Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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勉学・読書について  

「希望対話」(池田大作全集第65巻)

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1  問1 学校の勉強は試験のためとしか思えない
 中学時代はしっかり勉強することが最も大切だといわれます。しかし、今の勉強は、試験のための勉強にしかすぎないように思えるのです。
 何のために勉強するのか――いろいろ理由はあげられますが、一言でいえば、人間らしい人間として成長するためだといえましょう。
 国語や英語はそのまま社会生活に役立つものですし、数学など、直接には人生に関係なく思えるような科目でも、筋道だったものの考え方を養ううえで大切な勉強です。
 ですから、試験のための勉強では決してないし、また絶対にそうであってはならないと私は思います。
 しかし、現実は、残念ながら、君の言うように、試験のために勉強するような形になっている傾向が強いようです。よい会社に就職するために一流大学へ行き、一流大学に進学するためには一流高校ヘ行かなければならず、そして一流高校に進むために試験でよい成績をとる。――まるで、そのための勉強であるかのようになっているのは否定できません。
 だからといって、社会が悪いんだ、教育制度が悪いんだといって勉強しないのは、考え違いというものです。こうした社会を変えていくのが君たちの役目であり、それをなしとげるためには、やはり、今、しっかり勉強して力をつけておかなければならないからです。
 これは勉強以外の問題にも通じることですが、ただ、社会が悪い、だから自分はこうなんだというのは、たんなる批判であり、言いわけにすぎません。
 そういう社会をよくするために、今、自分は何をなすべきかを考え、それを着実に実行するのが、未来を見つめた少年らしい生き方ではないでしょうか。
 考えてみれば、人間とは怠惰なもので、試験があるからこそ勉強もするし、励みにもなるわけです。私はなにも試験制度を全面的に肯定するのではありませんが、もし試験がなかったら、大部分の人はあまり勉強しなくなってしまうでしょう。そうなれば、そのときは試験がなくてよいように思っても、将来に大きな悔いを残すことになってしまいます。結局、試験のために勉強するように一応は思えても、じつは自分自身のためなのです。
 そこで言いたいことは、試験に対する考え方を転換することです。試験のために勉強する、つまり試験を勉強の目的と考えるのではなく、勉強するための励みとして、言いかえれば手段として考えるのです。
 ですから、そのために勉強が進むならば、試験のための勉強であってもよいと思います。スポーツをテーマにした小説などに、監督の鍛え方が厳しくて、最初のうちは叱られるのを恐れるあまり練習に励んでいても、成長したあとで振り返ってみれば、厳しく鍛えてくれた監督に感謝するという話がよく出てきます。
 それと同じように、試験が目標のようであっても、それを一つ一つ乗り越えていくところに学力の増進もあり、さらには自分自身の大きな成長もあるのです。
2  問2 落ち着いて勉強に専念できる環境ではない
 勉強をしようと思っても、家が狭く、勉強部屋もありません。また、きょうだいも多くて騒がしいので、落ち着いて勉強に専念できません。どうしたらよいでしようか。
 君のような悩みをもっている人はたくさんいると思います。自分の部屋があって、悠々と落ち着いて勉強できる人はごくわずかでしょうし、多かれ少なかれ、ほとんどの人が同じような問題に直面していることでしょう。
 ところで、勉強とは、自分自身との戦いです。たとえ、立派な勉強部屋があり、ほしいだけの参考書が手に入り、優秀な家庭教師がついていたとしても、肝心の当人が真剣に勉強しなければ、何の役にも立ちません。
 たしかに、環境が整っていれば勉強しやすいかもしれない。しかし、それは、より勉強がしやすいという条件にすぎないのであって、それ以上のものではないのです。そうした条件に恵まれた人がはたして一生懸命勉強しているか、成績がよいかというと、決してそうとはいえません。君の友だちのなかにも、悪条件のなかでがんばり、見事な成績をおさめている人がいるでしょう。結局、どれだけ勉強するかは、その人の勉強に対する意欲、取り組み方しだいなのです。
 本当に″しっかり勉強しよう″という心があれば、どんな環境でもできます。発明王といわれたエジソンが、青年のころ、列車の中で働きながら勉強した話は有名ですが、エジソンだけでなく、心から燃えあがる勉強への意欲があるならば、条件の悪さなど問題ではないのです。
 君にも経験があると思いますが、たとえばテレビや雑誌に夢中になっているとき、お母さんに呼ばれても気がつかないことがあるでしょう。ときには消防自動車のサイレンさえ耳に入らないこともあると思います。勉強の場合も同じです。真剣に机に向かっている時は、周囲が騒がしくとも、たいして気にならないものなのです。ですから、まず君自身の勉強に対する姿勢を確立することが根本だと思うのです。
 そのうえで、次に大事なのは創意工夫です。家が狭いなら狭いなりに、与えられた条件のもとで、どうしたら最も効果的に勉強ができるか考えてみるのです。
 たとえば、学校や地域の図書館を利用するのも一つの方法でしょうし、家庭で相談してテレビの時間を決めて、それ以外は勉強できるようにしてもらうのもよいでしょう。また、昼間は騒がしくてどうしてもできない場合は、夜間に勉強するようにしてもよいと思います。
 ともあれ、私は、少年時代には、むしろ困難ななかで大変な思いをしながら勉強したほうが、将来のためにはよいとさえ思っています。極端な言い方をすれば、そうした環境に感謝すべきだと思うのです。
 君たちの前途にはさまざまな困難が待ち受けています。嵐の日もあれば闇夜もある。自分の望む条件のもとでものごとができるのは、むしろまれといってよいでしょう。そのとき、人生の基盤をつくる今の時代に、恵まれた環境のなかでぬくぬくと育った人と、苦労し、自分の力で道を切り開いてきた人と、どちらが力強く生きぬくことができるでしょうか。
 今は、たしかに対変かもしれません。静かになちきいて勉強できたら、と思うかもしれない。しかし、悪条件のなかでやりぬいていくこと自体、将来の大成のための、堅固な基盤をつくっているのです。悪条件を嘆くのではなく、それを逆に、成長のための血肉としていく――そういうたくましい少年であることを願っています。
3  問3 どうすれば成績を上げられるか
 成績が悪いので悩んでいます。どうしたらよい成績をとることができるでしょうか。
 あなたの質問は、大学生から小学生まで、だれもが知りたいことでしょうが、結論的にいえば、コツコツ努力して積みあげる以外にないというのが私の考えです。
 なかには生まれつき自分は頭が悪いのではないかという人がいますが、人間の頭のよしあしは、それほど違うものではありません。
 戸田城聖先生は、教育者でもありましたが、よく、頭がよいとか悪いとかいっても、一本の線を引いて、その線の「上」と「下」ほどの違いしかないと言っていました。
 イギリスの哲学者ミルトンが「天才とは努力と勤勉の結果」と言い、フランスの博物学者ビュッフォンが「天才とは忍耐する素晴らしい能力」と言っているのも、そのことを示していると思います。
 そこで努力ということですが、プロ野球の選手を考えても、どんな優秀な打者でも練習を重ねなければよい打率を残すことはできません。では練習とは何かというと、バットを振ることに尽きます。バットを振るという簡単な、まったく基本的な動作を何回も何回も繰り返すことによって一流の打者になるわけです。ピッチャーも同じです。ボールを投げるというだれにでもできることを、毎日毎日続けて初めてエースになれるのです。
 私は、勉強も同じだと思います。机に向かって教科書を読み、ノートをとる――何の変化もない、むしろつまらないことかもしれない。しかし、つまらないからといってバッターがバットを振ることを怠り、ピッチャーが投球練習をいいかげんにしたらどうなるでしょうか。どんな強打者、エースでも、またたく間に成績が下がるにちがいありません。
 ですから、よい成績をとるためには、ふだんの勉強こそが大切なのです。予習、復習をきちんとやり、授業中は先生の話を真剣に聞く。すべてそれで決まってしまうといっても過言ではないでしょう。それを根気よくどこまで続けられるか、それが決め手です。
 そこで、今度は勉強法です。どういう参考書を使ったらよいか、どうノートをとったらよいかという問題になりますが、これは個人差があって、いちがいには言えません。ただ言えることは、いろいろと試行錯誤するなかで、最も自分にあった方法を自分が発見していく以外にないということです。一応の巧拙はあるでしょうが、最初のうちは友だちなどに教わるとしても、結局は、自分にピッタリした方法がいちばんよいのではないでしょうか。
 私なりにいえば、成績が悪い人は基礎がしっかりしていないことが多いようですから、あくまでも教科書を中心に、復習に力を入れたらどうかと思います。それも、今、学んでいるところだけでなく、一年生の最初の教科書から丹念に読み返してみるのです。そうすれば、すでに習ったはずなのに、理解しきれていないところが、きっと出てきます。
 どの点がわからないのか、それが発見できればシメたものです。あとは先生に聞くなくり、友だちに教わるなりして、自分のものにしていけばよいからです。
 どうがあせらず、着実に、努力を積み重ねていってください。
4  問4 勉強とクラブ活動の両立がむずかしい
 中学時代は勉強することも大事だし、クラブ活動に参加することも大事だといわれています。しかし、片方に力を入れると片方がおろそかになるのですが……。
 結論的にいうと、大変かもしれませんが、勉強もクラブ活動も、両方ともやるべきだと思います。
 中学時代は人生の土台づくりの時です。ビルディングを建てるのに、底の浅い軟弱な土台では、あとでいくら高いビルを建てようと思っても建てることはできない。土台を深くしっかり固めておいてこそ、高いビルを建てることができるわけです。それと同じように、今の時代に鍛えておかなければ、大きな人間に成長することは不可能に近いといえます。
 その土台づくりとは、端的にいえば心身の鍛練にほかなりません。心、つまり知識を吸収することであり、身、つまり丈夫な体をつくることです。また心とは、友だちとの協調性、忍耐力、社会人になるための教養等をつちかうこととも言えましょう。その総合力が、これからの人生の基盤となるのであり、その上に今後、専門的な知識や技術が積み重ねられて、社会人としての完成をみるわけです。そこに、勉強だけではなく、クラブ活動の重要性があります。なかには、教育ママの影響かもしれませんが、勉強以外のことは何もやらないという人がいますが、いくら成績がよくても、それでは人間としての成長はありません。
 そうした大事な中学時代であれば、自分の力の限界に挑戦するぐらいの気持ちで、すべてのことに取り組んでみることも必要ではないでしょうか。両方ともやりきることは、たしかに大変でしょう。君も言うように、片方に寄りすぎて、もう片方がおろそかになる場合もあると思います。しかし、それを恐れる必要はないと私は言いたい。「二兎を追うものは一兎も得ず」ということわざがありますが、未来に伸びゆく少年時代において、その慎重さは、かえって自分の力を小さなワクの中に閉じこめてしまう結果になると思うのです。失敗もよし。失敗も必ず未来のための財産になるはずです。どんどん二兎を追う、ファイトのある少年であってほしいというのが、君たちに対する私の願いです。
 時には、板ばさみになって悩んだり苦しむこともあるでしょう。でも、そこでもうダメだなどと思ってはなりません。その悩んだり苦しんだりすることが、じつは大事なのです。
 それを突破しようとするところに、工夫も生まれ、努力もあり、成長もあるのです。悩みもなく、努力もしないで、人間の成長はありません。麦も、麦踏みで踏まれるからこそ寒い冬にも負けずに成長し、春の陽光を待って実を実らせるのです。君たちもまた、そうした悩み、苦しみと戦っていくなかに、将来への堅い土台を築いていけるのです。
 そのうえで、どうしたら両方やりきれるか、二つだけアドバイスをしておきましょう。
 一つは、両方ともやりきるというのは、いつも両方に同じように力を注ぐという意味ではないということです。つねに半分半分の割合でやっていたのでは、両方とも中途半端になる恐れがある。試験期や大事な科目の予習、復習をしなければならない時は勉強に主力を注ぐべきであり、その他の時で、クラブ活動が盛んな時は、その練習や研究を主にすべきです。要は、そのバランスを誤らないことが大切なのです。
 第二に、勉強する時は勉強に、クラブ活動の時はクラブ活動に一〇〇パーセント集中することが大事です。何事でもそうですが、一つのことをやっている時には、そのことに集中し、それに全力をあげなければ十分な効果があるはずがありません。
 最もいけないのは、勉強している時にはクラブ活動やその他のことが気にかかり、クラブ活動をしている時に勉強のことを考えることです。ところが、そういう人が意外に多いのです。うまく両方やっていけないという人のほとんどが、そういう人だといっても言いすぎではないくらいです。
 今は、勉強とクラブ活動という二つの問題ですが、大人になっていくにつれて、幾つものことをやらなければならなくなってきます。まして、社会に貢献できる人になろうと思えば、それこそたくさんの仕事がきちんとできなければなりません。そのときのためにも、一つ一つのことに全力を尽くすという習慣を今からつけてほしいと思います。
5  問5 なぜ読書は大切なのか
 よく読書が大切だといわれますが、学校の勉強だけではいけないのでしょうか。なぜ、いろいろな本を読む必要があるのでしょうか。
 学校での成績をよくしようとするだけならば、それとは関係のない本は読まなくていいかもしれない。しかし、将来、幅の広い、人間性豊かな人になるためには、少年時代から、広く、深く、いろいろな本を読むことが大切だと思います。
 本を読むことは、いろいろな人の書いたものにふれることにより、第一に他人の知識、経験を、自分のものとすることができ、豊富な知識を得るうえで役に立ちます。また第二に、知識だけではなく、本によって、自分にはない新しいものを、そこに発見することができ、幅広い考え方ができるようになります。そして、この幅広い考え方は、人間が、一生を送るうえで、非常に大切なものとなってきます。
 第二に、小説や物語では、さまざまな登場人物と親しむうちに、自分自身の心にある正義感や創造性が弾き出され、自然のうちに、人間としての生き方とか、自分の進むべき道とかが、自覚できるようになります。
 これらのことは、学校で教えてくれるかもしれません。しかし、たんに教えられるより、自分が読んでつかんだもののほうが、結局、あとになってみれば自分の栄養になっていることが多いのです。
 今、社会に出て、大いに活躍している人のなかには、少年時代に、時間のたつのも忘れて読んだ本の感動が、その後の、人生の方向を決めたという人も、かなりいます。また、それほどでなくても、読書を通してつちかった、創造性や正義感が、大人になっても、その人の人格の底に流れている例も少なくありません。
 私も、少年時代、病弱だったこともありましたが、本が何よりも好きで、古本屋に行っては、伝記や小説など、さまざまな本を探し求めては読みました。
 そのなかで、フランスのビクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』を読んだ時の感動は、今でも忘れられません。そのころは、ユゴーの深い思想的なことはわかりませんでしたが、パン一つを盗んで、十九年間も牢獄に入れられたジャン・バルジャンが、出獄し、孤児コゼットを、わが娘のように愛し、周囲の冷たい眼と迫害のなかを、立派に育てていく美しい人間愛に、強く心をうたれました。
 それで、読み終わった時「いつか、自分も、ユゴーのような、人を感動のルツボに巻きこむ長編小説を書きたい」と思ったほどです。そのほか、少し大きくなり、青年時代に、むさぼるように読んだホイットマンの詩やダンテの『神曲』なども、自分の人間形成に、強い影響を与えています。私は、いろいろな事情から、思うぞんぶん、大学の教育も受けられませんでしたが、読書を通して、青春時代を充実したものにすることができたと、今でも確信しています。
 読書によって、人は、自分の心の宝を磨くことができます。なかには、むずかしくて、途中で投げ出したくなる本もあるかも知れません。しかし、内容のある本を読み終えたときの感激は、山の頂上を極めた登山家と同じ喜びといえるのではないでしょうか。
 「ひとり灯のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなうなぐさむわざなる」――少々、むずかしい引用になりましたが『徒然草』の吉田兼好の言葉です。読書によって、私たちは、遠い世界の人々や、昔の人と、友だちとなることができるでしょう。
 鋳型にはまったような、狭苦しい人間にならないためにも、できるかぎり、本を読み、自分を磨いていくことが大切であると思います。
6  問6 どんな本を読めばいいのかわからない
 読書が大切だということを聞き、何とか本を読もうとするのですが、どんな本を読めばいいのか、よくわからなくて困っています。中学時代に読むべき本は、どういう本でしょうか。また、どんな本を読めば力がつくでしょうか。
 どんな本を読んだらいいかは、いちがいに、断定できません。その人が何に関心をもっているかということもあるでしょうし、好き嫌いもあるでしょう。
 ただ、手始めに本に親しみたいというのであれば、何か、君自身に、キッカケがあったほうが読みやすいでしょう。たとえば、君が、地理や歴史がなんとなく好きであるとか、またどうも苦手で、これを克服したいとかの気持ちがあれば、地理や歴史に関する、比較的読みやすく、わかりやすいものから始めてもよいでしょう。
 歴史の場合であれば、歴史に登場する人物の伝記、たとえば豊臣秀吉であるとか、吉田松陰の一生などをおもしろく読める本もあります。
 また科学関係のことなら、少年向きに、わかりやすく書かれた科学書もありますし、場合によれば、SF小説などの読み物もけっこうでしょう。生物関係に興味があれば、昆虫の生態に関する話であるとか、図鑑であるとかいうように、何か自分が身近に感じている問題をよりよく案内してくれる書物から始めると、比較的読みやすいものです。
 それらは、ほとんどが学校の図書館か、近くの図書館に備わっていますので、図書館に行き、そこで分類整理されている書棚から、自分にピッタリきそうな本を選んでくればいいと思います。
 このようにしていくと、本を読むことが、しだいにおもしろくなり、関心の範囲も増えて、″こういう本も読もう″″あの本も読みたい″というように、広がっていくと思います。
 さらに、中学時代に、どのような本を読むべきかについては、学校の友だちや先生がすすめてくれる本や、中学生を対象にした雑誌などで推薦本としてあげられている本の中から選ぶ方法もあります。先生がすすめてくれたり、雑誌などで推薦している本は、中学時代に読んでおく必要があると思われるものですので、一読する価値があるでしょう。
 これに加えて、私の意見をいえば、自分の関心や身近に感ずることについての本だけでなく、できれば、君たちの正義感や感受性を豊かにする本を読んでほしい。
 たとえば、偉大な足跡を残した歴史上の人物の伝記物語や、名作といわれる世界の文豪の文学作品などです。
 とくに、文学作品は、社会に出てからでは、なかなか読む余裕がなく、君たちの年代から高校時代に読まなければ、読む機会を失ってしまう場合があります。私が、文学を強調するのは、何も、自分が好きだったからというのではありません。
 偉大な文学作品の中には、人間の真実に迫ろうとしたものが、必ず、キラキラと輝いているものです。そして、その人間の真の生き方、人生のあり方というものは、決して文学に興味をもつ人だけに必要だというものではありません。
 理科や数学が好きで、将来、技術者になりたいと思っている人も、真剣に考えなければならない問題が、そこに含まれているはずです。直接には、そうした分野に関係ないかもしれませんが、その人の人格をつくるうえに影響を与えることは、疑いありません。
7  問7 あきっぱい性格で読み続けられない
 本を読もうと思っても、僕はあきっぽい性格なのか、すぐあきてしまいます。とくに、小説などは、読み始めても、なかなかとけ込めず、いつも途中で放り出してしまいます。読書にあきないコツを教えてください。
 本というものは、いざ開いてみると、最初は読みづらいものです。連続物で、次の結末を知りたいとか、よほど冒頭から、おもしろい話が展開されているとかといったことのないかぎり、なかなか進みにくい。
 このことは、本を著す作者も知っており、構想がまとまっていても、一冊の本の「書き出し」をどうするかで、大変苦労するのです。ある世界的な文豪の場合でも、最初の数行をいかに書くかに費やした時間が、残りの数百ページの分量を書くのに使った時間と、ほぼ同じであったといわれています。
 これを逆に読者の立場からいえば、それほど本というのは、最初は、とけ込みにくいものなのです。読書にすぐあきるといっても、決してあきらめることはありません。
 そこで「読書にあきないコツは?」という質問ですが、まず、読みたい本から読むということで、始めたらどうかと思うのです。
 君は、とくに小説はあきやすいといっているが、それは、君自身、まだ小説を読みたいという気持ちになっていないのではないかと思う。自分の関心のあることや、読みたいと心から思う本は、途中で、少々のことがあっても、読んでしまうものです。
 たとえば、マンガの本などは、すぐ読める。アッというまに、読んでしまったということが多い。
 また、読まなければならないと思う本は、いやでも、じっくり読むようになる。学校の教科書などは、その好例でしょう。
 したがって、まず、自分の関心のある本、読みたいと思う本を探して読んでみることです。そして、たとえ、その本が読みにくいと思っても、また、わかりにくくても、とにかく、一冊を読み終えることです。
 曲がりなりにも、一冊を読み終えると、読み終えたという充実感が残ります。すると、そこから、もう一冊読もうという意欲がわいてくる。そうしているうちに、だんだんと、本というものに対して親しみがわいてきて、いつしか、少々苦労してでも読み終えるようになるものです。
 要は、まず身近な一冊を読み終えることです。そして、そこから、読後の充実感と読書の楽しみを、自身でつかむことです。
 何事をするにしても、そこに充実感と、楽しみがないと、長続きしないものです。野球だってそうです。初めてグラブをはめ、ボールを手にした時には、どう捕ったらいいのか迷うものです。しかし、そこであきらめてしまっては、野球の楽しさは永遠につかめない。
 何回となく、ボールを後逸し、そのたびに走ってとりにいく苦労を重ねていくうちに、だんだんと正確に捕球でき、やがてファイン・プレーもできるようになる。そうなって野球の醍醐味がつかめるのです。
 とくに、活字というものは、遠ざかっていると、親しみにくいものです。反対に、慣れてくると、案外、スラスラ、目に入ってくるとい特徴がある。
 したがって、身近な本から始めて、活字に慣れていくうちに、これまで取っつきにくいと感じていた本も、読みこなしていけるようになっていくことが多いものです。君も、あきらめずに、挑戦していってほしいと思います。
8  問8 マンガや推理小説を読むのはダメ?
 マンガの本や推理小説などを読んでいると、いつも母から叱られます。僕は、息抜きのため、時々はいいと思っていますが、いけないのでしょうか。
 マンガの本ばかりではいけないが、君の言うように、息抜きのためなら、私はかまわないと思います。だいいち、少年時代にマンガの本も読んでいないようでは、堅苦しい人間になってしまう。
 もちろん、マンガのなかにも、いいものと悪いものがある。とくに、最近のもののなかには、不健全なものもみられます。これは、たしかに好ましい傾向ではなく、考えなければならない問題といえます。
 しかし、だから、すべてのマンガがいけないということではありません。マンガの中には、すぐれたユーモアや、奇抜な発想があって、それらを簡単なコマで追ううちに、自然と、そうした諧謔(ユーモア)やウイットを身につけることができます。
 このユーモアやウイットは、長い一生を送るうえで、また、とかく、堅苦しくなりがちな人間社会のなかで、一服の清涼剤として、非常に役に立ちます。また、どんな苦難にも、いつも笑顔で立ち向かっていく明るく強い人間として、みんなから親しまれる魅力ある人柄も、そうしたなかからつちかわれていくといえましょう。
 このように、マンガは、幅広い情操、奔放な発想を養ううえで、欠かせないものです。現在の大人の社会をみても、少年時代に、どんなマンガを読んでいたかで、かなり感覚が違うともいわれています。
 私が少年のころに読んだマンガは『冒険ダン吉』『のらくろ』などでしたが、今でも、少年時代の夢をさそった一コマや、ほのぼのとしたユーモラスな一コマが、鮮やかに瞼に浮かんできて、懐かしい思い出になっています。
 次に、推理小説についてですが、これも、まったく同じ考え方でいいと思います。君のお母さんが、推理小説を読むことを心配している理由も、よくわかります。
 推理小説には、必ず殺人とか犯罪といった、反社会的な問題がテーマになるので、それを、たくさん読むと、そういう影響を受けはしないかと心配しているのでしょう。とくに推理小説に登場する犯罪者は、かなり緻密な計画を練って、探偵や捜査陣を煙に巻くことなどが多く、いきおい、その完全犯罪の計画自体に熱中したり、関心が集まったりするものです。
 そこで、子どもの健全な成長を願う親の立場から、なるべく、そのような影響を受けないように考えるのも、道理だと思います。
 しかし、推理小説を読んだ人が、すべて犯罪者になるわけではありません。犯罪者のほとんどは、そのような小説とはまったく無関係な動機で、罪を犯しています。
 ですから、君が、推理小説を読みたければ、読むことになんらさしつかえはありません。犯罪者の心理や、巧妙な犯罪計画も推理小説の主要部分ですが、その犯罪の真相を追究する過程の推理もまた非常に大事な要素になっています。
 ものごとの真実、真相を、与えられた材料から一歩一歩論理的に考えていく、この「推理」ということは、私たちが、何か問題を考える時に、決しておろそかにできない作業です。それは、筋道を立てて考えるうえで、基礎になることがらです。
 したがって、自分の考えを緻密にするためにも、また、頭を柔軟に鍛錬するためにも、推理小説は、決して悪くはありません。学校の勉強に、さしさわりのない程度に読んでいけばよいのではないでしょうか。
9  問9 読書ノートは必要? 精読と多読はどちらがいい?
 僕の友だちに、本を読むと、必ず、その本の主題、著者の考え方、さらに読後の感想等をノートに書いている人がいますが、読書のあり方として、やはり、そうしたほうがよいのでしょうか。また、精読と多読のどちらがよいのか教えてください。
 一冊の本を読み絆えたあとで、その本から学んだ点、感動したこと、印象に残る一節等を、読書ノートなどにまとめておくことは、たしかに効果があります。
 書くということによって、その本の内容が整理でき、より深くつかむことができるからです。また、そういう読書ノートを何冊も積み重ねていくことは、ひそかな楽しみですし、読書の充実感を深めることにもなります。年月を経てからも、その読書ノートをみて、自分の成長の跡や、少年時代に考えていたことなどを思い返すこともできます。
 したがって、もし、できれば、そういう読書ノートをつくったほうが有益でしょう。本を読むごとに、ノートに書いていたのでは、大変手間がかかると思うでしょうが、なにも多く書くことはないのです。作者の意図や、本の中心テーマ、それに簡単に、自分が感じたことを列記するだけでもいいでしょう。それだけでも、本を読んだ力が、よりいっそう、自分についてくるものです。
 しかも、読んだ本の全部を、ノートに書く必要はない。とくに何も感じなかった本もあるでしょうし、おもしろくなかったものもあるでしょう。ですから、自分が感動した本とか、非常に教訓になった本とかに限ってもいいのです。具体的なノートのつくり方は、各人各様で、自由でよいと思います。自分の思うがままに、つくっていけばよいでしょう。
 次に、精読か多読か、ということですが、これは、どちらがよいとは、いちがいには言えません。個人の性質もあるでしょうし、読む本の内容によっても違います。
 ただ、本は、幅広く読むにこしたことはありませんが、本によっては、何回となく繰り返して読むベきものもあります。とくに、自分が深い感銘をうけた本などは、何度も読んでみたい気持ちになるものです。深い内容のある本は、繰り返して読むうちに、前回読んだときには気づかなかったことを新しく発見したり、理解できなかった部分がわかるようになったりして、一冊の本を深くマスターすることができるからです。
 西洋に、「一書の人を恐れよ」(トマス・アクィナス)という言葉があります。一冊の本を徹底的に学ぶことほど強いものはなく、それは、時代、社会を動かす力ともなるという意味です。
 西洋では、文学者をはじめ、多くの人にとって、そうした一書は、『バイブル(聖書)』であり、ホメロスの『イリアス』や『オデュッセイア』であり、経済学では『国富論』であったといわれています。世に大きく名を残している人の背景には、必ず、一生のうちに、何回となく読んだ一書が、強い影響を与えています。
 そういう意味から、一冊の本を深く掘り下げて読むことは、非常に大事なことです。もちろん「一書の人を恐れよ」というのは、一冊の本しか読むなということでは、毛頭ありません。もし、他の本はさしおいて、一冊しか読まないというのならば、ずいぶん、視野の狭い、偏頗な人間ができてしまいます。
 自分が生涯かけて読もうとする一冊の本を見つけるためには、多くの本を読まなければならないでしょう。幅広く、さまざまな本を読んでいるうちに、自分の関心や志向性も、やがて定まってきて、そのうちの何冊かを、再度、読み直してみようという意欲がわいてくるものです。
 ですから精読か多読かということは、より深く内容を知るうえで精読、視野を広くするうえで多読、そしてこの両方がともにあいまっていくのが、最も妥当といえると思います。

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