Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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生きること 死ぬこと  

「希望対話」(池田大作全集第65巻)

前後
1  ―― 関西に住む中学一年生なのですが、彼は、最近、「死ぬのが、ものすごくこわい」と言っています。
 夜、床につくと、ふっと「もし、このまま目が覚めなかったら、どうしよう」と心配になったり、かと思うと、反対に「自分は何で生きているんだろう。毎日、食べては寝て、このまま、だらだら生きているだけなら、死んだってそんなに変わりないんじゃないか」と思ったり、「やっぱり家族が悲しむから、生きていかないと」と思ったり、揺れているようです。
 池田 なるほど! 何か、きっかけがあったのかな?
 ―― いえ、聞いてみましたが、とくにそういうことではないようです。
 また、女子にも、同じような子は、すごく多いのです。
 「そんな『暗いこと』は考えまい、考えまい。もっと楽しい『前向きのこと』を考えよう」と思うのですが、ときどき、「百年後には、自分も、自分の家族も、友だちも、だれ一人、この世にいなくなるんだなあ」と思うと、ぞっとする、というのです。
 池田 それは、すばらしいことだね!
 死について考えるのは、「人間」である証拠です。考えなきゃいけない。うんと考えないといけない。
 中学生くらいのときは一生懸命考えても、大人になると、忙しさにまぎれて、全然考えなくなる人が多いのです。
 しかし、こんなおかしなことはない。なぜか。
2  「太陽も死もじっと見つめることはできない」
 池田 人間、だれだって、未来の準備をしながら生きている。
 年末が近づけば、お正月の準備をするし、試験が近づけば、試験の準備をする。中学三年生は、卒業後の準備を考えるし、旅行に行く前は、旅行の準備をする。
 ところが、ほとんどの人が、「死」の準備はしない。
 他の予定はどうなるかわからないが、「死」だけは確実だ。絶対に一〇〇パーセント、自分の上にやってくる。
 それなのに、「死」をどう迎えるかということについては、何の準備もしないで、その日その日を、なりゆきで生きている人が多いのです。「太陽も死もじっと見つめることはできない」(『ラ・ロシュフコー箴言集』二宮フサ訳、岩波文庫)と言うが、死から目をそらして生きている。
 ―― たしかに、自分がまもなく死んでしまう病気になるとか、家族に何かあるとか、そういうことがないと、なかなか考えないと思います。
3  死の前では″裸の自分自身″が問われる
 「人は、生まれながらの死刑囚」
 池田 「人間は、だれでも生まれながらの死刑囚である」と言った人がいる。そのとおりです。「死刑」がいつ来るか、わからないだけです。まあ、わからないからこそ、のんきに生きていられるんだが。(笑い)
 若いからといって、死が遠いとはかぎらない。今、健康だから、長生きするとはかぎらない。死は、五十年後かもしれないし、五十分後かもしれない。確実なのは、いつか必ず出あうということです。
 だから、死について考えることが絶対に必要だし、「どう死ぬか」を学ぶことが、「どう生きるか」を学ぶことになる。これが本当は、いちばん「前向き」の生き方なんです。
 では、「死の準備」とは何だろうか?
 ―― 関係ないかもしれませんが、最近、中学時代の友人がオートバイの事故で亡くなりました。彼は信心はしていませんでした。私は、一生懸命、追善のお題目を唱えました。友だちもみんな、突然の死を、どう受けとめていいのかわからなくて、ただただショックで泣いていました。本当に、死はいつ来るかわからないんだと実感しました。
 だから、毎日、本当に「悔い」のないように生きていかないと、死ぬときに、「自分の一生って何だったの?」と、無念の思いで死んでいくことになる……そう思います。
 よく「死の瞬間に、一生のことを走馬灯のように思い出す」と言いますから……。
 池田 若い人は「走馬灯」なんて見たことないだろうから、「ビデオテープ」かな(笑い)。「ビデオの早送り」みたいに、生まれてからの出来事、考えたこと、言ったことが、ものすごい勢いで蘇ってくると言われている。
4  「死の淵から蘇った人」の証言
 池田 多くの臨終に立ち会ってきた、ある看護師さんは、こう言っていました。(『青春対話』〈本全集第64巻収録〉でも紹介)
 「人生の最期に、パーッと、パノラマのように自分の人生が思い出されるようです。その中身は、自分が社長になったとか、商売がうまくいったとかではなくて、自分がどんなふうに生きてきたか、だれをどんなふうに愛したか、優しくしたか、どんなふうに冷たくしたか。自分の信念を貫いた満足感とか、裏切った傷とか、そういう『人間として』の部分が、ぐわぁ―っと迫ってくる。それが『死』です」
 ―― すごい話ですね。こわいくらいです。
 池田 最近は、「死の淵から蘇った体験(臨死体験)」が科学的に研究されるようになってきた。その結果、こういうことが実際に起こるようだと、だんだん証明されてきています。
 多くの人の証言を総合すると、自分がしたすべてを思い出すと同時に、それが人にどんな影響を与えたかまで感じるのだという。
 つまり、人をいじめたことを思い出すと、相手の苦しみや悲しみまで、じかに感じられて、「ああ、なんてことをしてしまったのか」と思う。
 反対に、人に親切にし、優しくしたことを思い出すと、相手の喜びが伝わってきて、「よかったなあ!」と幸せな気持ちになる。そういうことが、あっという短い時間に体験されるというのです。
 そして、「死」から奇跡的に回復した人は、「人生でいちばん大事なことは、地位じゃない。名誉じゃない。財産じゃない。人に認められることでもない。大事なのは、人間と人間の愛情だ! 人に優しくすることだ! 思いやりをもって、尽くしていくことなんだ!」と実感するそうだ。
 こうして、それまでの生き方が大きく変わることが多い。そう報告されています。
 ―― 「生き方が変わる」というのが、すごいですね。臨死体験が錯覚とか、夢とかだったら、覚めてしまえば、それまでだと思います。やはり、現実の体験なんですね。
5  生と死の境目で
 池田 仏法では、何千年も「死」について研究してきた。死んだ後、「生」と「死」の境目で、「奪衣婆だつえば」というおばあさんに出会うと説く場合があります。
 ―― 死んだ人の「衣を奪う、おばあさん」ですね。
 池田 そう。「奪う」と言っても「泥棒」じゃないよ。(笑い)
 死ぬと、生きている間に身に着けていた「衣装」を全部、そのおばあさんに渡すことになっているというのです。これは、この世で自分を飾っていた「地位」とか「身分」とか「お金」とか「学歴」とか「有名」とか、そういうものは全部、はぎとられてしまって、何の役にも立たないということを、わかりやすく教えているのです。
 ―― 裸の自分自身しか残らないということですね。
 池田 自分自身が「どんな人間だったのか」「どんな生命だったのか」、それしか残らない。生きているときは、ある程度、隠されていた、そういう根本の部分が、がーっと表に出てくるのが「死」です。
 そして、その「裸の自分自身」が、死後も宇宙に溶けこんだまま、ずーっと続いていくのです。
6  ある王の臨終の嘆き
 池田 昔のスペインの王様(四百年前のフェリペ三世)は、死ぬときに、こう言ったそうだ。
 「ああ、王になぞならなければよかった。王位についていたあの間、荒野でひっそりと暮らせばよかった。神と二人だけで暮らせばよかった」「これほど苦しんで死んでゆくのに、私の栄光はどれほどの値があるのか」(ジョナソン・グリーン編『最後のことば』刈田元司・植松靖夫訳、社会思想社)
 ―― 「神と二人だけで暮らす」というのは、「信仰で自分の心を磨く」ということでしょうか。
 池田 そうです。「死」のときには、だれも助けてはくれない。お父さんも、お母さんも、親友も、だれも手助けできない。たった一人で、立ち向かうしかない。しかも、お金も知識も役に立たない。
 むしろ、ふだん、いばっていたり、人に命令したり、たくさんのモノで自分を飾っている人ほど、「どうして、こんなに偉い自分が死なないといけないのか」とか思って、苦しむと言われている。そういう研究があります。
 人生の最期に頼りになるのは、ただひとつ、生きている間に「鍛えぬいた生命」だけです。
7  「人間革命」こそが「死の準備」に
 池田 だから、いちばん大事なのは、「いい人間」になることです。「強い生命」になることです。「慈愛にあふれた自分自身」になることです。
 つまり「人間革命」することです。人間革命することが、人生でいちばん大事なことなのです。そして、それがそのまま「死の準備」になっているのです。
 ―― あの阪神・淡路大震災のときのことです。ある女子高校生が被災して、一家で長田文化会館に来られたのです。
 そのとき、彼女は、中学時代に、ある友だちをいじめていたことを思い出したそうです。そして「どうしても、すぐにあやまりたい」と思ったそうです。みんなバラバラになっていて、連携もとれないなか、友だちを探し出すのは大変でした。でも、やっと連絡がとれて、「いじめて、ごめんね」とあやまれたそうです。
 これは「死」ということではありませんが、自分が命にもかかわる被害にあったとき、ようやく「いじめが、どれだけひどいことか」実感したのかもしれません。
 池田 そうだね。早く気がついてよかったね。震災の犠牲者のみなさんのことは、いつも私は追善しています。祈り続けています。きっと、もう、たくさんの人が「新しい使命の場所」に元気いっぱい生まれてきておられるにちがいない。そう確信しています。悲しみは尽きないが、「生命は永遠」なのです。信心していれば、必ず、会いたい人に、また会える。
 こうした震災以外にも、家族や友人を亡くした人が、たくさんおられると思うが、死別したといっても、ちょっとの間、会えないだけです。外国に遊びに行って、しばらく会えないようなものだ。心配ないんだよ。
8  父母を亡くして
 ―― お父さんやお母さんを病気や事故で亡くした未来部員もいます。
 ある姉妹は、お父さんの葬儀のとき、お父さんをよく知る大先輩から「あなたのお父さんは、ふつうの人が三回生まれてきてもできないことをした人なんだよ」と言われたそうです。
 お父さんは、海外での仏法流布に尽くしてこられた方でした。先輩の言葉は、今も姉妹の胸の中で大きく生きているそうです。
 お母さんも続けて亡くした姉妹は、池田先生に何度も激励をしていただきました。
 そして、「だれでも、いつか両親を亡くす。自分たちは、今、池田先生のもとで、その時期を迎えることができたことがうれしい」という心境にいたったそうです。
 池田 強くなった! よくがんばった。ご両親も、いつもそばで見守っています。同志も、いっぱいいる。何も心配ないよ!
 ―― 「両親の心を継いで、大勢の人に尽くしていこう」と、決意しているそうです。
9  人に尽くしきった学会員の荘厳な生と死
 「あの人のおかげで幸せになれた」
 池田 大勢の人に尽くす。その人がいちばん偉い。どんな有名人よりも、権力者よりも偉い。死んだとき、みんなが「ああ、あの人のおかげで、私は幸せになったんだ。あの人の励ましで、私は立ち上がれたんだ」と、慕って集まってくる。そういう人が「人間として」いちばん偉い。そして、いちばん幸福です。
 ―― お母さんを、がんで亡くした女子中学生は、葬儀に、次から次に大勢の人が来られるのを見て、「うちのお母さんは、こんなに偉大な人だったのか!」と、ものすごく感動したそうです。
 池田 そうだね。人数だけ見れば、いくらでも大勢集まる有名人はいるでしょう。義理とか、利害とかあるから。
 しかし、集まったみんなが心の底から「立派な人生でした。お疲れさまでした! ありがとうございました!」と讃え、心の中で喝采するような最期かどうか。
 民衆に奉仕し、民衆の喝采に見送られる人生が最高なんです。その最期は、次の「新しい人生」への晴れの出発です。
 もしも、「体」が傷ついていたとしても、その人の「生命」は傷ついていない。「生命」に輝ききっています。
 その人にとって、もはや「死」は悲劇ではない。
 真っ赤に燃える夕日が、次の日の晴天を約束するように、次の人生の勝利へのスタートになっている。高い山に登りきった人のように、一生を晴ればれと振り返りつつ、未来の黄金の光の世界を展望できるのです。
 「充実した一日」に安らかな眠りが訪れるように、「強く生きぬき、戦いぬいた人生」には安らかな死が訪れる。
 だから、本当にこわいのは「死」ではない。むしろ「生きながらの死」のほうがこわい。せっかく人間として生まれ、使命ある身として生まれたのに、なにごともなしとげず、一日一日を無駄に使い捨ててしまう。課題に立ち向かわない、その臆病のほうが、こわいことなのです。
10  「共に苦しむ力」が友の生命を支える
 ―― こんな質問が寄せられています。
 「別のクラスの友だちが自殺してしまいました。すごいショックでした。名前を知っている程度だったのですが……。担任の先生から、『命の大切さ』について、みんなで考えようと言われて、作文を書かされました。『死んだ彼の分まで、受験にがんばろう』とも言われました。でも、何かすっきりしないんです。そういうやり方は、何か『軽い』というか、『何かが違う』という気がしてならないんです」
 男子中学生ですが、関係者のプライバシーがあるので、言葉は少し変えてあります。また、自殺の原因もよくわかりません。
 いじめられていたようですが、遺書がないと、「はっきりしない」ということになるので……。
 池田 これは、よく状況がわからないし、断定的なことは言えません。
 学校の先生方も悩みに悩んで、できるかぎりのことをしておられるのだと思う。むずかしい時代であり、現場の先生方は、本当に苦労なさっていると思います。
 それを前提にして、現実に彼が「何か違う」と感じているのだから、その気持ちに寄り添って考えてみると、おそらく彼は直観的に「みんな、もっと、死んだ彼の身になってみるべきだ」と感じているのではないだろうか。
 「命の尊さ」という割には、何か「事務的な冷たさ」を感じたのかもしれない。実際にそうであったかどうかは別にして、彼自身はそう感じたのではないだろうか。
11  「人権を踏みにじっておいて……」
 ―― そうかもしれません。まったく別の学校で、ある事件が起こったとき、メディアの取り上げ方が、すごくセンセーショナルで、興味本位だったので、女子中学生が怒っていました。
 そのくせ、メディアは、口では「今の若者は、命の尊さを知らない」とか、立派なことを言うので、反発していました。
 また、男子の多くも、今のメディアを全然、信用していないようです。「人権を平気で踏みにじっていながら、何、言ってるんだ」という感じです。
 なかには誠意ある報道もあると思いますし、質問の彼は、メディアのことを言っているわけではないのですが、何か共通する「うそっぽさ」を敏感に感じているのではないかと思うのです。
 池田 そうだとしたら、学校がどうこうということではなく、「今の日本全体に共通する課題」として、大事な問題を含んでいるようだね。
12  友人を裁くのではなく、心から悲しめる自分に
 池田 そう……遠慮なく言えば、私は、こう思います。
 まず、知人が亡くなったのだから、ただ呆然として悲しむことが、人間らしい反応であって、打ちのめされるくらいが本当の人間らしい心でしょう。みずからの命を絶った人が、それまでに、どれほど悩み苦しんだか。どれほど「生きたい」と願っていたか。
 だれが好き好んで、自殺しますか。だれが「自分の命が大切でない」人がいますか。
 それなのに、どうしても生きていられなかった、その苦しさ、悲しさ、ずたずたにされた心。それを、生きている間、周囲はわかってあげられなかった。だから、せめて死後くらいは、「わかろう」としなければ、あまりにも、むごい。
 死んだ人の苦しさは、とうてい、わからないかもしれない。だからこそ、なおさら「わかろう」と、想像力の橋をかけるべきでしょう。そして黙って泣くことが、祈ることが、残された人が、まず、すべきことだと思う。
 それなのに、「自殺した人間は、命の尊さを知らない」と言わんばかりに、あつかわれたら、死んだ彼が、あまりにもかわいそうだ。生きているときも、わかってあげようとせず、死んでからも、悪いことをしたかのように裁いている。あまりにも、冷たい。
 質問の彼は、言葉にしたら、そういうようなことを感じているのかもしれない。もし、そうだとしたら、その気持ちこそ尊い。「命を大切にする」とは、そういうことです。
 君は、死んだ彼の「裁判官」ではないのだから、「友人」なのだから、それでいい。「友がいなくなって、さびしくてたまらない」と、落ちこむことが正しい。それが人間です。
 それを、自殺がいいとか悪いとかの問題にすり替えてしまうと、いちばん大事な「人間としての情」が、どこかへ行ってしまう。
13  「自殺するような弱い子を育てた」と周囲が言う
 ―― 本当に、そうだと思います。いちばん悲しんでいる親御さんも、周囲から「自殺するような弱い子を育てた」とか陰で言われて、まるで悪いことをしたみたいに批判されることがあるようです。
 「簡単に、命を絶つなんて」と、それこそ「簡単に」言うのです。その人の苦しみを知ろうともせずに……。
 池田 言うまでもないが、自殺は絶対にいけない。生命は、宇宙でいちばんの宝物です。どんな理由があっても、それを傷つけてはいけない。他人の命も、自分の命も。そして、「生命は永遠」であるから、苦しみから逃れようと思って死んでも、苦しみは続く。自分を傷つけたことで、いよいよ苦しみが重くなってしまう。絶対に自殺はいけない。
 今、話しているのは、苦しんでいる人と「いっしょに苦しむ力」「いっしよに悲しむ力」が弱まっているという問題です。今の社会でね。そういう力が弱まっているから、「命の軽視」という風潮が広がっているのではないだろうか。
 だから、死んだ人を悪く言ったりしないで、生きている間に、みんなが敏感に、温かく、友を支えてあげなければいけない。
 「命の大切さ」といっても、それを現実のものにするのは「愛情」であり、人間の「情味」です。「温かさ」「優しさ」です。
 それがないと、口だけで、いくら「生命を大切に」と言っても、何にもならない。言えば言うほど、うそに、偽善になってしまう。
 ―― 彼が感じているのは、まさにそういうことだと思います。
 池田 ともかく、私は、みんなに「温かい、親切な人」になってもらいたいのです。どこまで大きく、優しいのか、底が知れないくらい深い愛情をもった人になってもらいたい。
 勉強すればするほど、心が耕されて、そういう人間になっていくのが、本当の学問です。勉強すればするほど、「冷たい人間」になるのでは、何にもならない。何も学んだことにならない。
14  「温かい人」になる「心の勉強」を
 ″偉い人″の冷たさと思い上がり
 ―― ちょっと飛躍するかもしれませんが、阪神・淡路大震災のときも、学者とか役人とか政治家とか、いわゆる「偉い人」の冷たさというものを、みんな、すごく感じました。
 「人間の命を何だと思っているんだ!」と叫びたくなるような場面が、いっぱいありました。
 今の子どもたちは、そういうシーンを、たくさん見ていますから。震災のときだけではなくて。
 池田 「自分は、人より偉い」と思っている人間は、そう思っている分だけ、「マイナス人間」なんです。ところが、社会的に地位がある人ほど、心の中で、そう思っている人が多い。
 多くの場合、医師は、患者よりも自分が偉いように錯覚する。政治家も、国民より自分が偉いように錯覚する。法律家も、そうです。学者は、自分の専門のこと以外は、しろうとなのに、自分がほかの人より偉いように錯覚する。自分が食べるお米も作れないくせに、農家の人より自分が偉いように錯覚する。そういう「人間を見くだす人」が高い地位にいるのでは、いつまでたっても、社会はよくならない。その間違った考えを、ひっくり返さなければならない。
 人を差別するなら、何のための医学なのか。何のための政治なのか、法律なのか、学問なのか。少しばかりの知識を鼻にかけて、人を見くだすような人間をつくってしまったら、大失敗です。
 「人の心を大切にする」人をつくるための勉強であり、学校です。それが「心の勉強」です。「頭の勉強」だけではなくて。
15  震災後、「障がい者のための施設」を
 池田 大震災のとき、自宅が焼けてしまい、その跡に「障がい者のための施設」をつくった方がおられたでしょう? ああいう方こそが立派です。私は感動しました。神戸の長田区の方でしたね。
 ―― はい。あるご夫妻の話だと思います。ちょうど、今年(二〇〇〇年)の二月(二十九日)、池田先生が長田文化会館へ来てくださった日に、新居が完成して、プレハブだった作業場から、みなさんで引っ越しされたようです。
 池田 よく知ってるね。
 ―― 「聖教新聞」で読みました。(笑い)
 池田 じつは、このご夫婦の奥さんは、お兄さんのことで、痛恨の思い出があった。お兄さんは知的な障がいがあった。偏見の目で見られ、いじめられ、悩んで悩んで、とうとう自分の命を絶ってしまった。お兄さんは二十歳の若さだったそうです。
 (彼女は語っている。「その後、母は、めっきり弱り、一回り小さくなりました。その姿は、私のいちばん深いところに刻まれました」)
 そのほかにも、いっぱい苦労をしてこられた。いっぱい悲しい思いをしてこられた。しかし、彼女は負けないで、悲しみを優しさに変えた。苦労を強さに変えた。施設の作業所では、ほかのところで、ばかにされたり、いじめられたりしてきた人たちが、一人一人、不思議な力を発揮してくださったという。そして、懸命に、自立への道を歩む姿。
 彼女自身が感動するだけでなく、作業所には、いろいろな悩みをかかえた人たちが訪れるそうだ。学校に行くのがこわくなってしまった子。家族のことや、子どものことで悩み、生きる力をなくしてしまった女性。そういう人が、作業所の人たちとふれあって、人間の優しさを知り、強さを知り、元気をもらっている。作業所の人も、それをとても喜んでおられると聞いています。
 どうして、この話をするのか。それは、「絶対に、命は平等に尊い」ことを知ってほしいからです。「人を敬う」心を知ってほしいからです。
16  母よ、嘆くな
 池田 みんな、パール・バックという名前を聞いたことがあると思う。ノーベル文学賞を受けたアメリカの女性です。
 ―― 『大地』を書いた作家ですね。
 池田 彼女の娘さんは、知的障がい者でした。当時のことだから(娘さんは、一九二〇年生まれ)、アメリカでも偏見は強かったようだ。母として、どれほど悲しく、苦しんだことか……。
 パール・バックは、いろいろな施設(学園)を見てまわった。しかし、どこも、ただ閉じこめておいたり、″調教″するみたいな残酷さで″厳しくしつける″ところばかりだった。母は嘆いた。(『母よ嘆くなかれ』伊藤隆二訳、法政大学出版会、参照。以下、引用は同書から)
17  生命に序列(順番)はつけられない
 「子どもは幸福でないと学ばない」
 池田 探して、探しまわって、やっと「娘が正しく理解され、愛され、尊敬される」学園が見つかった。
 そこの聡明な園長先生のモットーは、「まず第一に幸福を。すべてのことは幸福から」だった。
 園長先生は言った。「そのことばは決して感傷ではないのです。長い経験から生まれたものなのです。子どもの魂と精神が不幸から解放されない限り、わたしたちはなに一つ子どもたちに教えることができないのだ、ということをわたしは経験から学んだのです。幸福な子どもだけが、学ぶことができるのです」
 牧口先生、戸田先生の考えと同じです。
 私は、障がい児教育のなかにこそ、教育の原点があると信じています。
 この言葉も、すべての子どもの教育にとって真理だと思います。人は、子どもは、絶対に差別されてはならない。尊敬され、幸福でなければならない。
 学校の成績には序列がある。順番がある。しかし、生命に序列はつけられない。順番はつけられない。だれもが「一番」なのです。全員が「最高」です。
 それを教えるための学校ではないですか! 「自分はがんばれば、何でもできるんだ!」という自信を、一人残らず、与えるための学校ではないですか!
 劣等感を植えつけるために学校があるのではない。それなのに、成績で、人間に上下があるかのように差別するとしたら、大変です。
 だれの生命にも「かぎりない可能性」があるのです。それを信じぬくのが教育の根本だと思います。
18  パール・バックが「娘から学んだ」こと
 池田 そのことを、パール・バックは、娘さんから学んだという。
 (「人はすべて人間として平等であること、また人はみな人間として同じ権利をもっていることをはっきり教えてくれたのは、他ならぬわたしの娘でした。どんな人でも、人間である限り他の人より劣っていると考えてはなりません。また、すべての人はこの世の中で、安心できる自分の居場所と安全を保証されなくてはなりません」「もしわたしがこのことを学ぶ機会を得られなかったならば、わたしはきっと自分より能力の低い人に我慢できない、あの傲慢な態度をもちつづけていたにちがいありません。娘はわたしに『自分を低くすること』を教えてくれたのです」)
 人間は、絶望をくぐり抜けることによって、初めて、人を尊敬できるようになるのかもしれないね。
19  「お子さんを誇りに思ってください」
 池田 彼女は、同じ悩みをもつ親御さんに対して、「あなたのお子さんを誇りに思い、あるがままをそのままに受けいれてほしいのです」と願っている。
 「無理解な人たちの言動や好奇の目には気をとめてはならないのです。あなたのお子さんが存在していることはあなたにとっても、また他のすべての子どもたちにとっても意義のあることなのです」
 「さあ、頭を上げて、示された道を歩んで行きましょう」と。
 重い重い言葉です。
 ―― 涙が出るような言葉ですね。
 池田 人の心に、勇気の火をつける言葉です。
 ―― 前回、「死」を前にしたときは、地位も名声も役に立たない。人生の最期に問われるのは、人間として慈愛深かったかどうかである″と教えていただきました。今回、重ねて、そのことがよくわかりました。
20  人に生きる勇気を与える君であれ
 若いからこそ生と死の哲学を
 池田 ちょっとむずかしかったかもしれない。しかし、中学生のみんなが、若いからこそ、「生と死」の哲学を学ぶことが大事なのです。それが一生の軌道を作っていくからです。それが戦争をなくし、人類が「楽しく生きられる」地球を作っていくからです。
 あっという間に過ぎていく人生です。人を妬んだり、いじめたりしているひまなんかありません。
 思うぞんぶん、自分を伸ばし、「生きるということは、あんなにすばらしいことなのか!」と、人に感動を送り、希望を送るみなさんであってください。
 人に勇気を与えていくような人生であってください。
 「私も生きたい。あの人の生きたように。あの人の生きたように!」と言われる人に! 全員が!

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