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日蓮大聖人・池田大作

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医師と病院 患者第一の医療革命を

「健康対話」(池田大作全集第66巻)

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1  池田 現在、私はアメリカの経済学者ガルブレイス博士と対談を続けています(=対談は、二〇〇五年九月、『人間主義の大世紀を――わが人生を飾れ』と題して潮出版社から出版された。博士は〇六年四月、九十七歳で逝去)
 九十五歳の博士は、ご自身の健康法を、こう言われていました。
 「何よりも大事なことは、朝起きたときに、きょう一日の計画が決まっていない、考えていない、といったことがないようにすることです」と。
 ″さあ、きょうも何かを始めよう″と、前進していく。そこに、より新しい、より希望に満ちた人生が開けていく。若さも生まれます。
 さあ、きょうも、はつらつと語りあいましょう。
 森田 多くの会員の方から「病気になったとき、どんな医師や病院にかかればいいか」と問いあわせがあります。
 池田 それは、皆の関心事ですね。
2  どんな病院にかかればいいか
 森田 いつも答えに困ってしまうのですが(笑い)、病院の環境面に関して言えば、患者さんが安心できるよう心配りがされている所がいいと思います。
 上東 受付や待合室の雰囲気も大切です。美しい絵が飾られていたり、優しい音楽がかかっていると心が和みます。
 池田 たしかに、病院があまり殺風景だと不安になるでしょう。チリの詩人ガブリエラ・ミストラルは、病院の壁を「その白さがくらくらさせる」(田村さと子訳『ガブリエラ・ミストラル詩集』小沢書店)と言っています。
 最近は、患者をホッとさせる工夫をする病院も増えているようですね。
 荻上 清潔な環境も、治療の第一歩だと思います。私は「掃除も立派な看護の仕事」と心がけ、後輩にもそうアドバイスをしてきました。
 池田 看護における大切なこととしてナイチンゲールはこう語っています。「患者の生命力の消耗を最小にするように整えること」(薄井坦子代表編訳『ナイチンゲール著作集』1、現代社)であると。患者さんが″よし、病気と闘おう″と思える環境づくりが大切ですね。
 では、大学病院と町の開業医では、どちらがいいのでしょう。
3  医師は「より人間的に」なる努力を
 上東 地域の医療事情によっても違いますが、一般に大学病院は、多くの科がかかわる集学的な治療や高度に専門的な医療が必要な病気のときなどに適しています。
 糖尿病や高血圧など、日常的に通院が必要な病気は、状況をよく知っていてていねいに診てくれる、自宅の近くにある病院のほうがよいと思います。いざという場合も、いろいろ相談にのってもらえますから。
 池田 いわゆる「かかりつけ医」ですね。
 森田 はい。信頼できる「かかりつけ医」がいれば安心です。必要なときには、専門医や設備の整った病院を紹介してもらうこともできます。
 池田 二十世紀最高の歴史家トインビー博士も、私との対談のさい、「専門医は貴重な存在、一般医は不可欠の存在」)と、かかりつけ医の重要性を語っておられました。
4  御書にある名医
 池田 では、「信頼できる医師」とは、どういう医師でしょうか。
 森田 まず「病気を的確に判断し、正しく治療する技術」が大事だと思います。
 池田 森田さんは外科医として、多くの患者を手術してこられましたね。
 御書には、森田さんの大先輩の外科医も紹介されている(笑い)。『三国志』に登場する「華陀」も、その一人です(御書一一七九三ページ)。他の史書にも、たへんな名医であたと残っています。(『後漢書』)
 『三国志演義』によると、彼は、勇将・関羽の腕を切開して、骨についたやじりの毒を削りとる″外科手術″も行った。手術を終えた華陀に、関羽が黄金百両をさしだすと、華陀は「わたくしは将軍の仁義の名を聞いてまいったもので、さようなものをあてにしてまいったのではござりませぬ」(羅貫中『三国志演義』下、立間祥介訳、『中国古典文学大系』27所収、平凡社)と言って立ち去ったという。
 上東 御書には、ほかにも古代インドや中国の名医が出てきますね。
 池田 「治水」「流水」「耆婆」「扁鵲」もあげられています。(御書九九五ページ等)
 荻上 治水・流水は、どういう人ですか。
 池田 「金光明経」に出てくる親子で、伝説上の人物です。国内に疫病が流行したさい、父子一体となって多くの人々の病を治したとされます。
 荻上 扁鵲は、どうでしょうか。
 池田 中国の春秋戦国時代の医師で、有名な司馬遷の『史記』に登場します。
 広い医学の知識を持ち、とくに脈診を主とした診察に優れていたと言います。
 荻上 耆婆は、釈尊の弟子ですね。
 池田 ええ釈尊の侍医であったという説があります。「医王」とも謳われ、大臣も務めていました。
 当時、すでに腸閉塞のための開腹手術や、脳腫蕩のための開頭手術を行ったと伝えられている(「四分律」「大品般若経」)。二千数百年も前に、驚くべきことです。
 森田 耆婆は、全身麻酔のようなことも行ったと聞いたことがあります。
 池田 ひどく塩辛いものをあたえて、のどが渇いたところで酒を飲ませ、感覚をまひさせたとされています(「四分律」)。アルコールによる麻酔の一種でしょうか。
5  「利財を貧るな」
 上東 「信頼できる医師」の条件としては、だれよりも患者さんを思い慈しむ姿勢も大切です。
 森田 「患者第一」――これが医療の根本でなければなりません。
 池田 そのとおりですね。
 幕末の医学者に「適塾」を開いたことで有名な緒方洪庵がいます。
 幼いときから体が弱かった洪庵は、医学の道を志し、人々のために種痘を広めたり、コレラの流行とも闘った。
 当時、評判だった医師の″番付″があったようですが、三十九歳の洪庵は最高位の大関に位置している。しかしながら、彼の生活は質素そのものであった。
 医師がこの世で生活するのは、ただ人のためであって、自分のためではない。安逸を思わず、名利を顧みず、ただ己を捨てて、人を救うことを願うベである――これが医師・洪庵の信念であった。他の医師が往診をいやがるなかで、洪庵は率先して往診に歩いたといいます。身分や貧富の差など、まったく気にもとめず、ただ目の前で苦しんでいる人を救いたいとの一心で行動した。(緒方富雄『緒方洪庵』岩波書店、参照)
 仏典にも、医師のあるべき姿が、こう記されています。
 「いつの場合でも慈悲の心をもって病人に接し、いやしくも利財を貧るような心をもってはならない」(「金光明最勝王経」)
 この「慈悲の心」を輝かせて、大勢の庶民に尽くしゆく、真の名医になってもらいたい――これが私のドクター部への願いです。
 森田 ご期待におこたえできるよう、精進してまいります。
6  病気を診て病人を診ない
 上東 先ほど技術が大切だという話がありましたが、技術ばかりに目を向けていると、「病気を診て、病人を診ない」状態におちいらないともかぎりません。
 池田 がん研究の世界的な権威である、モントリオール大学前学長のシマー博士が、私に、こう言われていました。
 現代医療において問題なのは「医師と患者の間に『侵入者』が入ってきたこと」(『健康と人生――生老病死を語る』本全集第107巻収録)だ、と。
 荻上 「侵入者」ですか?
 池田 そう。それは「機械や器具、ますます増える検査」だというのです。博士は、技術辺倒では、医師と患者の問の″人間としての絆″を壊してしまう、と心配されていました。
 森田 そうかもしれません。
 たしかに科学技術の発達は、それまで治療不可能とされていた、多くの患者を救ってきました。
 さまざまな検査も、データが診断のよりどころになるので重要です。
 しかし、だからといって、患者との聞に信頼関係を築く努力を怠っていいということにはならないと自戒しています。
 池田 そうですね。医学が発達すればするほど、医師は「より人間的に」なる努力が必要ではないでしようか。医学は、どこまでも「人間のため」なのですから。
 上東 おっしゃるとおりです。
7  医学は「民衆に奉仕する芸術」
 池田 病気の人は、その患部だけで苦しんでいるのではない。生命全体で苦しんでいるのです。
 現在、私は、ヨーロッパ科学芸術アカデミー会長で、著名な外科医であるフエリックス・ウンガー博士とも対談集の発刊に向けて対話を続けています。
 じつに一万人以上の患者の手術を行ってきた、世界的な名医です。
 博士は対談の中で、「理想の医師」について語っておられる。
 「『医学の技術者』はいらない。私たちが必要なのは『医師』なのだ」「私の言う『医師』とは、全体性に立った人格の光る医師です。人間性豊かな医師です」と。
 荻上 私が教壇に立つ看護学校では、看護実習に入る前に、「一人を思いやる心」や「人のために何ができるか」を考えるよう、学生に教えています。
 上東 医学生にも、人間性を磨くための教育が必要だと思います。
 池田 アメリカのカズンズ博士は「病気のことはわかつても、人間のことはわからない医師」になっていると言っています。
 そこで、医学部の履修課程で文学や哲学を重視するべきだと提案されています。(『生への意欲』松田銑訳、岩波書店、引用・参照)
 森田 人間を深く尊敬し、苦しんでいる人に奉仕していく――これは創価学会のドクター部の原点でもあると思います。
 池田 ウンガー博士はは「『大臣(ミニスター)』語源も『奉仕する者』の意味です」「同じように、患者に奉仕するのが、医師の役目であり、目的です」「医学も、そして政治も、民衆に奉仕する芸術なのです」とも語っておられた。
 指導的立場にある人間は、人々に「奉仕する」のが第一の責務です。民衆こそ「主役」であり、指導者は「奉仕者」である。その「主客」が転倒し、逆転するところに、腐敗や堕落の元凶があるのです。
8  医師と患者の″対話″が重要
 池田 患者さんに奉仕するためには、話を「丹念に聞く」ことも大事ですね。
 上東 はい。ていねいに問診を行うだけで、かなりの病気の診断を下せるという統計もあります。
 森田 かつて池田先生は、アメリカ・ハーバード大学名誉教授のバーナード・ラウン博士と会談されました(一九八七年と八九年の二度。博士はアメリカの著名な医師。IPPNW〈核戦争防止国際医師の会〉の共同創設者で、ノーベル平和賞を受賞している)
 博士は語っています。医療とは「癒しの芸術」であり、「癒しの芸術」とは「聞く芸術」である――と。
 人手不足で忙しい医療の現場では、むずかしい場合もありますが、私も、できるだけ時間をかけて、患者さんの話を聞くことを心がけています。
 上東 ラウン博士は、著書『治せる医師・治せない医師』の中で、上手に聞くためには、耳だけでは五感を総動員しなければならない」(小島直子訳、築地書館)とも語っています。問診だけでなく、声の響きや顔の色つやなどから病状を判断したり、触診・聴診など基本的な診察をしっかり行うことが大事だと思います。
 荻上 看護師としての経験からも、患者さんは、言葉だけでなく、いつも体のどこかからサインを送っていると思います。それを逃さずに″聞いてあげる″。そこから信頼関係も生まれます。
 池田 ラウン博士も、苦しむ人々のために勇気と慈愛の行動を貫いてこられた、偉大な医学者です。博士は、その著書の中で、「患者こそ私の最大の教師である。私を医師に育ててくれたのは患者である」とも言われています。
 偉大な人は、謙虚です。それでこそ、「正しく聞く」こともできる。「正しい判断」もできる。
 荻上 患者さんの不安を軽くするためには、「十分な説明」も大切です。
 「自分の病気がどんなものなのか」「どんな治療が必要なのか」――ていねいに説明してくれる医師は信頼できると思います。
9  指導者には「説明の義務」が
 池田 病気の名前にしても、薬の名前にしても、医学用語はむずかしい。一言でも説明してくれるとありがたいですね。
 十七世紀のフランスの劇作家モリエールの作品に『いやいやながら医者にされ』という喜劇があります。
 女房の悪知恵で、「にわか医者」に仕立てられた、きとりの主人公が、謝礼をもらえることを知り、自分から医師を装うという物語です。
 きこりは、でたらめのラテン語や怪しげな医学用語で患者さんをけむに巻き、それに疑問を挟まれると、最近はこう変わったんだとごまかす。
 しまいには「あなたはわれわれほど物知りである必要はない」と権威ぶって言い放つ。(鈴木力衛訳、『世界古典文学金集』47所収、引用・参照)
 難解な専門用語をもって、自分を偉く見せようとする見栄と倣慢を風刺したものでしょう。
 荻上 先ほども話題になりましたが、最近は医療技術が進み、検査にも、さまざまな機械が使用されています。
 検査をする前に、どんな機械が、どうして必要かということを説明する必要があると思います。説明足らずでは、患者さんが不安になることもありますから。
 池田 医療だけでなく、あらゆる分野で、指導的立場の人には「説明する義務」がある。また、だれもが「知る権利」と「納得する権利」がある。しかし、これまでの日本の社会には、それが、あまりにも欠落していたのではないでしょうか。
 森田 かつては、「患者は黙って言うことを聞いていれば、いいんだ」「患者に言ってもわからない」という風潮が、少なからずあったと思います。
10  「医師が上、患者が下」の転換を
 池田 患者さんのほうにも″医師まかせ″の傾向があったかもしれません。
 先ほども述べたように、決して「医師が上、患者が下」ではない。治療という同じ目的に向かって協力しあうパートナーではないでしょうか。
 森田 はい。「患者が主役、医師が支援者」という新しい関係が必要とされています。
11  「いすの高さを等しくせよ!」
 上東 医師の応対の姿勢も大事です。説明の内容がどんなに理路整然としていても、患者さんが形式的と感じてしまえば伝わりません。
 池田 医聖ヒポクラテスは、医師のあるべき姿を、こう示しています。
 「医師はある生き生きした雰囲気といったものを身につける必要がある。しかつめらしい固さは、健康な人にも病人にも拒絶的な感じをあたえるからである」(「品位について」大槻マミ太郎訳、『ヒポクラテス全集』2所収、エンタプライズ)
 先ほど紹介した医王・耆婆の名前には、サンスクリット語で寸生き生きとした」「生命をあたえる」などの意義があると言います。
 上東 たしかに、医師が冷たい感じで、もったいぶった堅苦しい雰囲気だと、もしかすると、会っただけで体調の悪くなる人もいるかもしれません。(笑い)
 池田 ヒポクラテスは、こうも指摘しています。「椅子は、医師と患者の高さが同じになるよう、できるだけ高さを等しくする」(「医師について」大槻マミ太郎訳、同然州2所収)
 これはたんなる形式ではなく、苦悩の人を見くだしてはいけない。平等のまなざしを持つべきであるという意味でしょう。
 荻上 患者さんには、こまかすぎるくらいの配慮が大事です。
 ナイチンゲールも「看護というものは、いってみれば小さな〈とまどま〉としたことの積み重ねなのです。小さな〈こまごま〉としたこととはいいながら、それらはっきつめていけば、生と死とにかかわってくる問題なのです」(前掲『ナイチンゲール著作集』3)と言っています。
 池田 シマー博士が言われていました。「男性よりコミュニケーションが上手な女性医師が多くなれば、患者と医師の関係も、もっとスムーズになっていくと思います」(前掲『健康と人生――生老病死を語る』)と。そのとおりかもしれない。
12  「言葉は医師の最大の道具」
 池田 ともあれ、医師の言葉は影響が大きい。ラウン博士も「言葉は医師の最大の道具である」(前掲『治せる医師・治せない医師』)と強調されています。
 荻上 私の母が高血圧で倒れたとき、救急車で病院に運ばれました。家族として、私も救急車に同乗しましたが、不安で仕方がありませんでした。病院で治療を開始したときに、看護師長さんの「もう大丈夫ですよ」の一言に救われた気がしました。病院の原点を見る思いでした。
 池田 温かい励ましが大事ですね。反面、ラウン博士は「言葉は、患者を癒すだけでなく傷つけることもある両刃の剣だ」(同前)と、医師の軽率な言葉、不適切な言葉を注意されています。
 上東 歌人の石川啄木が、腹膜炎の疑いで診察を受けたさいの歌を思い出しました。
 「そんならば生命が欲しくないのかと、/醤者に言はれて/だまりし心!」(小田切秀雄編『石川啄木歌集』潮出版社)と。
 傷ついた啄木の無言の怒り、反発、苦悩が伝わってきます。
 森田 最近は、「ドクターハラスメント」(医師による患者へのいやがらせや暴言)という言葉さえあります。
 皆が待望する「医療革命」へ、私たち医師の責住は重大です。
 池田 患者さんのほうも、受け身ではいけない。
 疑問があれば積極的に質問し、十分に納得したうえで治療を受ける心構えが必要でしょう。ある意味では、自分の体は自分で律し、守っていくしかないからです。
 森田 納得できない場合は、「セカンドオピニオン」(主治医以外の医師の意見)として、他の医師の意見を聞くことも大事です。
 いずれにせよ、治療の方針を立てるのは医師ですが、通院・服薬・食事療法など、治療を実践するのは患者さん自身です。
 池田 『健康の智慧』でもふれましたが、仏典では次のように病んだ人の心がける点があげられています。
 (1)それぞれの病気に適した薬や食事を服用する。
 (2)治療する人・看病する人の言葉にしたがう。
 (3)自分の病気が重いか、軽いかを認識する。
 (4)苦痛に負けない。
 (5)努力を怠らず、聡明な智慧をもつ。
 こうした仏法の智慧は、医学の道理とも響きあっていると思います。
 荻上 たしかに的確な洞察だと思います。″医師まかせ″ではない、患者さんの主体性を教えています。
 森田 高齢社会が進み、介護保険や健康保険などが整備されつつありますが、老後への不安は、解消されているわけではありません。ますます″自分の健康は自分で守る″ことが必要になってきました。
 池田 根本は、自分自身が自分の″医師″なのです。
 日蓮大聖人は「命というのは、自分にとっていちばん貴重な宝である。たとえ一日であっても寿命を延ばすならば、千万両の黄金にもまさる」(御書九八六ページ、通解)と仰せです。
 一日でも長く生きれば、それだけ妙法を唱えられる。仏法を教え伝えることができるそのぶん、永遠の福徳が積まれていく。
 ともどもに、健康で、長寿で、「かけがえのない人生」「使命の人生」を生きぬいていきましょう。

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