のテーマは″家族の絆″である。なかでも夫婦間の心の機微きびについて、その一端を本日は申し上げたい。
 夏目漱石といえば、近代文学の最高峰に位置する文豪であることは言うまでもない。彼は当時の貴族院書記官長という高官の長女と結婚している。しかし、その結婚生活は必ずしも幸福なものではなかったようだ。
 晩年の小説『道草』は彼の自伝的作品であると言われているが、そこには自らの不幸な結婚生活が色濃く影を落としている。
 漱石の分身である主人公・健三は三十代の大学教師。妻の名はおすみといい、高級官僚の娘である。人々の祝福をうけての結婚であったに違いない。しかし二人は、どうしても、お互いを理解できず、心は、ぎくしゃくと、すれ違ってばかりいる。『道草』は、こうした夫婦の間の藤を、漱石の体験に基づいて描いた名作である。
8  この物語の中に、忘れ難いこんな場面がある。健三が少しでも家計の足しにしようと思って、今でいうアルバイトをする。そこには、妻のやりくりを楽にしてあげたいとの、けなげな心があった。しかし彼が、かせいだ給金を渡したところ「その時細君は別にうれしい顔もしなかった」(新潮文庫。以下、カッコ部分は同文庫から引用)というのである。
 漱石は、この時の二人の心理を次のように書いている。お住は「し夫が優しい言葉にえて、それを渡してくれたなら、きっと嬉しい顔をする事が出来できたろうにと思った」という。一方、健三は「若し細君が嬉しそうにそれを受取ってくれたら優しい言葉も掛けられたろうにと考えた」というのである。
 人間心理の微妙なアヤをついた、さすがに文豪の名にふさわしき鋭い筆のさえであると私は感心した。一事が万事である。互いが、かたくなに相手に期待し要求するだけで、自分をかえりみるゆとりと思いやりがなかったならば、ことあるたびに心のミゾは深まるばかりであろう。
 これは、夫婦の仲だけの問題ではない。家族・親せき、また近隣との交際においても、心に銘ずべき重要な問題である。さらに、組織の同志間においても、多々通じる、大切な方程式といえよう。
9  また、こんなシーンもある。ある日曜のこと、外出したお住の帰宅が遅くなった。健三は夕食を一人ですませ、部屋に引きこもっている。「只今」と言ったきり、「遅くなりましたとも何とも云わない彼女の無愛嬌ぶあいきょうが、彼には気に入らなかった。彼は一寸ちょっと振り向いただけで口をかなかった」と。
 健三の心情も、無理もないといえばいえるかもしれない。ほんの一言、「遅くなりました」と声をかければ夫の心もなごむものを、気位の高さからか、健三との冷淡な関係に心が冷えきっているせいか、簡単な一言が、お住の口からは出ない。健三は、どうしても、そのことが腹にすえかね、黙りこんでしまうのである――。
 帰宅が遅くなった時の心境といえば、身につまされる人も多いかもしれない。特に、お酒の好きな壮年の皆さまとか。どうやって、ごまかそうかと、胸はドキドキ、そのくせ聡明な夫人の皆さまに、すぐに見破られる。いさぎよく「ただ今! 遅くなってすまない。寂しかったかい」と一言でも声をかければ、奥さまの方でも、そう悪く対応できないのではないかと思う。ともあれ、真心のこもった率直な「一言」の重みは大きい。
 また婦人部の皆さま方が、活動等で少々、予定よりも遅くなる場合もあろう。そうした時の礼儀正しい帰宅のあいさつが、どれほど大切であるかを銘記していただきたい。
10  さて小説では、健三が黙りこんでしまったあと、続けて、こう記されている。「するとそれが又細君の心に暗い影を投げる媒介なかだちとなった。細君もそのまま立って茶の間の方へ行ってしまった。話をする機会はそれぎり二人の間に絶えた」と。
 口をきかない夫の態度が、妻の心を暗くし、二人の仲をますます冷淡なものにしてしまった。もとはといえば、妻がほんの一言、心からの素直な言葉を言えなかったのが発端である。小さなことといえば、本当に小さなことかもしれない。しかし、その小さなことが、現実を動かす″大事″である場合が往々にしてあるものだ。
 人の心は、想像以上に繊細せんさいなものである。あたかも小さなギアが幾つもかみ合って回転しているように、微妙にして小さな心理の動きが一瞬一瞬、重なり合って動いている。
 ゆえに、人情のこまやかな機微を、おろそかにしてはならない。とくに大ぜいの人と接するリーダーは、決してこの点を忘れてはならない。一流の指導者であればあるほど、そうした人心の妙に通じているものだ。私は、多くの世界の指導者にあったが、なかでも、政治家でいえば、中国の故周恩来総理が、そういう指導者であったような感じをうけた。
 指導においても、相手の心理を軽視した一方的なものであってはならない。ひとりよがりや、いばった態度など、いささかもあってはならないのは当然である。
 あらゆる面で、人生の機微に精通した、教養と人間性豊かな指導者に育っていただきたい。そうした鋭敏にして、温かい、こまやかな配慮のできるリーダーが増えれば増えるほど、より多くの人々が安心し、納得して仏道修行に励むことができるからである。また現在の十倍、百倍と、社会の人々の心に仏法への共感の波が浸透していくことも間違いないと確信する。
11  また、ある時、健三は自分の気持ちを妻に、こうぶっつける。
 「おれは決してお前の考えているような冷酷な人間じゃない。ただ自分のもっている温かい情愛をせき止めて、外へ出られないように仕向けるから、仕方なしにそうするのだ」と。
 妻は、だれもそんな意地悪をする人はいないという。しかし、常に、そんな意地悪をされていると感じている健三は、自分の考えが妻に、まるで通じていないことを知る。「どうしてもっと穏当に私を観察してくださらないのでしょう」という妻。健三には、妻の言葉に耳を傾ける余裕もなく、妻の不自然な冷ややかさに、腹立たしいほどの苦痛を感じていた。
 そして、漱石は次のように記している。「二人は互いに徹底するまで話し合う事のついにできない男女のような気がした。従って二人とも現在の自分を改める必要を感じ得なかった」と。
 この作品は、人間の宿命的ともいえる生命の動き、夫婦のすれ違いの心というものを通して、生命の実相の一分を、実に巧みに表現しているといえまいか。漱石の文学的力量はさすがだと私はつねづね思っている。
 戸田先生はよく″読むなら、一流の本を読め″と、青年達に言われていたが、すぐれた書物は、人間の心を、そして人生を、より豊かにしてくれるものだ。
12  漱石の描いた健三夫婦の関係をみても、どうしようもない心のすれ違いが、二人を修復しがたい仲へと導いていく。私どもの現実の生活においても″心のすれ違い″が、さまざまな、いがみあいや不幸な関係をもたらす場合が多い。心に余裕をもち、虚心坦懐きょしんたんかいに相手の立場や状況を知っていけば、無価値な、起こらなくてもよい″いがみあい″は、ずっと少なくなるに違いない。
 信心の世界でも、夫が入信しないとか、親族や友人が無理解であるといった場合にも、意外と、こうした心のすれ違いが原因となっていることが多いのではないかと心配する。こちら側の一方的な考え、論理の押し付けではなく、相手の立場や考えを、よく認識したうえでの、言動の対応を忘れてはならないと重ねて申し上げておきたい。
 また『道草』で「二人とも現在の自分を改める必要を感じ得なかった」とあったが、作品を通して、二人の「業」というか、自分自身を見つめることのできない宿命的な生命の傾向性を感ぜざるをえない。「宿命転換」「人間革命」のできない人生は、結局は、宿命の波にほんろうされてしまう。ここに宿命転換の大法を受持し、現実に人間革命の道を歩むことのできる私どもの幸せを、しみじみと感じるのである。
13  ところで、イギリスの警句に「結婚前には両目を大きく開いて見よ。結婚してからは片目を閉じよ」とある。皆さまもご存じと思うが、これは、結婚前には相手の欠点を見逃さないようによく注意を払い、結婚後は少々の欠点、あらには目をつむる方がよい、というのである。
 日蓮大聖人は四条金吾に与えられた御抄で「とがありとも・せうせうの失をば・しらぬやうにてあるべし」と、おっしゃっておられる。
 いつもいつも欠点をとりあげてせめられたのでは、それが正しいと分かっていてもいやになるものだ。ここにも、そうした経験をもたれたご夫婦もいらっしゃるかもしれない。少々の欠点や誤りは大きな心で包み込んでいくことも、夫婦関係や人間関係を潤いのあるものにする人生の知恵であろう。どうか、欠点をせめるというより、長所を認め、たたえていくという、心豊かな励ましあいの姿であっていただきたい。
14  こまやかな慈愛の心で励ましを
 ここで富木常忍夫妻に対し、日蓮大聖人がどれほどか、この夫妻にこまやかな慈愛の心を注がれておられたかを話しておきたい。
 富木常忍は建治二年三月、亡くなった母の遺骨を胸にいだいて、身延の大聖人のもとに参詣している。その折、富木常忍は、所持の法華経を身延に置き忘れて帰る。大聖人は、この法華経を弟子に持たせて届けられたというエピソードがある。そのことについては「忘持経事」にお認めであり、大聖人は「今常忍上人は持経を忘る日本第一の好く忘るるの仁か」と仰せられている。
 さて、身延で大聖人にお会いした富木常忍は、妻が病気であることを御報告する。夫人の尼御前は、常忍の母を献身的に、手厚く看護しつづけてきた。したがって、夫人の病は、看病疲れによるところもあったかもしれない。
 そのの様子を聞かれた大聖人は、直ちに尼御前にあてて御手紙をしたためられる。それが「富木尼御前御返事」である。この御書は、冒頭に、夫と妻の在り方を、と弓のたとえを引かれて、お述べになっているところから「弓箭きゅうせん御書」ともいわれている。
 この御書に、次のように仰せである。
 「のはしる事は弓のちから・くものゆくことはりうのちから、をとこのしわざはのちからなり、いまときどの富木殿のこれへ御わたりある事尼ごぜんの御力なり、けぶりをみれば火をみるあめをみればりうをみる、をとこをみればをみる、今ときどのにけさん見参つかまつれば尼ごぜんをみたてまつるとをぼう
 ――(矢)が飛ぶのは弓の力により、雲のゆくのは竜の力である。夫の所業は妻の力による。今、富木殿がこの身延の山へ来られたのは、尼御前のお力による。煙を見れば火を知る。雨を見れば竜を知り、夫を見れば妻をみる。今、富木殿にお会いしていると、尼御前にお会いしているように思われる――と。
 さらに大聖人は、こうお述べになっている。
 「ときどの富木殿の御物がたり候ははわのなげきのなかにりんずう臨終のよくをはせしと尼がよくあたりかんびやう看病せし事のうれしさいつのよにわするべしともをぼえずと・よろこばれ候なり
 ――富木殿のお話では、このたび母上が逝去したことは悲しいが、その臨終の姿がよかったことと、尼御前が手厚く看病してくれたことのうれしさは、いつの世までも忘れられない、と大変に喜んでおられましたよ――大聖人は、このように尼御前に仰せになっている。
15  なぜ大聖人が、富木常忍の妻への感謝の気持ちを、お手紙に認められたのか。
 おそらく、常忍は、妻が母を手厚く看病してくれたことに、心のなかでは深く感謝しつつも、尼御前に、その気持ちを率直に語り、伝えることができずにいたのではないかと思われる。
 男であり、武士であるとの自負心が、感謝の言葉を述べることを思いとどまらせていたのかもしれない。男には、そうした感情があることも事実である。また、常忍の性格のゆえであったかもしれない。
 ともあれ、大聖人は、そうした事情を察知されたうえで、常忍に代わって、その感謝の心、愛情を尼御前へのお手紙にしたためられたと拝されるのである。
 ここに、尼御前の心を引き立て、夫妻の愛情がいっそう深まるよう配慮される、大聖人の御慈愛、こまやかな御心遣いが、私には強く感じられてならない。まことにありがたい、御本仏の大慈大悲であられる。
 私どもも、後輩や同志への激励にあたっては、どこまでも慈愛深く、こまやかな心の機微をわきまえていきたいものである。また、そのような広布の指導者に成長していかれるよう念願してやまない。
16  以上で、この意義深い会合での私の話とさせていただくが、本日、お会いできなかった同志の方々、またご家族の方々に、くれぐれもよろしくお伝えいただきたい。
 埼玉は、かつては想像だにもできないほどの、大きな広布の発展を遂げてくださった。御本尊の御称賛、また、三世十方の諸仏、諸天善神の御加護も、いかに大きいかと私は確信してやまない。また、皆さま方もそれを深く確信され、新たな広布の歩みを開始されんことを、心よりお願い申し上げる次第である。

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