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日蓮大聖人・池田大作

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死をどうみるか 妙法に寿命を延ばす大功徳

「健康対話」(池田大作全集第66巻)

前後
2  死に様は生き様を映す――アンデルセンは肝臓がんだった
 池田 前置きが長くなってしまいましたが、さっそく、著名人の死について紹介してください。
 豊福 はい。代表的な人物について調べてみました。
 まず、がんで亡くなったおもな人には、哲学者のマルクス(肺がん)、思想家エンゲルス(喉頭がん)、作家のアンデルセン(肝臓がん)、精神医学者フロイト(上顎がん、安楽死)、物理学者のキュリー夫人(白血病)がいます。
 池田 全世界の子どもたちに夢を贈った″童話の王様″アンデルセンも、がんだったのですか。
 葬儀は国葬で行われ、王族から庶民、老人から子どもまで参列し、広大な葬儀場には弔問者の十分の一も入れなかったと言われていますね。
 豊福 彼は七十歳で亡くなりますが、その誕生日には、記念の銅像の建設も決まりました。ですが、そのとき、すでに体は病に、むしばまれていたと言います。
 池田 じつは、アンデルセンは、自分の容貌や不遇な生い立ちへの劣等感、また強度の神経衰弱に悩まされていたという。
 しかし、そうした苦悩を見事に昇華させ、国中、いや世界中の人々に愛される詩情豊かな作品を生みだした。彼は自伝で記しています。「私の生涯は波澗に富んだ幸福な一生であった。それはさながら一編の美しい物語である」(『わが生涯の物語』大畑末吉訳、岩波文庫)。その言葉どおりの満足の人生だったのではないでしょうか。
 ところで、肝臓がんには、どんな症状があるのですか。
 森田 肝臓は「沈黙の臓器」と言われています。肝臓がんも、進行するまでは目立った症状がありません。ですから、症状だけでは早期発見がむずかしいのです。
 豊福 ほとんどは、慢性肝炎や肝硬変をへて発症しますので、とういう病気のある方は、定期的に診察を受けて、早期発見に努めてください。
3  スターリンは脳卒中で死去
 池田 わかりました。
 では、脳卒中で亡くなった人には、どんな人がいましか。
 浅川 政治家のフランクリン・ルーズベルト、レーニン、スターリン、音楽家のバッハ、画家のゴヤ、作家のディケンズ、スティーブンソン、化学者のパスツールなどがいます。
 豊福 スターリンの七十三歳の臨終の模様が印象的です。最後の一瞬、彼は、不意に目を開け、周囲を不気味なまなざしで、ぐるりと見渡す。そして突然、左手を上げて威嚇的な身ぶりをして見せたと言います。(産経新聞・斎藤努『スターリン秘録』産経新聞ニュースサービス、参照)
 池田 「死に様は生き様を映す」という。権力に執着した人生の最後は、大なり小なり、同じような姿がある。
 ところで、脳卒中は何に気をつければいいのでしようか。
 森田 はい。脳卒中は、高血圧、糖尿病、高コレステロール血症の人が要注意です。そのためには塩分や脂肪分を控えることも大切でしょう。そのうえで、脳卒中の原因となる病気の治療が大事ですので、医師と相談してください。
4  ルノワールはリウマチと闘う
 池田 他の病気は、どうでしょうか
 豊福 画家のセザンヌは糖尿病、植物学者のメンデルは肝臓病、哲学者のベルクソンはリウマチを患っていました。
 リウマチは大変ですね。私の父も長い間、苦しみました。
 森田 リウマチと言われる病気の代表は、慢性関節リウマチですが、おもに手足の関節の痛みや腫れ、変形が起こります。
 浅川 画家のルノワールも、そうです。七十八歳で死ぬまで指の変形に苦しめられますが、それでも絵筆を離すことはなかったと言います。
 豊福 亡くなる前、往診に来ていた医師から、二羽の山シギを撃ち止めた話を聞くと、「パレットをくれ早く絵具を山鷸やましぎの位置を変えてくれ」と、うわごとを言ったそうです。やがて、彼は息を引き取ります。(F・フォスカ『ルノアール――その芸術と生涯』幸田礼雅訳、美術公論社)
 池田 病気を患いながら、亡くなる直前まで創造の戦いを続けた。生涯挑戦の人生です。
 豊福 晩年、彼は口癖のように語っていたそうです。「まず何より、勤勉な人間でなくてはいけない」「勉強しすぎて天才になれない、なんてことはないんだから」(同前)と。
 池田 ところで、リウマチは、いつごろからあった病気ですか。
 森田 リウマチは、古代エジプト時代から人々を苦しめてきた病気です。病因について研究も進み、治療法も進歩してきでいますが、いまだに治療がむずかしい病気です。
 悪声関節リウマチは、厚生労働省の「難病」にも指定されています。
 浅川 朝、起きたときに指の関節がこわばって動きにくい、全身の関節が″きしむ″などの症状にはリウマチが疑われます。こういう症状があれば、早めに受診してください。
5  釈尊の逝去の原因は赤痢?
 豊福 著名人の臨終と言えば、釈尊の場合はどうだったのでしょうか。初めて聞く読者の皆さんも、いると思います。
 池田 釈尊は、王舎城から故郷・カピラヴァストゥをめざした旅の途中、クシナーラーという所で、八十歳で亡くなっています。
 森田 旅の途中に立ち寄ったナーディカという村で、何らかの感染症にかかった可能性が考えられます。
 というのは、その村では、多くの人が、次々と亡くなっていたからです。残された人々が、釈尊に故人の死後の運命を繰り返し問いかけてきました。
 池田 その後、釈尊は、ベールヴァという村に着きますが、そこで「恐ろしい病いが生じ、死ぬほどの激痛が起こった」(『ブッダ最後の旅』中村元訳、岩波文庫。以下、同書より引用・参照)とされていまます。釈尊はすでに、ここで自身の死期を悟ったとも言われる。
 浅川 直接の死因は何でしょう?
 池田 さらにその後、パーヴァーという地で、チュンダという名の弟子がもてなした、キノコ料理を食べたこととされています。
 経典には、「尊師(=釈尊)が鍛冶工の子チユンダの食物を食べられたとき、激しい病いが起り、赤い血が迸り出る、死にいたらんとする激しい苦痛が生じた」とあります。また、チュンダの出した料理には、いろいろな説があって、たとえば、上等の野豚の生肉、柔らかな米飯、野豚の好むタケノコであったとも言われています。
 ところで、このような激しい下血が起こる病気として、考えられるものは何でしょうか。
 豊福 食中毒か、食物による細菌性の感染症、おそらく赤痢ではないかと思われます。
 赤痢は、急性の消化器系の感染症で、飲食物を介してうつります。通常は一〜三日の潜伏期間をへて、発熱し、下痢が起こり、おもに粘液質の血便が出ます。
 森田 すでに病を患っていた釈尊の体力の衰弱が激しかったことは言うまでもありません。そこに、弟子の出したごちそうを食べたことで、下痢が起こり、かえって釈尊の体力を奪ったのでしょう。
 池田 釈尊はチュンダを責めず、むしろいたわりました(本巻九四ページ参照)。そして臨終を前に、弟子たちに「もろもろの事象は過ぎ去るものである怠ることなく修行を完成なさい」と告げ、二月十五日の真夜中から明け方ごろに入滅します。
6  大聖人の御入
 豊福 今度は、大聖人の御入滅について、考えてみたいのですが。
 池田 大聖人は、弘安五年(一二八二年)十月十三日の午前八時ごろ、現在の東京・大田区にあった池上宗仲邸で御入滅されています。現在の暦では、十一月三十一日ごろにあたります。数えで六十一歳であられた。
 豊福 御入滅直前の模様は、確かな文献がなく、創造するしかないようですね。
 池田 そうですね。大聖人は、身延に入山された直後の建治年間(一二七五年〜七八年)のころから、健康を害しておられた。
 御書には、御自身の死期をも暗示されています。
 「この七、八年間というものは、年ごとに衰え、病気がちになっていましたが、大事にはいたりませんでした。ところが、今年(弘安四年)の正月から体が衰弱し、すでに生涯も尽きたかと思われます。そのうえ、年齢もすでに六十歳に届きました。たとえ十のうち一つ今年は生きながらえても、あと一、二年をどうして生きながらえることができるでしょうか」(一一〇五ページ、通解)
 大聖人の御生涯は、迫害の連続であられた。とくに五十歳から約二年半の佐渡流罪では、想像を絶する過酷な生活を強いられた。当然、肉体的な故障や衰弱はあられたことでしょう。
 具体的には、「下痢くだりはら」(御書一一七九ページ)、「はらのけ下痢」(御書一〇九七ページ)と記されているように、胃腸の病気を患われていたようです。
 豊福 大聖人の場合、それ以外に具体的な記述がありませんから、病名は断定できませんが、全身の衰弱が胃腸の機能を低下させ、慢性の下痢が体力を奪っていったと考えられます。
7  生薬「かつかう」という薬
 森田 病因は、大腸にあったのかもしれませんね。
 池田 身延入山後の御生活も、厳しい寒さや栄養失調など、決して満足なものではなかった。
 長雨や降雪があれば、山中への食糧の運搬も滞り、窮之生活を余儀なくされたでしょう。そうした状況を知る門下は、道中の不便さを乗り越えて、数々の食糧を御供養しています。
 浅川 なかには、大聖人の御病状を案じ、薬となる品をお届けした方々もいます。南条時光の母も「かつかう」という薬を、お届けしました。
 豊福 「かつかう」は多分、現在でも漢方薬に使われている生薬の「藿香かつこう」のことではないかと思われます。
 藿香は、シソ科の多年草でカワミドリのことです。下痢を止める作用があり、体を温める働きもあります。胃腸症状をともなう風邪などの治療に使われます。
 池田 大聖人は、供養されたお酒を温め、「かつかう」を口にされて、「胸は火をつけたように熱くなり、体は、まるでお湯に入ったように温かくなりました」(御書一五八三ページ、通解)と仰せです。
 豊福 「かつかう」は、おそらく当時、民間で広く活用されていたのでしょう。
 池田 いずれにしても、大聖人は大難を忍ばれて、生涯、広宣流布の道を生きぬかれ、末法万年の民衆の成仏のために、大法を御本尊として留め残してくださった。
 病を患われたあとも、門下に数々の御手紙をあたえられたり、また重要な相伝書をお残しになっておられます。
8  定業・不定業
 豊福 ところで、仏法には、定業と不定業という考え方がありますが、「寿命」は定業と考えてよいのでしょうか。
 池田 そう言えるでしょう。
 過去の行いによって、今世でどのような果報を受けるか、またいつ受けるかが定まったものを「定業」と言います。
 それに対して、定まっていないものを「不定業」と言う。
 森田 いかなる名医にかかっても、本質的には定業を転換することはできません。仏法でしか、それはできないのですね。
 池田 そうです。大聖人は、定業すなわち、定まった寿命でさえも、御本尊に祈ることによって、妙法の功徳力で延ばすことができると教えられています。(御書九八五ページ、趣意)
 豊福 法華経に説かれる「更賜寿命(更に寿命を賜え)」(法華経四八五ページ)の功徳ですね。
9  「法華経の行者は久遠長寿の如来なり」
 池田 御書にも例として、釈尊在世の阿闍世玉は、悪瘡のため余命いくばくもないなか、四十年あるいは二十四年も寿命を延ばした。釈尊に帰依し、温かな慈悲につつまれ、ふたたび、生きる希望を得たのです。
 中国・天台大師の兄の陳臣は、余命一カ月と宣告されたが、天台に学び修行をして、十五年も寿命を延ばしたとあります。(御書九八五ページ、趣意)
 浅川 大聖人は、御自身の祈りで母上の寿命を四年も延ばしたと仰せですね。(同ページ、趣意)
 池田 とれらは、すべて妙法の功力によるものです。
10  「更賜寿命」の寿命とは生命力
 池田 死を間近にした釈尊は、遍歴修行者のスパッダを救うために、三カ月の問、寿命を延ばしたとも言われています。「一切衆生の救済への歩みを止めない」との強烈な使命感が、釈尊の生命力をわき立たせたのでしょう。
 「更賜寿命」とは、「更に寿命を授かる」ということですが、戸田先生はよく、その「寿命」とは「生命力」を意味すると言われていた。信心によって、生命力が旺盛になるのです。
 大聖人も、病を得られでも、胸中には、赤々と広宣流布の炎が燃えておられた。
 御入滅の七カ月前、大生命力で、青年門下・南条時光の病魔を打ち払う獅子吼をされています。
 「鬼神の奴らめ! この人(時光)を悩ますのは、剣を逆さまに飲んで、みずからのどを突とうとすることだ。また、大火を抱いて大やけどをするようなものだ。さらに、三世十方の仏の大怨敵となろうというのか。この人の病気をたちまちに治して、かえって守護の善神となって、餓鬼道の大きな苦しみから逃れるべきではないか」(御書一五八七ページ、趣意)
 こう仰せになる、わずか三日前、大聖人は筆をとることさえ困難であられた。そのため、弟子の日朗に代筆させた書状を、日興上人を通じて時光に送られている。
 しかし、代書では納得されず、みずから筆をとられ全精魂を打ち込まれたのが、この書です。
 烈々たる気迫の一節からは、病の影など微塵も感じられない。偉大な生命力に、ただただ感嘆するほかありません。
 森田 時光は大聖人の揮身の激励にこたえ、病に勝ち、その後、約五十年も寿命を延ばします。これも「更賜寿命」の功徳ですね。
 池田 大聖人の弟子として、師の理想をわが理想として生きる「使命感」が、時光を更賜寿命させた。
 御書に「法華経の行者は久遠長寿の如来なり」とあります。正法を弘めようという決意の人、広宣流布への使命を深く自覚した人が、すなわち「長寿の如来」になる。
 法のため、人々のため、社会のために尽くし、広布に生きぬく人は、生命が輝いている。強く、生き生きとしている。
 大聖人は四条金吾の夫人に「年はますます若くなり、福運はますます重なっていくでしょう」(御書一一三五ページ、通解)と仰せになっています。
 尊い使命の同志の皆さまが、いつまでもお元気で、いつまでも若々しく、希望に満ちた「更賜寿命」の人生を送られるよう、私は朝に夕に祈っています。
11  生も歓喜、死も歓喜
 池田 かつてフランスを訪れたさい、レオナルド・ダ・ヴインチが晩年を過ごしたとされる館を見学しました。
 ダ・ヴインチが亡くなったという寝室には、彼のこんな言葉が刻まれた銅板が掛けられていました。
 「充実した生命は長い
 充実した日々はいい眠りをあたえる
 充実した生命は静寂な死をあたえる」
 充実した一生を生ききった人には、何の後悔もなく、死の恐怖もないという至言です。
 森田 「一生をむなしく過ごして万年に悔いを残してはいけない」(御書九七〇ページ、通解)との御金言を思い出しました。
 豊福 だれびとも、死を逃れることはできません。″自分の人生は、まだまだ続く″と思っていますが、一瞬先のことはわかりません。
 池田 だからこそ、「きょうが最期の一日であっても後悔はない」と言えるような完全燃焼の日々であり、最高に価値ある人生でありたいものです。
 浅川「臨終只今にあり」の精神ですね。
 池田 やがて来る死を、堂々たる「人生の完成」とするのか、惨めな「人生の終焉」とするかは、ひとえに生きている″今″にかかっている。これが人生の実相です。
 森田 長年、終末医療にたずさわっている大阪大学の柏木哲夫名誉教授が語っています。
 「終末期の生き方を通して思うことは、その人の今までの生き方そのものが死に方に凝縮されるということです。ですから、人は生きてきたように死んでいく。よき生はよき死につながる」(「第三文明」二〇〇〇年十月号)と。私も医師として数々の臨終に立ち会ってきましたが、同様のことを実感します。
12  点滴の一滴一滴に、祈りをこめて
 浅川私も、そう思います学会員の方々の荘厳な最期の姿には、いつも、感動をおぼえます。
 白樺会の先輩からうかがった、壮年のHさんも、そうです。
 Hさんは胃がんのため、先輩の勤める病院に入院してきました。当時、六十四歳で、入会三十年。声が大きくて、生命力に満ちあふれた方でした。手術の翌日には、ベッドの上からVサインを出していたそうです。術後の痛みは軽くすみ、三日目には、一人で洗面所に行くほどの回復力でした。
 しかし、すでにがんは肝臓に転移し、医師は娘さんに「もって、あと一年くらいでしょう」と告げていたのです。やがて抗がん剤を投与することになり、このとき初めて、本人に告知されました。
 投与のさい、先輩は「点滴の一滴一滴に、祈りをこめていきましょう」と激励しました。先輩自身も一滴一滴が、がん細胞に勝つようにと祈ったそうです。
 池田 ともすれば孤独になりがちな闘病生活のなかで、看護師さんの励ましは、本当にありがたいですね。最高の薬にもなる。
 浅川 ありがとうございます。励ましと言えばHさんはある日、先輩に色紙を見せて、うれしそうに語ったそうです。
 「これ、宝物なんです。みんなが、こんなに気を使ってくれて。でも、いちばんうれしいね」
 それは、地域の同志の方々からいただいた激励の色紙でした。
 池田 励ましは力です。苦痛は薬や治療で和らげることができても、勇気と希望は、励ましでしか、わかせることはできません。
 森田 はい。それは私も、医師として何度も感じて
13  「死」は新たなる「生」への旅立ち――病と闘いぬいた生涯
 浅川 Hさんは「あと一年」と言われていた余命を、さらに一年延ばして亡くなりました。
 亡くなる一週間前のことで。Hすさんはお手洗いに行くのが精いっぱいの状態でした。様子を見に病室を訪れた白樺会の先輩に、Hさんは言いました。
 「私は大丈夫。あなたを待っている人は、私以外にたくさんいるのだから、その人たちの所へ行ってください。最初に、あの人の所へ」
 そして、同室の方を指さしたそうです。同室の方は、Hさんよりも軽症の方ばかりでした。先輩は全員の容体をうかがい、Hさんの所にもどってくると、「ありがとう」と言われたそうです。
 やがてHさんは痛みを訴えることもなく、安らかに旅立ちます。最後は二回、拳をふりあげ、口元で題目を唱えていました。その姿を聞いて、先輩は「Hさんは勝った」と確信したそうです。
 池田 日ごろから学会活動で人に尽くし、人を励まし、そして最後は病と闘いぬいた崇高な生涯です。
 日蓮大聖人は仰せです。
 「退転することなく仏道修行をして、最後の臨終のときを待ってごらんなさい。妙覚の山に走り登って、目を開いて四方を見れば、何とすばらしいことであろうか、その世界は寂光土で、地面は瑠璃でできていて、黄金の縄で八つの道の境をつくっている。天から四種の花が降り、空に音楽が聞こえてくる。諸仏・菩薩は常楽我浄の風にそよめき、心から楽しんでおられる。われらもその数の中に連なっで、遊び楽しむべきことは、もう間近である」(御書一三八六ページ、通解)
 「妙なる音楽」「宝石を敷きつめた大地」「諸仏・菩薩とともに遊ぶ遊楽の境涯」――広宣流布へと完全燃焼した生命は、ことのように晴ればれと「常楽我浄」の大勝利の境涯となっていくと説かれています。
14  「広布の使命を果たしたい」
 豊福 ドクター部の医師から、厳かな最終章を迎えた、女子部のOさんの話をうかがったことがあります。
 彼女は急性白血病でした。貧血がかなり進み、感染による発熱もあり、出血も起こしていました。治療がむずかしい状態でした。
 担当ではありませんでしたが、家族に頼まれて、その医師が病室に見舞いに行くと、彼女は言ったそうです。
 「私はまだ死ねないんです。広宣流布の使命を果たしたいんです」
 医師は重症な病状を心配しながらも、その気迫に圧倒され、「広布のためにと祈ることが大事です。頑張ってね」と激励したそうです。
 一週間後、彼女の部屋に出向くと、ドアが開けっ放しに。「亡くなったのだろうか」と思って中をのぞくと、何と彼女は車いすに乗せられ、大部屋に移るところでした。
 森田 すごいことです。
 豊福 その医師も回復力に驚いたそうです
 しかも彼女は一カ月後に退院します。治ったわけではありませんが、通院で十分に治療可能な状態にまで回復したのです。
 翌年には、仕事にも復帰。休日には、必ず学会活動に励み、やがて友人に弘教を実らせます。それから彼女は寿命を三年延ばし、亡くなります。葬儀には、五百人の方々が参列したそうです。
 浅川 若く名もなき女性の葬儀に、多くの方が来られたのですね。
 豊福 ご家族の方も、何か深い意味を感じとられ、彼女の死の悲しみを乗り越え、力強く立ち上がっておられたそうです。
15  「千人の仏が迎えてくださる」
 池田 立派な女性です。「この信心のすばらしさを一人でも多くの友人に伝えたい」と、彼女はみずからの使命に生ききった。
 そして多くの人が感謝する偉大な人生であった。
 御書には、広宣流布に徹した人の臨終について、「何と喜ばしいことか。一人や二人の仏ではない。百人や二百人の仏ではない。千人もの仏が迎えに来てくださり、われらの手をとって霊山に導いてくださる。それを思えば、歓喜の感涙を押さえられない」(一三三七ページ、通解)と記されている。多くの同志の追善の題目につつまれた生命の境涯は、まさにこの御文に通じるでしょう。
 豊福 それにつけても思うのは、同志の方々のありがたさです。
 友が入院した、手術を受ける、大変な状態にあると聞けば、すぐさま、わが事のように真剣に祈ってくださる。
 池田 そのとおりです。学会の同志ほど尊く、ありがたいものはありません。
 真心の祈りは必ず通じていく。相手がどういう状態であれ、どんなに距離が離れていようとも、届かないところはない。
 それが妙法の力用です。
16  月を眺めながら唱題し霊山へ
 森田 多宝会(創価学会の長寿者の集い)のKさんという婦人の話をうかがったことがあります。
 前年に、ご主人を亡くしたKさんは、体調の不良に気づき、看病疲れかと思いながら診察を受けたところ、胃がんであることがわかりました。
 当時、入会二十年の七十歳。それまで何一つ大きな病気もしたことのない健康な方でした。ご家族は本人に、進行していて治療がむずかしい、がんであることを知らせます。
 するとKさんは「わかった。私も一生懸命に闘うから、いっしょに闘ってほしい。一家一族の宿命を断ちきる闘いをするから」と言ったそうです。
 浅川 病魔への「闘争宣言」ですね。
 森田 入院するまで、圏副婦人部長として、凛として学会活動に励みました。
 入院中には歯科医へ行って治療を受けます。「なぜ今になって?」と聞くと「余命が長いとは思わないけど、悪いところは治しておきたくてね」と。
 思うところあって、一度、退院。自宅で心ゆくまで唱題し、形見分けもすませ、家族に「仲良く」と遺言を残し、ふたたび入院します。病室でも、許可をもらって、お守り御本尊を安置。毎日、ゆったりと唱題を重ねたそうです。最期の日も、窓を開けて月を眺めながら、唱題を重ね、霊山へ向かわれたそうです。
 池田 見事な臨終の姿です。生々世々、宇宙の仏界の生命と冥合しゅく、悠々たる境涯を楽しんでいくことを、深く確信されていたのでしょう。
17  東西の生死観
 浅川 Kさんの「宿命を断ちきる」との宣言は、「生命は永遠」という、仏法で説く三世の生命観に立たないと言えない言葉ですね。
 池田 そうです。仏法の深き生命観から言えば、本有の「生」であり「死」である。死は「終わり」ではなく、新たな生への「旅立ち」です。明日への活力を得るために「睡眠」をとり、リフレッシュし「充電」する。それに似て、「死」は次のすばらしき「生」への飛翔となるのです。
 かつて、「ヨーロッパ統合の父」クーデンホーフ=カレルギー博士と対談したさい、博士は語っておられた。
 「東洋では、生と死は、いわば本の中の一ページです。そのぺージをめくれば、次のぺージがでてくる、
 つまり新たな生と死が繰り返される――こういった考えと思います。ところがヨーロッパでは、人生は一冊の本のようなもので、初めと終わりがあると考えられています」(『文明・西と東』。本全集第102巻収録)
 東西の生死観を端的に要約した印象的な言葉です。
18  妙法に生きぬく人生は大満足
 豊福 たしかに、西洋ではキリスト教でも唯物論でも、人間のこの世での生は、ただ一度と考えます。ですから、人によっては「死」への恐怖は東洋人よりも激しく、深刻になりがちです。
 池田 博士は、こうも指摘された。
 「ヨーロッパ人は一生涯、死に脅かされながら、人生を生きています。たいていの人が、口にこそ出さないだけで、つねに死の観念につきまとわれて生きているわけです。
 東洋、とくに日本で、ヨーロッパよりも死への恐怖心が少ないのは、来世観ないし永遠の生命観をもっているからではないでしょうか」(同前)
 このクーデンホーフ=カレルギー博士をはじめトインビー博士など、私と対談した世界一級の知性は皆、仏法の生命観、生死観に注目している点でしていました。
 森田 世界最高峰のが知性の府であるアメリカのハーバード大学で一九九三年、「二十一世紀文明と大乗仏教」と題する池田先生の講演が、大きな反響を呼んだのも同じ理由ではないでしょうか。(=名誉会長は九一年にも同大学で「ソフト・パワーの時代と哲学」と題する講演を行っている。ともに本全集第2巻収録)
 浅川 「大乗仏典の精髄である法華経では、生死の流転しゅく人生の目的を『衆生所遊楽』とし、信仰の透徹したところ、生も喜びであり、死も喜び、生も遊楽であり、死も遊楽であると説き明かしております」とされた、「生も歓喜、死も歓喜」の講演ですね。
 豊福 全米宗教学界の第一人者コックス学部長の講評も忘れられません。
 「池田 氏は、『死』に対する、今までとは全く異なった観点、非常に興味深い観点を紹介してくださいました。西洋社会は、死を否定したり、死を美化したりする傾向がありますので、そこには、我々にとって多くの学ぶべき点があると思います」(「聖教新聞」九九三年九月二十六日付)と。
19  太陽が昇るがごとき喜び
 池田 それはそれとして、病気になれば、だれもが不安になる。長く重くなれば、死への恐怖も生まれます。
 大聖人は、そうした病身の夫を案ずる女性門下を、こう励まされている。
 「ご主人は過去の宿習が因となって、この長く重い病気にかかられ、その病によって日夜暇なく悟りを求める心を起こされています。それゆえ、今生につくりおかれた小罪はすでに消えてしまったことでしよう。謗法の大悪もまた、法華経に帰依されたことにより、消え失せることでしょう。もしも今、霊山にまいられたならば、太陽が昇って、十方の世界を見晴らすように、うれしく、『早く死んでよかった』と、お喜びになられることでしょう」(御書一四八〇ページ、通解)
 まさに生死を超えた、悠々たる大境涯です。
 仏法で説く「死」は、決して苦しみの死ではない。悲しみ、絶望するものではないというのです。
 「楽しき死」「うれしき死」「大歓喜の死」となるさまを、大聖人は太陽が夜の闇を破って全世界を照らす壮麗な光景に譬えられている。
 妙法に生きぬいた人は、寂しい不安と恐れの「死」ではない。「大安心」と「大満足」の荘厳な死を迎え、永遠の生命を生きぬくことができる――。
 これが御本仏日蓮大聖人の絶対の御約束なのです。

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