Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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友情について  

「希望対話」(池田大作全集第65巻)

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1  問1 どうすれば親友をつくれるのか
 僕には親友がいません。同級生が仲良くグループを組んでいるのを見ると、うらやましくてしかたがありません。どうしたら親友をつくれるでしょうか。
 親友がいないのはさびしいことでしょう。友だちどうしがいつもいっしょに下校する。今度の休日にみんなでどこかへ出かける相談をしている。――そうした姿を見るとき、たしかにうらやましく感じ、一人でいる自分がたまらなくなってくることもあるでしょうが、決してあせる必要はないと思います。
 中学時代には親友と呼べる友だちがいなくても、高校や大学に進んでいくにつれて、あるいは社会人になってから、親友ができるという例が少なくないからです。また逆に、中学時代には親友がいたが、その後は心を許せる友だちができないという人もあるようです。
 よく、仲良くしたいために、友だちのあとを追いかける人がいますが、自分を偽って他の人に調子を合わせ、親友になろうという生き方には、私は反対です。たとえそれで友が得られたとしても、結局は表面的な交際にすぎず、心からの親友とはなれないものです。それどころか、自分自身を見失うことになって、何のための友だちか、わからなくなってしまいます。また、他の人に追従ばかりしているのでは、最後にはどの友からも信頼されず、心の中でバカにされかねない。それでは、せっかく友だちができたといっても、友情の名からは、ほど遠い、底の浅い交際しかできないことは目に見えています。
 ですから、親友を早くつくろうと思うことは、かえって危険性があると思います。足元をおろそかにして木の実を取ろうとすれば、本の根につまずいて思わぬケガをしないともかぎりません。今、最も大事なことは、まず自分を磨いて、彼のような人と親友になりたいといわれるような自己を確立することだと言いたいのです。
 それには、勉強の面でもよいし、クラブ活動でもよい。放課後の清掃とか、クラスメートに対するちょっとした思いやりなどの小さなことでもよい。だれにほめられなくとも、全力でことにあたり、自分のもっている美点を伸ばしていくことです。そうしたなかに、何ともいえない人間としての輝き、魅力がつちかわれ、あなたにふさわしい親友が、求めずともあらわれてくるものです。
 親友になるケースをみてみると、だいたい、どこかに共通点をもっている人どうしが親友になるようです。レベルの高いい人は高い人どうし、低い人は低い人どうしで親友としての交際が始まるものです。
 君が成長すれば、それなりの人を親友としてもつことができるでしょう。成長しなければ、そうした君に似合いの人としか親友になれません。
 人間形成の大事な時期である中学時代には、優れた親友をもつことが大切です。だからこそ、最高の親友を得るために、まず自分が成長するのです。
 「人はたいていの場合、真の友がだれかひとり見つからなかったことに対するなぐさめとして数人の友と交わるものである」(アベル・ボナール『友情論』大塚幸男訳、中央公論社)という言葉があります。また、「数多くの友だちをもつ者には、ひとりの友もない」(「エウデモス論理学」茂手木元蔵訳、『アリストテレス全集』14,岩波書店)と、ギリシャの哲学者アリストテレスは言っています。一人でもよい。自分にふさわしい、生涯の友が得られれば、その友情に勝るものはないと私は思うのです。
 ひまわりの花は、つねに太陽に顔を向け、太陽が移動すれば、その動きにつれて、同じように顔の向きを変えていくそうです。太陽は、ひまわりの花に調子を合わせるのではなく、厳然と光り輝いている。それでも、ひまわりはついてくるというのです。
 仲の良さそうな同級生の姿に、羨望を感じてばかりいるのは愚かです。今、あなたがめざすべきことは、ひまわりになることではなく、太陽のような存在になることではないでしょうか。
2  問2 友だちが急によそよそしくなった
 今まで仲の良かった友だちが、急によそよそしくなってしまいました。気を悪くさせた原因は、私のほうには、とくに思いあたらないのですが。
 何かあったとき、すぐ自分自身を反省してみるというあなたの姿勢は尊いと思います。あなたは、きっと心の美しい、思いやりのある人なのでしょう。
 ですから、自信をもって、ありのままの自分で進んでください。反省してみて、気のついた点があれば改めればよいし、思いあたる点がないのなら、あれこれ考えずに元気を出して自分の道を行くことです。
 あなたがたの年ごろは、肉体的にもそうですが、精神的にも急速に成長していくときです。ものの考え方も変わりやすい時代です。それは友情の場合にもあてはまります。
 今まではこの人以上の友だちはないと思っていたのが、いつのまにか違うタイプの友だちを求めるようになる、ということも珍しくないのです。また、心の動揺の激しいときですから、何でもないようなことや、うわさ、誤解などによって、いわば衝動的に絶交したりしてしまうこともあるのです。
 そういう時代なのですから、仲の良かった友だちが、よそよそしくなったといっても、あなたが悪いのでもなければ、友だちが悪いのでもない。むしろ、あなた方が、大人に向かって成長している証拠だと私は思います。
 およそ友だちというものは、多くの場合、永遠に変わらないものではありません。あなたも年々成長します。友だちも成長していきます。周囲の環境もどんどん変わっていく。とすれば、友だちも変わっていくのが当然でしょう。あなたも、幼児の時代、小学生の時代、中学生の時代と考えてみれば、同じ人とずっと友だちどうしでいたでしょうか。
 それは、これからも同じです。今後、何回もこうしたことを経験することでしょう。悲しい思い、さびしい思いをしたり、逆にさせたりもすることでしょう。しかし、だからといって、友情なんて、はかないものだと考えてはなりません。
 なぜなら、十代の友情は、お互いの人格を高めあうものであり、いろいろなタイプの友だちと交際していくことによって、しだいに人格が磨かれていくからです。特定の友との交際を幼いころからずっと続けていくという生き方は、すばらしいことのようにも思えますが、人間的な成長からみれば、かえって弊害があるともいえるのです。
 それとともに、友を失ったり、また新しい友ができたりという繰り返しのなかから、やがて本当に心と心の結ばれた美しい友情の花が開いていくということを知ってください。
 その意味で、今、あなたが悲しい思いをしていることは、とても大切な経験だと思います。やがて花開く美しい友情――その尊さは、こうした経験を重ね、試錬に耐えてこそ知ることができるからです。
 友を失うことのさびしさを知らない人には、本当の友情の温かみはわからない。今は、その本当の友情を最高に価値あるものにしていくための準備期間なのです。
 ただ、これからのためにも、親友だからといって、いつも自分に引きつけておこうとすれば、かえって息苦しくなって離れていこうとするものだということは知っておくべきでしょう。お互いに同じ自由な人間として、尊重しあっていく。一個の尊い人格として、個性を認めあっていく。そうしたところに、いつまでも、こわれない友情がはぐくまれていくのです。
 友情とは、決して二人が一つになることではない。二人が二人のままでいながら、そのふれあいを通してそれぞれが成長し、「一プラス一」が、三とも四ともなっていくものなのです。
3  問3 友だちと意見があわない
 友だちと意見があわないことがよくあります。自分ではなるべく協調していこうと思うのですが、うまくいきません。
 自分の意見を主張することは大切なことですし、自分というものに目覚めてくる中学生時代ともなれば当然といえます。むしろ、心では思っていても自分の意見を堂々と言えない人こそかわいそうな人であり、中学生らしくない人といえましょう。数にものわかりがよく、すぐ友だちの意見にあわせてしまうより、あなたはよほどしっかりした、主体性のある人だと思います。
 しかし、人間は社会的動物であり、社会生活を営まなければならない以上、そこにはおのずから一定のルールがあります。つまり、自分が主張する場合、その分だけ他の人の意見も聞かなければならない、ということです。そのルールが守られることによって社会生活が成り立つし、それが民主主義というものでもあるのです。
 また、どんなに優れた人であっても、その人の意見がすべて正しいということはありえない。反対意見があってこそ、自分の考えの片寄ったところ、独りよがりなところなど不完全さが発見でき、より正しい考えに到達することができるのです。ある場合には、自分の意見がまったくの誤りであったことに気づくことさえあるものです。
 どんな人の意見でも、聞くべき点は必ずあるはずです。お互いに自分の意見をいい、相手の意見を聞く――よりよい結論は、そうしたなかに生まれてきます。そのための討論、議論であり、意見の交換なのです。
 ですから、自分の意見の誤りに気づいたときには、即座に改めることが大事です。中国に「君子豹変」(『易経』)という言葉があります。立派な姿をしていながら、態度に一貫性がなくすぐ変わるという意味にとられていますが、真に立派な人は、正しい意見を知ったなら、すぐさま取り入れるというのが、本当の意味です。
 もちろん、こうした態度は一朝一夕に身につくものではない。それだけに、今のうちから心がけて、良識ある社会人として成長する基礎をつくってほしいと思うのです。
 ときどき、自分の意見はどこまでも主張するのだといって絶対に意見を曲げない人をみかけますが、そういう人は、社会生活を営む資格のない人であり、精神的赤ちゃんというべきでしょう。
 赤ちゃんの場合は周囲がみな、大人ですから、それでも通用しますが、同じ中学生どうしで、そうした生き方が許されるはずのないのは当然です。自分では主体性があるつもりでも、それは主体性でもなんでもなく、自己中心主義であり、わがままという以外にない。あなたは協調していこうとしているのですから、精神的赤ちゃんではないわけですが……。
 では協調とは何でしょうか。一言でいえば、譲るべき点は自分から譲っていくということだといえましょう。その節度のある人こそ、本当の意味で、主体性のある人といえるのです。それは、一見、弱い人のように見えるかもしれないが、決してそうではない。むしろ人間的大きさを示すものといえるのです。
 いくら正しい意見だといっても、つねに自分の主張だけを貫こうとすれば、人はなかなか聞くものではありません。いつも自分の意見ばかり押し通そうとする人と、ふだん、よく他の人の意見を聞く人とでは、どちらが本当に大事な時に説得力をもつことができるでしょうか。
 協調性があり、他の人の意見もよく聞く人こそ、いざというとき、本当に主張しぬきたい意見がみんなに聞き入れられるのです。
 それでは、主張を貫くべきことと、譲ってもよいことと、何を基準にして判断するかというと、これは大変むずかしい問題で、いちがいに断定することはできません。どう的確な判断をしていくかということは、じつは、人生を通じての課題でもあるからです。が、少なくとも、自分が相手の立場だったらどう思うだろうか、ということだけは、つねに考えるようにしてほしいと思うのです。
 今の年代は、いわばすべての面において試行錯誤の時代です。ときには意見が真っ向から対立してケンカになったり、ときには同調しすぎて、自分自身を見失ったりすることもあるでしょうが、一つ一つが将来のための勉強なのですから、失敗を恐れず進んでください。
4  問4 友だちの欠点を指摘したら怒ってしまった
 友だちの欠点を教えてあげたら、怒ってしまいました。その人のためを思って言ってあげたのですが、言うべきではなかったのでしょうか。
 欠点を教えてあげることは、できそうでなかなかできないことです。君の場合、怒らせてしまったことは残念ですが、勇気ある行動として、私はほめたたえたい気持ちです。
 江戸時代の貝原益軒という学者は「親友どうしの間では、悪いことならば面と向かっていうべきである。陰でいうならば、うしろめたく聞こえるものである。面前であやまちを責め、陰でよい点をほめるべきである」(『初学訓』)という意味のことを言っていますが、それこそ、本当の友情といえましょう。
 欠点を知っていながら、教えると怒るからといって言わないままでいることこそ、友として恥ずべき態度であり、どれほど親友のようにみえても、それは偽りの友情でしかありません。それは結局自分がかわいいからであり、自分本位の生き方であるわけです。
 それでは、あとで友だちが自分自身の欠点に気づいたとき、彼はどうして言ってくれなかったのだろうと、いっぺんに信用しなくなってしまうにちがいありません。
 たとえ、注意した時は怒ったとしても、冷静になってみれば必ず気づくものですし、そのときは、きっと君に感謝することでしょう。いや、感謝しなくとも、それでその友だちが欠点を直していくのであれば、それでよいのではないでしょうか。友情とはそういうものだと私は思うのです。
 人間は、他人の欠点はすぐわかっても、おうおうにして自分の欠点には気づきにくいものです。ですから、気がついたら教えてあげるということは、とくに、お互いの人格を高めあう少年期の友情においては大切です。医者の例を考えても、手術しなければならないのに、患者が痛がるからといって手術しないでいれば、一時的には患者は喜んでも、長い日でみた場合、決して患者のためにはなりません。
 ただし、考えなくてはならないことは、よいことだと思ってしてあげたことでも、結果としてよいとはかぎらない場合があることです。動機や目的はよくても、方法がまずかったために、せっかくの好意があだになってしまうことがよくあるものです。
 君の場合も、あるいは、もっとよい欠点の教え方があったのかもしれません。
 たとえば、大勢の友だちのいる前で欠点を指摘されれば、怒るのが当たり前ですし、自分で十分わかっていて、いつも気にしているような点なら、あらためて言われると、かえって悪口を言われたように受け取るものです。
 また、言い方にしても、欠点そのものをズパリと言ってあげたほうがよい場合もあれば、長所をほめながら、一方で、それとなく欠点を教えてあげたほうがよい場合もあるのです。
 だれしも、自分の欠点を指摘されるのはいやなものです。お世辞だとわかっていても、ほめられれば悪い気はしないものですが、たとえ冗談だとわかっていても、欠点を突かれるとおもしろくない。考えてみれば勝手なものですが、それが人間なのです。
 それに、先生や先輩から言われるのならそれほどでもないのですが、同輩や後輩に言われると、なかなか素直に聞けないものです。内心では、そのとおりだと思っても、つい反発したり怒ってみたくなるのは、君にも経験があるでしょう。
 こう考えると、欠点を教えること自体は尊いことですが、その教え方には十分注意しなくてはならないことがわかるでしょう。こういったら相手はどう思うか、そのときの精神状態、周囲の状況、言葉づかいなどを考えたうえで、逆効果にならず、友だちがむしろ喜んで欠点を受け入れられるような
 アドバイスのしかたを工夫することが大切です。
 最後に、これは根本的なことですが、友だちに注意するとき、もし少しでも憎んだり軽蔑したりする気持ちがあれば、その注意は相手に通じません。そうした気持ちは、ちょっとした言葉づかいや、態度、顔つきに必ず出るものであり、敏感に相手の心に伝わるからです。そのかわり、本当に友のためを思い、よくなってもらいたいという願いからの注意であれば、たとえ一時的には怒ってみても、きっとあとで考え直すものです。
 たんに、あの点が悪いから注意しようというのではなく、心から相手の成長を思って欠点を教えてあげるようにしてください。
5  問5 友だちの誤解が解けない
 あることについて友だちに誤解されています。私が何といってもみんなは信用してくれず、誤解は大きくなり、悪口は多くなるばかりです。毎日がいやでいやでたまりません。
 まず、誤解させる責任が自分には全然ないかどうか考えてみてください。多くの場合、ちょっと気をつければ誤解を与えずにすむものですし、それは、言葉づかいとか日常の振る舞いといった、ごくささいなものであることが少なくないのです。もしあなたばかりがよく誤解されるのなら、誤解を与えるような要素があるわけですから、謙虚に自分を反省し、そうしたことに気をつけていくべきです。
 ところで、原因はともかく、誤解とか悪口は、人間の社会につきものといってよいくらい充満しています。おそらく、一度も誤解されたことのない人など、一人もいないといってよいでしょう。程度の差こそあれ、だれもが、一度や二度は、いやな経験をしているはずです。大人になれば、それは、ますます激しくなるものです。
 ですから、誤解を与えないように気をつけていくのは当然ですが、その反面、極端にいえば、誤解は必ず受けるもの、悪口は必ず言われるもの、と決めてかかったほうがよいかもしれません。まだ中学生のあなたには厳しすぎる言い方であるかもしれませんが――。
 「たとえ、そちが氷のように清浄であろうと、雪のように潔白であろうと、世の悪口はまぬかれぬ」(『シェークスピア全集』坪内逍遙訳、新潮社。現代語表記に改めた)とは、イギリスの文豪シェークスピアの「ハムレット」に出てくる言葉です。これをあなたはどう考えるでしょうか。
 そこで、問題は、そのなかで、どうたくましく生きていくかということです。
 第一に、誤解されたり悪口を言われたら、それは間違いだ、本当の自分はこうなんだと、はっきり言うことが必要です。黙っていれば、それを認めたことになるからです。
 しかし、そうはいっても、一度誤解が生じたら、なかなか信じてくれるものではありません。
 傷口を治そうと思っていじったりすると、ますます傷が悪化するように、弁解すればするほど、今度は、その弁解が新たな誤解を生むもとにさえなりかねないというのが現実です。
 そこで、言うべきことを言ったら、あとはあまり口論しないほうが賢明です。くやしいかもしれませんが、耐えることも必要なのです。
 そして第二に、中学生としてなすべきことを、ふだんにもましてきちんとやっていくことです。勉強、クラブ活動、清掃などの当番――すべてを、みんなの模範になるようやりきることです。
 「おのれの職分を守り黙々として勤めることは、中傷に対する最上の答えである」とアメリカの初代大統領であるワシントンは言っていますが、百万言を尽くすより、行動で示すことが大事なのです。何といっても、最もみんなを納得させるものは実際の姿であり、現実の証拠だからです。
 じっと耐えて黙々と励んでいく――それはつらいことかもしれない。悪口が耳に入ってくるときなど、耐えられない気持ちになるかもしれません。
 他の人から見れば、そうしたあなたは、負け犬のように見え、悪口が激しくなるかもしれません。しかし、それができるかどうかで、その人の人間的価値が決まると、私は思うのです。
 人間の人間としての本当の偉さは、順調なときはわからないものです。逆境にあるとき、どこまで耐えぬいて、それを克服するか、そこに裸の人間としての真の値うちがあるのです。
 あなたが、それをやりぬいたとき、みんなの誤解はきっと解け、悪口はやむことでしょう。いや、それだけではありません。誤解だったと気づいたとき、みんなのあなたを見る目は、やがて尊敬の眼に変わっていくにちがいありません。そのとき、あなたは、何よりも大事な人間としての勝利を得たことになるのです。
 昔から、偉大な人ほど大きな誤解を受けてきました。その死後、何十年も何百年も誤解されたままでいた人もいます。しかし、今では、そういう人ほど、だれもが尊敬してやまない偉人として敬われるようになっています。
 あなたも、今が試錬の時なのですから、忍耐強く、見事に毒を薬に変えていくことを願ってやみません。
6  問6 中学生時代の男女交際は早すぎますか
 僕にはガール・フレンドがいます。中学時代はまだ早いとも言われますが、交際してはいけないのでしょうか。
 異性との交際は、君にかぎらず、ほとんどの人が関心をもっている問題だと思います。ということは君たちが、子どもから大人へと脱皮しつつある証拠であり、健全な精神の持ち主であることを物語っているのです。
 よく男子と女子の問題をいやらしいとか、けがらわしいとかいう人がいますが、私は、そう考えること自体が不健全な考え方だと思うのです。
 わかりきった話ですが、世の中には男性と女性しかいません。そしてその一人の男性と一人の女性が愛情で結ばれることによって、温かな家庭の建設がある。君の存在自体、両親の愛の結晶であるわけです。したがって、男女の問題は、本来、尊く清らかなものなのです。
 ところで、中学生の男女交際ですが、決して悪いことでもなければ、してはいけないものでもない、というのが私の率直な意見です。
 しかし、無条件で、大人と同じような″恋愛″をしてもよい、というのではありません。そこには、やはり、中学生らしいものでなければならないという条件があるのは当然でしょう。君たちの限りない未来を思えば、その輝かしい将来を無為にしないために、そして眼前に迫っている夢多い青春時代の清らかな開幕のために、ぜひ次のことは守ってもらいたいのです。
 その一つは、家の人に相手の女子をきちんと紹介しておくことです。そして君もまた、相手の家族に知っておいてもらうことです。中学生時代は、半分は大人ですが、半分は子どもです。ということは、大人と違って自分の責任ですべてのことができる年ごろではないということです。よく自分のことは自分でやるから余計な干渉はしてほしくない、と両親などに対していう人がいます。たしかに、もっともな場合もありますが、そうはいっても、結局、君たちの責任は、最後には、両親が負うことになるのです。
 もう一つは、成績が下がったり、生活態度が悪くなるようでは交際する資格はないということです。何といっても、それが中学生活の基本だからです。大人の場合は自由だといっても、仕事をおろそかにしたり、生活が乱れてきたりしたらどうでしょうか。今は、何がいちばん大切かをわきまえ、それをきちんとやったうえでの交際でなければなりません。
 そして第三に、中学生の男女交際は、あくまでも太陽のもとでの正々堂々としたものであってほしいと思います。中学生にはふさわしくない所へ二人で出かけてみたり、夜デートしたり、陰でこそこそつきあうのは、勉強や生活に悪影響を及ぼすうえに、周囲の人々からも非難され、結局は長続きしないものです。
 以上は、どうしても二人だけで交際したいという人の場合ですが、君たちの先輩として私がすすめたいのは、多人数によるグループでの交際です。中学生時代は異性に目覚めるころだけに、異性を見る目がどうしても片寄りがちであり、二人だけの交際というのは失敗に終わる例が多いからです。
 今の君たちにとってむしろ必要なのは、異性というものを、長所も短所も、ありのままに正しく認識することです。いたずらに美化したり、反対に嫌悪したりしては、健全な精神の発達を妨げてしまいます。そのためには、クラスやクラブ活動での自然な交わりこそ、最も大事にしなければならないといえましょう。一対一の交際は、そのあとでのことだと思うのです。
 ですから君の場合も、一人に限定するのでなく、なるべくグループを通じて多くの女子と交流するようにしたほうがよいのではないでしょうか。
 ガール・フレンド――思春期にある君たちにとって、胸のときめく言葉でありましょう。それは、君たちにのみ許された特権でもあります。しかし、ただその甘美な言葉や幻影に酔うのではなく、自己の足元をしっかり見つめて、実り多い青春の訪れを迎える、賢明な人であってください。
7  問7 自分がしっかりしていれば孤独でもいいのでは
 小説などにはすばらしい友情が描かれていますが、自分さえしっかりしていれば孤独でもよいと思います。どうして友人をもつことが大切なのでしょうか。
 友人をもつか、もたないかは各人の自由ですから、友人をもたなければならないというものではありません。また、友人をつくりたいといっても簡単にできるものでもない。友だちどうしになるのは、多くの場合、ほんのちょっとしたきっかけからであり、どちらかといえば、自然のうちに友だちづきあいが始まるもののようです。
 ところであなたは、力のない人や自分だけではさびしいという人が友を求めるのではないか、と思っているのではないでしょうか。もしそうであれば、大変な考え違いです。
 というのは、互いに主体性をもち、それぞれの個性、長所を尊重し、学びあっていくところに真実の友情があるからです。弱々しい木が添え木に支えられて、もちこたえているような友情や、たんに気があうとか趣味が同じだからという友情は、まだ本当の友情とは呼べません。ともに大地にしっかりと足をつけ、そのうえで信頼のきずなに結ばれる――。したがって、しっかりした人、力のある人ほど、内容の濃い友情をはぐくんでいけるのです。
 ではなぜ、友をもつことが大切なのか。結論的にいって私は、だれしも完全な人間はいないし、不完全な自分を、どこまで人間として高めうるかが人生の最大の命題であるからだ、と言っておきたい。
 「自分さえしっかりしていれば……」と言いますが、自分がしっかりしているのか、いないのか、はたして自分でわかるでしょうか。
 世の中で最もわからないものは、ほかでもなく自分自身です。どんな名医でも自分の体は正確に診察できないように、どれほど頭のよい人であろうと、いざ自分のことになると、さっぱりわからないというのが実情なのです。
 この自分を正しく認識することができるということは、何でもないようですが、非常に大切なことです。現在の自分がわかってこそ、未来への成長の正確な軌道が敷けるのであり、その出発点が不明確であれば、やみくもに進むしかないからです。そうした意味において、友と交流することは非常に大切です。それによって、自分の長所も短所もよくわかる。つまり、自分自身というものがよくわかってくるのです。
 それと大事なことは、人間の社会は決して孤独では生きられないということです。とくに、学校を卒業して社会人になれば、自分の力だけではどうにもなるものではない。個人の力も大事ですが、むしろ、他の人とどう協調し、協力していくかが重要になってくる。
 どれほど力があろうとも、みんなといっしょにものごとをできない人は、極端にいえば、社会で生きていくことは不可能だといってよいほどです。
 学校とは、知識を学ぶ所であると同時に、人格を磨く所でもあります。授業や勉強だけではなく、友との交流を通して、社会人として成長する基盤をつくることも、学校教育の大きな目的です。ですから、孤独でいるというのは、学校で学ぶべきことの半分しか学んでいないに等しいといっても過言ではないでしょう。
 それはともかく、こうしてみれば、友を得るということが、成長期にある君たちにとって、どれほど大事なことかわかると思います。
 そこで、小説等に出てくるうるわしい友情ですが、そうした友情は特別な友を見つけなければ育たないかというと、決してそうではありません。「朱に交われば赤くなる」という格言のとおり、どんな人を友としてもつかということは大事ですが、その反面、極端にいえば、たとえ初めは悪友であったとしても、自分が「朱」であれば、その友を変えていくこともできるわけです。
 つまり、すばらしい友情といっても、どこか遠い世界にあるのではなく、今、君の周囲にいる友だちとの間に育てていくことができるのです。君のようなしっかりした人であれば、きっとすばらしい友情をはぐくんでいけることでしょう。
8  問8 リ―ダーになるのと、陰の力になるのはどちらがいいか
 クラスをよくしていくためには、リーダーになって活躍する生き方と、陰の力になる生き方があると思います。どちらがよいでしょうか。
 自分のことだけではなく、クラス全体をよくしていこうという君の姿勢には、心から感心します。何か余計なことをやるように思われるかもしれませんが、他の人のためのようにみえて、じつはそれが君の成長のためにもなるのです。
 自分だけよければよい、クラスのことなどやるのは時間のムダだなどといって、自分のカラに閉じこもる利己主義の人は、人間として最も醜い人であるだけでなく、そうした生き方は、かえって自分のためにもならないものです。
 こんな話があります。
 ―― 昔、ある人が、生きているうちにぜひ地獄と極楽を見学しておきたいものだと思って旅に出ました。野を越え山を越え、ようやく地獄の入口にたどりつきました。中へ入ってみると、盛りだくさんのごちそうがあり、地獄の人々が食卓を囲んでいます。
 ところが想像とは違って楽しそうだなと思ってよく見ると、みんな骨と皮ばかりにやせているのです。使っているハシが腕より長いために、せっかくごちそうをつまんでも日口の中へ入れられないからでした。
 旅人は、次に極楽をたずねました。盛りだくさんのごちそうは地獄と同じです。やはりみんなで腕より長いハシを使って食事をしています。
 ところが極楽の人は、まるまると太っているのです。どうしてだろうと思ってさらに注意して見ると、地獄の人は、自分の口ヘばかり入れようとしていたために食べられなかったのですが、極楽の人はつまんだごちそうを隣りの人の口に入れてあげ、隣りの人から自分の口ヘ入れてもらっていたのでした。
 これは、昔から伝わる仏教説話ですが、エゴイズムが結局は自分をほろぼすものであり、他の人のためと思ってやったことが、その実、自分のためになるということを象徴的に教えている話といえましよう。
 ところで、君の質問ですが、リーダーになるべきか、陰の力でがんばるべきか、性格の違い、周囲の状況などによってさまざまでしょうから、いちがいには断定できないと思います。ただ個人的な意見をいえば、陰の力となって黙々と励む人が、私は好きです。
 陰の力とはつらいものです。やることも地味ですし、他の人から見ればつまらない仕事のように思われるかもしれません。しかし、陰の人があってこそ、表面に立つリーダーが生きるのです。人はよく表面に出ることを望みますが、それは力があればいつでもできます。自分から望まなくとも、自然にみんなが推薦するものです。
 それはともかく、リーダーといつても陰の人といっても、本にたとえれば、根になるか花になるかの違いです。根がなければ花は咲かず、根はあっても花が咲かなければ実は実らない。両方の立場の人がいなければならないわけです。
 そこで大事なことは、どちらの立場になっても、ともにクラスをよくしたいという同じ目的に立つことです。その目的を忘れたとき、陰の人は、つまらない役割だと不満をもつようになり、リーダーになった人は、自分を支えてくれる陰の人の苦労を忘れて、自分だけいい気になってしまいます。
 とくに、リーダーになった場合の注意ですが、リーダーになった人は、たとえ陰にまわっても同じ心でやれなければなりません。おうおうにして表面に立ちたがる人は陰にまわることを嫌うものですが、そういう人は、本来、リーダーになる資格はないのです。
 そして、表面に立つ人は、とくに悪い点はなくてもいろいろと誤解されやすく、ねたまれたりするものだということを承知しておいたほうがよいでしょう。ですから、軽はずみな言動は慎まなくてはなりません。ちょっとしたことで反感をかい、正しいことを言ってもみんなが協力しなくなってしまうからです。
 それだけに、もし、自分は他の人とは違うんだというような特権意識を、少しでももったら大変です。そうした意識は必ず言葉や態度にあらわれ、みんなからポイコットされてしまうにちがいない。私だったらそういう人は最も軽蔑します。
 リーダーの誇りと強い責任感をもちつつ、みんなと同じ仲間として、よきまとめ役として接していく――表面に立つ人がそういう態度を貫いてこそ、クラスもよくなるし、民主主義の精神にもかなうのです。
9  問9 いやなあだ名をつけられてつらい
 私は、いやなあだ名をつけられています。私がいやがると、みんなはますますあだ名で呼ぶのです。どうしたら、あだ名で呼ばれなくなるでしょうか。
 困った問題ですね。それほど悪気があって呼ぶのではないのでしょうが、あなたが顔をしかめたり、逃げだしたり、懸命になって文句を言ったりするのがおもしろいのでしょう。ですから、いやがればいやがるほど逆効果になるようです。
 そこで提案ですが、思いきって、そのあだ名をあなたが認めてしまったらどうでしょうか。呼ばれても平気な顔で返事をするのです。そんなことは、とてもできないと思うかもしれませんが、そこが辛抱のしどころです。あなたをからかおうとして呼ぶのですから、当のあなたが平気でいれば、拍子ぬけしてしまうはずです。
 最初はそれでも何やかやと言われるでしょうが、決して挑発に乗らないことです。そのうちに、みんなもはりあいがなくなって、そのあだ名では呼ばなくなってしまうにちがいありません。
 それと大事なことは、どんな分野でもよいから、あだ名を呼ぶ人たちに、とてもかなわないと言わせるような、秀でたものをもつことです。
 あだ名というのは、たいていの場合、よいあだ名はあまりないようです。背が低いから″チビ″だとか、太っているから″デブ″だとかというように、体つきや顔つき、身振り話し方などの特徴をとらえてつけることが多いようです。それを、本人が気にしている、あまりよくない特徴をとらえてつけるので困るわけです。
 しかし、人間の価値は、体の特徴がどうだとか、身振りがどうだとかということで決まるのではない。太りすぎている人や背の低い人が、人間的に劣っているなどということはないのです。
 人間としての尊さが決まるのはそんなことではなく、中学生であれば、どれほど真面目に勉強しているか、クラブ活動や生徒会、クラスの役員としてがんばっているか、友だち思いか、家庭での生活がきちんとしているかなどで、立派かどうかが決まるのです。
 たとえば、豊臣秀吉のことはあなたも知っているでしょう。ゾウリ取りから出世して全国を統一した戦国時代の武将です。その秀吉は、顔が猿に似ていたため、ずっと″サル″というあだ名で呼ばれていたそうです。
 しかし、秀吉は決していやな顔をせず、その蔑称を甘んじて受け、与えられた仕事に黙々と励みました。そして、ついに日本一の武将になったとき、もう秀吉のことを″サル″と呼ぶ人は、一人もいなくなったのです。
 ″サル″と呼ばれていた時期の秀吉は、どんなにくやしかったことでしょうか。人間ですから、耐えられない気持ちになったこともあると思うのです。しかし、もし秀吉がそれに反発してばかりいたり、いやだからといって逃げまわっていたら、どうなったでしょうか。おそらく、ますますみんなからバカにされ、あのような大事業も達成できず、一生″サル″のままで終わっていたかもしれません。
 秀吉の偉さは、それを我慢して、今なすべきことに全力を尽くしたところにあるといえます。大きな希望を胸に描き、″今に見ろ!″と歯をくいしばってがんばった、その忍耐と努力が、歴史に残る豊臣秀吉をつくりあげたのではないでしょうか。
 あなたの場合も、たしかに立派だ、とてもかなわないと、みんなから認められるようになれば、自然にいやなあだ名は消えてしまうことは間違いないと思うのです。また、そのあだ名自体は残っていたとしても、尊敬をこめた、あるいは親しみをこめたものに変質していくにちがいありません。
 あだ名にもいろいろな種類があります。親友どうしの親しみのこもったあだ名は、正式な名前で呼びあうより、はるかに親近感を増すものです。学校の先生でも、生徒の間に人気のある先生ほどあだ名をつけられているようです。
 では、そのあだ名はよいあだ名かというと、必ずしもそうではありません。顔が動物のカバに似ているから″カバ″だとか、鼻が低いから″ペチャ子″だとか、知らない人が聞いたらバカにしているのではないかと思われるようなあだ名で呼んでいる。そして呼ばれた本人も、けっこう平気で返事をしているのです。
 こうしたことを考えると、あだ名自体がよいあだ名か悪いあだ名かというより、親近感から呼ばれるのか、からかわれて呼ばれるのかということに問題があるといえそうです。となると、結局、その人自身の問題に帰着するわけで、自信を失ったり、くじけたりすることなく、強く明るく自分自身を磨いていくところに、解決の道があるといえるでしょう。

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