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日蓮大聖人・池田大作

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友情について  

「希望対話」(池田大作全集第65巻)

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9  問9 いやなあだ名をつけられてつらい
 私は、いやなあだ名をつけられています。私がいやがると、みんなはますますあだ名で呼ぶのです。どうしたら、あだ名で呼ばれなくなるでしょうか。
 困った問題ですね。それほど悪気があって呼ぶのではないのでしょうが、あなたが顔をしかめたり、逃げだしたり、懸命になって文句を言ったりするのがおもしろいのでしょう。ですから、いやがればいやがるほど逆効果になるようです。
 そこで提案ですが、思いきって、そのあだ名をあなたが認めてしまったらどうでしょうか。呼ばれても平気な顔で返事をするのです。そんなことは、とてもできないと思うかもしれませんが、そこが辛抱のしどころです。あなたをからかおうとして呼ぶのですから、当のあなたが平気でいれば、拍子ぬけしてしまうはずです。
 最初はそれでも何やかやと言われるでしょうが、決して挑発に乗らないことです。そのうちに、みんなもはりあいがなくなって、そのあだ名では呼ばなくなってしまうにちがいありません。
 それと大事なことは、どんな分野でもよいから、あだ名を呼ぶ人たちに、とてもかなわないと言わせるような、秀でたものをもつことです。
 あだ名というのは、たいていの場合、よいあだ名はあまりないようです。背が低いから″チビ″だとか、太っているから″デブ″だとかというように、体つきや顔つき、身振り話し方などの特徴をとらえてつけることが多いようです。それを、本人が気にしている、あまりよくない特徴をとらえてつけるので困るわけです。
 しかし、人間の価値は、体の特徴がどうだとか、身振りがどうだとかということで決まるのではない。太りすぎている人や背の低い人が、人間的に劣っているなどということはないのです。
 人間としての尊さが決まるのはそんなことではなく、中学生であれば、どれほど真面目に勉強しているか、クラブ活動や生徒会、クラスの役員としてがんばっているか、友だち思いか、家庭での生活がきちんとしているかなどで、立派かどうかが決まるのです。
 たとえば、豊臣秀吉のことはあなたも知っているでしょう。ゾウリ取りから出世して全国を統一した戦国時代の武将です。その秀吉は、顔が猿に似ていたため、ずっと″サル″というあだ名で呼ばれていたそうです。
 しかし、秀吉は決していやな顔をせず、その蔑称を甘んじて受け、与えられた仕事に黙々と励みました。そして、ついに日本一の武将になったとき、もう秀吉のことを″サル″と呼ぶ人は、一人もいなくなったのです。
 ″サル″と呼ばれていた時期の秀吉は、どんなにくやしかったことでしょうか。人間ですから、耐えられない気持ちになったこともあると思うのです。しかし、もし秀吉がそれに反発してばかりいたり、いやだからといって逃げまわっていたら、どうなったでしょうか。おそらく、ますますみんなからバカにされ、あのような大事業も達成できず、一生″サル″のままで終わっていたかもしれません。
 秀吉の偉さは、それを我慢して、今なすべきことに全力を尽くしたところにあるといえます。大きな希望を胸に描き、″今に見ろ!″と歯をくいしばってがんばった、その忍耐と努力が、歴史に残る豊臣秀吉をつくりあげたのではないでしょうか。
 あなたの場合も、たしかに立派だ、とてもかなわないと、みんなから認められるようになれば、自然にいやなあだ名は消えてしまうことは間違いないと思うのです。また、そのあだ名自体は残っていたとしても、尊敬をこめた、あるいは親しみをこめたものに変質していくにちがいありません。
 あだ名にもいろいろな種類があります。親友どうしの親しみのこもったあだ名は、正式な名前で呼びあうより、はるかに親近感を増すものです。学校の先生でも、生徒の間に人気のある先生ほどあだ名をつけられているようです。
 では、そのあだ名はよいあだ名かというと、必ずしもそうではありません。顔が動物のカバに似ているから″カバ″だとか、鼻が低いから″ペチャ子″だとか、知らない人が聞いたらバカにしているのではないかと思われるようなあだ名で呼んでいる。そして呼ばれた本人も、けっこう平気で返事をしているのです。
 こうしたことを考えると、あだ名自体がよいあだ名か悪いあだ名かというより、親近感から呼ばれるのか、からかわれて呼ばれるのかということに問題があるといえそうです。となると、結局、その人自身の問題に帰着するわけで、自信を失ったり、くじけたりすることなく、強く明るく自分自身を磨いていくところに、解決の道があるといえるでしょう。

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