Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第二東京支部長会 自分が動く会いに行く

1997.3.16 メッセージ集(池田大作全集第67巻)

前後
1  第二東京支部長会、まことにおめでとうございます。本当に、ご苦労さまです。
 第二東京の皆さまの、最高に仲の良い、朗らかなスクラムは、全国の模範であります。
 私は、心からの敬意を込め、「3・16」を記念して、メッセージを贈らせていただきます。
2  舞台は釈尊の時代。一人の、ある良家の娘さんが、信仰を始めます。(以下、「長老尼偈経」〈『南伝大蔵経』25所収、大正新脩大蔵経刊行会〉、『尼僧の告白』〈中村元訳、岩波文庫〉を参照)
 ところが、彼女の父親は、心配で仕方がない。釈尊の教団に対する、さまざまな悪口を耳にしていた父親には、誤解と偏見があったのです。
 あるとき、父親は娘に尋ねます。
 「娘よ、おまえは、寝てもさめても、仏法者をほめたたえてばかりいる。どうして、そんなに仏法者が好きなのか?」と。
 娘は、この質問に、大いに喜んだ。”よくぞ、聞いてくれました!”と。
 そして、自分が目にしている仏法者の真実の姿を、十項目以上にわたって、一生懸命、真剣に、誠実に、生き生きと語っていったのであります。その一言一言には、父親への優しい愛情が、あふれていました。最後に、娘は晴ればれと語ります。
 「釈尊の教団には、いろいろな家柄の人や、いろいろな地方の人がおりますが、皆がわけへだてなく、親しみ合い、仲が良いのです。だから、私は仏法者が好きなのです」
 確信に満ち満ちた、明快な答えでありました。
 このすがすがしい、また凛々しい娘の姿に、父親は深く安心します。そして、こういう娘をもったことを、心からうれしく思い、娘が信じる仏法に帰依していった、というのであります。
 人の心を開くのは、理屈や理論だけではなく、「確信の言葉」であります。また「慈愛の姿」であり、「温かな振る舞い」であります。仏法者の「仲良き姿」に、父親は感動しました。
 今また、皆さまが学会を愛し、友を尊敬し、わけへだでなく「一人の人」を大切にする姿――その麗しい友情の姿こそが、共感を広げ、理解を広げていくのです。
3  牧口先生は一人の人に会う」ために、どこへでも
 牧口先生も、「一人の人」に会うために、どこへでも行かれました。東京の中はもちろん、遠い九州へも、老齢の身で、汽車に揺られて行かれた。そして、逮捕された(静岡の)下田にも、一人の人と対話するために行かれたのです。
 「ここにしか、広宣流布の根っこはできない」というのが、牧口先生の信念でありました。
 本を読ませるだけでもダメ。大きい会合で話をするだけでもダメ。一対一で、しかも、その人の「生活の場」へ行って、話す以外にない。「一人の人」の生活に強き信仰が根を張れば、それこそが、広宣流布の根っこになるのです。
 事実、牧口先生が植えられた各地の「広布の根っこ」は、戦争をも乗り越えて、生きぬきました。そして今、日本中に広がる盤石な学会の組織となっています。
 ゆえに、今、ふたたび、「一人の人」に会うことです。自分が動いて、会いに行くことであります。
 牧口先生は、アメリカの哲学者デューイに、いち早く注目しておられました。戦争中(昭和17年=1942年の12月)の講演でも、デューイの言葉を通して、こう言われました。
 「生活法(=宗教)は生活(=実行)して見なければ分かるものではない」(『牧口常三郎全集』5)と。
 これは、牧口先生の日本への警鐘でありました
 日本には、たいてい、二種類の人間しかいないと、牧口先生は言います。
 一つは、いろいろな知識をもってはいても、自分を変えようとはしない人。どんなすばらしい話を聞いても、「自分とは関係のない話」と思い、「対岸の火事」を見ているような「遠視眼の人」であります。だから、その人にとっては、「学問は学問、人生は人生」「宗教は宗教、生活は生活」と、バラバラになってしまう。外国の知識を学んでも、「自分のもの」にはしないで、「借り物」ままである。
 もう一つは、目先の自分のととばかりに没頭している「近視眼の人」であります。
 この二種類の人間が、多くの日本人だと、牧口先生は言われた。そして、両方ともいけない、「正視眼の人」になれ、と訴えられたのです。
 「正視眼の生き方」とは何か。それは「世界的大哲学をもち、それを自分の生活の場で実践する」人生と言えましょう。それこそ、皆さまの人生であります。
 そのときの牧口先生の講演のテーマは、「法華経の信者と行者と学者・およびその研究法」でありました。
 信じているだけの「信者」ではいけない。学んでいるだけの「学者」でもいけない。生活の上に行じる「行者」とならなければ、仏法はわからない。そして、創価学会員こそが「行ずる者」である、本当の仏法者である、正視眼の哲学者であると牧口先生は叫ばれたのです。
 牧口先生も、デューイも、ともに、日本人が「根なし草」であることを見ぬいていました
 そのなかにあって、わが創価学会は、そうではありません。学会だけは、民衆に根ざし、地域に根ざし、人間に根ざし、生活に根ざし、大衆の心の中に根を張っている。ゆえに発展しているのです。ゆえに堂々たる大樹となったのです。中国の周恩来総理も、そとを鋭く見ておられました。
 結局、何と言われようと、「自分は自分の道を行く」ことです。「自分で自分を強くする」ことです。大地に足をつけて、王道を行ったところが勝ちます。ふらふらと、あっちに目を奪われ、こっちに引っ張られ、根なし草の行き方に、永久の栄えはありません。
 どうか、第二東京の皆さま方は、との尊い学会とともに、生涯、生きぬいていただきたい。
 牧口先生が言われた「正視眼の人」として、そして「妙法の行者」「庶民の大哲学者」として、さらに活躍を、お願いいたします。
 結びに、皆さまのますますのご健康、ご長寿、そして、ご一家のご繁栄を心よりお祈り申し上げ、私のメッセージといたします。
 「3.16」の記念日を祝福して、皆さまのご活躍を祈りつつ。(立川文化会館)

1
1