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日蓮大聖人・池田大作

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第二東京支部長会 自分が動く会いに行く

1997.3.16 メッセージ集(池田大作全集第67巻)

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3  牧口先生は一人の人に会う」ために、どこへでも
 牧口先生も、「一人の人」に会うために、どこへでも行かれました。東京の中はもちろん、遠い九州へも、老齢の身で、汽車に揺られて行かれた。そして、逮捕された(静岡の)下田にも、一人の人と対話するために行かれたのです。
 「ここにしか、広宣流布の根っこはできない」というのが、牧口先生の信念でありました。
 本を読ませるだけでもダメ。大きい会合で話をするだけでもダメ。一対一で、しかも、その人の「生活の場」へ行って、話す以外にない。「一人の人」の生活に強き信仰が根を張れば、それこそが、広宣流布の根っこになるのです。
 事実、牧口先生が植えられた各地の「広布の根っこ」は、戦争をも乗り越えて、生きぬきました。そして今、日本中に広がる盤石な学会の組織となっています。
 ゆえに、今、ふたたび、「一人の人」に会うことです。自分が動いて、会いに行くことであります。
 牧口先生は、アメリカの哲学者デューイに、いち早く注目しておられました。戦争中(昭和17年=1942年の12月)の講演でも、デューイの言葉を通して、こう言われました。
 「生活法(=宗教)は生活(=実行)して見なければ分かるものではない」(『牧口常三郎全集』5)と。
 これは、牧口先生の日本への警鐘でありました
 日本には、たいてい、二種類の人間しかいないと、牧口先生は言います。
 一つは、いろいろな知識をもってはいても、自分を変えようとはしない人。どんなすばらしい話を聞いても、「自分とは関係のない話」と思い、「対岸の火事」を見ているような「遠視眼の人」であります。だから、その人にとっては、「学問は学問、人生は人生」「宗教は宗教、生活は生活」と、バラバラになってしまう。外国の知識を学んでも、「自分のもの」にはしないで、「借り物」ままである。
 もう一つは、目先の自分のととばかりに没頭している「近視眼の人」であります。
 この二種類の人間が、多くの日本人だと、牧口先生は言われた。そして、両方ともいけない、「正視眼の人」になれ、と訴えられたのです。
 「正視眼の生き方」とは何か。それは「世界的大哲学をもち、それを自分の生活の場で実践する」人生と言えましょう。それこそ、皆さまの人生であります。
 そのときの牧口先生の講演のテーマは、「法華経の信者と行者と学者・およびその研究法」でありました。
 信じているだけの「信者」ではいけない。学んでいるだけの「学者」でもいけない。生活の上に行じる「行者」とならなければ、仏法はわからない。そして、創価学会員こそが「行ずる者」である、本当の仏法者である、正視眼の哲学者であると牧口先生は叫ばれたのです。
 牧口先生も、デューイも、ともに、日本人が「根なし草」であることを見ぬいていました
 そのなかにあって、わが創価学会は、そうではありません。学会だけは、民衆に根ざし、地域に根ざし、人間に根ざし、生活に根ざし、大衆の心の中に根を張っている。ゆえに発展しているのです。ゆえに堂々たる大樹となったのです。中国の周恩来総理も、そとを鋭く見ておられました。
 結局、何と言われようと、「自分は自分の道を行く」ことです。「自分で自分を強くする」ことです。大地に足をつけて、王道を行ったところが勝ちます。ふらふらと、あっちに目を奪われ、こっちに引っ張られ、根なし草の行き方に、永久の栄えはありません。
 どうか、第二東京の皆さま方は、との尊い学会とともに、生涯、生きぬいていただきたい。
 牧口先生が言われた「正視眼の人」として、そして「妙法の行者」「庶民の大哲学者」として、さらに活躍を、お願いいたします。
 結びに、皆さまのますますのご健康、ご長寿、そして、ご一家のご繁栄を心よりお祈り申し上げ、私のメッセージといたします。
 「3.16」の記念日を祝福して、皆さまのご活躍を祈りつつ。(立川文化会館)

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