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日蓮大聖人・池田大作

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なぜいじめるの?  

「希望対話」(池田大作全集第65巻)

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2  「わかるまで」「労を惜しまず」
 池田 「わかるまで」教えなければならない。
 おざなりの注意では、いじめが陰湿化するだけの可能性がある。本人が心から「悪かった」と思わなければ。
 そのために、どんな苦労をしようとも、その子に親が朝から晩まで、つきっきりになってでも、教えなければならないと思う。
 労を惜しまずに。言葉を惜しまずに。時間を惜しまずに。
 今、日本では、この基本的なことができていないのではないだろうか。
3  いじめっ子に語ろう 大人が体当たりで
 何のための学校?
 ―― そう思います。こんな話があります。体に軽い障がいのある子が、いじめられていた。しかし、先生は真剣には注意しない。その理由を聞いたら「あの子は社会に出てからも、いじめられる。だから、今から、強くなっておかなければいけない」と言ったというのです。
 極端な例かもしれません。しかし、程度の差こそあれ、こんなバカげた、さかさまの考え方が決して珍しくないのです。「気が弱いから、いじめられるんだ」とか。まるで気が優しいことが悪いことみたいに……。
 いじめられている子に「強くなれ」と言うだけで、いじめている側に対して「いじめは、絶対に許さない。体を張ってでも、やめさせる」と向かっていく気迫が、大人にない場合が多いのです。
 池田 学校とは「教育の場」です。「いじめは絶対にいけない」と徹底的に教えこんでいくのでなかったら、どこに「教育」があるのか。何のための「教育」なのか。そう言われてもしかたがない。もちろん、口で言うほど簡単なことではないでしょう。また、真剣勝負で取り組んでいる先生も多いと思います。
 そして、根本は、「いじめっ子の親」が本気にならなければいけないと、私は思います。人を平気でいじめるような子が、将来、幸福になるわけがない。心が、花の咲かない「砂漠」になってしまっている。必ず後悔する。
 ―― 本当にそう思います。「おもしろ半分で友だちをいじめたことを、ずっと後悔している。苦しくてたまらない」という人も、私は知っています。
 池田 子どもの幸福を願うのならば、いっさいをなげうってでも、正しい道に引き戻さなければならない。子どもを愛し通すことも、「戦い」です。また周囲も、そういう親の努力を、温かく応援してあげてほしい。突きはなさないで。
 ―― そこで、きょうは、「いじめる側」になってしまった人から質問が寄せられています。中学三年生の男子ですが……。「自分では、その場を盛り上げるために、ある友だちを、ちょっと『からかった』だけのつもりだったのですが、あとで、担任の先生から呼ばれて、『いじめ』だと言われました。話を盛り上げるためには、ちょっとした『ふざけ』や『からかい』も必要だと思います。そういうことまで含めて、『いじめ』だと言われるのは、おかしいんじゃないでしょうか」ということなんです。
 「ふざけ」と「いじめ」は、どこが違うのか。「線引き」はむずかしいですね。人によっては、相手に「親しみ」をこめてやっている場合もあります。それを頭から「いじめだ」と言われると、ショックなんです。
 ですから、ちょっとした「ふざけ」や「からかい」まで、いじめと言い始めたら、「じゃあいったい、どうしろと言うんだ!」「友だちづき合いもできないよ!」という彼らの叫びも、よくわかるんです。
 池田 なるほど。自分では「友情の表現」のつもりなのに、先生から「お前、いじめただろ!」なんて言われたら、腹が立つ……そういうことだね。
 ―― 「あの野郎! 先生に言いつけやがって!」という気持ちもあるでしょう。
 「そんなにいやだったのなら、ひとこと、直接、言ってくれればいいのに」と思うかもしれません。しかし、「告発合戦」みたいになっては、お互いがさらに不幸です。
 池田 そうだね。ただ、「直接、言えなかった」相手の気持ちもわからなければいけない。つまり、それだけの信頼関係、人間関係がなかったからではないだろうか。同じ言葉でも、がっちりした信頼関係があれば、「親しみ」を表現する言葉にもなり、そうでなければ、相手を深く傷つける言葉になる。そういう場合がある。もちろん、どんな場合でも、絶対に言ってはいけない言葉があり、してはいけないことがあります。
 ―― 複雑……ですね。
 池田 いや、基準は単純です。「相手がいやがることはしない」ということです。
 ―― そうですね。先生の言われるとおり、それに尽きると思います。
4  いじめ社会の毒に染まらず新しい時代を!!
 「知らないうちに傷つけている」
 池田 問題は「相手がいやがっているのに、それがわからなかった」鈍感さにある。
 だから、質問のケースは、「今回、自分の鈍感さを教えてもらったんだ」「いい勉強になった」と思って、率直にあやまったらどうだろう。もしも、こういうことがなかったら、「知らないうちに人を傷つけている」人間のまま、大人になってしまったかもしれない。
 ―― その意味では、指摘してくれた相手に感謝すべきなんですね。
 池田 私は、みんなに「かぎりなく温かい人」になってもらいたい。傷ついた人の心も、君に会うと、ほっとして、自然に微笑みがわく。そんな人になってもらいたい。凍りついた心さえ、君に会うと、安心して、ぐっと、ほぐれていく。そんな人になってもらいたい。どこまで大きいのかわからない、どこまで優しく、どこまで強いのか、わからないような、「かぎりなく心広き人」になってもらいたい。
 だけれども、今の日本の社会は、まったく反対の、ぎすぎすした、「人の不幸を喜ぶ」ような社会になってしまった。そのなかで生きている君たちは、かわいそうと言えば、本当にかわいそうだ。しかし、それでも、あえて私は言っておきたい。
 「どんなに大人がいいかげんでも、君たちだけは、そのまねをするな! 汚い大人のまねをして、人をいじめたりするな! どんなに大人社会が腐っていても、若き君たちだけは、その毒に染まるな! 敢然と『ノー!』と言いたまえ! そして、君たち自身の力で、団結で、君たちの望む未来をつくりたまえ!」と。
5  マスコミの人権侵害やふざけが、いじめの温床
 ―― 本当に、今の日本に住んでいると、「いじめが悪いことなんだ」ということさえ、あいまいになってくると思います。
 今回の質問の場合も、背景は、テレビとかの影響が大きいのではないでしょうか。テレビでは、人をバカにしたり、欠点をあげつらって、それで笑いをとって……そういう人が人気者であったり、「かっこいい」と思われているところがあります。
 わざと人を苦しめて、その様子をまわりで笑って見ている。そんな番組もありますね。それこそ、「その場が盛り上がれば、何をしてもいい」というような……。
 池田 そういうものを子どものときから見ていれば、「それでいいんだ」と思ってしまうだろうね。
 ―― 簡単に人を殺す番組や、マンガも多いです。
 池田 江戸川乱歩という推理小説家は、子ども向けの小説には、殺人事件は扱わなかったという。そういう配慮が、社会からなくなってしまったね。
 ―― 「売れればいいんだ」と開き直っている感じです。
 とくに低級週刊誌と、その広告です。毎週毎週、人の悪口とか、いいかげんなうわさ話とかを書き散らして、「ジャーナリズム」だなんて、とんでもない。たんに「いじめる相手」を探しているだけです!
 本来、そんな卑怯な、くだらないものは、見向きもしなければいいわけです。どの国だって、その類のものはありますから。ところが、日本では、いやでも見ないわけにはいかなくなっているのです。
 それが、広告です。
6  「日本では、いじめを奨励」?
 ―― たとえば電車に乗るだけでも、いやでも、そういう毒々しいものが目に入ってきます。子どもたちも見ます。いわば、社会が、いじめを「公認」しているわけです。知り合いの北欧の人が「考えられない。クレージーだ」と、びっくりしていました。「日本では、いじめを奨励しているのですか?」と。
 北欧は人権の先進国ですから驚いていました。
 日本では、「いじめられている側」は、さらしものになって、悪者みたいに言われ、「いじめている側」は堂々と認められている。
 「白昼堂々と泥棒したら、だれでも犯罪だとわかります。しかし、「いじめ」という人権侵害の悪事が、まさに自昼堂々と行われているのが日本なんです。その「毒」が、みんなに広がって、ものすごい数の子どもたちを苦しめているのです。
 ともかく、日本の社会全体が「いじめる側に甘い」と思います。
 いえ、いじめられた側から言えば、だれもかれもが「いじめる側の味方」だとしか思えないでしょう。
7  「成績で差別される」ことに反発
 池田 私はね、質問してくれた彼については、きっと、「悪かった」と気がつけばやめると思う。そう信じたい。しかし、明らかに「いじめ」だとわかっていることを、やっている場合も多い。それは悪質です。
 それにしても、どうして、そんなに人をいじめてしまうのだろうか?
 ―― なぜ、いじめが起きるのか。前に、中等部の代表に「アンケート」をとってみました。こんな意見が寄せられました。
 「毎日の生活が充実していないから」「いじめる側の人間が弱いから」「やきもち」「ストレス」「お互いのことを分かち合っていないから」「一人一人、意見が違うのに、みんな同じでないといけないという考えがあるから」「一人一人のよいところをわかろうとしないから」「勉強できる人とできない人を先生が差別するから」「いじめを止める人がいないから」などです。
 池田 みんな利口だね。よく見てるね! もちろん、「心」の問題は、一人一人の身になってみないと、わからないわけだが。
 ―― やはり、大きな背景として、一つの枠に入れられることへの反発があるのかもしれません。とくに、「成績だけで人間を判断する」という狭い価値観が、影を落としていると思います。
 「勉強ができない」だけで、何か「ワンランク下の人間」みたいに見られる。差別された人にとって、差別は「全存在を否定される」ことです。そういう狭い人間観が、成績が悪い子も、そして、いい子も、両方をおかしくしているのではないかと思います。
8  大人に「何のため」という哲学がない
 池田 たしかに、年中、「お前は、だめだ、だめだ」という目で見られ続けたら、だれだって生きるのがいやになるでしょう。反対に、「勉強さえしてくれれば、ほかのことは放任」でも、おかしくなります。
 そもそも、「何のために」学ぶのかわからないまま勉強しても、知識だけでは心は満たされない。「何のため」がはっきりしていれば、苦しいことでも人間は耐えられるし、学んだことが全部、心を育ててくれる。
 その「何のため」という哲学を大人自身がもっていない。いちばん大事なことを教えないで、細かいことばかり、「あれはダメ」「これもダメ」と管理している。
 ―― よく「自分の居場所がない」という表現をします。いろいろな意味が含まれていると思いますが、自分の存在をありのまま、まるごと受け入れてくれる場所がないという「さびしさ」があるんだと思います。そこから、なにかにつけて「いらつき」「むかつく」不安定な状態になるのではないでしょうか。
 外見や成績だけで、人を「決めつけ」ないでほしい……そんな気持ちはわかります。
 それは、自分という人間を、もっと認めてほしいという叫びかもしれません。
 池田 そうかもしれない。
 じゃあ、どうして、自分が認められなかったら、「むかつく」のだろうか?
 それは、その人が「人間」だからです。
 ―― 「人間」だから「むかつく」……?
9  「人間」だから、心が飢える
 池田 「人間」だからこそ、心が飢えるのです。おなかがいっぱいでも、それだけでは満足できないのです。「人間である証拠」なんです。
 さっき「何のため」という話をしたが、たとえば「将来、楽な暮らしをするために、今、がんばるんだ」と言われても、それだけでは、心が満たされないのが人間です。
 だから、むなしさを感じている君は、まさに「人間」なんです。「もっとすばらしい人生があるはずだ」「意義ある人生があるはずだ」と、心の底で知っているから、いらつくのです。だから、むかついたって、かまわない。怒ったって、かまわない。泣いたって、かまわない。わめいたって、かまわない。
 しかし、絶対にいけないことがある。それは、その自分の苦しさを「ごまかす」ことです。自分のさびしさや、むなしさから、目をそらして、ほかの何かで「ごまかす」ことです。ゲームで、ごまかす。遊びで、ごまかす。いじめで、ごまかす。ごまかしているかぎり、何も変わらない。いや、ますます、いらつく。悪循環です。
 デン=テグジュペリの『星の王子さま』(内藤濯訳、岩波書店。以下、同書から引用・参照)に、「呑み助」の話が出てくるでしょう。
 王子さまが「なぜ、酒なんかのむの?」と聞くと、「忘れたいからさ」だと言う。「忘れるって、なにをさ?」と聞くと、「はずかしいのを忘れるんだよ」と言う。「はずかしいって、なにが?」と聞くと……。――″飲んでるのが恥ずかしい″と。(笑い)
 池田 そうそう。笑い話みたいだが、こういう人は多いんだよ。本当に多い。
 ―― 麻薬みたいなものですね。
 「いじめ」も同じです。続けているうちに、だんだん感覚がマヒして、人の苦しみがわからなくなってくる。「いじめることが、楽しくなってくる」ようです。
 池田 しかし、自分ではわからない。悪臭のする場所にずっといると、だんだん臭いを感じなくなってしまうようなものだ。
10  「いじめないと自分がやられる」
 ―― いじめる理由として、「いじめないと、自分がやられる」という現実もあるのですが……。
 池田 本当に、悲しい現実だ。「いじめないと、自分がやられる」。それでも、悪には「ノー!」と言って、いじめられたほうが偉いのです。社会が転倒しているのだから「いじめられている人のほうが偉大」なんです。
 一人で「ノー!」と言いきれなければ、団結するのです。同じように、「いやいや、いじめに加わっている」人はいるはずです。負けてはいけない。一人で悩まず、だれかに相談する勇気も大事です。ともかく、「いじめ」のなかに逃避してはいけない。人をいじめて、自分のいらいらを、ごまかし、まぎらわせても、何も変わらない。自分をだめにしていくだけだ。
11  「怒り」は「電気」――破壊にも光にもなる
 池田 「大人の社会は、でたらめだ!」。そう思う人は、怒りなさい。怒って当然の社会です。しかし、その怒りをぶつける相手は、クラスメートじゃない。
 「大人は自分のことばっかり考えている!」。そう思うなら思いなさい。しかし、そういう自分も、どれだけ人のことを思いやっているのか。「自分は、そんな悪い人間じゃない!」。そのとおりだ。君は本来、すばらしい「人間」なんだ。「人間」だから、怒りがわくんだ。
 怒りのエネルギーは、電気のようなものだ。間違って使えば、すべてを破壊する。賢く使えば、光を点せる。怒りを、自分の「夢」に向かって突進するエネルギーに変えるのです。
 はじめは、うまくいかないだろうが、あきらめないで、自分の「いじめる心」と戦うのです。どうしたら怒りの原因が解決するのか、考えるのです。日記に書いてもいい。人と語りあってもいい。書きながら、語りながら、何かが見えてくるはずだ。
12  希望がないから人をいじめる
 「希望」が「いじめ」の心をなくす
 池田 本当は、君の心の中には、いっぱいの「優しさ」がしまわれている。なのに、何かで、パイプが詰まって、素直に表に出せなくなってしまっている。私は、そう思う。だれかに向かって、口だけでもいいから、「ありがとう」「ありがとう」と言ってごらん。そう声に出せば、心がふっくらするから。
 大人が悪い。社会が悪い。あの子が悪い。そんな「ぐち」を言っても、ちっとも君は輝かない。自分です。自分がどう生きるかです。つまらない世の中だったら、自分が、同志を集めて、おもしろくつくり直せばいい。
 「人生なんか、つまらない」と思うのは、もしかしたら、君自身が「つまらない人間」になっているからかもしれない。「毎日がむなしい」と感じるのは、もしかしたら、君自身が「からっぽの心」になっているからかもしれない。
 心に「夢」を燃やしている「おもしろい人間」にとっては、人生はおもしろい。つまらないことばかり考えている人間には、人生も「つまらないことばかり」になる。
 さびしければ、その「さびしさ」を、いじめなんかで、ごまかしてはいけない。さびしければ、本当の友だちをつくりなさい。「さびしさ」は「人間の証拠」なんだから、いじめで、その「人間らしい心」を壊してはいけない。
 中等部担当者 ……私をいじめた子は十数人いましたが、共通して言えるのは、彼らには、どうしようもない「さびしさ」があったことでした。あるときは、狂ったように暴力をふるう。でも反面、急に涙を流し、私の手を握って、「おれたちは友だちだよな」と確認したりするのです。いじめる側にも、何かが足りなかったのかなと思います。
 池田 「希望」が足りなかったのだろうね。心を燃えたたせる「希望」がないから、人をいじめたりするんだと思う。
13  母の「涙の一言」
 中等部担当者 お話をうかがっていて、私の母のことで、思い出したことがあるのですが……。
 池田 ああ、お母さん、大変だったね。
14  中等部担当者 ありがとうございます。中学一年の一学期に、いじめが始まり、二学期はかなり学校を休みました。だから、成績も「がた落ち」でした。それで、二学期の成績表をもらって帰宅したとき、母に一言、「最低だ!」と言って、投げるようにして成績表を渡したんですね。そのときでした。すでに、このとき、親とはまったく話をしない状態だったのですが、母が私を呼びとめ、両手をとって、言ったのです。
 「お母さんはね、あなたが何も悪いことをしていないのに、いじめられているのは、つらいよ。でもね、あなたが、いじめる側でなくてよかった。人を傷つける側でなくてよかったと思っているよ……」
 母の目からは滝のように涙が流れていました。母は、さらに、こう言ったのです。「人を傷つけたことは、全部、自分に戻ってくる。いじめた相手の子も、いつか後悔するときが必ず来るよ。だから、その子の分まで祈ってあげられる自分になろうよ」
 母は必死でした。こんな母は見たことがありませんでした。
 でも、このとき、「生きる屍」のようになっていた私は、母の叫びさえ、体をすっと通り抜けていくような感じでした。
 こんなに母が真剣になってくれているのに……。でも、まわりのいっさいを、私の体が拒絶するのです。それほど、いじめが、私の体をマヒさせていたのです。
 池田 残酷だね。いじめは絶対に許せないね。
 中等部担当者 地獄の三年間がすぎて、中学卒業後は、いじめはなくなりました。
 高校では、パソコン関係の部活で部長もまかされ、高等部の会合にも出られるようになり、「人が変わったようだ」と言われました。中学時代の勉強の遅れがひどかったので、必死で勉強もし、大学ヘも進学しました。そのときも、高等部の友人や担当者の方には、ずいぶんと激励してもらいました。
 池田 すごい努力だったね。「何だって、取り返せないことはない」ことを証明してくれたね。
 中等部担当者 学生部になって、この仏法のすばらしさをだれかに伝えたいと決意して、ある友の幸せを御本尊様に真剣に祈っていたときのことです。
 「いじめをしている子の分まで祈ってあげようよ」という、数年前の母のあの言葉へ蘇ってきたのです。私は、熱いものが込み上げてきて、涙を止めることができませんでした。
 母が、あのとき、私に教えようとしていたのは、「人を思いやる心」だったのではないかと思ったのです。私は、あのころ、いじめにあって、親も、先生も、友だちも、何もかもが信じられなくなっていました。その渇ききった心に、母は「人を愛する心」を教えようとしたんだ、と。
 池田 そのとおりだ。そのとおりだよ。大人のなかに、その心がなくなっているから、「いじめ社会」になっている。
 その現実に、若い人たちは負けてはいけない。むしろ、君たちが変えてもらいたい。いや、君たちにしか変えられない。「今の社会はおかしい!」と気がついた君にしか、変えられない。君たちが、いじめなんかのない「新しい時代」をつくってもらいたい。
15  君だけの使命が必ずある!
 池田 日本だけじゃない。世界中に、悲惨な現実がある。私の師匠は、「この地球から『悲惨』の二字をなくしたい」と叫んだ。そのために、私も生きてきた。
 君たちも、世界のどこかで、君が来てくれるのを、ひたすら待っている人がいる。必ずいる。君でなければできない使命が、必ずある。そうでなければ、今ここに君が生まれてきてはいないはずだから。宇宙には、何一つ「むだなもの」はないのだから!
 しかし、「使命がある」ことと「使命を自覚する」こととは違う。自覚しないままに、自分をだめにする人が多いのです。
 だから、私は言いたい。君たちは、人に笑顔を贈るために生まれてきたんだ。君たちに、いじめなんか似合わない!

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