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日蓮大聖人・池田大作

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東京・墨田区大勝利総会 妙法で栄えゆけ 庶民の王国

1998.12.13 メッセージ集(池田大作全集第67巻)

前後
1  墨田の同志の皆さま方、お久しぶりでございます。
 晴れやかな大勝利の総会、本当におめでとうございます!
 この一年も、わが「墨田創価学会」は、「すべてに第一」で、堂々と戦い抜いてくださった。懐かしい「宝寿会」の、あの友、この友が、お元気に活躍されていることも、全部うかがっております。墨田の「庶民の王国」「人間の都」が、にぎやかに、仲良く、栄えゆく限り、わが創価学会は盤石であります。
 このたび、精神の大国・インドの最大の総合大学である「デリー大学」から、創立七十五周年の記念として、栄えある「名誉文学博士」の学位を授与していただくことになりました。
 きょう、その式典が、ニューデリーで行われる運びとなっております。この栄誉を、私は、常に苦楽をともにしてきた墨田のわが友に、「墨田の日」(十二月十一日)二十五周年のお祝いとして、謹んで伝えさせていただきたい。
2  「聖戦」とは「民衆を守りゆく戦い」
 墨田は、戸田先生が第二代会長として獅子吼を始められた天地である。
 (=戸田第二代会長の就任の式〈1951年=昭和26年〉も、池田第三代会長の就任式〈1960年=同35年〉も墨田の地で行われた)
 きょう、戸田先生の殿堂(東京戸田記念講堂)に集われた皆さまに、先生の知られざる逸話を紹介したい。どれほど創価学会の先師が偉大であったか――。(以下、島村喬『日蓮とその弟子たち』〈波書房〉から引用・参照)
 1941年(昭和16年)か42年というから、太平洋戦争の開戦の前後である。ある関東軍の軍人が、新潟で大陸行きの船を待っていた。しかし、嵐で船が出ない。旅館でひとり退屈していたら、「一緒におのみになりませんか」と声をかけてきた人がいる。
 長身で、和服姿。厚いメガネのその人を、軍人は「どこかの大学の先生かな」と思った。それが、所用で来ていた戸田先生であった。当時、「創価教育学会」の理事長。たくさんの事業も手がけて多忙であった。
 二人の話は、日本軍の戦いに及んだ。当時、日本の中国侵略は、「聖戦」と呼ばれていた。しかし、戸田先生は語った。
 「それは、中国にとってもいえることじゃないのですか? 日本の対支作戦(=中国に対する作戦)のみが聖戦で中国の対日作戦がそうではないとする論理は成り立たない。そうでしょう? あそこには四億の民がくらしているんですよ。その人たちの生活を破壊する聖戦などというものがあり得るでしょうか。聖戦は、四海(=全世界)絶対平等と平和、生命の尊厳を犯すものに対して敢然と立ち上がる場合にだけ使われることばです」
 軍人は、戸田先生の言葉に、ほおを殴られたような衝撃を受けた。
 それからも、夜明け近くまで、いろんな話をして、最後に軍人は言った。
 「大変有益なお話をうかがいました。だが、戸田先生。これが私だったからいいようなものの、他の将校だったら多分先生は憲兵隊行きでしょう。これからもお気をつけ下さい」
 戸田先生は笑いながら、「これを読んでみて下さい」と二冊の本を贈った。牧口先生の『創価教育学体系』の第一巻、第二巻だった。戸田先生の絶大な協力によって出版されたものである。師弟一体の結晶の書であった。
 軍人は、この書を読んで、目が開く思いであった。彼は戦後、シベリアに抑留されるが、あるとき(1954年秋か
 ら55年の春にかけて)、ソ連の政治犯とともに、「収容所の待遇改善」に立ち上がった。動物のような扱いに対して、最低の人権を! と立ち上がったのである。
 この人権闘争は、当局に弾圧され、指導者であった彼も銃殺された。
 しかし、彼の行動のおかげで、この後、ソ連の収容所の待遇は一変し、だれもが彼に感謝したという。その彼の英雄的人権行動を支えたのが、あの新潟での嵐の一夜の「戸田先生との語らい」であり、『創価教育学体系』だったというのである。そのことは、シベリアの収容所で、彼から直接に話を聞いた新聞記者の証言である。
 今月(98年12月)は世界人権宣言の採択五十周年。人権は「与えられる」ものではない。戦って「勝ち取る」ものである。
3  戸田先生が、「本当の『聖戦』とは、民衆の権利を侵す者に対して、敢然と立ち上がることだ」と言っておられたころ、宗門は何をしていたか。国家主義の権力に、せっせと尻尾を振っていた。
 開戦の十二月八日には、さっそく「必勝の訓諭」を発表するなど、宗門は、侵略戦争に積極的に加担していったのである。そのために“邪魔になる”牧口先生、戸田先生を、「権力に売った」のも坊主どもである。
 一方、牧口先生は、翌十二月九日、何をなさったか。「青年部の第一回の定例会」を開催されたのである(
 三十三人が参加)。坊主どもとは全然、次元が違う。
 「広宣流布は青年がやる以外ない。明治維新も二十代の青年の力でできたのだ」というのが、牧口先生の信念であった。以来、戦争が激しくなるなか、青年に力を入れて育成に努力されたのである。今、私も「青年」に一切の焦点を当てている。
4  悪を見逃すのは、悪を犯すのと同じ
 ともあれ、国が傾いていくとき、黙っていてはならない。思いきり、正義の「声」を出さなければ、「与同罪(同じ罪になること)」になってしまう。
 牧口先生は、戦時色が濃くなるなか、“平和の種”をまく広宣流布の活動に東奔西走しておられた。1940年(昭和15年)には、二週間もの間、九州指導に回られた。
 その際、福岡の八女では、みんなで「松茸狩り」を楽しんだ。「みんなに思い出をつくってあげよう」とされたのであろう。(=松茸狩りを行ったあたりは池田山と呼ばれ、1997年には、近くに牧口久留米講堂が完成した)
 地元の人が「こんなに取れたのは初めてだ」と、びっくりするほどの大収穫。七輪で松茸を焼いて、みなで食べながら、牧口先生は、こう言われたという。
 「隣りの山に入って、松茸泥棒を見つけたら、どうするか。注意してあげれば、その相手も泥棒の罪をまぬかれる。黙って見すごしてしまったら、自分も、松茸泥棒をしたのと同じ罪をつくってしまう。同じように、誤った思想に進もうとしている人に、正しい信仰の道を教えてあげることが大事なのです」と。
 身近な例え話であったが、牧口先生、戸田先生は、一国に対しても、この通りに実行し、日本が亡国の闇へと進むなか、敢然と「正義」の光を掲げ続けたのである。この勇敢なる先師の後に続くのが、墨田をはじめ、九州をはじめ、全同志の使命であると申し上げたい。
5  妙法の祈りは絶対に叶う
 御書を拝したい。
 「大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひ満干ぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」――大地をさして、はずれることがあっても、大空をつないで結ぶ者があっても、潮の満ち干きがなくなることがあっても、太陽が西から出たとしても、法華経の行者の祈りがかなわないことは絶対にない――。
 私の五十年を超える実践の上からも、「本当に大聖人の仰せの通りである!」と言い切ることができる。法のため、人のため、社会のために、善行をなしゆく皆さま方は、わが心に植えた「仏種」を日々、育てておられる。そして、年ごとに大樹へと育っている。年ごとに、三世永遠に崩れない盤石な“幸福の木”が、生命に根を張っている。
 これが冥益である。その素晴らしさは、後になればなるほど、わかってくる。「永遠の幸福境涯」を得たという現証も、この一生の間に、厳然と現れてくる。
 仏典には、釈尊に、砂の餅一つを供養した子どもが、その真心の功徳で、あのアソカ大王として生まれたと説かれている。
 いかなるときも、「信心で行動し」「信心で受けとめ」「信心で生き抜いていく」。この一瞬一瞬の“心の妙用”によって、無量無辺の福徳が積まれていくのである。皆さまが、広宣流布のために戦った功徳は、子々孫々をも、力強く包みゆくことを確信していただきたい。
 二〇〇一年は「栄光の墨田広布五十周年」。その先駆の一年となる明年もまた、私とともに断固、戦い、断固、勝ちましょう!
 わが“墨田家族”が、一人も残らず、健康で、ご長寿で、そしてご多幸であられることを祈りに祈って、私のメッセージといたします。また、お会いしましょう! お元気で!(東京戸田記念講堂)

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