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日蓮大聖人・池田大作

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平和って何?  

「希望対話」(池田大作全集第65巻)

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1  ―― きょうは、ある宿題に頭を悩ませている人かえらの質問です。
 「休み期間の自由研究で、『ふたたび戦争を起こさないために、自分たちに何ができるかを考えよう』というのを選びました。でも考えてみると、日本は今、平和だし、これから日本が、また戦争をするなんて、ありえないと思うのですが、どうでしょうか」と。中学二年生の女子なんですが。
 池田 たしかに、戦争といっても、中学生のみんなには、ピンとこないかもしれないね。お父さん、お母さんだって、「戦争を知らない世代」なのだから、それも当然かもしれない。
 「開戦」を報じた新聞も配達した
 池田 太平洋戦争が始まった時(一九四一年十二月八日)、私は十三歳だった。まもなく十四歳になった。だから中学生のみなさんの年齢のときは、まるまる戦争の中で暮らしたことになります。
 新聞配達をしていたから、「開戦」を報じた新聞も、私は配達したんだよ。国中が異様な興奮に包まれていくのが、実感としてわかった。
 戦争のために、何回も焼け出されて、家はめちゃくちゃになるし、軍需工場で働かされるし、それは、つらかった。父は病気だった。四人の兄も、みんな軍隊に行ってしまった。いちばん上の兄の喜一は、ビルマ(現ミャンマー)で死んでしまった。長男だから、両親は結婚の話も、ひそかに進めていたようだったが……。
 ある時、母が「喜一の夢を見たよ」と、うれしそうに話してくれて、そのあと、ふっと悲しげな顔になった。あの母の表情は、今もって忘れられません。
 今のみんなには、戦争は「遠い昔の話」かもしれないが。
 ―― ……そうですね。「戦争について勉強したことある?」と聞くと、「何年に始まって、何年に終わったというくらいは」という人が多いです。
 とくに、太平洋戦争などは、教科書の最後のほうですから、そこまで授業が進まないで終わるケースもあるようですね。本当は、いちばん大切なことだと思うのですが……。
 池田 そうだね。日本の歴史を学ぶなら、「どうして、戦争への道を歩んでしまったのか」「何を反省したらいいのか」、がっちり勉強することが基本でしょう。そうでなければ、将来、同じ過ちを繰り返してしてしまう危険が出てくる。だから、長い休みに、この問題を考えてみるのは、意義のあることだと思います。
2  日本兵の証言
 ―― はい。中等部でも、機会を見つけては、正しい歴史を学べるよう努力しています。中国に兵士として行っていたHさんが、以前、中等部員に講演してくださったことがあります。広島の中等部の未来部塾でのことでした。
 聞いたみんなは、すごい衝撃だったそうです。何の罪もない中国の人たちを、日本兵は、まるで虫けらを殺すように殺していったというのです。
 Hさんは言います。「はじめは、人を殺すことが、こわかったけれども、『中国人を殺してこそ、一人前の兵士だ!』という命令が、自分を恐ろしい人間に変えてしまった。そのうち、殺しても何とも思わなくなった」(一九九九年、広島「八・六」記念の中等部未来部塾での講演より。以下同じ)と。
 しかし、日本が負け、Hさんが捕虜になると、中国人は、とても親切にしてくれたそうです。自分たちの面倒をみてくれた中国人のなかには、家族を日本兵に殺された人もたくさんいたのに……。
 池田 周恩来総理をはじめ、中国の指導者が、そう教えてくださったのです。″罪を憎んで、人を憎まず″と。日本の人民も、中国人と同じく、日本軍国主義者の犠牲なのだから、と。(金沖及主編『周恩来 一九四九〜一九七六年』下、劉俊南・譚佐強訳、岩波書店、参照)
 これは大事なことだ。人間を「完全な悪人」と「完全な善人」とに分けるのではなくて、「善」にもなれば「悪」にもなる存在として見ていく……大事な見方です。これが「平和」を創る思想です。反対に「中国人だから」「アメリカ人だから」敵なんだ、となると、戦争になってしまう。
 ―― はい。Hさんは、中国の人たちの寛大さに感激したそうです。
 「私たちは、中国で、どれだけひどいことをしてきただろうか。それなのに……本当に申しわけないことをしてしまいました。少しでも、中国の人たちに罪滅ぼしができればと思って、また、二度と侵略戦争を起こしてはいけないと思って、つらかったのですが、こうやって、みなさんにお話をしているのです」と、涙ながらに語ってくださいました。
 池田 話すには、本当に勇気がいったことでしょう。
 日本では、戦争は「昔の話」になりつつあるかもしれない。しかし、中国の人たちは忘れていない。韓・朝鮮半島の人たちは忘れていない。アジアの人たちは忘れていない。世界が忘れていない。当の日本人だけが忘れかけている。その「ギャップ」が、こわいのです。
3  平和とは「戦争がない」ことではない
 いじめ・殺人・自殺の多い日本
 池田 さあ、そこで、日本は本当に今、「平和」なんだろうか?
 質問してくれた彼女が言うように、「今、日本は戦争はしていない」かもしれない。だけれども、「いじめ」は「小さな戦争」じゃないだろうか。残酷な事件や、殺人も、どんどん増えている。自殺に追いこまれた人も、この二年で、何と六万人もいる。
 ―― 薬害エイズ事件もひどかったです。
 池田 日本では、本当に、「一人の人間の生命が大切にされている」だろうか?
 「平和」とは「戦争がない」というだけの状態ではない。「平和」とは「人間一人一人が輝いている」「人権が大切にされている」社会のことです。
 ―― その意味では、日本は、「人権が大事にされている」とは、とても言えません!
4  「世界」に目を!
 池田 また世界では、現に「戦争」が続いている。第二次世界大戦が終わってからの五十五年間で、世界中のどこにも「戦争」がなかった日は、じつは一日たりともなかったのです。しかも、この間に戦争で亡くなった人は、第二次大戦の犠牲者よりも多いと言われています。子どもたちも巻きこまれ、今、世界には三十万人の「子どもの兵士」がいるのです。
 ――
 戦争がテレビで中継されて、まるでテレビゲームでも見ているような感覚もありました。
 池田 私たちの生きている、この「世界」です。同じ世界です。同じ人間です。その人たちが、今も苦しんでいる。「関係ない」なんてことはない。関係があるんです。しかも、「湾岸戦争」のときには、沖縄の米軍基地から爆撃機が飛び立ったのです。
5  毎日、三万人以上の幼児が死亡
 池田 さらに今、「宣戦布告のない戦争」が起こっているという警告もある。
 ―― 宣戦布告のない戦争といいますと……。
 池田 つまり、世界では、病気や暴力で、毎日、三万人以上の幼い子どもたち(五歳未満)が死んでいるのです。(ユニセフの『世界の子供白書』二〇〇〇年版)
 ―― 毎日、三万人! 本当に″戦争″ですね。
 池田 その上、開発途上国と言われる国では、貧しさのために、二億五千万人もの子どもたち(五歳から十四歳)が働かされていると言われている。(同前)
 ―― 日本の総人口の倍ですね……。
 池田 全部、「この私たちが生きている世界」の現実です。関係があるのです。「人ごと」じゃないんです。
6  私の服は、どこのだれが作ったか?
 池田 どう言えば、わかりやすいかな。
 牧口先生が書いた『人生地理学』という本に、こんなことが出てきます。
 「私の子どもは、お母さんのオッパイが出なかったので、かわりにバターで育てました。でも、日本製のバターは品質が悪く、医者に相談して、スイス産のものを手にいれました。だから、スイスの牧場で働く子どもたちに感謝しなければなりません。また、この子が着ている服を見ると、インドの人が暑いなか、汗を流して育てた綿花からできたものなのです。このように、生まれたばかりの何もわからない赤ちゃんでさえ、その命は、世界中の人々に支えられているのです」と。
 ―― そのとおりですね。
 池田 牧口先生が、この本を書かれたのは、今から百年近く前の一九〇三年(明治三十六年)です。
 ―― そんなに早い時期から、牧口先生は「世界」がよく見えていたのですね。
 池田 日本は、そのころ、日清戦争と日露戦争の中間です。どんどん軍国主義、帝国主義が強くなっていった。そんななかで牧口先生は、自分の身のまわりのもの一つ一つから、「自分と世界」とのつながりを発見していたのです。
 ほかにも、自分の服は、オーストラリア産の羊毛を原料にして、イギリスで作られたものだとか。靴は、底の革はアメリカ産で、それ以外の革はインド産だとか。そうやって、世界の人々は、みんなつながって生きている。だから、世界は平和じゃないといけない、と牧口先生は教えたのです。
 ―― すごい知識と想像力ですね。私たちも、中国製とか、インドネシア製の服をよく着ています。でも、そういう国々で、だれかが汗を流して服を作っていることまでは、なかなか思い浮かびません。
7  いくら働いても食べられない
 ―― 学生時代に勉強したことですが、たとえば、インドネシア産の冷凍エビを日本はたくさん輸入しています。問題は、だれが、そのエビを獲ったり、育てているのかなんですが……現地の子どもたちがやっている場合も多いのです。それで学校にも行けなくなって。しかも、自分たちは食べられないで、日本の子どもたちが食べている。それには、すごいショックでした。
8  「日本人さえよければ」のエゴを捨てよ!
 「知ろうとしない」利己主義
 池田 こんなに情報は豊かに見えるが、日本にいると「世界の現実が見えなくなる」傾向がある。
 ―― はい。マスコミの情報も、偏っていますから。
 池田 今(二〇〇〇年)も、インドネシアでは、東部の島で、死者三千人を超す宗教対立が起こっている。避難している人は四十万人にも、のぼっている。国際的な援助を求める声も高まっている。しかし、日本では、あまり伝えられていない。(=インドネシア・マルク諸島でのイスラム教とキリスト教の対立。二〇〇二年二月に和平協定が合意された)
 昔も、日本人の多くは、韓・朝鮮半島の人たちが、日本の圧制下で、どれほどひどい目にあっているか、わかっていなかった。「知らされていなかった」とも言えるし、「知ろうとしなかった」とも言える。
 しかし、「日本のことしか考えない」……じつは、そこに「戦争の根っこ」があるのです。″日本だけ″なんて世界はない。「日本があって、世界がある」のではない。「世界があって、日本がある」。日本が大事なように、世界も、もっともっと大事です。
 「日本だけよければ」「日本人だけよければ」という利己主義は、捨てなければならない。それが二十一世紀です。世界全体を平和にするために、働いて、働いて、尽くして、尽くしぬいて、そうしてこそ、初めて日本が、日本人が、世界から感謝される。尊敬される。そのとき、初めて日本が本当に「平和」になるのです。「平和の心」が、美しく光る国になるのです。
 ―― 考え方、生き方を変えないといけませんね!
 そのために、私たち創価学会は「心の中に平和の砦を」築いているのですね。
 池田 そう。そうして世界に、温かい心の「ヒューマニズム(人道主義)のネットワーク」を広げているのです。
 ―― 戦争とか、侵略とか、決して「過去の話」ではないということですね。
 池田 「かつて日本は、軍事力でアジアを侵略した。戦後は、経済力で侵略してきた」と言う人もいます。
 ―― アジアの人を苦しめている点では同じだ、ということでしょうか。
 池田 もちろん、経済的なつながりは重要です。それ自体を否定しているわけではありません。大事なのは、「共生」――「いっしょに生きていく」という発想です。
9  「苦しんでいる人」の側に立つ
 池田 それはつまり、「苦しんでいる人の側に立って考える」ことです。
 「差別」だって、「いじめ」だって、そうです。やっているほうにとっては、軽い気持ちかもしれない。だけど、やられているほうにとっては地獄です。″戦争″をしかけられているのです。
 ―― うそつきのマスコミによる言論の暴力も、そうです。そういう悪を許してはいけませんね!
10  無関心、無気力が平和をむしばむ
 池田 平和とは、おとなしく、のほほんと暮らしていくことではない。人を苦しめる「悪」と、敢然と戦っていく。非暴力で、戦っていく――その行動のなかに「平和」がある。いな、そこにしかないのです。
 その「悪と戦う心」をなくして、みんなが無気力、無関心――「どうでもいいや」という風潮になったとき、それはもう、社会は「戦争」の方向に大きく傾いていると言っていい。
 ―― 「無関心」ということについて、兵庫県の長田区のメンバーが、こんなことを話していました。
 あの阪神・淡路大震災(一九九五年一月)のときのことです。近くの学会員さんが、自分も同じように大きな被害にあっていながら、どんどん励ましに来てくれたそうです。「無事でよかつたな!」「大丈夫やで!」と。それに本当に感動して、彼女は「他人の苦しみに無関心じゃいけない」と思ったのです。
 以来、困っている人の助けになろうと決め、今年(二〇〇〇年)の一月には、中学校の吹奏楽部の「震災チャリティーコンサート」にも出演しました。
 彼女は「私が先頭に立って、『助け合う心』の大切さを伝えていきます。それが、今の私にできる『平和』への一歩です!」と決意していました。
 これをみても、質問にある「ふたたび戦争を起こさないために、私たちにできること」とは、まず、「無気力」「無関心」を打ち破っていくこと、と言ってよいでしょうか?
11  なぜ戦争を止められなかったか
 池田 そうだね。大事なのは「生き方」です。「考え方」です。何をいちばん大切にしているかという「価値観」です。そして、信念をもって「何かやる」ことです。
 あの太平洋戦争。相手は、世界一のアメリカです。冷静に考えれば、とうてい勝てるわけがない。それなのに、日本は戦争を起こしてしまった。しかも、みんなは驚くかもしれないが、当時、国民の大部分は、戦争に反対するどころか、賛成したのです。それは、なぜだと思う?
 もちろん国民に「真実が知らされていなかった」ということがある。それも含めて、私は、戦争を止められなかった根本の原因は「教育」にあると思う。教育によって、国家の命令には絶対に服従するように教えこまれていた。
 「お国のため」に命を捨てることこそ、立派な生き方だと植えつけられたのです。これが「教育勅語」に説かれた精神で、みんな、それを学校で暗唱させられたのです。
 教育勅語が出されたとき、小学校一年生だった人は、太平洋戦争が始まったとき、五十八歳くらいです。その子どもたちが、およそ二十歳から三十歳。
 つまり親子二代――戦争に出ていく兵士も、送り出す親も、両方が「教育勅語」で育てられていたのです。
12  羊のような国民
 池田 何より、自分たちの運命さえ「偉い人たちに決めてもらおう」という頭にさせられてしまっていた。人まかせだった。自分で考えなかった。むずかしいことは「偉い人」が考えてくれる。それに黙って従っていればいいんだ。その結果、どうなっても「しかたない」んだ――そのような、権威・権力に対して何も言えない″羊″のような国民を、つくろうとしていたのです。
 ―― こわいですね! 今も同じような面がある気がします。
 しかし、国の指導者のなかには、戦争に反対する人は、いなかったのでしょうか?
 池田 指導者や知識人のなかには、「何て無謀な戦争をするのか」と、にがにがしく思っていた人もいたでしょう。しかし、そういう人たちも、結局、「反対」の声を強くあげることはなかった。
 一国をあげて戦争をしているときに、「反対」の声をあげることは、決して簡単なものではない。その人は、本当はいちばんの「勇者」であるのに、みんなから「臆病者」と言われる。いちばん国民の幸福を思っている「愛国者」であるのに、「非国民」とののしられる。
 自分だけでなく、家族や親類も、ひどい日にあった。逮捕されて、牢獄に入れば、どんな拷問が待っているかもしれない。文字どおり、「命を捨てる覚悟」が必要だった。
13  信念を貫いた牧口・戸田先生
 池田 それでも、牧口先生、戸田先生は、絶対に負けなかった。軍国主義の時代に、「わが信念」を最後まで貫いていかれた。
 牧口先生は、「羊千匹よりも、獅子一匹が強い」とおっしゃった。
 牧口先生、戸田先生は、獅子です。中等部のみなさんは、獅子の子です。自分が正しいと思う道を、笑われようが、けなされようが、たった一人であっても進んでいく。そういう自分になってください。そういう「しっかりした個人」が、民主主義の土台なんです。
 民主主義というのは、民衆が主人なのだから、主人が、しっかりしていないと成り立たないのです。だから社会の動向にも「無関心」ではいけない。ちゃんと鋭く「監視」しなければいけない。そのためにも、うんと勉強しないといけない。
 「自分たちの社会のことは、自分たちが、しっかり見守り、つくっていく」――そういう民主主義が根づいたときに、社会は「平和」になるのです。
14  戦争で亡くなった人の声を聞け
 ―― 今年(二〇〇〇年)は、中等部の「結成三十五周年」です。中等部が誕生した一九六五年の一月は、池田先生が小説『人間革命』の連載を「聖教新聞」でスタートしてくださった月でした。
 ですから、今年は、年間テーマに「平和」を掲げました。全国でさまざまな取り組みをしています。
 関西の滋賀県は、広島に原爆が投下された「8・6」に平和総会を開催しました。広島、長崎の被爆体験をみんなで学びあい、展示や研究発表にまとめました。
 去年(一九九九年)の総会では、「韓日友好」をテーマに、両国の歴史の研究や在日韓国人の方々との座談会も行っています。
15  『人間革命』を沖縄で執筆開始
 池田 頼もしいね! 私は、小説『人間革命』の冒頭を、「どこで書き始めようか」と考えました。考えたうえで、沖縄に行って書き始めたのです。
 それは、なぜか? 沖縄ほど、戦争の悲惨を味わったところはないからです。沖縄ほど、「日本の権力の魔性」の犠牲になってきたところはないからです。
 太平洋戦争の末期、一九四五年(昭和二十年)の三月、沖縄の島々に米軍が上陸して、「沖縄戦」が始まった。日本で唯一の″地上戦″です。その悲惨さは、とても言葉にはならない。
 もともと沖縄は、赤いハイビスカスの花が咲く、武器のない、平和な美しい島だった。
 しかし、本土からきた日本軍は、この「美しい島の人たちを守るため」に戦ったのではなかった。
 「本土のため」に、沖縄を「盾にした」と言ってよい。
 ―― 沖縄戦は、米軍の本土上陸を引き延ばす″時間かせぎ″に利用されたのですね。
16  沖縄戦の大悲劇
 池田 住民の、何と四人に一人が亡くなった。
 話すだけでも、怒りの涙がこみ上げてくる。住民を助けるべき日本軍が、反対に、住民の隠れていた壕を奪い、食糧を奪い、生命を奪ったという。
 なかでも、住民の「集団自決」は悲劇の極みでした。
 「戦争の足手まといになるから」という理由で、味方であるはずの日本軍から、集団で、自決を命令されたのです。
 ―― そんな!
 池田 やむなく、家族や知り合いが、お互いに、鎌や鍬やこん棒をもって打ち合い、カミソリでのど元を切り、殺し合わなければならなかつた……と聞く。
 沖縄の創価学会は、この悲劇を永遠に伝えるため、生き残った人たちに「沖縄戦の絵」を描いてもらって、全国各地で展示しました。大きな反響でした。
17  沖縄戦の絵は語る
 池田 「原爆の図」で有名な、今は亡き丸木位里・俊さんご夫妻は「沖縄戦の図」を描かれました。これは沖縄の佐喜眞さきま美術館にあります。
 ―― 先日、「聖教新聞」(二〇〇〇年六月十一日付)でも紹介されていました。
 池田 美術館を訪れ、この絵を見た十七歳の女子高生は、感想のノートに、こうつづったという。
 「私は、ずっと死ぬことしか考えてきませんでした。明日から生きていけそうな感じがします」と。
 ―― 悲惨な「死」の絵を見て、「生きる力」をもらったというのは……。
 池田 もしかしたら、「絵」が心に語りかけたのかもしれないね。
 「生きなさい! 生きなさい! あなたは生きられるのだから。無残に死なねばならなかった、私の分まで生きなさい! 私の母の分まで生きなさい! 私の赤ちゃんの分まで生きなさい!」と。
 ―― 生命の叫びが聞こえてきたのでしょうか。
18  堂々と「正義を叫ぶ人」に
 「命こそ宝」
 池田 沖縄では、「ぬちどぅ宝」(命こそ宝)という。この沖縄の心を、中学生のみなさんに知ってもらいたい。
 ―― 今また、日本では、過去の戦争を美化したり、正当化しようという危険な動きが強まっています。すごい勢いで強まっていると思います。
 池田 みんなは、そういう「うそ」を見抜かなければならない。
 「あなたは、死んでいった沖縄の子どもたちの前で、死んでいったお母さんの前で、そういうことが言えるのか! 虐殺された中国の人たちの家族の前で、同じことを言ってごらんなさい!」と。
 ―― 本当に、そのとおりだと思います。多くの人が、「おかしい」と思いながら、勇気がなくて言えないのですね。戦争の「事実」を伝えようとすると、「表現がきつすぎる」とか「子どもには重すぎて、悪い影響を与える」とか言って、ごまかそうとする人もいる。卑怯です。
 池田 みんなは、そうなってはいけない。みんなが、「堂々と正義を主張できる人」に育った分だけ、平和は来る。
 平和は、だれかから「与えられる」ものではない。平和は、自分たちで「創る」ものです。「創造する」ものです。
 それを忘れて、油断すると、すぐに危なくなってしまうものなのです。だから毎日、私たちは、みんなのお父さん、お母さんは、平和のために「行動」しているのです。

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