Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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人生・社会について  

「希望対話」(池田大作全集第65巻)

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1  問1 大きな宇宙の中で人間はどんな存在か
 宇宙は限りなく大きいのに、それに対して人間の存在はあまりにも小さいと思います。人間一人の存在は、この大きな宇宙の中でどのような意味をもっているのでしょうか。
 私もあなたぐらいの年齢のころ、夜、中天に輝く星の瞬きを見つめては、宇宙の悠久、雄大さに思いをはせ、また、それに比べて人間の一生が何とはかないものかと考えたりしました。ちょうど、軍国主義が盛んになり、自分もやがては戦争に行かなければならないことなどを思うと、人間とは何か、生命とは何かということに、思いをいたさざるをえなかったのです。
 ところで、この地球上のすべての生物のうち、宇宙のこと、生命のこと、みずからの存在の意義などを考えることができるのは、人間だけです。他の生物と同じように、大宇宙に比べればほんの取るにたりない存在でありながら、その人間が考えることのできる範囲は、時間的には永遠の長さ、空間的には無限の広さに及びます。
 これは、当たり前のことのようですが、大切な意味をもっています。つまり、宇宙の真実、自分の存在意義を知ることによって、人はいくらでもその人生を大きなものにすることができるのです。何も考えないで一生を終わる人に比べると、それらを知った人の一生は、計り知れないほど価値あるものといえましょう。
 フランスの大哲学者であるパスカルも、あなたと同じような問題に真剣に取り組んだ結果「人間は考える葦である」という結論にいたりました。人間は、大宇宙からみれば、塵のような、というよりほとんどゼロに近い大きさです。が、原子、素粒子、さらにそれを構成している最も小さな単位の物質に比べれば、無限大の大きさをもっています。悠久の大宇宙に比較すれば、人間の一生はほんの一瞬のように思えるかもしれないが、素粒子の一生からみれば、永遠といってもよい長さです。
 パスカルは、大宇宙の巨大な力からみれば、たしかに人間は川の流れに漂っている葦のように弱々しい存在ではあるが、その葦は「考えることのできる」葦だといって、人間存在の意義を強調したのです。
 こうしたパスカルの考え方は、うなずけるところが少なくありません。しかし、私なりの考えをいえば、人間は決して葦のごとき弱々しい存在ではないと思うのです。
 インドの哲人は、大宇宙も、私たち人間も、その根本をつきつめていけば、ともに同じ地点に到達すると考えました。つまり、結論の要点だけをいえば、大宇宙の運行、律動も、人間の生命も、ともに同じ一つの根本法則を基盤にしたものであるというのです。したがって、大宇宙といえども、本質的には一個の人間の生命に刻みこまれていると考えられるし、さらに、その生命は永遠に連続するものであり、宇宙の存在とともに無窮であると考えたのです。
 これは哲学上の大問題であり、ここで詳しくは説明できませんが、要するに大宇宙は、人間の生命と対立した別々のものではなく、まったく同じ基盤のうえに存在しているということです。
 大宇宙を川、人間をそのなかの葦というように、別々のものと考えるとき、川は恐ろしく強い流れと映るでしょう。そうではなく、人間もまた、その川の中の一つの流れであるというのが、インドの先哲の考えだったのです。
 一滴の海水といえども、大海の成分をすべて含んでいます。また、大海の中にいくらでも広がっていくことができる。と同じように、小さな人間も大宇宙と同じ働きを内に備えているのです。いわば、小さな一個の生命は、大宇宙を包みこむほどの雄大な存在でもあるのです。
 話が少し観念的になってしまったかもしれませんが、こうした力強い自己を発見し、どう開発していくか――そこに自己の存在の意義があるといえるのではないでしょうか。自己の存在意義とは、いいかえれば、自己をどう開発するかの意義であるといってもよいと思うのです。
 悠久の大宇宙の中に生きる自己の無限の可能性を確信して、たゆまず自己を開発していく。それこそ、人間の存在を無限に開く、最も意義ある人生といえましょう。
2  問2 花にも生命はあるのか
 「花には生命がない」という友だちがいますが、私は花にも生命はあると思います。でも、生命とは何かといわれると、はっきりしません。花の生命について教えてください。
 生命という言葉ほど、私たちに最も身近なものでありながら、あいまいな言葉はないかもしれません。あなたの質問も、おそらく、友だちのいう生命と、あなたの考えている生命との意味が違っていたために、そのような食い違いができたのでしょう。
 一般に、生物学的には、動物、植物を含めて生命をもっていると考えていますから、その意味では、あなたの言うように、花にも生命が存在するといえます。ただ、動物は自分の意思で動くことができますが、植物はできません。
 その違いをわかりやすく説明するために、便宜的に、植物には生命はないと表現する場合がありますから、その友だちはそういう意味で言ったのでしょう。ですから、あなたの考えのほうが正しいのです。
 では、生命とは何かということについて説明しましょう。ただし、私は生物学の専門家ではありませんから、ごく常識的に考えてみることにします。
 まず、人間を含めて、動物は自分の意思に従って行動できますが、下等な動物、たとえばアメーバなどになると、植物とほとんど変わらなくなります。それでも、植物はまだ、呼吸したり、生長、繁殖しますから、今、述べたように、生命をもっていると考えられる。ところが、もっと下等な生物になると、生物か無生物かわからないようなものさえあるのです。あるときは細菌の働きをしながら、あるときは鉱物のようになってしまうものもあります。
 また、人間や動物の体を分析していくと、最後には分子や原子になってしまいます。ですから、人間といっても、分子や原子の組み合わせが違うだけで、他の植物や無生物と本質的には違うことはないともいえます。
 それから、人間が生命を維持するための食べ物は動物や植物ですが、その動物も植物を食べているのですから、結局、人間の食べ物は植物であるといってもよいことになります。ところがその植物はといえば、空気、水、太陽のエネルギーなどを摂取して生長します。また動物の死骸が分解されて植物の栄養源になることは、あなたも知っているでしょう。
 そうしてみると、生物と無生物といっても、厳密に分けることはむずかしいといえるし、人間、動物、植物、無生物は、お互いに交流しながら、もちつもたれつの関係で助けあっているといえます。
 少しむずかしくなりましたが、このように自然界をじっくり観察してみると、宇宙に存在するどんなものでも、本質的には差別はないように思えます。
 私は、このようなことから、すべてのものに生命はあると考えたいのです。初めは無生物の世界であった地球から生物が誕生し、徐々に進化して、現在のような種々の動植物がみられるようになったことを思えば、何十億年もの昔、まだたんなる天体にすぎなかった地球も、じつは巨大な生命体であり、動物や植物など次々と生命を生みだしていく基盤をはらんでいたと考えられないでしょうか。いや、その地球を生んだ宇宙自体が、もし条件さえそろえば、どこにでも生命を生みだしていく、雄大な生命体であると私は思うのです。
 ここでいう生命とは、人間や動物のような生きものという意味ではありません。そうした主動の生命を生みだす素地を秘めた一定のリズムということです。自然や草木のように、たんなる無機物や、自分の意思で動くことのできないものであっても、条件さえととのえば、みずから発動する生命を形成する可能性を内に秘めている。
 これを私は「生命が内に眠っている状態」と呼びたいのです。眠っている生命、現在目をさましている生命という違いはあっても、大宇宙のあらゆる存在が生命体であり、私たち人間と同じ仲間だと考えれば、この宇宙は、じつに壮大なドラマではありませんか。
 ですから、生命とは地球だけに限られたものではなく、適当な環境のもとでは、宇宙のどこにでもあらわれる、またあらわれていると考えられます。事実、こうした考えは、ほとんどの科学者が肯定しているのです。
 花に生命があるかどうかという問題から、ずいぶん大きなところまで話が広がってしまいましたが、私は生命をこのように広くとらえていくことにより、すべての自然、草木を人間と同じ生命体として、把握することができ、さらに生命がいかに尊く、不思議なものであるかを知ることができると思うのです。そして、そこから、より深い人間自身の本質への洞察の眼も開けてくることでしょう。
3  問3 死後、人間はどうなるの?
 人間は必ずいつかは死にます。人間は死んだあとどうなるのでしょうか。
 これは難問中の難問です。これがわからないところに、人間のいろいろな苦悩があるといってもよいほどです。
 では、人間は死んだあとどうなるのか。肉体的には焼かれてしまえば灰になり、煙になって、大地や大気にとけ込んでしまいます。意識や記憶、思考といつた精神的なものも消え去ってしまいます。とすると、死んでしまえば、すべてが無に帰してしまうのでしょうか。
 現在は、そうした考えが一般的のようですが、もし、死が人間のまったくの終着点であるとすれば、さまざまな不合理が生じてきます。まず、死んでしまえば終わりなら、なにもこの世で苦労する必要はないし、楽しくおもしろく暮らせばよいわけです。真面目にコツコツと努力することがバカらしく思え、正直な人が損をすることになります。現代の風潮は多分にそうした考え方が支配的ですが、それは、このような死に対する考え方が少なからず影響を与えているように思えるのです。
 さらに不思議なのは、人間は生まれながらにして、さまざまな差別があるということです。生まれつき丈夫な人もいれば、障がいをもって生まれる人もいる。裕福な家に生まれる人もいれば、貧乏な家に生まれる人もいる。こうした差別はどうして起こるのでしょうか。そういう両親のもとに生まれたのだからしかたがないといっても、それでは、その生まれた赤ちゃんが、どうしてその家に生まれなければならなかったのかという説明にはなりません。
 そう考えると、死んでしまえば終わりであるという考え方に欠陥があるのではないかという疑問が起きてきます。
 これに対して、インドで生まれ、日本で完成をみた仏教では、たしかに死によって肉体や精神は滅びるが、人間の生命自体は永遠に連続しているのであり、死は決して終着点を意味していないと説いています。
 これは難解な哲学で、簡単には理解できないと思いますが、たとえば、水の一生を考えればわかりやすいでしょう。
 雨が降ると、その雨水は川に流れこみます。初めは小川だったのが大河になり、やがて海に注ぎこむ。この動きはだれにでもわかります。雨として地上に落ちてきた同じ水が海の水になるのです。ところが、海の水が蒸発して大気中の水蒸気になり、それが冷えて、ふたたび雨となって降ってくることは、見ただけではわからない。私たちがそれを知っているのは、科学的な知識として学んでいるからです。
 この水の循環を人間の一生にたとえてみれば、一応、雨水となって地上に降ってくるときが誕生であり、海水になって蒸発するときが死といえましょう。しかし、見た目にはそうであっても、実際は、決してそれで終わりではなく、絶えず循環しているわけです。
 また雨水も、川の水も海水も、たとえ氷になり水蒸気になってもH2Oという本質は一貫しています。姿形はどう変わっても、水の本質は変わらない。
 人間の場合も同じです。生きているといっても、一瞬一瞬、新陳代謝して変化しています。幼児期、青年期、老年期と経ていくうちに、同じ人間であっても、肉体的にはまったくといってよいほど変わっていく。
 精神的にも同様で、ものの考え方などまるで違っていくし、その時その時で変化している。ちょうど雨水が川となり、海に注ぐようなものです。
 それなのに、Aという人間が、どのようなときでもAであるといえるのは、Aの本質、つまりAの生命が一貫して変わらないからなのです。それは、水のH2Oという本質が一貫していることにたとえられるでしょう。
 では、死の場合はどうか。肉体や精神は滅んでも、生命という本質は大宇宙に厳然と存在している、と仏教では考えます。水蒸気になっても、H2Oという本質は変わらないのです。それが、ある縁によって、ふたたび人間として生まれてくる。水蒸気が冷えてふたたび雨水となって降ってくるわけです。
 これと似たようなことを、先年懇談た、汎ヨーロツパ運動で有名な故クーデンホーフ=カレルギー博士も述べていました。西洋流の考え方でいえば、人生は一冊の本にたとえられる。読み終えてしまえば、それで終わりである。しかし東洋人は、人生は一冊の本の中の一ページだと考えている。つまり、そのページを読み終えても、次にまた新たなページがあらわれてくる、というのが博士のだいたいの説でした。(『文明・西と東』参照。本全集第102巻収録)
 ですから、次の生は、現在の生の続きなのです。したがって、よいことをして人生を終えた人と、殺人などの罪をおかした人とでは、次の生において、その違いは、はっきりあらわれます。ちょうど、将棋を途中まで指しかけたところで駒を箱の中にしまい、次の日にまた始めるときは、指しかけたところまで並べてから、前の続きを始めるようなものです。前の日に失敗した人は、不利な状態から始めなければならないのです。生命とは、こういうものだと考察したほうが、人間の生まれながらの差別の問題などがすっきり説明され、一貫性があるのではないでしょうか。
 そういうわけで、死は決して終着点でないどころか、次の生の出発点であると私は考えています。人間はこの世限りであると考えて刹那主義で過ごす人生より、こうした死生観をもつことにより、現在の人生を、もっと建設的に、有意義に、はつらつと送ることができるのではないか――私はこう主張したいのです。
4  問4 運命は決まっているのか
 人間は、生まれたときから運命が決まっているのでしょうか。そうだとしたら、悪い運命は変えることができないのでしょうか。
 運命はだいたい、決まっているといってよいでしょう。同じ人間であっても、生まれたときから差別はあります。また、人生はなかなか思いどおりにいかないものです。どんなに努力しても成功しない人もいれば、それほど努力しなくても幸運に恵まれ、思わぬ成功を収める人もいる。
 それは、自分の意思や考えで決めたものでもないし、決めることもできない。いわば意思の外にあって、人生を大きく支配しているものです。それを運命と呼ぶなら、善悪両面にわたって、運命はある程度決まっているといえます。
 といっても、むろん、いっさいが運命で決定されてしまうとか、運命が決まっているから努力してもしかたがないというのではありません。いくら幸運の持ち主でも、努力しないで果実を得ることはできないし、運が悪くても、努力すれば何らかの報いはあるものです。また、将来どんな職業につくかとか、どんな学校に進学するかといったことまで決まっているわけではありません。
 ですから運命とは、最も根本的なところで人間の幸不幸を左右する力とでもいえましょう。それはちょうど、渡り鳥の通るコースがある程度決まっていて、その軌道から外れることはないようなものといえます。
 では、運命を変えることはできないかという問題になりますが、そのまえに、どうして運命というものがあるのかを考えてみる必要があります。その原因がわからないで、運命を転換する方法を知ることはできないからです。
 運命は何によって決まるかというと、一般的には、何か偶然的なものによると思われているようです。しかし、ものごとには必ず原因があるのであって、人間の目から見れば不思議に見えることも、科学の眼で見れば当然の現象にすぎないことがあるように、ただ偶然のように思えるだけではないのでしょうか。定まった運命という結果だけがあって、それを定めた原因がないというのは、何ともおかしな話だからです。
 とすると、どのような原因で運命が定まるのでしょうか。じつは、これは大変な難問で、現代の科学では解明できない問題の一つとされているのです。この問題の解決には、人間の目、科学の眼のほかの第三の眼(仏法の眼)が必要になってきます。
 そこで、私なりの考えを言えば、前に述べた人間と宇宙、自然の関係、死んだあとの生命の問題などのなかに、すでにそのヒントは示したつもりですが、人間の生命についての深い哲学のなかにこそ、解決の鍵があると確信しています。
 それは、君のこれからの研究課題でもありましょうが、したがって、それがはっきりわかれば、どんな運命でも変えていく方法を発見することができるはずです。
 話が抽象的になってしまったかもしれませんが、以上のことから、運命は人によって、それぞれ一応定まっているけれども、それは変えることができるし、努力によってよい面に転じて生かしていくことができるということだけは知っておいてください。
5  問5 少年少女に最も大切なものは何か
 少年少女にとって、何が最も大切だと考えていますか。
 私は少年少女が大好きです。少年少女には夢があり、希望がある。大空へ向かってどこまでも伸びる、若竹のようなな可能性がある。混乱と不幸のこの社会を、だれもが幸福を満喫できる理想郷に変えていける若い力がある。――諸君が、どんな荒波も乗り越えて、たくまして、成長していってほしい気持ちでいっぱいです。
 そうした少年少女であればこそ、最も大切なもの、失ってはならないものは、まず、正義感だと言いたい。たとえだれが反対しようと、正しいと信じたことは、どこまでも貫いていけるような人であってもらいたいのです。
 イギリスの有名な政治家にグラッドストンという人がいました。首相になること四回、学問、道徳の面においても尊敬を集めた偉人の一人ですが、彼がイートン中学に在学していたころ、学校でストライキ騒ぎがもちあがったことがありました。それは、生徒の間で、一人の教師を憎み、みんなを扇動して起こしたものでした。だがグラッドストンは、そんなことはストライキの理由にはならないと、たった一人で反対したのです。多数の意見には従うべきだとの非難が彼に集中し、なかには乱暴する生徒もありました。しかし、グラッドストンは最後まで主張を曲げず、ついにストライキを中止させたということです。(有原末吉編『教訓例話辞典』東京堂出版、参照)
 このグラッドストンの態度が、どんな場合にも通じるというわけではありません。多数決で決まったことには従うのが、むしろ当然です。しかし、きちんと議論を尽くしたあとでの多数決ではなく、日本にはとくに″長いものには巻かれろ″という考え方があって、少しぐらい不合理だと思っても、権力をもつ人などから言われたときには、それに従ってしまうようなことがよくあります。
 私は、これは悲しいことだと思います。これからの時代を背負っていく君たちは、正しいと思ったことはどこまでも貫いていける人であってほしい。自分の主義主張を堂々と貫徹できる人こそ、人間として最も立派な人だと思うのです。
 次に大切なのは勇気です。勇気と正義感は一体のものといえましょう。つまり、どれほど正義感が強くても、勇気がなければ、その正義を実現することはできません。
 グラッドストンの例でも、ストライキを中止させることができたのは、彼に勇気があったからです。もし、自分一人では心細いなどと思って、勇敢に反対意見を貫かなかったなら、心の中ではストライキに反対しても、実際に中止させることはできなかったでしょう。
 ただし、正義感のない勇気はたんなる蛮勇にすぎません。ストライキを起こそうとした生徒も、勇気があるといえばいえるでしょう。しかし、それは間違った勇気であり、本当の勇気ではない。君たちの学校でも、先頭に立ってみんなをリードし、勇気があるように見える人がいるでしょうが、それが自分のためであったり、正しくないことのためにみんなを引っぱっていくのであれば、決して勇気ある人とはいえないのです。
 この正義、勇気ということは、責任感に通じます。いや、旺盛な責任感に立ってこそ、正義感が生まれ、勇気がわくといえましょう。
 クラスをよくしていこうという責任感が強い人は、みんなで決めたことはきちんと守るものですし、クラスのことを率先してやるはずです。そして、もしそれを破る人がいれば、間違いを注意することでしょう。それは正義の主張ですし、その行動は勇気ある行動でもある。責任感のない人は、正しくない行動をする人がいても、見て見ないふりをするにちがいありません。
 ところで、正義感、勇気、責任感といっても、いろいろな種類があります。そのなかで私は、人間の生命を何よりも大事にし、守りきることこそ、最大の正義、勇気、責任であると訴えたい。
 平和も幸福も、自由も平等も、生命を最も尊厳なものと考え、人間性をすべてに優先して尊重するところに、いかなるものにも壊されない盤石な基盤を得ることができるからです。
 人間にとって、なかんずく君たち少年にとって最も大事なものこそ、そうした正義感、勇気、責任感であると私は考えています。
6  問6 同じ人間がどうして悪人と善人に分かれるのか
 世の中にはよい人と悪い人がいます。同じ人間なのに、なぜ悪人と善人があるのでしょうか。
 人間の本性が善であるか悪であるかについては、古今の哲学者がいろいろと考えてきました。その代表的なものとしては、もともと人間の性は善であり、種々の縁によって悪の面があらわれてくるという″性善説″の考え方、逆に、人間は本来、悪の性質を強く備えており、それは法や秩序で抑えることによって外面にあらわれないようにできるとする″性悪説″などがあります。性悪説を重視した場合には、人間の悪を野放しにしないために、厳格な法律、秩序が必要だということになり、性善説では道徳が重んじられることになるでしょう。
 しかし、こうした説にもかかわらず、あなたのいうように、善人もいれば悪人もいるというのが現実のようです。といっても、もともと善人は善人、悪人は悪人と決まっているのではなく、善人といわれる人でも、ときによっては利己主義や栄誉栄達を望む心が顔を出したり、悪人の典型といわれるような人にも、わが子を思う優しい心があるものです。
 「ジキル博士とハイド氏」という有名な小説があります。昼間は謹厳で温厚なジキル博士が、夜は一変してハイド氏という悪人になるという話ですが、人間は本来、このジキル博士とハイド氏という両面の性質を、みずからの生命の内に備えているのではないかと私は思っています。
 つまり、人間には、他人をおとしいれたり、争ったり、こびへつらったりする醜い性質もあれば、困っている人を見ると、わが身を捨てても救ってあげたいという尊い心もある。しかもそうした心は、強制されて出てくるのではなく、さまざまな縁によって、瞬間瞬間にあらわれてくる。それが真実の姿ではないでしょうか。
 では、すべての人が善悪両方の性質をもっているなら、なぜ、善人と悪人があるように見えるのでしょうか。もちろん、環境や、教育の影響ということもあります。貧しい生活環境で育った人は、他人をけ落としても生き残ろうという性格になりやすいことも考えられます。
 しかし、一方で、苦労した人は、同じ環境にある人の苦しみがよくわかり、何とか助けてあげたいと思うものでもあります。なんの苦労もない人のほうが、むしろそうした人間の機微を知らず、傲慢になりやすいものです。
 また、同じような環境で育った人でも、その環境を自己の人間形成に用いていける人と、それに負けて、自分をますますひねくれさせてしまう人がいる。そうなると結局、環境のいかんではなく、自分自身の問題になってくるといえましょう。
 もちろん私は、なにも善人ぶってものごとに対処せよというのではありません。自己の生命の内にある両面の本性の実体を知らずして、さも善人であるかのような顔をしても、それこそ、ジキル博士とハイド氏のような二重人格者になるのがオチです。
 大事なことは、そうした自分をよく見つめて、長所、特性を伸ばしていくことです。醜い面、悪の面から目をそむけるのではなく、それをしっかりと見極めて、コントロールしていくことです。その積み重ねによって、悪の本性はしだいに影をひそめ、善の本性が表にあらわれてくるようになるでしょう。
 ところで、善人といっても、その基準はあいまいです。一般的には、温厚で謙虚な人格者というのが、善人のパターンになっているようですが、私は、それに加えて、最高の善人とは、人々の幸せを考え、社会、世界の平和を愛し、生命を最も大切にする人であると言いたい。いかに温厚であっても、現実の不幸を見て、敢然と挑戦できないようであっては真実の善人とはいえません。多少の性格上の欠点はあっても、そうした目標に向かって勇気ある実行を続けられる人こそ、善人のなかの善人であると思うのです。
7  問7 なぜ子どもには自由がないのか
 僕たちには、親や先生のいうことを聞かなければならなかったり、行動にいろいろな制約があったりして、あまり自由がありません。大人には自由があるのに、なぜ僕たちにはないのでしょうか。
 私も、少年時代には、君のように考えたこともありました。あれをしてはいけない、これをしてはいけないと言われる子どもは損だし、大人には自由があるから、大人になったら何でもしようなどと思ったものでした。しかし今では、そのような少年時代がかえってなつかしく感じられます。
 たしかに、君の質問のように、一見、子どもには自由がないように見えますが、それでは自由とは何でしょうか。自由がないと嘆くまえに、その意味をよく知る必要があります。
 よく、自由を、何をしても勝手ということのように思っている人がいますが、それは間違いです。それは放縦であり、自由とはまったく違うのです。他の人にどんな迷惑がかかろうが、したい放題のことをするのが放縦ですが、自由には必ず責任がともないます。自分のすることにきちんと責任をもって行動してこそ、自由を主張することができるのです。
 ですから、自分のしたことの後始末ができなかったり、他の人に迷惑をかけても平気でいる人は、自由について語る資格はない。君たちのなかにも、ことあるごとに自由を主張する人がいるでしょうが、自由と放縦を間違えている場合が、はたしてないでしょうか。
 たとえば、中学生は学校に行かなくてはいけないから、一見、不自由なように思えます。大人は学校に行かなくてもよい。サラリーマンなら出勤しますが、サラリーマンがいやなら自由業を選ぶことができる。しかし、大人には、一家の生計を立て、社会の発展に貢献するという重い責任があります。君たちから見れば、大人は自由なように見えるかもしれませんが、大人から見れば、子どもは責任がないし、気が楽で、むしろ子どものほうが自由なように思えるものです。
 両親や学校の先生は、きちんと勉強するように、やかましく言うでしょう。ときには厳しく叱ることもあると思います。だから子どもには自由がないと君たちは言うかもしれない。しかし、両親や先生は、君たちを立派に育てる責任があるからこそ、叱るのです。その責任の重さを考えれば、大人は、決して君たちの考えるような自由を楽しんでいるのではないのです。
 自由に責任がともなうものである以上、自由を獲得するためには、責任を果たす能力を備えなければなりません。今、君たちが不自由だと言いながらも、両親や先生の言うことを聞かなければならないのは、その能力を身につけるための訓練なのです。
 それは、ちょうど母船のそばで練習を重ねる小舟にたとえられます。大海を航行するのに、羅針盤もなければ航海技術も知らない、舟自体の力も弱い小舟では、いくら自由自在に走りまわりたいと思っても、そんなことをしたら沈没してしまうにちがいありません。
 そのためには、やはり、どんな荒波にも耐えられる船になり、危険を未然にキャッチして乗り切る判断力、操船技術等を身につけなければならない。それまでは、母船の目の届くところで訓練を受けながら、大海に乗り出す日を待たなければならないわけです。
 ですから、両親や先生から言われることを義務と思うのではなく、今のうちにしか学べない権利なのだと考えるべきです。今は、十分に力をたくわえて、やがては社会の大海を思うぞんぶん走りまわり、人々の平和と幸福に貢献していくのだという、大きな目的観をもって励んでほしいと思うのです。そうした目的観に立てば、不自由だと嘆くのは浅い考えだということがわかるでしょう。
 いや、私は、大人に比べて君たちに自由がないとは思いません。学校の休み時間や放課後、そして休日と、好きなように使える時間は、大人に比べると、はるかに多いではありませんか。その時間に、運動をしたり、好きな本を読んだり、音楽を聞いて楽しむこともできる。あるいは友だちと遊ぶのも、全部自由です。大人になってからではできないことも、君たちの時代には自由にできます。
 なるほど、行動にはいろいろな制約があるでしょう。たとえば夜、出歩いたり、繁華街へ勝手に遊びに行ったりすることは、学校で禁止されたりもしているでしょう。
 しかし、それを不自由と感じて嘆くか、それとも、母船のそばで練習している小舟の姿としてとらえ、現在の自分にできることを積極的に行っていくか、そのへんに、君の質問に対する答えがあるように思うのです。
8  問8 どうやって自分を鍛えればよいか
 偉人伝などを読むと、今の自分は恵まれすぎているように思いますが、現在の環境のなかで、どのようにして自分を鍛えるべきでしょうか。また、本当の偉人とはどういう人をいうのですか。
 「艱難汝を玉にす」という言葉があります。困難、苦境を避けてはならない、それに挑戦し克服してこそ、人間は磨かれ、大成していくのだという意味です。前にもこのことにふれましたが(「勉学・読書について」の章、第2問参照)、青少年期に困難に直面しながら、それに打ち勝ち、やがて人々の尊敬、信望を一身に集める偉人、英雄になったという話は数多くあります。そういう本を読むと、自分にはとくに経済的、家庭的な悩みはないし、とてもそのような人たちのマネはできないと思うかもしれません。
 たしかに、置かれた環境はずいぶん違うと思います。しかし、その本をもう一度よく読み返してみてください。はたして、苦難のなかに身を置いたから、その人たちの成長があったのでしょうか。もし、苦しい環境というだけなら、もっともっと例はある。その環境に負けて堕落し、敗北の人生を送った人も多いはずです。結局、環境がどうだったかではなく、環境に挑み、克服しようとする姿勢が、他の人よりも強かったところに、偉人といわれる人たちの優れた点があったと思うのです。
 人間は環境で決まるものではありません。与えられた環境をどう生かすかによって成長は決まるのです。ですから、今の自分は環境に恵まれているから自分を磨くことができない、などということは絶対にない。自己を錬磨する気持ちさえあれば、挑戦の題材はどこにでもころがっています。環境のいかんではなく、問題は、それをどう発見するかです。自分は恵まれていて、成長の糧がないと思っていること自体、すでに環境に負けている姿であると、いえるかもしれません。
 たとえば、学校で、みんなから離れて一人ぼっちになっている人や、自暴自棄になっている人と心からの友だちになって、明るさを取り戻してあげることは、やってみれば難事中の難事であることがわかるでしょう。もし、君が勇気をもってその実行に踏み出すなら、それはすでに君自身を鍛えていることになるのです。
 ところで、今日の日本は、時代そのものが、底流はともかく、一応は明治維新や第二次世界大戦直後のときのような動乱、変化の時代ではなく、比較的平穏な落ち着いた世の中になっています。したがって、歴史に登場する偉人といわれる人たちが活躍したような、花やかなヒノキ舞台というわけにはいかないかもしれません。
 しかし私は、偉人とは、歴史の表舞台に立って、聴衆からヤンヤの喝采をあびる人だけをいうのではないと思う。また、もしそれらの人々がいかに優れた指導性を発揮し、新しい時代を築いたとしても、結果として、庶民を戦争に駆り立て、多数の血の犠牲をしいているようなときには、その人は決して、偉人でも英雄でもないと言いたい。
 本当の偉人とは――有名でなくともよい。歴史に名が残らなくともよい。いわば、いかなる富、力、技術でも救えない一人の不幸な年配者を両の手でしっかり抱きかかえ、悩みを解決し、救いきっていく――そうした人こそ、真実の偉人であると思うのです。
 どれほど文明が発達し、生活が便利になっても、人間としての苦悩はそれで解決されるものではありません。いや、文明が発達、進歩すればするほど、かえって人々は不幸になっているともいえます。表面的な繁栄に反比例して、現代は、より根本的な、人間としての悩みがあらわになってきたような観があります。そうした時代にあって、隣人の不幸を自分の不幸とし、真に平和で幸福な社会を建設するために立ち上がる人ほど尊い人はない。
 私は、次代を担う君たちには、ぜひともそういう人になってもらいたいのです。そしてそのために、今こそ体を鍛え、知識を吸収し、きたるべき日に備えて力を養ってほしいのです。
 勉強にしろ、生徒会やクラブ活動にしろ、友だちの問題にしろ、自分を鍛える場は無限にあります。それを積極的に探し出して挑戦し、見事な成長をとげることを心より期待しています。
9  問9 どうすれば戦争や紛争のない平和な世界をつくれるのか
 人類の最大の不幸は戦争だと思います。しかし、いつも地球上のどこかで戦争や紛争が行われています。人間は戦争や紛争のない、平和な世界をつくることはできないのでしょうか。
 戦争ほど悲惨で残酷なものはない。私も本当にそう思います。思うというより、私は実際に自分の体験から、そう断言せざるをえない。
 私がちょうどあなたぐらいのとき、あのいまわしい太平洋戦争が始まりました。四人の兄は次々と、お国のためという美名のもとに、戦地におもむいていきました。そのときの母の悲しみに満ちた眼差し、そしてわが子の戦死が知らされたときの、何ともいえない悲痛な顔は、忘れようとしても忘れられません。最愛のわが子を失った母の悲しみ――それは、私の母だけでなく、世界の母親に共通のものでした。
 戦争に対する憎しみは、少年の私の胸に深く深く刻み込まれました。そして、それはやがて、必ず戦争のない世界をつくるんだという誓いに変わっていったのです。
 その誓いは今でも変わりません。万物の霊長として最高の知性を誇る人間が、どんな理由があるにせよ、なぜ殺し合わなければならないのか、私は悲しく思わざるをえないし、一日も早く戦争や紛争を絶滅したい気持ちでいっぱいです。
 しかし、いくら嘆いてみたところで現実は変わらない。どうすれば戦争がなくなるか、平和を愛する人々の英知を結集し、力を合わせて不断の努力を続けなければなりません。
 そこでまず、なぜ戦争が起こるのかを、考えてみることにしましょう。
 戦争の原因は、歴史的にみるといろいろあるようです。食糧を手に入れるために争うという単純な動機から、もっと大きな経済的進出を目標にした戦争。あるいは一人の独裁者の征服欲を満たすための戦争。さらには、宗教、思想上の対立で戦争が起こることもあります。
 しかしながら、そうした種々の原因をもっとつきつめていくと、どの戦争も、人間のもつ一つの醜い性質が、より根本的な原因になっている。つまり、世の中では、一方が得をすれば一方は損をすることが多い。そして人間というものは、得をすればしたでますますそれを拡大しようとし、損をすれば何とか挽回しようとする。そのために争いが起き、これがこうじると、たとえ相手を殺してでも、ということになる。得か損かという表現は適切でないかもしれないし、このように簡単には図式化できない面もありますが、戦争の原因になっているものに共通しているのは、そうした人間の本能ともいうべき″欲望″であるように思われるのです。
 人間どうし殺し合うことが悪いのは、だれでも知っています。それなのに、現実には、さまざまな名目のもとに、つねにどこかで戦争や紛争が行われている。人間の歴史は戦争の歴史であったとさえいってよいくらいです。
 ですから、欲望というのは大変な魔性だといえます。人間には理性があり、理性の力が強ければ戦争などしないはずですが、欲望という魔力のまえには、理性など、大火に向かう小さな消火器にすぎないのかもしれません。
 では、戦争をなくすにはどうしたらよいのでしょうか。私は、一つには価値観を転換することだと思います。つまり、人間の生命はすべてのものに優先されなければならないものであり、あらゆる価値のなかで最高のものだという意識をみんながもつことです。いや、たんなる意識ではなく、無意識の意識にまで高め、強めることです。
 そして、いくら立派そうな大義名分であったとしても、もしそれが、人間の生命を犠牲にして行われるものであれば決して正義ではない、偽りの正義である――という考えをすべての人が強くもつことです。
 私は、それはとくに、未来の″地球責任者″であるあなたがたに訴えたい。過去、幾多の″正義″の名のもとに、数多くの若者が戦争に駆り立てられてきました。本人は当然のこと、親を、きょうだいを、友人を、恋人を、すべての人々を不幸のどん底にたたき落とす憎むべき戦争――。その不幸を絶対に繰り返さないために、どんな時代がこようとも、その姿勢だけは永遠に貫き通していってほしいのです。
 しかし、それはただかけ声だけでできるものではありません。そのためには、人間の心の中に巣くう欲望の魔性を鋭く見つめ、それと対決し、正しくコントロールしていけるだけの深い哲学がなければなりません。
 人道主義、ヒューマニズムという理性を基盤とした人間尊重の考え方が、欲望の魔力の前にあえなくついえ去っている現状を思うとき、一人一人の生命そのものを清らかにしていくことこそ、戦争を絶滅させる決め手だと思うのです。
 なぜ生命が尊いのか、そして生命を尊極のものとする考え方を、誤りなく生活、社会のうえにあらわしていくにはどうすればよいか、この根本問題に答えうる哲学を見いだすことができたとき、人類は長い殺りくの争いの歴史に終止符を打つことができるでしょう。
10  問10 21世紀の日本や世界はどうなっているのか
 今、科学は非常な勢いで発達していますが、一方で公害や環境破壊が大きな問題になっています。二十一世紀の日本や世界はどうなるのでしょうか。
 未来の社会がどうなるかを予測することは、非常にむずかしい問題です。数年前、未来学が一種のブームになり、いろいろな学者によってバラ色の未来社会が描かれましたが、最近では、公害や環境破壊の問題などが大きくクローズアップされて、むしろ悲観的な観測が多くなされているようです。ですから、正確に予測することはほとんど不可能に近いといってよいでしょう。
 それに、どのような時代になるかを考えることも大事ですが、より大切なことは、どのような時代にしていくかです。二十一世紀の日本や世界は、他のだれのものでもない。君たちのものなのですから、どういう時代を創るか、君たちが主体的に考えていかなければならない問題だと思うのです。
 ここでは、そのための参考として、いくつかの問題点を指摘しておくことにしましょう。ただし、第三次世界大戦のような大規模な戦争がないという前提での話です。大戦争が起これば、二十一世紀どころか、人類自体の存続さえあやういからです。
 第一に、科学技術が想像もできないくらいの発達をとげることは間違いないと思います。最近の科学文明の発展は驚くべきものがあり、ひと昔前までは夢物語だった月の探検(一九六九年七月、アメリカのアポロ11号が、月画着陸に成功。人類が初めて月に降り立った)さえ現実のものとなりました。二十一世紀まで約三十年、科学がどの程度まで進歩するか、まさに限りないといってよいでしょう。
 しかし、ここで考えなければならないことは、科学技術の発達が、そのまま人々の幸福に結びつくとはかぎらないということです。たしかに、交通や通信の技術はめざましく発達し、新製品が次から次ヘと造られて、生活は以前とは比較にならないくらい便利になりました。が、ついに核兵器のような大量殺人のための道具も、科学の進歩によって製造されるようになったのです。
 科学は、それ自体では善にも悪にもなるものです。肝心なのは、それを使う人間です。人間しだいで、人類の幸福の増進に計り知れない貢献もすれば、人類を絶滅させる凶器にもなるのです。とすると、人間自身の問題が、必然的に大きなテーマになってくるでしょう。
 第二に、科学の発達に関連しますが、公害や環境破壊の問題がますます切実になってくると思われます。今、空といわず河川といわず、海も陸も、私たちの周囲はすべて有毒物によつて汚染されているといっても過言ではないくらいです。しかも環境問題を一挙に解決する方法は、これといってないうえに、文明が発達すればするほど汚染の度合が激しくなるのですから、どうにも始末の悪い問題です。こうした現状に対し、人類は徐々にではあるが確実に死へ向かっていると、多くの学者が警告を発していますし、このまま進めば、その時期は意外に早いという人さえいます。
 現在では、日本などの先進工業国でとくに問題になっていますが、今まで環境問題など思いもよらなかった清浄な地域が、次々に汚染されていることを思うと、こうしたことが、やがて世界的な規模で起こるのではないかと心配です。
 第三に、物質面での生活は豊かになり、労働時間も短くなるでしょうが、その一方で、生きる目標が失われた社会になっていく恐れが多分にあります。現在でも、アメリカなど豊かな国では、人間らしく生きることをめざして青少年がかなりヒッピー化しています。それは、欲しいものはだいたい手に入り、仕事はほとんど機械がやってしまうようになると、何のために自分は生きているのかという根本的な疑問がわいてくるからでしょう。この問題は、まさしく人間そのものの問題であり、今後、人間はどうあるべきかという問題の解明が、非常に重要になるにちがいありません。
 このほかにもいろいろな問題があるでしょうが、こう考えてみると、どうやら二十一世紀の最大のテーマは″科学と人間″ということではないかと私は思います。そして、なかでも人間自身の問題が、最重要の問題として、過去のどんな時代よりも大きく取り上げられるようになる気がします。
 さらに、ではその人間自身の解明、科学の正しい発達は何によってなされるかというと、結局、生命と哲学の問題に帰着せざるを得ないのですから、二十一世紀は″生命哲学の世紀″とでも呼ぶべき時代になるといってもよいでしょう。

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