Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

全国総県長会議 我らの世紀へ人間の共和国

2000.10.6 メッセージ集(池田大作全集第67巻)

前後
1  総県長会議、大変にご苦労さまです。
 昨日の本部幹部会をもって、創価学会は二〇〇一年「新世紀完勝の年」へ、希望に燃えて、果敢なるスタートを切ることができました。きょうは、広宣流布の大将軍の皆さま方が、心を合わせ、呼吸を合わせながら、「勝利を決しゆく」会議をお願いします。
 全員が、「広宣流布の諸葛孔明」になってください。
 大聖人は、「撰時抄」に、「日蓮が法華経を信じて題目を唱え始めたことは、日本の国にとっては、一つのしずく、一つの微塵のようなものである。やがて二人、三人、十人、百千万億人と、法華経の題目を唱え伝えていくほどならば、(最高の悟りである)妙覚の須弥山ともなり、大涅槃という悟りの大海ともなるであろう。仏になる道は、これよりほかに、また求めてはならない」(御書288㌻、通解)と仰せであります。
 「広宣流布」――この根本を忘れたら、もはや日蓮大聖人の仏法ではない。
 広宣流布の拡大のために祈る。広宣流布の前進のために戦う。そこに、仏になる道がある。皆が無量無辺の功徳に包まれるのであります。
 「創価の太陽」たる皆さま方に、つつしんでメッセージを贈らせていただきます。
2  活字文化を復興を
 全国各地で、聖教新聞の拡大が進んでいます。皆さまの尊いご健闘を、私は心からたたえ、ねぎらいたい。「日本中の人に、聖教新聞を読ませたい!」と言われていた戸田先生も、この広がりを喜んでおられるに違いありません。
 また、各地の書店で、世界の知性と私の対談集などの「ブックフェア」を開催していただいており、ご関係の皆さま方に心から感謝申し上げます。
 二十一世紀へ、真実の「活字文化」の復興を!――これが、私たちの大きな願いであります。
 人間は、「良き活字」に触れてこそ、深い思索ができるし、頭脳も鍛えられる。読めば、愚かにならない。だまされない。テレビなどの映像だけでは、どうしても受け身である。刹那的になり、衝動に駆られやすくなってしまう面も指摘されています。
 良書をはじめとする「正しい活字文化」が衰弱すれば、人間が人間らしく行動しゆくための、精神の泉は枯れ果ててしまいます。
 私が、ともに対談集を出した、文豪アイトマートフ氏も語っておられました。
 「本は『人類の未来』です。人類は本を『文化の宝箱』として、未来へ持っていけるのか。それとも『本の文化』をあきらめて、低俗なものが、はびこるにまかせるしかないのか――。その岐路に立っていると思います」
 そして言われました。
 「聖教新聞は、きわめて高い文化的な内容です。それが、ずうっと発刊され続け、何百万という方々が読んでいる。これは、大変なことです」「創価学会の運動が、なんとか『文字文化』を救ってほしいと思います」と。
3  リーダーは謙虚に良書に学べ
 近年、青少年の活字離れは深刻です。最近の学校読書調査によれば、「一カ月の間に本を一冊も読まない高校生」が、六二・三%もいるといいます。
 私も、その高校生に向けて、読みやすく、少しでも力になる本をと願い、『青春対話』を発刊しました。(本全集第64巻収録)
 また創価学会として、離島などの小学校・中学校に図書贈呈も行わせていただいております。
 現在、各地の書店等の方々も、さまざまに工夫され、子どもたちを良書に親しませていこうと読書の啓発を進めておられます。地道な尊いご貢献に、私は心から敬意を表します。
 子どもたちを“本好き”にしていくことは、いじめや非行などを減少させるうえでも、大変、大きな効果があるといわれます。
 ともあれ、まず、大人が本を読み、学んでいくことです。その姿を、子どもたちに見せていく。なかんずく指導層が、その模範を示していかねばなりません。
 日本を代表する中国文学者・白川静先生も、回想録で、こう語っておられます。
 「私は若いときに政治家の家にいまして、先生が東京へ行かれてしまうと仕事がないから、議会関係の記録、演壇で議員が演説したものですが、そういうのをよく読んでいた。すると格調があるんですね。今の議員さんにはまったくそれがない。言葉に真剣なピシッとした感じがなくて、なまくら(=切れ味の悪い刃物)を振り回しているみたいで、語感が違う」
 「やっぱり書物は読まないかん。主なものは覚えるくらい読まんといかん。政治家だって昔は『貞観政要』や『名臣言行録』を読んでおった。だから無学な者は出てこない」(『回思九十年』平凡社)
4  仏法は、増上慢を厳しく戒めています。増上の法(すぐれた法)などを、いまだ得ていないのに得たと思うのが増上慢であります。なかんずく、リーダーになればなるほど、謙虚に、真摯に、「求道の心」を燃え上がらせていかねばなりません。そうでなければ、あとに続く後輩たちが伸びない。指導者が、境涯を大きくした分だけ、大きな人材の広がりができるのです。
 牧口先生は、日本の軍部権力に弾圧されても、悠々と、獄中で学び続けておられました。「青年時代からあこがれていた本が読めるので、かえって幸いである」「独房で、思索ができて、かえってよい」と。
 戸田先生も、青年に対して厳しく言われました。「くだらない雑誌なんか読んで、面白がっているようで、どうする。三流、四流の人間になるのか。長編を読め。古典を読め。今、読んでおかないと、人格はできない。本当の指導者にはなれない」と。
 戸田先生は、「良書」と「悪書」の見極めについて、それはそれは厳格でありました。先生は、十九世紀のドイツの大哲学者ショーペンハウエルの箴言を引かれたことがあります。
 「悪書は精神の毒薬であり、精神に破滅をもたらす。良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである」(『読書について』斎藤忍随訳、岩波文庫)
 ショーペンハウエルは、ヨーロッパで、いち早く仏教を受容した知性としても知られています。
5  かつて、ソクラテスに加えられた、いわれなき侮辱に対して、弟子たちは、憤然と反撃しました。わが師匠の偉大さを、弟子は語りに語り、綴りに綴り、宣揚していった。
 ある弟子(クセノフォン)は、師匠ソクラテスが良き「読書の人」であったことを、誇りを込めて伝えています。すなわち、ソクラテスは、いにしえの賢人たちの書き残した宝をひもといて、皆とともに読み合った。その書物のなかに、何か良いことを見つければ、それを抜粋して学び合い、互いに役立てていったというのであります。(クセノフォーン『ソークラーテスの思い出』佐々木理訳、岩波文庫、参照)
 独善でも、傲慢でも、ドグマでもない。謙虚に、柔軟に、開かれた心で、生き生きと、自他ともに学び続ける。これが、皆を大指導者の道へ導いていく「人類の教師」の実像の一端でありました。私には、戸田先生が世界の文学を教材として青年を薫陶していかれた姿と二重写しに思えてなりません。
6  このほど、平和学者・テヘラニアン博士と私との対談集(『二十一世紀への選択』潮出版社、本全集第108巻収録)が完成しましたが、その英語版に、有名な仏教学者のチャペル教授が素晴らしい序文を寄せてくださいました。
 「両者(=テヘラニアン博士と名誉会長)の探求心は、対話が文明の存続と繁栄のための最も優れた確かな希望であることを示しています。さらに個人に即して言えば、家庭で、近隣で、職場で、そして、それぞれの世界で、人間同士の協力と平和のための、最も強く、最も安全な道として、われわれ一人ひとりが『対話』を選択することを、両者は啓発しているのです」と。
 深い、また温かいご理解に心から感謝したい。
 心を豊かに耕す「活字の文化」は、「対話の文化」の土台となり、さらに、それは「友情の文化」へ、「平和の文化」へと連動し、発展していくことでしょう。
 かのルネサンスも、一面は「文字の文化」の復興でありました。
 創価学会は、その名の通り「学ぶ会」です。「価値を創造する会」であります。若々しい「求道の眼」を研ぎ澄まし、明年創刊五十周年を迎える人間主義の機関紙「聖教新聞」を掲げながら、活字文化の復興へ、さらに尽力してまいりたい。そして、「二十一世紀のルネサンス」へ、「地球文明の開花」へ、いよいよ「創造の光」を輝かせてまいりたい。
7  妙法は「生死ともに仏」の幸福哲学
 いかなる人も、「生老病死」を避けることはできません。また、いかなる伴侶も、いかなる家族も、「愛別離苦(愛する者と別れる苦しみ)」を免れることはできません。
 この人生の根源的な苦悩と悲哀を、いかに打開していくか――。「生死」の解決こそ、二十一世紀の人類が、本格的に探究していくべき最重要の課題であります。
 日蓮大聖人は、夫に若くして先立たれながらも、多くの子どもたちを立派に育てあげている、けなげな婦人(南条時光の母親)に対して、心のひだに分け入るように温かく励ましておられます。
 「(夫の上野殿は)きっと霊山浄土で、この娑婆世界のことを、昼も夜も見聞きしておられることでしょう。妻子等は肉眼なので、(その姿を)見たり聞いたりできないのです。しかし、ついには同じ場所で、また会えるとお思いなさい」(御書1504㌻、通解)
 「(ご主人は)生きておられたときは生の仏、今は死の仏、生死ともに仏です。即身成仏という大事な法門は、これなのです」(同㌻)
 大聖人は、「生死不二」の大哲理を、一人の母に語りかけていかれました。
 同苦と励まし――それが仏法者の根本であります。
 さらに、大聖人は仰せであります。
 「そもそも浄土というのも地獄というのも、どこかほかにあるわけではありません。ただ私たちの胸の中にあるのです。これを悟るのを仏といい、これに迷うのを凡夫といいます。これを悟ることができるのは法華経です。ですから、法華経(御本尊)を受持申し上げる人は、地獄即寂光土と悟ることができるのです」(同㌻)
 どんなに深い悲しみの闇に包まれても、妙法とともに生き抜くかぎり、わが生命の奥底から、尊極の“希望の太陽”が必ず昇りゆく。
 ゆえに、何があろうとも、どこに行こうとも、絶対に負けない。今いる、その場所を寂光土に変えていける。この究極の「幸福の哲学」を、私たちは、あの地にも、この地にも、生き生きと語り、広げてまいりたい。
8  「汝の力で目覚めよ!」「汝の力で立ち上がれ!」
 現在、ニュージーランドの同志が研修で来日しておられます。ニュージーランドは、世界でいち早く、女性が参政権を勝ち取った国としても名高い(1893年)。
 ニュージーランドの高名な作家であり、女性運動家であったベイン女史(1848年~1944年)の詩を、ここで紹介したい。
 「私は、一つの真理を、はっきりと、見極める。
 私たちは、皆、互いにつながっているということを。
 命の底で、それを知っているから
 私たちは、平静にして、堅固でいることができる」
 「あなたという不思議
 私という不思議
 それは、絶え間なき変化を繰り返し
 多様性の統一の中で
 宇宙大の広がりをもつのだ!」
 「汝の力に目覚めよ!
 汝の力で立ち上がれ!
 人類の偉大なる魂よ!」
 「我々には
 幸福への橋を架けるための
 手段もある、力もある、技能もある!
 そして、わが友よ!
 我々は、必ずやってみせるのだ!」
 「今こそ人間の旗を掲げるのだ」
 「同志よ、静かに、気高く偉大に!
 行動せよ!
 共に行動せよ!
 人間の共和国を建設するのだ、この我らの世紀に!」
9  一人ひとりが、はかり知れない生命の力を秘めています。一人ひとりが、限りない友情を広げていける。それを最高に開花させゆく“起爆剤”を分かち与えていくのが、リーダーと言えましょう。
 「声仏事を為す」であるゆえに、「声」を出して、皆をほめたたえ、徹底して励ましていく。こまやかに気を配り、心を使いながら、皆に「新しい希望」「新しい刺激」「新しい喜び」を送っていくことです。友を思う慈悲が声となってこそ、皆の心に響いていくのです。
 なかんずく、二十一世紀の焦点は、青年部であります。さらに本格的に、青年部に光を当て、青年部が、思う存分、伸び伸びと、力を発揮できるよう、さまざまに手を打ってまいりたい。
 新たな「人材の核」をつくり、その核を固めていく。そこから、新鮮な活力と息吹は、みなぎっていくものであります。
 ともあれ、仏法の眼で見れば、それぞれの地域、それぞれの国土が、かけがえのない意義をもっています。どうか、各県、各区にあって、ありとあらゆる次元から、人間と人間の共感を結び、理解と信頼を広げていただきたい。そこに、人類が夢見てきた、二十一世紀の「人間共和」の建設があるからであります。
 一生懸命、努力をした分だけ、波動は広がる。一生懸命、戦い続けたところが、勝利する。
 「撰時抄」には、「法華経を経のごとくに持つ人は梵王にもすぐれ帝釈にもこえたり」と仰せであります。
 この大確信で、確固たる名指揮をとっていただきたい。
10  終わりに、これまでも何度も拝してきた御聖訓ですが、有名な「諸法実相抄」の一節を、ともどもに拝したい。
 「いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし、日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」
 「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり、日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし、ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし
 どうか、お帰りになられましたら、大切な大切な全同志に、くれぐれも、よろしくお伝えください。
 同志の皆さまのご健康と幸福とご長寿が、私にとっては、一番、大事です。真剣に、お題目を送り続けております。
 季節の変わり目ですので、どうか、風邪を引かれませんように。
 来月、「創立の月」に、また晴れ晴れとお会いしましょう!
 (創価文化会館)

1
1