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日蓮大聖人・池田大作

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3.16記念関西男子部幹部会 歴史を創れ! 青年ならば

2000.31.2 メッセージ集(池田大作全集第67巻)

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1  私が最も期待し、信頼する関西男子部の諸君! 威風堂々たる幹部会、おめでとう!
 愛する諸君であるゆえに、私はあえて厳しく申し上げたい。「青年ならば『歴史』を創りなさい。『彼がいなければ、到底できなかった』と後世からも称えられ、仰ぎ見られるような『歴史』を残してこそ、青年である」と。
 「革命は決死の心でなければできない。決死の覚悟でなければできない」とは、戸田先生が私たちに遺言された言葉であります。
 男は「火の玉」のような情熱がなければならない。ひとりで関西中、日本中を駆けめぐるくらいの勢いがなければならない。
 青年は「どこまで深く、大きいのかわからない」という人物であっていただきたい。「彼がいれば必ず勝てる」と、民衆から絶大の信頼を得る青年であっていただきたい。
2  私は先日、沖縄で、核兵器と戦う闘士、ロートブラット博士とお会いしました。
 博士は九十一歳。年はとっても「私は決して『疲れた』とは言わない」と言いきっておられた。本当に偉大です。永遠の青年です。(=2005年8月、96歳で逝去)
 博士が指導するパグウォッシュ会議では、かつてこう宣言しております。
 「悪魔が栄えるために必要なことは、ただ一つ、『善良な人々が何もしない』ということだけだ」(第十七回会議)
 今も、権力の魔性が栄えている! 聖職者の魔性が栄えている! ゆえに断じて戦わなければならない。叫ばなければならない。倒さなければならない。「何もしない」のは、結果として「悪魔の味方」になることです。
3  常勝関西に魂の源流
 諸君がご存じの通り、私は青春時代、関西の地で、不滅の歴史を築きました。
 その勝因は、何だったのか? 人々が「まさか」と驚くほどの勝利が、どこから生まれたのか?
 それは、「一番苦しんでいる人」「一番悲しんでいる人」「一番貧しい人」のもとへ、真っ先に駆けつけて、全魂で励まし、祈り、希望の火を灯し、最大の味方になって連帯したからであります。戸田先生が「関西から、病人と貧乏人をなくしてみせる」と言われた心を心として、まっすぐに、その通りに戦ったからであります。
 その結果、世間からは「貧乏人と病人の集まり」と蔑まれた。しかし、世間の目から見て「最低」であっても、一体、だれがこの尊き「妙法」を広めたのか。その「貧しき人々」であります。諸君のお父さん、お母さん、おじいさん、おばあさんです。その人たちが、「尊い仏のお使い」をしていたのであります。すなわち広宣流布をしたのです。
 世間がどう見ようと、仏の目から見れば「最高」の人間なのであります。「無上道」の人生なのであります。この一点を断じて忘れてはならない。この一点に創価学会の魂があるからです。関西の「人間共和」の強さがあるからです。
 一番偉い人とは、だれか。民衆を救った人です。一番大事なのは「民衆」だからです。その民衆を幸福にした人が、一番偉大なのです。私の誇りも、どんな世界的栄誉よりも、ただ「広宣流布のために、私は一番苦労してきた」と言いきれる事実の歴史です。
 日蓮大聖人は、「彼の天台の座主よりも南無妙法蓮華経と唱うる癩人とはなるべし」と仰せであります。
 「最高の地位」と考えられていた天台宗の法主よりも、当時は「不治の病」とされた病気の人であっても、妙法を唱える人のほうが尊いのだという人間宣言であります。
 大聖人のこの御心の通りに、民衆を尊敬し、学会の同志を尊敬し、同志を大切にしてきたからこそ、勝ったのです。「民衆仏法」という大聖人の御心に感応したのです。
4  二十一世紀の「民衆愛の指導者」たれ
 私は「潮」の五月号から対談「世界の文学を語る」を開始します。その第一章は「ヴィクトル・ユゴー」をはじめフランス文学の予定です。(=対談は『世界の文学を語る』と題し、2001年11月、潮出版社から発刊)
 ユゴーの小説『レ・ミゼラブル』の中で、パリの共和主義者が蜂起する場面があります。権力との戦いで、市街戦になり、バリケードが築かれる。しかし、戦況は、決してよくない。どんどん軍隊がやってくる。ほかの敵も押し寄せて来る。(辻昶訳、潮出版社、以下同書より引用・参照)
 市民のために立ち上がった彼らに対して、その市民さえも冷たい。彼らの味方は、だれもいない。希望もない。「われわれは見すてられたんだ」。そんな発言が出て、みんながシーンとしてしまう。
 そのときである。ある男が叫んだ。「みんなここに頑張ろう。市民諸君、屍となって抵抗しよう。民衆のほうでは共和主義者を見すてても、共和主義者は民衆を見捨てないことを、見せてやろう」
 この一言で、全員の不安がふっ飛んでしまった。熱烈な喝采が続いた。それを叫んだ男の名前は、永遠に分からない。無名の庶民だった。
 そして、パリの青年たちは「援軍が来ようと来まいとかまうものか!」と再び立ち上がるのであります。「最後の一人になるまで戦うだけだ!」――と。
 創価学会の強さも、状況がどうであろうと、「民衆の味方」に徹してきたところにあります。
 「3・16」の記念の日、戸田先生は「創価学会は宗教界の王者なり」と叫ばれた。
 「王者」について大聖人は、「王は民を親とし」と教えておられます。民衆を「わが親」として大事に仕えていく指導者こそ、真実の「王者」なのであります。
 諸君は「二十一世紀の指導者」です。指導者とは「一番、民衆を愛する人間」でなければならない。人を愛した分だけ、人が集まる。民衆を大事にした分だけ、民衆が大事にしてくれる。これが鉄則です。民衆への慈愛がない人間が指導者になったら、どれほど不幸か。
 『レ・ミゼラブル』では、生まれ変わったジャンバルジャンが「マドレーヌ市長」として活躍する。彼の工場も、市も大発展する。しかし、彼がいなくなった後は、どうなったか。
 「彼がいなくなったことは、『魂がぬけた』ことだった」「あらゆるものが大きさをなくし小さくなった。なにもかも、よいことをしようとしてではなく、金もうけのためにやられるようになった」「だれもかれもが私利にはしった。闘争心が組織の精神にとってかわり、とげとげしさが真心に、憎みあう気持ちがみんなのためを思ったあの創立者の好意にとってかわった。マドレーヌ氏が結びあわせた何本もの糸がもつれて、ぷっつり切れたしまったのだ」
 重大な教訓であります。指導者で決まるのです。インドでも、中国でも、仏教が衰退したのは、民衆という大地から遊離してしまったときであります。
 偉大な男性ほど、その慈愛もまた深いものです。学歴ではない。社会の地位でもない。財産でもなければ、役職でもない。あらゆる虚飾を、かなぐり捨てなければ、本当の人間の力など出るわけがない。ただ赤裸々な「人間」としての情熱、誠実、知恵と勇気が、「人間」そのものである民衆の心をつかむのです。
 その意味で「関西にこそ、本当の創価学会がある。本当の関西が発展してこそ、民衆の平和も幸福もある」と申し上げておきたい。関西に、永遠に崩れない「民衆の都」を築いていただきたい。
 日本と世界を、どこまでもどこまでも引っ張っていっていただきたい。
 歴史をつくるには、号令ではつくれません。先頭切って「自分がやる」しかない。自分が苦しむことです。自分が祈ることです。自分が動くことです。
 フランスの歴史家・ミシュレは言っております。
 「生命は生命と出会うと輝き出て磁気を帯びるが、孤立すれば消え入ってしまう。生命は自らとは異なった生命とまじりあえばまじりあうほど、他の存在との連帯を増し、力と幸福と豊かさを加えて生きるようになる」(『民衆』大野一道訳、みすず書房)
 自分が人と会うことです。組織活動こそが、自分の生命を輝かせるのです。
 「英雄」とは、だれのことか? 「自分にできるすべて」を実行した人間こそが、英雄なのです!
5  毅然と前へ! 覚悟の心で!
 ユゴーの小説『九十三年』。青年ゴーヴァンは断頭台に上る直前、「なにを考えているんだね?」と聞かれて、答えます。瞳を、きらきらさせて、ただ一言。「未来のことを」と。(榊原晃三訳、潮出版社)
 死を前にしての、この晴れ晴れとした心境! 最後の最後の瞬間まで、「未来」を思い、「未来」のために、「未来」に向かって、前を毅然と見つめながら死んでいく。これが青年の魂であります。
 諸君には高貴なる「使命」がある。ゆえに、人のできない偉業にも参加できるし、人のしない苦労もあるわけであります。ゆえに最後に、『九十三年』の言葉を諸君に贈って、祝福のメッセージの結びといたします。
 「大きな苦しみは魂をとてつもなく大きなものにする」(同前)
 新しき歴史の出発の幹部会、おめでとう!
 二〇〇〇年「二十一世紀開幕 青年の年」三月十二日

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