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日蓮大聖人・池田大作

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周囲はどうする?  

「希望対話」(池田大作全集第65巻)

前後
1  ―― 中学生から、こんな意見がありました。
 「今、少年犯罪が、たくさんニュースで放送されていて、『勇気あるよねえ』と友だちは言っていたけど、そんなものは、勇気でも何でもないと思う。自分のまわりにイジメをしている人がいたら、『やめろ』という一言を……。それが立派な勇気だと思う」
2  「いじめ」をなくすカギは周囲に
 池田 利口だね! そのとおりです! 「いじめをなくす」ためのカギを握っているのは、じつは「まわりで見ている人たち」です。いじめている人に対して、「やめろ」と言えるかどうか。いじめられている人に対して、「私は、あなたの味方なんだ」と伝えてあげられるかどうか。それとも、「私には関係ない」と、「見て見ぬふり」をするのか。それで決まってしまう。
 だから、みんな「勇気」を出してほしい。二度とない中学生時代です。いじめの黒雲なんか、みんなの勇気の風で吹き払って、楽しい青空を仰いで生きてもらいたいのです。
 ―― 「いじめが全然ない世界」……すばらしいですね!
3  たった「一人の声」が救いになる
 闇と光の「分かれ目」
 池田 たった一人でいい。たった一人でも、味方になってくれたら、どんなにうれしいか。
 いじめられているとき、人は「世界中が、みんな自分の敵だ」と感じてしまう。だれも信じられない。人間が信じられない。人生が信じられない。真っ暗な闇の中に、一人で座りこんでいるようなものです。
 そんなときに、一人でいい、「自分は、あなたの味方だ!」と伝えてくれる人がいれば、闇の中に「光」が差すのです。「真っ暗な闇」なのか、うっすらでも「明かりが点っているのか」。これは大きな違いです。いや、正反対というくらい違う。
 その「一人」がいるかどうかが、光と闇の「分かれ目」なんです。
 中等部担当者 そう思います。そのとおりです。私も、いじめられて、中学の三年間、それでも、何とか耐えることができました。それはじつは、一人の友だちがいたからです。
 二年生になって、クラス替えがありました。あとでわかったのですが、私の知らないうちに、母が、そっと学校に頼んでくれていたのです。それで少し、ましになりました。
 新しいクラスになって、最初に隣に座ったのがA君でした。A君は、朝、登校すると、「おはよう!」と声をかけてくれたのです。それが、すごい驚きで、本当に、うれしかった……。
 それが一日だけじゃなかったのです。次の日も、また次の日も、声をかけてくれる。A君だけでした、そんな人は。みんな、私がいじめられているのを知っていて、かかわりあいになるのを避けていましたから。
 池田 そこだね、問題は! それにしても、A君という人は偉い人だね。
4  ″いじめを止める″人こそ勇者
 ちょっとした心づかいでいい
 中等部担当者 はい。彼とは、パソコンの趣味もいっしょで、ゲームの話もしました。「これ、おもしろいから、読んでみろよ!」と、マンガを貸してくれたのもよく覚えています。そのとき、中学生活で初めて「生きているんだ!」って実感できたのです。
 池田先生が言われたとおり、私も、ひとすじの「光」があったから、生きられました。特別なことじゃなくていいのです。体育のときや林間学校などでグループをつくるときに、「お前は、どうするの?」と声をかけてくれたり、そういう、ちょっとした心づかいが、本当に、うれしいのです。
 ですから、中等部のみんなに、いつも「A君のような人になってください。苦しんでいる人に声をかけてあげられる人になってください。その人こそ『いちばんかっこいい人』なんです」と訴えています。
 池田 A君とは、今も友だちですか?
 中等部担当者 はい、大親友です。
 ―― 「仲間はずれ」にされても、いつも守ってくれる人がいる。そういう人には自然と友だちが集まってきます。
5  「私には関係ない」が悪を拡大する
 善いことをしないのは悪いことをするのと同じ
 池田 そういう人が増えた分だけ、学校は変わるね。
 これは、本当に大事なことです。大きく言うと、今の社会のほとんどの問題も、「私には関係ない」と思う人が多いことが「諸悪の根源」といっていい。
 悪に対して「自分には関係ない」と思う。自分の身にふりかかってこないかぎり、見て見ぬふりをする。それがじつは、「悪を応援する」ことになる。
 ―― 牧口先生(初代会長)は、「善いことをしないのは、結果として、悪いことをするのと同じ」と言われました。
 池田 そのとおりです。「線路に石が置いてある。そのままにしておいたら、汽車が事故を起こすかもしれない。それなのに、石をどけようとしないのは、結果としては、線路に石を置いたのと同じことになる」。そういう信念でした。
 だから牧口先生は、いつも先頭に立って、悪と戦った。だから、いつもいじめられていた。当時の教育界からも、信仰心をなくした僧侶からも、国家権力からも。「悪からいじめられ通した人生」でした。それは、牧口先生の栄光です。われわれの誇りです。
 ―― 「善いことをしないのは、結果として、悪いことをするのと同じ」というのは、ふつうの考えとは、だいぶ違いますね。ふつうは、「何もしない」のは、「善ではないけれども、悪でもない」と考えます。
 池田 たとえば、池で溺れている人がいる。自分が突き落としたわけではない。だからといって、何もしないで見ているとしたら、どうだろう? 突き落とした悪とは、同じでないとしても、別の意味で、これも「悪」ではないだろうか。
 ―― いじめを「見て見ぬふり」をしているのは、本当に「溺れている人を見殺しにする」のと似ています。
 池田 厳しく言えば、それは「いじめている人間の協力者」なんです。「共犯者」になってしまうのです。
 ―― (傍観している人は)自分では気づいていないかもしれません!
 池田 「自分がいじめられているんじゃないから、いい」。そう思っているとしたら、それは「自分がいじめられるのはいやだから、あなたがいじめられてね」と願っているのと同じです。
 ―― 卑怯……ですね。
 池田 「私には関係ない」というのは「楽」かもしれない。しかし、この「私には関係ない」が、いちばん、人間を堕落させていく。「私には関係ない」と、つぶやくたびに、自分の「人間らしさ」が削られ、どんどん消えていってしまう。そこに気がついてもらいたいのです。
 消極的に「何もしない」ことは、積極的に「自分をだめにしている」のです。それを自覚しないと、年ごとに、だんだん、つまらない人間になっていく。悪を平気で許す無気力な人間になってしまう。
6  学年とともに「何もしない」が増加
 ―― 四カ国での「いじめ調査」があります(一九九七年調査、二〇〇〇年発表。国際いじめ問題研究会)。それで印象的だったのは、「いじめを見聞きしたときにどうするか」という問いに対して、イギリスでは、中学生になると「いじめをやめるように働きかける生徒」が増加しています。ところが、日本では、「注意したり、先生に助けを求める」という答えが、小学生から中学生へと学年が上がるにつれて少なくなっているのです。(『いじめの国際比較研究』森田洋司監修、金子書房、参照)
 池田 なるほど、大事な調査だね。ただ私は、「だから日本の中学生は、だめだ」とは思いません。「数字」が示している「本当の意味」を知ることは、どんな場合も、じつにむずかしいものです。日本の中学生には、「その身になってみなければわからない」苦しみがあるんだと、私は思う。
 ―― たしかに、せっかく勇気を出して学校の先生に言っても、何にも本気ではしてくれなかった……たとえば、こんな経験を一度でもしたら、中学生はもう、だれも信用できなくなってしまいます。
 じつは、「いじめを見ても止められなかった」という悩みも寄せられているんです。中学二年生の女子からですが……。
 池田 そう! でも、それで悩むなんて、それだけで立派だと思うよ。
 ―― こういう声です。「私のクラスのある女子が、数人の男の子に『バカ』『グズ』『くさい』とか言われ、その子の配った給食は食べないと言われたり、カバンをけられたりしています」
 池田 ひどいね……聞いただけで胸がつぶれる思いがする。自分たちが何をしているのか、本当に彼らはわからないんだね!
7  「止めると、自分がやられる」
 ―― 「ほかの女子も″あの子はやられて当たり前″のような感じで、注意は、まったくしません。私はとても、いやでいやで、見ていられなくて、注意したいのですが、男の子たちがこわくて、何も言えません。どうしたら助けてあげられるでしょうか」
 これは大勢の人の気持ちだと思います。「いじめを何とかしたい」。でもそうすると「今度は、自分が、いじめられる」。その恐怖から、立ちすくんでしまうのだと思います。
 ひどくなると、「いっしょにいじめないと、自分がやられるから」と、いじめに加わる場合があります。
 今も、「あの子はやられて当たり前」という一節がありましたが、そう思うことで、周囲が、いじめを正当化しています。
 いじめる側は、何だかんだと「いじめる理由」をつくってきます。もちろん、「人をいじめていい理由」なんか、絶対にありません! あるわけがありません。全部、自分たちの「醜い心」を正当化するための「言いわけ」です。
 しかし、「○○はグズだから、いじめられて当たり前だ」「自分でまいた種だから、しかたがない」「私には関係ない」。まわりがこうなってしまうと、もうクラスのなかで、だれもいじめを止められなくなってしまいます。
8  何とかしたい!――その「心」を貫け
 池田 そんななかで、質問の彼女は「私には関係ない」とは思っていない。「何とかしたい」と思っている。それだけで、ずっとずっと偉いよ。
 「何とかしたい」と思う、その心を大事にしてもらいたい。なぜか。その心をもち続けていれば、いつかきっと「何とかできる」からです。万が一、中学生時代にできなくても、高校で、大学で、社会で、きっと「何かできる」自分になれる。
 反対に、「自分には何もできないんだ」と、あきらめたら、そのとたんに、本当に何もできなくなってしまう。これは大事なことなんです。
 それを前提にして、私は、そのクラスの「現実」をよく知りもしないで、簡単に「勇気を出して、いじめを止めなさい」と言うのは、言うほうが無責任だと思う。その結果、どんな事態になるか、わからないのだから。
 今、ずっと「いじめ」についていっしょに考え、語っているけれども、これは、あくまでも「原則」です。「現実」は千差万別で、全部、違う。だから、一律には言えない。そんな簡単なものではない。
 「どんな場合でも、勇気を出して、いじめを止めなさい」と言うことは、やさしいよ。しかし、その結果、大切なみなさんが傷ついたりする可能性があるとしたら、それは言えません。私は、みんなが大事なんです。だれも危ない目にはあわせたくない。
9  まず「祈り」を!
 池田 だから、最低限言えるのは、「絶対に自分は、いじめない」こと。そして御本尊に、いじめられている子のことを「真剣に祈ってあげる」こと。
 その上で、できれば、何らかの方法で、その子に「自分の心配している気持ちを伝える」こと。正直に「自分は今は、いじめを止める勇気がないけど、悪いのは絶対に、いじめている側だから! あなたは、ちっとも悪くない! 私は毎日、祈っているから!」と手紙を書くだけでもいいと思う。
 ―― それだって、勇気がいります。立派なことですね。事実、そんなふうに手紙を書いた女子もいるのです。すると少しずつ、その子が心を開いてくれて、味方もだんだん増えていって、いじめがなくなっていったのです。
 また、手紙やメモには、自分の名前を書きたくなかったら、それでもいいと思います。
 池田 それに、だれか仲間を探すことです。「いじめをやめさせたい」と思っている人は、きっと、ほかにもいると思う。いなければ、つくればいい。「同志」をつくるのです。「自分一人」と、「もう一人同志がいる」とでは、大違いです。
 ―― ある女子は、グループのなかで、いい関係のときに、「いじめってイヤだね」「もし、私たちの間で、これから、いじめをされたり、いじめを見たりしたら、正直に話しあおうね」と、みんなで約束したそうです。
 それがあったから、一人が仲間はずれにされそうになったときにも、助けることができたそうです。
 池田 先生に話すときは、「自分が言ったということは秘密にしておいてください」と、はっきり念を押したほうがいいと思う。
 いじめっ子に対しては、その先生から、「ほかの先生から聞いた」「ほかの先生が見ていた」と言ってもらえばいいのですから。
10  信頼できる人に協力してもらう
 池田 ご両親とか、先輩とか、だれでもいいから、「この人は信頼できる」という人に相談して協力してもらってもいい。方法は、いろいろあると思う。
 まずは「自分にできる範囲」でいいのです。今の自分にできることは「小さなこと」かもしれない。その小ささを恥じて、手を引っこめてしまう人が多い。しかし、そんな必要はない。「今、自分にできること」をやった人が、偉いのです。
11  「君は一人ぼっちじゃない!!」と伝えよう
 「何か」を始めよう
 池田 フランスのミッテラン前大統領の奥さんは、熱心な人権活動家です。創価大学でお会いしたとき、こんな話をされていた。
 「たとえば、目の前に、五十人の人が溺れているとします。でも私には当面、一人にしか救いの手を差しのべられない。でも、まず、一人を助ければ、次の人を助けることもできます。やがて、それを全体に及ぼしていくことができるのです」
 ―― そう思います。「いじめ」というと、何か話を広げてしまって、「こんな社会だから」とか「ちょっとくらい努力したって、焼け石に水だ」とか、何もしない言いわけばかりする傾向があります。しかし、「焼け石」だって、みんなが「水」をかければ、冷えていきます。
 池田 そのためには、だれかが「水」をかけ始めることだ。だれかが「何か」を始めることだ。
 ―― 私たち担当者も、「自分たちにできることは何なのか」を、真剣に考えたいと思います。
12  助けようとして反発されたら
 池田 それで、みんながいじめられている人に、「手を差しのべた」とする。しかし、だからといって、感謝されるとはかぎらない。反対に、「よけいなことはしないで!」と反発されるかもしれない。
 いじめられてきた人は、心が傷ついているから、人間を、なかなか信じられない。そういう場合が多い。人を「警戒」しているかもしれない。だから、もし、そういう反発にあっても、怒ってはいけない。わかってあげなければいけない。
 第一、さっきも言ったように、いじめと戦うことは、「自分自身の心を救う」ためでもある。自分が「悪の共犯者」にならないためでもある。
 つまり「友を助ける」ことは、じつは「自分のため」でもあるのです。「自分の心を助けている」のです。
 だから、恩着せがましく思うことは間違いだし、「自分のためでもあるんだ」と思えば、反発されても腹は立たないはずです。腹が立つのは、「助けてあげているんだ」という、心の「おごり」があるからです。
13  「子どもが何も話してくれない」
 ―― よくわかりました。
 もう一点だけ、親御さんから「子どもの様子が何かおかしいのですが、いくら聞いても、話してくれないんです」という相談があったのですが……。
 池田 それは心配でしょうね。ただ、苦しくて、苦しくて、言いたくても言葉にならない。どう話していいか、わからない……そういう気持ちも、わかってあげてほしいと思います。
 それに、子どもにだって、プライドがあります。自分がいじめられている状況は話したくないという気持ちもあるでしょう。いじめによって、その子のプライドは、ますます繊細になり、ピリピリしています。
 そこにもっていって、「いじめられているんじゃないの?」「話して、話して」と″追及″されることは、苦痛です。
 だから、ともかく、「自分は、何があっても、あなたが何をしても、あなたの味方だ」というメッセージを、繰り返し、繰り返し、心に染み入らせることではないでしょうか。そうやって、「そばにいてあげる」だけでいい場合がある。その「愛情」さえ伝われば、それが「支え」になるのです。
 もちろん、なかには、「自分の子なんだから、遠慮していてはならない」と思う方もいらっしゃると思います。それはそれで正しいです。子どもが逃げても、追いかけて、抱きしめて、追いすがってでも、「私は絶対にあなたの力になる」ことを、とことん伝えていく。とことんつき合って、話を聞き出していく。
 どちらを選ぶかは、まさに家庭しだいです。ふだんのコミュニケーションの密度にも左右されます。
 いつもは対話らしい対話もないのに、問題が起こって、いきなり「何でも話して」と言っても、そう簡単ではないでしょう。
 ―― ある中等部員は、いじめにあっていることを親に話したとき、「一生懸命に話そうとするんですが、自分で何を言っているのか、わからなくなっちゃうんです。口からいろんな言葉が出るけれども、つじつまがあわなくなるんです」と言っていました。それほど、子どもたちの心は激しく揺れているんです。
 池田 だからこそ、何時間でも、何日でも、根気よく、「聞き役」に徹していただきたいのです。子どもたちは、話すことで、自分の頭を整理して、自分で解決方法を見つけていくこともあるのです。
 だから、まずは、「アドバイスする」ことよりも、「心をからっぽにして、ただただ聞く」くらいの気持ちでいいのではないかと私は思います。
 また、たったひと言、ぼつりと言った言葉でも、大事にしてください。その「ひと言」に「せいいっぱいの思い」がこめられているのです。
 ともかく、どんな場合でも、親御さんこそ、子どもたちにとって、最大の味方です。最大の「安心感」を与えてあげてほしいと思います。
 ―― 担当者も、何かできることがあれば、何でも応援したいと思っています。遠慮なく、身近な先輩に連携をとってみてください。もちろん相談を受けた担当者は「プライバシー(個人的なこと)は厳守」でお願いします。
 池田 大事なことだね。「口が軽い」幹部は、最低の幹部です。
 ―― ある担当者は、「何か悩んでいそうだ」と感じると、その子を車に乗せて走るんだそうです。目的地もなく、特別な話をするのでもなく、″ただ走る″だけなんです。もちろん、安全には十分注意してです。そして最後にいっしょに「ラーメンを食べる」んです。
 池田 いろんな知恵があるんだね。頼もしいね!
14  「受け入れてくれる人がいたから」
 池田 中学生のこんな詩がありました。
 「悲しくて つらい時もあった/何もかも捨てて逃げたい時もあったんだ/だけど がんばったよ/私を受け入れてくれる人が一人でもいたから/認めてくれる人が一人でもいたから……/うれしかったから……/まだ 心の中は不安と恐怖と孤独で いっぱいだけど/信じてくれる人のために/認めてくれた人のために/……それと自分のために/だから″負けないよ 絶対に″」
 心ある人みんなが、全国で、全世界で、駆けずりまわって、いじめられている人に伝えてほしいのです。
 「君は、一人ぽっちじゃないんだ!」と。

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