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日蓮大聖人・池田大作

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「健康」は万人の願い  

「健康対話」(池田大作全集第66巻)

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2  病気の数は約一万五千
 池田 自然体で結構です(笑い)。では、私のほうから、読者にかわって、少々、基本的な質問をしたい。まず病気の数は、どれくらいありますか。
 豊福 ざっと一万五千くらいの病名があります。
 池田 たいへんな数になりますね。
 森田 一つの病気でも、「発生した個所」「発病の原因」「経過」「症状」など、さまざまな要素によって、多くの「病名」に分かれます。
 豊福「結核」一つとっても、「肺結核」「脊惟カリエス」「結核性髄膜炎」「リンパ節結核」といったように、二百五十種類以上もあります。
 池田 「肩こり」は病気ですか。
 豊福 「肩こり」とか「腹痛」といったものは「症状」です。その原因には、さまざまな病気が考えられます。
 池田 今後、どのような病気が増えると予想されていますか。
 森田 環境汚染による病気、エイズやエボラ出血熱などの新たなウイルス病も登場しています。また絶対にあってはならないことですが、「薬害」による病気も近年の傾向です。
 豊福 「心の病」も急速に増えています。胃潰傷や喘息、また円形脱毛症でも、心が関係する場合があります。がん・心臓病・脳卒中の「三大生活習慣病」にも、心が深く関係していると言われるようになってきました。
 池田 「心と病気」「心と健康」の関係は、仏法と医学の接点になるでしょうね。仏典にも、多くの病気の分類法が説かれています。御書には「身の病」として「四百四病」、「心の病」として「三毒乃至八万四千の病」と記されています。(御書九九五ページ)
 また、ひとくちに「心の病」といっても、軽いものもあれば、重症のものもあると説かれています。
 仏法はたんなる精神論ではなく、観念論でもない。心身の病気という現実をきちっと見つめたうえで、仏法者は、いかなる時代でも、医学と仏法の両面から「病苦」に取り組んできたのです。そのうえで、やはり、焦点となるのは「心」の側面であることは当然でしょう。今後、心やストレスに関連する病気が増えてくると、ますます「心と健康」の関係は注目されるのではないだろうか。
3  「大事なのは生あるうちに何をなすか」――「希望こそ生命の秘密兵器」
 森田 そう思います。たとえば、池田先生が対談集(『世界市民の対話』。本全集第14巻収録)を出されたノーマン・カズンズ博士は、″アメリカの良心″と言われたジャーナリストですが、「心身相関の医学」でも先駆的な研究を残しています。
 池田 カズンズ博士は、生涯挑戦、生涯青春を貫いた人です。
 「心と体は一体」という博士の研究は、理論だけのことではなかった。ご自身が膠原病(五十歳で発病)、心筋梗塞(六十五歳で発病)という大病を奇跡的に克服し、七十五歳まで寿命を延ばされた。その間、常人の何十倍にもなるであろう価値ある仕事を成し遂げておられる。
 豊福 すごい「生命力」ですね感動しますね。
 池田 問題は博士の生命力を強めたのは何だったのかということです。
 それは「人類への慈愛」であり、「責任感」であったと思えて、ならない。その根底は「人間への信頼」でしょう。博士はそれをひとくちに「希望」と言われていた。「希望こそ私の秘密兵器です」とも語っておられた。
 また「人生の最大の悲劇は死ではありません。生きながらの死です。生あるうちに自分の中で何かが死に絶える。これ以上に恐ろしい人生の悲劇はありません。大事なのは生あるうちに何をなすかです」と。
 「病気がない」だけが「健康」なのではない。一生涯、何かに挑戦する。何かを創造する。前へ前へと自分の世界を広げていく――この″創造的人生″こそ、真のが″健康人生″ではないだろうか。その推進力となるのが、不屈の精神力です。
 森田 今年、百二歳を迎える″おばあちゃん″Tさんの話を思い出しました。
 神奈川の方です。創価学会に入会したのが六十二歳。性格は明るく、前向きでグチを言わない。学会活動に取り組みながら、リウマチや心臓発作など長年の病苦も克服していったそうです。そうした歓喜の思いを歌に詠んでおられます。
 「百歳の 誕生迎えし わが命 如説修行の功徳なりけり」 
 またあ「人生の 最終章を 目の前に 生き来し方の 語り部となる」と
 「語り部」というのは、四年前から、専門学校の名誉講師として、一世紀にわたる人生経験で得た知恵の数々を女子学生に講義しておられるのです。
 池田 すばらしい健康人生だね。人のために、はつらつと働く――多宝会、宝寿会、錦宝会(創価学会の長寿者の集い。行こう「多宝会」で表記)の方々は、まさに「健康の世紀」と「長寿社会」をリードしておられる。
4  病苦の克服へ医学の知識を、仏法の智慧を――信仰者だからこそ健康に留意を
 森田 最初ですので、ぜひ、池田先生にうかがっておきたいことが、あるのですが。
 池田 どうぞ、どうぞ。
 森田 「仏法の眼」と「医学の眼」の関係性を、どのように考えていけばいいのでしょうか。
 池田 そうだね。わかっているようで、案外、飛躍したり、絡みあったりしている面があるかもしれない。
 豊福 「信心しているのに病院に行くなんて恥だ」とか。(笑い)
 森田 さすがに、そういう人は少なくなっているとおもいますが。(笑い)
 池田 そう。「宗教のための人間」ではない。「人間のための宗教」です。また仏法は道理です。医学を最大限、価値的に使っていくのは当然です。
 「信心しているから大丈夫だ」というのは飛躍であるし、慢心とも言える。何か予兆があったら、当然、病院に行くべきです。信心しているからこそ、より健康に注意していかなければなりません。
 なぜかならば、日蓮大聖人は「一日もきてをはせば功徳つもるべし、あらしの命や・をしの命や」と仰せである。一日でも長生きすれは、そのぶん、永遠の福徳を生命に貯金できる。そのぶん、仏法を守ることもできる。私がこの語らいを始めたのも、根本の思いは、今まで苦労してきた友に「だれよりも健康であってもらいたい」「少しでも長生きしてもらいたい」ということなのです。
 森田 よくわかりました。
 池田 戸田先生(創価学会第二代会長)は、現代人に二つの誤りがあると言われていた。一つは「知識と智慧」の混同。もう一つは「病気と死」の混同です。
 「知識と智慧」はイコールではない。その関係については、いろいろ論じられます。
 今、医学と仏法について、大ざぱに言えば、医学は知識」を使って病気と闘う。一方、仏法は、人間の「智慧」を開発して、自身の生命のリズムを調整するまた生命力を高めるそうすることによって、医学知識の助けを得ながら、みずから病気を克服する、という関係になるのではないだろうか。
 森田 智慧が大事ですね。たしかに医師が全員、健康で長生きしているとはかぎりません。「医者の不養生」は今でも現実です(笑)
5  「医者が包帯を巻き、神が治す」
 豊福 病気を克服する主体者は、自分自身であり、自分自身の「生命力」です。医学的にいえば「自然治癒力」です。医師が同じように手を尽くしても、本人の生命力の強さによってまったく違う結果が出てしまうことは珍しくありません。
 森田 生命力は人知を超えた不可思議の領域ですね。そのへんのことを言ったのでしょうか。西洋には「医者が包帯を巻き、神が治す」(フランスの医師バレー)という言葉があるそうです。
 池田 「神が治し、医者がもうける」(アメリカの政治家フランクリン)ということわざもあるようだよ(笑い)。要するに、「医学」を無視したり、否定するのは愚かです。それでは″狂信″になりかねない。病気を克服するためには、「医学」を賢明に活用することです。その「智慧」を引き出すのが仏法です。
 「健康」も「智慧」です。「長生き」も「智慧」です。「幸福」には「智慧」が必要なのです。「健康の世紀」とは、「智慧の世紀」と言えるでしょう。
6  「病気上手の死にべた」
 池田 次に「病気」と「死」について、戸田先生は「病気上手の死にべた」という俗諺ぞくげんに真理があると言われていた。病気の問屋のような人でも、不思議に長生きしている人もいるというのです。
 豊福 たしかに、そういう人はいます。反対に、健康そうに見えても、急性の病気や不慮の事故などで「死」に襲われる人がいる。またみずから「死」を求める気持ちになる人もいます。
 池田 「病気」は必ずしも「死」にはつながらない。御書に「病によりて道心はをこり候なり」と仰せである。一日でも長生きすれは、そのぶん、永遠の福徳を生命に貯金できる。そのぶん、仏法を守ることもできる。私がこの語らいを始めたのも、根本の思いは、今まで苦労してきた友に「だれよりも健康であってもらいたい」「少しでも長生きしてもらいたい」ということなのです。
 森田 ヒルテイ(スイスの哲学者)だったでしょうか、「病気が心を耕して、深く、大きくしてくれる」と言っています。
 (「河の氾濫が土を掘って田畑を耕すように、病気はすべて人の心を掘って耕してくれます。病気を正しく理解してこれに耐える人は、深く、強く、大きくなり、それまで理解できなかった識見や信念を体得するにいたります」〔「不幸における幸福」岸田晩節約、『ヒルティ著作集』7所収、白水社〕)
 池田 病気と闘うからこそ、人生の裏表もわかるし、不屈の精神力も鍛えられるのです。私自身も幼いころから病弱だった。結核のせいもあって、医師から、三十歳まで生きられるかどうか、と言われた体です。しかし、だからこそ病弱な人の心もわかるようになった。だからこそ、一瞬一瞬を大切に生きよう、片時もむだにせず、生あるうちになすべきことをなそう、と完全燃焼で生きてこられたのです。
7  「生も健康」「死も健康」と――仏法は「三世の健康的生命」を説く
 豊福 とくに信仰者にとっては、「病気」こそ「心の健康」の源泉であるとさえ言えるかもしれませんね。
 池田 そう。体が健康でも生命が病んでいる人は、たくさんいる。体が病気でも、生命それ自体は健康である人もいます。また、生きているかぎり、何らかの病気はあるでしょう。だから、どう病気と上手につきあうか、という智慧が大事なのです。少々、論理が飛躍した言い方になるけれども、「仏法の眼」から見れば、「健康と病気」は「健病不二」である。「生と死」も「生死不二」である。こう結論できる。
 したがって、仏法の健康論は、今世にとどまらず、「三世にわたる健康的生命」を論じます。
 たとえ、いったんは「死」の状態に入っても、生命自体は安穏なる境涯であり、ただちに新たなる使命の庭を見いだして生まれ出るのです。三世にわたって、「永遠なる健康的生命」の輝きを放つのです。その意味で、究極は「生も健康」「死も健康」なのです。

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