Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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看護 健康をつくる芸術

「健康対話」(池田大作全集第66巻)

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2  「忘れられない看護師さん」
 池田 貴重な体験ですね。自分が体が悪くなって、初めて体の悪い人の心がわかる。私にも忘れられない看護師さんがいます。戦争中のことです。兄たちは四人とも戦争に行き、私は鉄工所で働かなければならなかった。
 私は結核にかかっていました。病状も、かなり重かった。しかし、若い男が家にいると、笑われた時代でした。無理を重ねながら、仕事を続けていました。青年学校の軍事教練もあった。体はやせて、頬はこけ、注射を打つでも、すぐまた熱が出る。職場から人力車に乗せられて帰ったこともあります。三九度の熱を押して、仕事をしたこともありました。
 その後、とうとう、やむを得ず、事務系の仕事にかえてもらった。医師にかかるゆとりもありません。食糧事情も最悪な時代でした。十分な栄養をとることもできません。「健康相談」という雑誌だけを頼りに、自分で自分の健康を気づかうしかなかった。
 そんなとき、職場の医務室にいた年配の看護師さんが心配して、病院に行くよう勧めてくれましたしかも、レントゲンの撮影のために病院に行くのに、わざわざ付き添ってくれた。そのとき、「池田さん、何とかして転地療養したほうがいいですよ」「戦争って、いやね。早く終わればいいのにね」と励ましてくれたのです。診断の結果、地方の療養所に入ることが決まったのですが、まもなく終戦になって、入院どころでは、なくなってしまった。
 いずれにしても、そのときの看護師さんの親切は、身にしみて、うれしかった。また、戦争に対して、堂々と自分の意見を語った彼女の強さに、勇気と希望がわきました。今でも、その光景は忘れられません。
 稲光 私たちも、そういう「忘れられない看護師さん」になりたいと思います。
 池田 お願いします。ナイチンゲールは、家庭もふくめ、広く、健康を守る看護は「健康についての芸術である」(前掲『ナイチンゲール著作集』2)と言いました。画家はカンバスを相手に、彫刻家は大理石を相手にする。看護は、もっとすばらしい、人間の生命を相手にした「最高の芸術」である。これが彼女の誇りでした。
 私も、看護は「芸術」であると思う。技術と知識と人格とが一体になった「人を癒す芸術家」です。これほどすばらしい存在はない。看護師さんを、もっともっと大切にしなければならないと思う。皆さんが看護師として、大切だと感じている点は何で何ですか。
3  「よく聞く」こと
 松本 まず、「患者さんの話をよく聞く」ことです。聞いてあげることで、患者さん自身も自分で状況が整理でき、問題点が明確になってきます。「白樺」のHさんの体験を聞いたことがあります。
 Hさんは、のどの病気で声帯をとったIさんと出会いました。Iさんは、七十三歳という高齢でしたが、少年野球の艶督や町内会の会長を務めるなど、社交的で、周囲の人望も厚い方でした。手術の経過は順調でしたが、Iさんは日ましに落ち込んでいきました。そんな様子を見ていたHさんは、「Iさんの胸のうちを知りたい」と祈っていました。
 ある日のことです。その日も元気のないIさんに、Hさんは声をかけました。「みんなが心配していますよ」。すると、Iさんはメモ用紙を取り出して、せきを切ったように心情を書き始めたのです。
 「手術したくなかった。ちっともいいことがない」「もう家には帰れん」「みんながきっと笑う。こんなんじゃ恥ずかしゅうて外に出られん」。そう書くと、ペンを投げ出し、険しい表情になりました。
 池田 声を失ったことで、自分の全部を失ったように感じていたんですね。
 松本 そうなんです。Hさんは懸命に訴えました。
 「ここには、同じような手術を受けた人が大勢いるのよ。若い人でも、みんな、悩んでるよ。だから、Iさんから″あんたも頑張らないかん″って、みんなを励ましてやってほしい。みんな、絶対、喜ぶよ。それがIさんの役目だと思うよ」
 話が終わるころには、Iさんの目に明るい光が感じられました。以来、Iさんはすっかり元気をとりもどし、退院後も、少年野球の監督などを続けられたそうです。
 池田 病気の人というのは、いつも葛藤があるものです。自問自答というか、いつも自分の中で苦しく戦っている。その苦しさを「聞いてあげる」ことは、それ自体が「抜苦」になります。抜苦与楽(苦を抜き、楽を与える)の抜苦です。それも形だけで聞くのではなくて、本当に親身になって聞いてあげる。その温かい「心」が、病を癒す力になるのではないでしょうか。
4  技術と思いやり
 小島 たしかに看護に形式は通用しません。当然、専門技術は大事ですが、「心がこもっているかどうか」で、ぜんぜん結果が違ってきます。
 稲光 「白樺」のあるメンバーの体験です。彼女が担当したのは、一年近く、意識のない壮年でした。毎日、奥さんがお見舞いに来たそうです。意識のないご主人の枕もとで、いろいろなことを話しかけたり、励ましたり、体もふいてあげていました。その姿に、彼女も、すごく感動したのです。
 美しい夫婦愛だね。
 ある日のことでした。病室のテレビから演歌が流れていました。彼女は、ご主人は演歌が好きだったという、奥さんの話を思い出しました。そこで「いっしょに歌いましょうしと、ご主人に声をかけたんです。いつのまにか、「ご主人は意識がなくても、きっと通じている」と信じていたんですね。それから奥さんとともに、ご主人に聞こえるように演歌を歌いました。
 しばらくすると、何と、ご主人の口から声がもれているんです。歌っていたんです。驚きました。もう涙、涙で、「ああ、長い間、奥さんの声が聞こえてたんだな。命で聞いていたんだな。やっぱり全部、通じていたんだな」って感動したそうです。
 松本 それだけ聞くと、医学的には、ちょっと飛躍しているように聞こえますが、実際、そういうことはあるのです。医学的な治療を万全にしたうえで、それを生かすのは患者さんの「生命力」です。その生命力を強くするには、家族や看護師の手助けが大切なんです。
5  「生命力の消耗」を最小にする事
 池田 看護の本質ですね。ナイチンゲールも、看護のポイントは「患者の生命力の消耗を最小にするように整えること」だと言っています。窓を開けて新鮮な空気を入れたり、日当たりの具合を考えたり、静かかどうか、うるさくないか、食事や清潔の注意はもちろん、その人の心身の具合がいちばんよくなるように環境を整えてあげる。(前掲『ナイチンゲール著作集』1、引用・参照)
 だから、ナイチンゲールは、病気を治す根本は、患者自身の生命力にあると信じていたのでしょう。
 その生命力を弱めないように、少しでも高めるように配慮する技術が看護だと信じていた。その意味で、看護の根底は、「相手の生命への尊敬」だと思います。
 松本 私たちも「会うだけで、ほっとする」と言われる看護師をめざします。
 池田 お願いします。「会うだけで、心臓が縮む」のでは、「生命力の消耗」もはなはだしいからね(笑い)。看護師さんが邪険だと、患者は本当につらいものです。
 稲光 ちょっとしたことなんですね、大事なのは。やっぱりナイチンゲールの教えですが、「看護というものは、いってみれば小さな〈こまごま〉としたことの積み重ねなのです。小さな〈こまごま〉としたこととはいいながら、それらはつきつめていけば、生と死とにかかわってくる問題なのです」(前掲『ナイチンゲール著作集』3)
 池田 いい言葉ですね。仏法の指導者の心構えにも通じる。
 小島 これは私自身の体験ですが、ある婦人が、じんましんで入院してきたときのことです。その婦人は、ある病院の看護師長さんでした。ひどいかゆみで夜も眠れないんです。ちょうど彼女の症状がいちばんひどいときに、私は夜勤につきました。注射も薬も何も効果がありません。
 どうしていいかわかりませんでしたが、心の中で題目を唱えながら、「かゆいですね」「かゆいですね」と声をかけ、手や背中をさすってあげました。すると、彼女は二時間くらいして眠りについたんです。
 稲光 朝まで?
 小島 はい。ぐっすりと。翌朝、その看護師長さんから「本当に癒されましたこんな看護の仕方もあるのね」と感謝されてしまいました。
 池田 まさに「手当て」そのものですね。「手を当てる」というのが、「手当て(治療)」のもともとの意味ですから。
 稲光 看護の「看」という字は、「手」と目」両方でできているんです。この両方を働かせることが大事なんです。
6  釈尊はみずから看病した
 池田 なるほど。小島さんの話を聞いて思い出したが、釈尊も病人の体を手でさすってあげたことがあるんですよ。
 小島 そうですか!
 池田 あるとき、病気の修行僧が苦しみながら、ただ一人住んでいました。それを見た釈尊は尋ねた。「あなたは、どうして一人で苦しんでいるのですか」
 修行僧は答えます。「私は生まれつきの怠け者で、他人を看病することができませんでした。それで今、病気になっても看病してくれる人がいないのです」
 そこで釈尊は「私が看てあげよう」と、彼の体を手でさすってあげました。ずっと続けていると、やがて彼の苦しみは、少しずつ癒えていった。それから釈尊は、彼の敷布団をとりかえ、みずから体を洗ってやり、新しい衣に着替えさせてやりました。この僧は、修行に精進することを誓い、身も心も喜びにあふれたと言います。(仏教説話文学全集刊行会編『仏教説話文学全集』10、隆行館、参照)
 僧の体をさすった釈尊の手――それは、まさに「癒しの手」慈悲の象徴です。これこそ看護の原点ではないでしょうか。
 松本 そのとおりだと思います。「手でさする」「布団をとりかえる」「体を洗う」「衣服を着替えさせる」「励ます」――看護の大事な要素が見事にふくまれています。
 稲光 仏教と看護は本来、深い関係があるんですね。
7  ″仏を供養しようと思うならば病人を供養せよ″
 池田 一体なんです。釈尊は、こうも語っています。「もし私を供養しようと思うならば、そのかわりに病人を供養すべきである(「四分律」)、「一切の病人を、仏を供養すると同じように丁重に供養しなければならない。病者に対する看護が最大の善い行いである」(「梵網経」)
 病んでいる人を癒し、励ましていく――それ自体が仏道修行であり、仏がいちばん喜ぶ供養だというのです。
8  医師と看護師は平等のパートナー――社会全体に「看護の心」を広げたい
 池田 この「看護の心」は、専門の看護者だけがもっていればいいというものではないと思う。病気と無縁の人はいません。社会全体が、温かい「看護のの心」を広げていってこそ「健康な社会」も生まれるのではないだろうか。
 稲光 学会の世界には、「励ましの心」「看護の心」が脈打っていると思います。
 池田 ところで看護師不足が深刻な問題になっていると聞きますが。
 小島 「危険で・汚く・きつい」いわゆる「3K」の職場と言う人もいます。
 松本 看護法の改正が必要という声が多いです。
 池田 そうだろうね。決して「医師が上、看護師が下」ではないと思う。むしろ、同じ目的に進む平等なパートナーであり、同志であり、協力者ではないだろうか。
 稲光 医師が「治療し(キュア)」、看護師が「癒す(ケア)」とも言えると思います。
9  「人類のために苦しむのは、ひとつの特権」
 池田 尊い存在です。看護師さんを皆、大事にしなければならない。たしかに苦労は多いでしょう。しかし、人の苦悩を癒し、人のために働くすばらしさは何ものにも、かえがたい。仏法で言えば菩薩です。ナイチンゲールは言っています。「人類のために苦しむのは、ひとつの特権です――それは救世主や殉教者たちだけのものではなくいつの時代でも多くの人々に担わされてきた特権なのです」(前掲『ナイチンゲール著作集』3)と。人を救う「特権しの立場にあるのが看護師さんなんです。
 松本 「特権」ととらえられたら、すごい境涯ですね。グチなんか消えちゃいますね。(笑い)
10  看護する人が「どんな人間であるか」が大事
 池田 ナイチンゲールは、″看護の仕事くらい「その人がどんな人間であるか」が大事な仕事はない″(同前、参照)と言っています。看護師さんと教師の仕事はその人の「人間」しだいで結果が左右されてしまうというのです。
 稲光 身が引きしまります。信仰で自分自身を磨ける私たちは幸せだと思います。
11  「お見舞い」で注意したいこと
 池田 話は変わりますが、病人の「お見舞い」で注意すべきことは何でしょうか。
 稲光 「面会時間の厳守」や「なるべく子どもを連れていかない」といった常識は最低限のマナーです。そのうえで(1)少人数*(2)短時間*(3)明るく静かに、を心がけたいものです。ほかの患者さんや治療の邪魔にならないことです。
 松本 (4)強い「激励」というより、むしろ「安心」をあたえることです。何も心配せずに、じっくり闘病できるように配慮してほしいと思います。
 小島 (5)ヒソヒソ話は厳禁です。見舞いにいった人同士のヒソヒソ話は、何か隠し事があるのではないかと不安をあたえることになります。また、そうした話題はつつしむべきです。
 稲光 (6)家族や同室の患者さんがいる場合には、きちんとあいさつをしたほうが、気持ちいいですね。お見舞いに来た人たちが帰ってしまったあとで、気まずい思いをするのは患者さんです。
 池田 お見舞いも、看護と同じように、病人の生命力を消耗させない、「疲れさせない」ことが、ポイントですね。

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