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日蓮大聖人・池田大作

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歴史を変えた病 人類の歴史は病気との闘争

「健康対話」(池田大作全集第66巻)

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2  鶏肉・卵は七五度に加熱して調理を
 池田 話はもどりますが、鳥インフルエンザは、人にも感染することがありますか。
 豊福 国内では、そうした報告はまだありませんが、海外では人への感染が確認されています。幸い、人から人へ感染が広がらなかったため、大流行にはいたっていません。(=二〇〇八年四月現在、一部の国できわめて限定的で非持続的だが、人から人へ感染した可能性の残る事例が報告されている)
 森田 今いちばん心配されているのは、そのことです。鳥から人への感染が繰り返されることで、このインフルエンザウイルスが、人から人へ感染する能力を持つようになるのが怖い。ですから、早期に発見し、人に感染する能力を持つ前に根絶しようとしているのです。
 池田 鶏肉や鶏卵は食べても安全なのですね。
 豊福 ええ。今までは、鶏肉や鶏卵から感染したケースはありません。これまで人に感染したのは、感染した鳥と近距離で接触した場合、または鳥の内臓や排泄物に接触した場合がほとんどです。
 森田 感染した鶏やその卵が市場に出回るということも、現在はないと思います。
 それでも心配な方は、食品の中心温度がセ氏七五度以上に達するよう加熱してから使ってください。そうすればウイルスは死滅します。
 浅川 鳥インフルエンザは海外でも発生していますが、そうした国への旅行は大丈夫ですか。
 森田 鳥インフルエンザが発生・流行した地域などを訪れ、不用意に生きた鳥などの施設や病気の鳥、死んだ鳥へ近づくことは、やめてほしいですね。
 池田 小鳥などをぺットとして飼う人も多い。家で飼っているぺットへの感染は心配ないですか。
 豊福 鳥インフルエンザが鶏やアヒルなどに感染することは知られていますが、ぺットの小鳥がすぐさま感染の危険にさらされることはありません。
 浅川 ただ鳥や動物は、人への感染の有無は別として、鳥インフルエンザにかぎらず、さまざまなウイルスを保有していることがあります。ですから、動物にふれた手は洗うこと、排泄物は速やかに処理し、清潔にすることを心がけてほしいと思います。健康を維持するためには、まず感染源を体に寄せつけないことです。
 池田 よくわかりました。身近なことが大切ですね。たとえば風邪などを防ぐためにも、日常的に手洗いやうがいが大切なのに、意外とやっていないものです。
 ふだんの心がけを大事にするのが、健康の智慧です。
3  未知の恐怖から悲劇が――憎悪のデマが迫害を生んだ
 池田 動物から感染して、人類に、大きな被害をあたえた病気には、ペストがありますね。
 浅川 はい。十四世紀に大流行し、ヨーロッパを席巻しました。
 森田 ペストは「黒死病」と呼ばれ、畏れられていました。全身が黒ずむところから、そう呼ばれたようです。しかし、それがペスト菌によるものだとはわかっていませんでした。
 池田 どれくらいの被害が出たのですか。
 豊福 死者はヨーロッパだけでも、二千五百万から三千五百万人におよんだのではないかと推定されています。第二次世界大戦での(連合国と枢軸国の)戦死者数三千八百万人にはおよばないまでも、当時の人口を考えると、その死亡者は、どんな戦争も比較になりません。
 森田 人口が密集する都市では、死亡者の数は人口の半分を超えていたのではないかとも言われています。
 池田 二人のうち、どちらかが死ぬ――そうした不安が当時の社会を覆った。原因もわからない――言い知れぬ恐怖が、さらなる悲劇を生んでいきましたね。
 豊福 はい。ユダヤ人への迫害です。黒死病の流行は「ユダヤ人が井戸に毒を投げこんだからだ」との根拠のないうわさが広まり、虐殺が繰り広げられました。
 池田 ペストの歴史を語るうえで見すごすことのできない史実です。
 このうわさは恣意的に、捏造された″デモ″であったともされている。
 豊福 ユダヤ人に対する、日ごろからの、言われなき反感・憎悪が火を噴いたと言われています。
 森田 多くのユダヤ人が、焼き殺され、死体は樽につめられ、川に沈められたと言います。また居住区が焼かれ、財産を没収された人もいた。犠牲者には、ユダヤ人だけでなく、当時のハンセン病患者もいました。
 池田 根も葉もないうわさが″既定の事実″として流布され、ときに多くの人々を狂気の行動へとかりたて、ほんろうしていく。そうした恐ろしさを人間社会は持っている。とくに災害や疫病のような社会不安のときには、それが強まる傾向があります。
 浅川 関東大震災のさいの朝鮮人虐殺もそうですね。
 池田 断じて忘れてはならない、また繰り返してはならない悲劇です。世の中、いったい何が「真実」で、なのか――。事象の奥にある本質をとらえる「眼」を持たねばならない。そして、虚偽や悪と戦う「賢さ」と「強さ」を持たなければ、正義を守りぬくことはできない。邪悪がまかり通る社会になってしまう。
 浅川 健康を守るためにも、そうした賢さや強さをもって、正しい知識を得ていくことが大切だと思います。ペストは当時、病原体も感染経路もわかっていなかったため、防ぎようがありませんでした。
 もしわかっていたら、そうした悲劇も最小限にとどめることができたのではないかと思います。
 池田 そうですね。何でも正しい知識がないと損をする。だまされてしまう。まして病気は生死にかかわってくる重大問題です。
 森田 ぺストは今日、大流行する危険性はほとんどなくなりました。その原因には、ペスト菌を持つノミがとりついたネズミの駆逐など、さまざまな説があげられていますが、やはり大きいのは、人類が都市の公衆衛生に取り組んだことだと思います。
4  真実ほど雄弁なものはない――「牛痘を受けると毛むくじゃらに」
 池田 人類の歴史には、勇気ある人々が知の力で偏見を打ち破り、真実を明らかにして、病気を撲滅したケースもあります。天然痘が、そうですね。
 森田 はい。一九八〇年に、年にWHO(世界保健機関)が天然痘の根絶を宣言しました。この人類の不幸の一つが地球上から消滅したのは、つい二十四年前のことなのです。
 豊福 十八世紀のヨーロッパでは、百年間の天然痘による死者が六千万人にも達したと言われています。
 池田 撲滅の原点となったのは、イギリスのジェンナーによる牛痘接種法の発見(一七九六年)ですが、初めは偏見との闘いだった。
 ジエンナーが研究成果の論文を提出しても、当時の王立協会からは受け取りを拒否されました。種痘病院の医師からも反対の声があがった。
 聖職者は、説教壇から「これこそ人間が神の道を妨害するもの」と非難し、詩人までもが作品に「牛痘をうければ毛むくじゃらな耳や、牛のような尾がはえるぞ」と詠ったという。(深瀬泰日品「ジェンナー」、『歴史読本――世界の名医たち』一九八九年四月特別増刊号所収、新人物往来社、参照)
 いまから見れば滑稽なことです。しかし、時代も、新たな動きが起こるときには、旧思考勢力から圧迫があるものです。
 森田 ところが、牛痘が有効であることがわかるにつれ、ジェンナーの評価は変わるのです。
 池田 御書に「道理や証文よりも現証にまさるものはない」(一四六八ページ、通解)とありますが、「実証」は力です。真実の「現証」ほど雄弁なものはない。
5  勇気ある行動が歴史を変えた
 池田 じつは、牛痘接種法の前段階となる人痘接種法(天然痘患者の膿を植えつける)の普及にも同じような障害がありました。
 豊福 トルコ駐在イギリス大使の妻モンタギュー夫人が母国に伝えたと、聞いたことがあります。
 池田 ジェンナーより約八十年前のことです。人痘接種法は、ヨーロッパよりも早く、中国、インド、アラビアなどで行われていた。
 夫人は、弟を天然痘で亡くし、自分もかかって、その美貌を失ったという。その後、イスタンブールで人痘接種法を知って、自分の息子に試してみる。結果は、見事、成功。
 その後、著名、な医師の前で、自分のほかの子どもにも接種して、やはり効果があることを証明してみせた。そして、各方面に手紙を書き、普及に努めたのです。
 浅川 やはり非難が巻き起こったのでしょうね。
 池田 そうです。積極的に支持する者、強く反対する者と、意見は二分し、医師、聖職者も巻き込んだ大きな論争を起こしました。(矢部一郎『西洋医学の歴史』恒和出版。ロンダ・シービンガー『植物と帝国』小川真理子・弓削尚子訳、工作舎。参照)
 しかし、夫人の勇気ある行動が種痘への理解を広げ、天然痘の予防療法の可能性を開き、ジエンナーの牛痘接種法へと続いていったのです。
 風評を恐れることなく、正しいことは正しいと言いきっていく。その真実と正義の叫びが、必ず新しい時代を開いていく。
6  「白いペス卜」
 池田 感染症と言えば、結核も人類を脅かした病気ですね。私も若い時代、苦しめられました。
 森田 結核は、十九世紀のヨーロッパで、「白いぺスト」と呼ばれ、当時の死亡の最大の原因でした。
 豊福 正確な数字はわかりませんが、ヨーロッパでは死亡者の四人に一人が結核であったと言われています。
 森田 先ほど、お話しに出たデュポス博士の著作『健康という幻想』(田多井吉之介訳、紀伊国屋書店)に詳しく出ています。当時、ヨーロッパ諸国に産業革命が広がっていました。大量の労働者が農村から工業地帯へと移動します。
 そうしたなかで、過重な労働、不衛生な住居、栄養不良などが、結核菌を蔓延させる土壌となったようです。
 豊福 安らぎや楽しみのない都市での生活が、心理的なストレスとなり、進行に加担したとも言われています。
 池田 その本の中でデュボス博士は、こう記していますね。
 「あきらかに、ただ病原微生物をもってきただけでは、流行状態をおこすにはたりないことが多い。そして、流行はみんな、なんらの社会情勢で条件づけられたことを、しめすことができよう」と。
 人類に画期的な変革をもたらした産業革命が皮肉にも、結核を流行させることにもなってしまった。文明が病気をつくったとも言える。
7  結核で死んだ作家・芸術家
 池田 当時の犠牲者のなかには、多くの有名な文化人もいた。
 浅川 はい、調べてみたところ、十八世紀だと、啓蒙思想家のボルテール、画家のワトー、作家スターンがいます。
 十九世紀に入ると、詩人のキーッ、作家のエミリー・ブロンテ、音楽家では、ショパンやパガニーニが結核で亡くなっています。二十世紀の前半だと、作家のチェーホフやカフカなどです。
 池田 結核は、十八世紀から十九世紀にかけてヨーロッパで花開いた「ロマン主義」にも影響をおよぼしていたようだ。
 デュボス博士は、作家のアレクサンドル・デュマの言葉を紹介されています。
 「一八二三年と一八二四年には、肺病が流行だった。みんな、とくに詩人は肺病だった。ひどく感動して感激するたびに血を吐き、三〇歳に達する前に死ぬことはよい形だ」(前掲『健康という幻想』の中で紹介)
 そうした病弱や早逝を美化するような風潮は、当時の時代、社会状況の反映かもしれない。いずれにしても、結核が人間の文化に影響をあたえたと言える。さらに言えば、病気が文明を方向づけたと言ってもよいでしょう。
8  闘ったぶんだけ生命は強くなる――大病の人は人生の深さを知る
 池田 しかし、文学の世界では美しく描かれても、現実の結核は本当に苦しくつらい。なった者にしかわからないでしょう。
 私は、十代の後半からずっと、胸を患っていた。体はやせ、ほおはこけた。寝汗はひどいし、血痰も出る。病状はかなり重かった。自分の体のふがいなさを、何度も思い悩みました。
 戸田先生は、絶えず、そのことを心配してくださっていた。
 「お前も長生きできない体だな。できることなら、私の生命を削って、お前にあげたい」と。
 そのたびに、私は″生きぬかねばならない。自身の使命を果たすまで、断じて生きてみせる! 師の慈愛にこたえるために!″と、広布への闘争に邁進した。
 あの苦闘の日々があればこそ、病弱な人、病の人の心もわかるようになった。一瞬一瞬を片時もむだにせず、最大に充実させて生きてこられたのです。
 豊福 スイスの哲学者ヒルティは、″病気が心を耕して、深く、大きくしてくれる″(『同情と信仰』岸田晩節訳、『ヒルティ著作集』7所収、白水社、参照)と言っています。
 池田 戸田先生もよく、「大病を患った人は人生の深さを知っている」と言われていた。まったく、そのとおりだと思う。戸田先生も大病を患われた。大病と闘いながら、法のため、社会のために、行動しぬいてこられた。
 病気と闘うからこそ、人生の苦も楽もわかるし、不屈の精神力も鍛えられる。また、闘ったぶんだけ強くなる。健康な生命になるのです。
 人類も同じです。「感染症」という新たな脅威と試練にぶつかるたびに、全人類の知識を結集し、知恵を発揮して″新しい文明の沃野″を開拓してきた。病気との闘争を通じて、進歩の歩みを勝ち取ってきた。
 ともあれ、これからの時代は、ますます健康が焦点になっていくことでしょう。一人一人が健康に対する正しい知識と哲学をもって、価値ある人生を生ききっていきたいものです。
9  衛生改革へナイチンゲールは挑戦
 池田 ″人類の健康の守り手″と言えば、忘れてはならない人物がいます。
 アメリカの詩人ロングフェローは、その人をたたえ、こう詠っている。
 「見よ、悲惨のきわみのとき
 ランプを手に歩む女性の姿あり。
 薄暗がりの中を病室から病室へと
 静かにゆっくりと彼女は進む。
 さながら至福の夢の影のように
 おもむろに過ぎ行くその姿。
 声を忍んで苦しみに耐えている患者は
 暗い壁に落ちるその影に
 せめてもとくちづけするのだった」(エドワード・T・クック『ナイティンゲール――その生涯と思想』1〈中村妙子訳、時空出版〉の中で紹介)の中で紹介)
 浅川 ナイチンゲールですね。
 池田 そうです。有名な詩です
 浅川 ナイチンゲールについては、これまで池田先生が折にふれて何度も語ってくださいました。
 池田 そうですね。「クリミアの天使」とたたえられた彼女の崇高な生涯を思うとき、私は「妙法のナイチンゲール」として医療の場や地域で慈愛の看護に徹する、尊き「白樺」の友の姿を思い起こさずにいられません。あらためて感謝申し上げたい。
 浅川 ありがとうございます。
 池田 ところで、クリミア戦争のとき、イギリス軍では、戦場より病院で亡くなった兵士のほうが、はるかに多かったと言われている。
 豊福 総死亡者数二万人のうち一万六千人が、病院で亡くなったそうです。
 池田 原因は病院の劣悪な環境にもあったようですね。
 ナイチンゲールが赴任した当時、病院には、収容人数をはるかに超えた患者が押し込まれていた。必要最低限の医療器具や医薬品にも事欠き、ノミやシラミが大量に発生するほど不潔な状態だったと言います。
 森田 はい。汚染された水、汚れた空気、過密状態のベッド、日当たりの悪い部屋など、病院内の不衛生な環境によって、院内に感染症などの病気が広がりました。瀕死の状態で運ばれた兵士たちは、病気の犠牲となったのです。
10  責任感が改革に立ち上がらせた
 浅川 ナイチンゲールは、眼前の患者のためにわが身をなげうって尽くし、病院の改革にも真剣に取り組みましたが、それでも多くの犠牲者を出してしまいました。
 その自責の念にかられて、帰国したあと、母国の衛生改革に立ち上がったとも言われています。
 池田 彼女は責任感が強かった。「人間の言葉のうちで『私は知りません』ほど情けない言葉はありません」(同前)とも記しています。
 ですから、多くの兵士の命を奪った衛生問題についても、黙っているわけにはいかなかった。「二度と悲劇は起こさない」との断固たる決意で立ち上がったのでしょう。
 人間の生死を預かり、真剣に向きあっていく看護師さんほど、責任の重い仕事はありません。
 また、「私がいるから大丈夫」と、深き使命感に立つからこそ、数えきれない蘇生のドラマも生まれるのでしょう。
11  庶民の女性に直接、訴えた
 池田 話はもどりますが、当時のイギリス国内の衛生状況はどうだつたのでしょう?
 森田 まだ衛生環境が整っておらず、人口が集中する都市部では、大勢の人が極度に不潔な環境で暮らしていました。ロンドンでは、コレラで毎年、一万八千人が亡くなったと言われています(ヒュー・スモール『ナイチンゲール――神話と真実』田中京子訳、みすず書房。)
 浅川 ナイチンゲールは、そうした衛生問題を解決するよう政府に働きかけます。しかし「衛生の改善によって、どれだけ病気を防ぐことができるのか疑問だ。だから公金は、病気の原因を探る研究のために使うべきだ」と、批判の声が上がったそうです。
 豊福 公衆衛生に対する認識がまだ浅かったのでしょう。
 政府の衛生委員会は当時、流行していた感染症は「衛生改革をしてもさけられない」と報告したと言われています。
12  評判が何だ、批判が何だ!
 池田 いつの時代も先駆者というものは、必ず無理解な批判を受ける。
 ナイチンゲールは、つづっています。
 「人がめったに経験しないような人生の道を歩みながら、私はいつも感じていました――世間の評価はけっしてその人間の真骨頂を明らかにするものではないことを」(前掲『ナイティンゲール――その生涯と思想』1の中で紹介)
 世間の評判が何だ! 批判が何だ! 彼女は、ひとたびみずからの進むべき道を決めると、どんな障害があっても、最後まで決心を曲げなかった。自分自身の信念に徹して、生きぬいた。
 政府が動かぬならと、今度は、家庭における衛生の重要性を、女性たちに直接、訴えようと本を著します。
13  『看護覚え書』
 浅川 一八五九年に出版された『看護覚え書』ですね。
 そこには「看護とは、新鮮な空気、陽光、暖かさ、清潔さ、静かさを適切に保ち、食事を適切に選択し管理すると――こういったことのすべてを、患者の生命力の消耗を最小にするように整えること」(前掲『ナイチンゲール著作集』1)とあります。
 池田 彼女の看護観の真髄を表した有名な言葉です。この『看護覚え書』は、専門の看護師のためだけではなく、一般家庭の庶民の女性のためにも書かれたものだった。
 庶民がいちばん、大切です。庶民が根本です。だからこそ彼女は、庶民に直接、訴えていったのでしよう。
 事実、この本は発売一カ月で一万五千部が売れ、ベストセラーになり、あらゆる境遇の人の読むところとなった。また、フランス・ドイツ・イタリアなど各国語にも翻訳され、彼女の百五十に上る著作の中で、もっとも大きな反響を呼んだと言います。
 浅川 私も、看護学校時代に薦められて以来、何度も読み返してきました。健康を守る知恵や看護のあり方がくわしく説かれていて、今読んでも、少しも色あせていません。それどころか、ますます新鮮に思えます。
 池田 活字の力は大きい。魂をとめた一書は、人々の心を打ち、やがて国を超えて広がっていく。時を超えて、永遠に輝いていくものです。
 浅川 その後、都市部の感染症による死亡率は低下します。
 池田 衛生状態を改善すれば、どれほど多くの人の命を救うことができるか――ナイチンゲールの改革の功績は、今も不滅の光を放っています。
 浅川 たしかに、そのとおりです。先ほど紹介したナイチンゲールの看護の定義は、現在、病気の人がいる家庭にも通じます。
14  家庭に病気の人がいる場合
 池田 それでは病気の方がいる家庭では、どのようなことに気をつければよいのでしょうか。
 浅川 やはり*(1)部屋は、できれば日当たりがよく、換気のできる部屋がいいと思います。ただし、ベッドや布団は、直接、光が当たらない位置に置いてください。
 池田 部屋の温度や湿度は、どのくらいに保てばいいのですか。
 豊福 住む地域や季節、病状によって変わりますが、*(2)室温は、夏でセ氏二五〜二八度、冬はセ氏一七〜二二度が快適に過ごせる温度だと思います。ただ夏は、一般に外気との温度差が五度以上にならないようにしてください。
 浅川 (3)湿度は夏は五〇〜六〇パーセント、冬は四〇から五〇パーセントに保ち、せきがひどかったり、のどが痛かったりするときは、加湿器などを使用し、少し湿度を高めにしたほうがいいと思います。
 池田 食事で気をつける点はありますか。
 浅川 (4)食事の基本は、必要なエネルギーや栄養が十分にふくまれている、ということでしょうか
 豊福 病気によっては、制限があったりするので、医師とよく相談してください。
 森田 消化のいいものを選び、食欲を出させる工夫も必要ですむせたり、のどにつまらせたりしないように、流動食がいいか、小さく刻んだほうがいいか考えてほしいですね。
15  静かに落ち着けるように配慮を
 池田 体が不自由な方の場合、寝床や衣服、体を清潔に保つのにも周囲の手が必要ですね。
 森田 はい。病状の悪化や他の病気の併発をさけるためにも、清潔は大切です。(5)寝床は可能であれば、布団を敷くより、ベッドのほうが衛生的です。
 畳の上に布団を敷く場合は、時々、敷布団の位置を変えて、畳の湿気をのぞいてあげてください。
 浅川 (6)寝間着はこまめに洗濯し、つねに清潔にしてほしいですね。シーツも週に二回以上とりかえるといいと思います。(7)体はできるかぎり毎日、ふいてあげるのが望ましいでしょう。
 全部が無理な場合は、部分的に分け、少しずつでもふいてあげてください。
 豊福 (8)食事がふつうにとれない方には、口の中の手入れも必要です。だ液の分泌が低下し自浄作用が落ちていますので、朝晩、口に水をふくませてゆすいだり、汚れを綿棒などで取ってあげたりするといいと思います。
 浅川 また、(9)精神的な配慮として、静かに落ち着いて休めるよう、光が直接、目に入らない工夫をしたり、物音にも注意してあげてほしいですね。ですから、夜遅い時聞になって、病気療養中の人がいる家庭に電話をするのは控えてください。
 森田 寝たままの姿勢でお題目を唱えていてもかませんか。
 池田 体調の悪いときには、無理に正座することはありません。
 日蓮大聖人は「場合に応じて、唱題だけでもよい」と仰せです。(御書一二〇三ページ、趣意)
 大切なのは、題目をあげようという「心」です。聡明に判断すればいいのです。
16  病に国境なし、病との闘いにも国境なし――教育こそ予防策
 池田 ところで、現在、世界に拡大している感染症の一つに、エイズ(AIDS=先天性免疫不全症候群)がありますね。
 浅川 はい。アフリカを中心に多くの感染者を出しています。
 池田 エイズについては、まだワクチンや根治薬はないのですか。
 森田 発症を遅らせたり、症状を改善する薬は開発されましたが、根治薬やワクチンは開発されていません。ですから今、いちばん重要なことは感染の予防策です。
 豊福 日本ではエイズについての意識が、若者を中心に低く心配です。
 先進国の多くで新たな感染者の発生が毎年、減少しているのに対し、日本は増加傾向にあります。
 池田 正しい知識の普及と高い予防意識が大切ですね。私が対談したシマー博士も、「エイズウイルスの感染力は、決して強くはありません。感染に対する予防を行うことで、エイズの拡大を最小限に食い止めることは可能です」、また「『エイズ教育』を行うことが、エイズ拡大を食い止めるうえで大切になってきます」と強調されていました。
 では将来、人類は、こうした感染症をはじめとする病気を撲滅することができると思いますか。
 豊福 医学は年々歳々、進歩しています。かつて難病と言われた病気も、人類は挑戦に次ぐ挑戦を重ね、克服してきました。今後もそうでしょう。しかし、ゼロにはならないと思います。
 森田 医学が発展する一方で、新たな感染症も発生しています。
 これは、社会がグローバル化(地球規模に拡大化)していることも一因です。それまで一地域の風土病だつた感染症が、交通手段の発達等により、人間の移動・交流とともに世界に広がっているのです。
 豊福 かつて大流行したペストやコレラも、もともとは一地域の風土病であったと言われています。将来も未知の風土病が、世界的に拡大する可能性は十分あります。
 池田 サーズ(SARS=重症急性呼吸器症候群)もアジアで発生し、全世界に広がりましたね。まさに病気には国境がない。その意味からも、人類の防疫体制には、国を超えた対策・協力が必要になってきます。
 森田 インフルエンザに関して言えば、現在、WHO(世界保健機関)では、世界百二十一カ国に約二百カ所の国内インフルエンザセンターを設け、監視を続けています。さらに各国間で、情報を共有し、新型インフルエンザの大流行を防ぐ取り組みが進められています。
17  「核戦争防止国際医師の会」
 池田 国境を超えた協力と言えば、十五年前(一九八九年十月)、IPPNW(核戦争防止国際医師の会)のミカエル・クジン会長と、「医師の国際的な連帯の重要性」などについて語りあいました。
 森田 たしかクジン会長は、IPPNWの誕生の秘話も紹介されていましたね。
 池田 そうです。発端は、三人の旧ソ連人医師と三人のアメリカ人医師による、スイス・ジュネーブでの会談でした。
 東西冷戦の真っただ中、イデオロギーがまったく違う大国の医師の語らいは「最初はケンカばかり」。二日間議論したが、何一つまとまらず、お互いにテーブルをドンドンとたたいて怒鳴りあったり、席をけって出ていったりする場面もあったという。
 だが、医師として「生命尊厳」という共通認識に立ったとき、一切の対立は氷解する。
 「私たちは医師だ。医師として『すべての生命を守る』使命がある。それがコレラであれ、エイズであれ、核兵器であれ、力をあわせて戦う使命がある」――。
 こうして、人類の「最悪の疫病」である核兵器の廃絶のため、「核戦争防止国際医師の会」が発足したのです。その会議におられたのが、旧ソ連のクジン会長であり、以前、この座談会でも紹介した、IPPNW共同創設者のアメリカのバーナード・ラウン博士です。
18  母の叫びが政府を動かした
 池田 クジン会長との語らいのさい、話題に上ったのが、四十数年前の日本に、「一千万人分の生ワクチン」を緊急に提供した旧ソ連医学者の献身的な医療援助でした。
 豊福 ポリオ(小児まひ)が大流行した年の翌一九六一年に行われました。ポリオに感染すると、発熱、頭痛、吐き気が起き、弛緩性のまひが現れて、一部の人は生涯、まひが残ります。
 池田 次々と倒れるわが子に、母たちの嘆きはどれほどであったろうか。たしか一九六〇年には前年の三倍、五千六百人以上が感染し、三百人を超える子どもが亡くなっています。
 森田 当時、ポリオに有効とされる生ワクチンの使用が、日本の法律では認められていませんでした。
 池田 日本でのポリオの猛威を救ったのが、旧ソ連から贈られた生ワクチンです。ソ連ではすでに数百万の子どもに生ワクチンを使用し、ポリオを克服していた。
 しかし当初、日本は、ソ連からの提供の申し出を、いわゆる「反ソ」的政治勢力や製薬会社が法律を盾に反対する。
 母たちはわが子のために立ち上がった。「子どもたちに生ワクチンを!」。その叫びが全国的な運動に広がり、役人の重い腰を動かした。旧ソ連の生ワクチンを、一千万人分、緊急輸入することを決めたのです。
19  壁を破った勇気と挑戦
 池田 だが、ひとくちに「一千万人分の生ワクチン」といっても、製造はなみたいでいではない。「十日以内に零度に保って空輸」という、日本政府の無茶な要求や、国家やイデオロギーの障壁、官僚の緩慢な対応――一切の壁を破ったのは、ソ連医学者の勇気と挑戦でした。
 モスクワ郊外のポリオ研究所では、二十四時間、不眠不休でワクチン製造にあたった。「あのとき、私たちは真剣でした。まさに″戦い″でした」と、当時の研究員は語っている。
 それは、「人間の生命と健康は断じて守らなければならない。そのためには国境など関係ない」との、医師としての使命感、責任感そのものだったのでしょう。
 森田 一九九六年に、難民医療調査団の一員として、ネパールの難民キャンプを訪れたときのことが、私は今でも忘れられません。重度の口蓋裂の子どもを前に、″医療が充実していれば、治療できるのに″と、何度も悔しさがこみあげてきました。
 浅川 同行した白樺会委員長も話していました。中耳炎を繰り返している子どもも多いそうです。完全に治りきらないうちに、汚れた川で泳ぐなどして、慢性化してしまう。もっと衛生教育がなされていればと、残念な思いにかられたそうです。
20  目的は一つ――苦をのぞくこと
 池田 そうです。教育が大切です。
 ともあれ、「健康」「生命」にまさる宝はありません。
 大聖人は仰せです。「生命というものは、あらゆる財宝のなかで最高の財宝です。『宇宙に遍く敷き満つる財宝といっても、身命に値するものはない』と経文に説かれているように、宇宙に満ちあふれた財宝であっても、生命にはかえられない」(御書一五九六ページ、通解)
 「命こそ宝」との思想を広げていく――「健康な地球」も、この一点から出発するのではないでしょうか。
 その意味で、医師や看護師の皆さんが果たす役割はきわめて大きい。
 森田 責任を痛感します。
 池田 また、エイズやインフルエンザのような感染症から、尊き生命を守るためには、ますます国境を超えた医療体制の充実・整備が必要になってくるでしょう。「自分の国さえよければ」という考えでは、とうてい病気を撲滅することなどできない時代に入っている。
 健康も平和も目的は一つ――民衆の苦を取り去ることです。人類は、この目的のもとに、人種や民族、思想や利害を超えて団結しなければならない。
 「平和」という「人類社会の健康」を、どう実現していくか――これが二十一世紀の課題であり、創価学会の挑戦です。
 仏法の目的も、「民衆の苦をとりさる」ことにあります。そして、仏とは、民衆のあらゆる苦悩に対して「抜苦与楽(苦を抜き、楽を与える)」の行動に徹する人のことです。私たち一人一人が、この行動に生きぬくことが広宣流布であり、「平和即健康」の社会を実現する道なのです。

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