Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第1章 使命の人生をともに  

「21世紀への母と子を語る」(池田大作全集第62巻)

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2  信念に生きる母の姿が生きる力の源泉に
 池田 いよいよ二十一世紀です。私たちの本舞台がやってきました。
 この世紀を「生命の世紀」「平和の世紀」としていく一番の主役は「お母さん」です。最も重要な事業は「教育」です。
 私は、後に続く子どもたちのために、いっそう力を尽くして、道を開いていこうと決意しています。
 久山 いつも私たち母親に、心温まる指針をいただき、ありがとうございます。「使命の人生をともに」とのテーマで、小野里さんと私とで、いろいろとうかがっていきたいと思います。
 池田 分かりました。
 使命とは「命を使う」と書きます。世界でたった一つしかない、自分の命を使って、どのような人生を生きるか――この一点を外して、「何のため」という大目的を見失ったまま、いかなる富や名声を手にしてもむなしい。本当の満足感を得ることは絶対にできない。
 たとえ地味であったとしても、皆さま方のように、昼夜を問わず、世のため、人のために尊い命を燃やしながら、母として、女性として、自分の決めた使命の山に挑戦する人こそ、人生の真の勝利者です。
 また、そうした母親の姿は、子どもの生命にも焼きついて、生涯、離れるものではありません。
 小野里 本当にそうですね。私も、多くの方々のエピソードや身近な体験などを見聞きするたびに、そのことを実感します。
 池田 わが信念の道を、日々、自分らしく、朗らかに、堂々と歩んでいく、その母親の姿そのものが、子どもに、人生を生き抜く力を育む源泉となるのです。
 そんな母の偉大さを、私は詩に託しました。
  「晴れの日にも
   嵐の日にも
   吹雪の日にも
   母の心の奥底には
   いつも おおらかな笑いがある
   『生き抜く』法則の真髄を知った
   悠然たる大河のごとき 智慧が光る
  
   母よ 大楽観主義者の母よ!
   だれでも あなたの名を呼ぶ時
   暖かな春が 胸に よみがえる
   だれでも あなたの声を聞く時
   懐かしい故郷から 生きる力を得る」
 小野里 昨年(一九九八年)の五月、「創価学会 母の日」を記念して贈ってくださった、『偉大なる母を讃う』の詩の一節ですね。
 心から勇気が湧いてきます。いつも読み返しては元気を出し、頑張っています。
 久山 母を謳った詩といえば、先生がお会いになられた世界詩人会議の王吉隆第一副会長の詩にも感動しました。
3  自分の成長は母の愛情のおかげ
 池田 王副会長が、亡きお母さまに捧げられた詩ですね。
 王副会長は、人生の最終章を荘厳に飾られたお母さまの手を握りながら、尽きせぬ思いを、こう謳われたといいます。
  「これが揺りかごを揺らした母の手
   これが無数の衣服をもみ洗いした母の手
   これが九人の子どもを抱擁した母の手
   これがわが手を引いて道を横切った母の手」
 “自分がここまで成長してこられたのは、母の深い愛情があったからだ”との王副会長の感謝の心が、この詩から痛いほど伝わってきます。こうした母への思いは、だれもが共感するものでしょう。
 久山 私も、母が本当に苦労して、時には命懸けで、私たちきょうだいを育ててくれただけに、そのありがたさを深く実感します。
 私が生まれたのは、太平洋戦争の真っただ中でした。当時、熊本で通信関係の仕事をしていた父が、民間徴用で南洋諸島のポナペ島に行くことになり、私を身ごもっていた母もいっしょに船に乗りました。しかし、船は途中で、魚雷の攻撃に遭い、沈んでしまったのです。
 両親は救命具をつけ、海に飛び込みました。流されているうちに、母と父は離れ離れになりました。
 水圧で救命具が身体を締めつけ、我慢できずに外した人が次々と沈んでいくなかで、身重だった母は何倍も苦しかったことでしょうが、トラック島から来た日本の救助艇に助けられるまで、まる一晩、必死にこらえ抜きました。
 何組か乗っていた夫婦のなかで、夫婦ともに助かったのは両親だけでした。やっとポナペに着き、三カ月経つかたたないうちに、「婦女子は本土に戻れ」との軍の命令で、父だけがポナペにとどまり、母は再び大阪に戻ることになったのです。
 池田 戦争というものは、本当に残酷で愚かです。戦争で犠牲になるのは、常に民衆です。
 そのなかでも最も苦しめられるのが、母であり、子どもなのです。
 久山 そう思います。
 大阪に戻った母は、親戚に身を寄せ、何とか私を産んだのですが、もともと身体が弱いのに、栄養失調が重なり、母乳がまったく出ませんでした。
 無理をし、やっとの思いでミルクの配給の列に並んでも、直前で配給がうち切られた時には、「ああ、どうやって、この子を育てていけばよいのだろう」と、途方にくれたそうです。
 そんな状態ですから、私もやせこけて、おんぶするにも普通のやり方ではするりと落ちてしまうので、斜めに背負っていた、と。
 泣く声さえ出ない衰弱しきった赤ん坊の私を、父が戻り、沖縄でいっしょに住むまで、親戚の人たちの助けを借りながら、母は一人で三年近く、懸命に育ててくれました。
 小野里 私の家でも、家族が最も大変な時に、必死に支えてくれたのが母親でした。私が小学生の頃、父が一時、狭心症で倒れ、家計が逼迫した時のことです。和裁ができる母は、昼も夜も休まず、着物を縫ったり、教室を開いて人に教えたりして、六人の子どもを養ってくれました。
 気丈な母は、私たちに生活の心配を絶対にかけないよう、いつも気を配っていました。
 ある日、学校の先生が家庭訪問した時も、こう言っていました。
 「六人も子どもがいるので、給食費の支払いが時には遅れることがあるかもしれません。でもそんな時は、子どもに言わずに、私に直接言ってください。子どもには、一切、さみしい思いをさせたくないのです」
 ふすま越しに母の声を聞きながら、胸をつまらせた思い出があります。
4  戸田先生を支えた母のアツシ
 池田 わが子のためには、何でもできる。何でもする――空よりも広く、海よりも深いのが、母親の愛情です。
 その母の思いは、たとえ時間がかかったとしても、必ず子どもに伝わるものです。
 御書(日蓮大聖人御書全集、以下同じ)にも、「たとえば鳥の卵の内より卵をつつく時・母又同じくつつきあくるに・同じき所をつつきあくるが如し、是れ即ち念慮の感応かんのうする故なり」と仰せです。
 母親が懸命に頑張れば、子どももそれに応えようとする――子どもを慈しむ親の愛情と、子どもの成長しようとする生命の息吹とは、必ず感応していくのです。
 小野里 当時、私たちは何とか母を応援したいという気持ちでいっぱいでした。
 家事の手伝いも進んでしました。私の住む伊勢崎市は絹織物の産地で、母も高価な反物で着物を縫っていました。それで子ども心に、「和裁をする母のきれいな手が、あかぎれになったりしてはいけない」と、食事の準備や洗い物などは、すべて、兄を中心に私たちがやりました。
 私も、何とか母に応えたいと、一生懸命、勉強したことを覚えています。
 池田 恩師・戸田先生が、若き日、青雲の志をいだいて上京する時に、お母さまが夜なべをしてつくられた「アツシ」の話をうかがったことがあります。
 そのアツシを手渡す時に、お母さまは眼を赤くはらしながら、「どんな苦しいことがあっても、これを着て働けば、何でもできるよ」と言われた、と。
 戸田先生は、この北海道独特の半纏をいつまでも大切にされ、どんなに古びていても、寒くなるとそれを愛用しておられた。
 また、戦時中、軍部の弾圧によって、二年間の獄中闘争を強いられた先生は、出獄して、そのアツシが戦災を免れ、無事であったことを知ると、奥さまに「あのアツシが無事であるからには、おれは大丈夫だ」と語っておられたという。
 それほど、母の思い、祈りというものは強い。一生涯、どこまでも「生きる力」を与え続けるものなのです。
5  使命に生きる時、すべてがよい方向へ
 久山 私も、自分が結婚し、母親になってみて、どんな思いで母が私を育ててくれたのか、少しずつ分かるようになりました。
 私は、次女を、生まれてちょうど二カ月を迎えた日に亡くしております。
 肺炎にかかった娘は、横になると呼吸ができずに苦しみますので、その日も、ずっと何時間も抱き続け、看病していました。
 午前零時を過ぎた頃、夫が「疲れただろう」と交代してくれまして。
 夫は娘を抱きながら、「明日から、仕事を休んで看病してあげるからね」と優しく声をかけていたのですが……。それから間もなくして、夫の腕の中で、娘は安らかな顔で、まるで眠るように逝きました。
 私もそうでしたが、夫の落胆は深かったようです。その時、自分の宿命を感じたのでしょうか、未入会だった夫が、この娘の初七日に入会したのです。私も時間が経つにつれて、「ああ、娘は夫に仏法を教えるために、来てくれたんだな」と感じるようになりました。
 小野里 実は私も、最初の子どもを、出産して間もなく亡くしました。
 ミルクを飲まないので、医者がおかしいと気づき、大病院にすぐ移したのですが、生後八日目に、息を引き取りました。
 後で医者から、「心臓の動脈が一本なくて、生まれてすぐに死んでもおかしくない状態だった」と聞き、悲しみのなかにも、「この子なりに、精いっぱい、生きてくれたのだ」と感じました。
 それでも、しばらくの間は、「どうして死んでしまったのだろう」との思いが離れませんでしたが、夫とも話すなかで、「今度、子どもができた時には、絶対に宿命転換しよう」と固く誓い合うことができました。
 女子部時代にも、広宣流布と後輩の成長を祈ってきた私でしたが、この時ほど、自分自身の宿命を見つめて祈ったことはありませんでした。
 “娘は私に本当の信心を教えてくれたのだ”と思えるようにもなりました。それから、人の痛みや悲しみがより深く感じられる自分になれたと思います。
 池田 さぞや辛かったでしょう。
 仏法の眼から見れば、意味のないことは一つもありません。
 すべてを強き信心で乗り越えて、人生を大きく開いた人こそが、本当の人生の深さを味わえるのです。
 また、亡くなったお子さんの命は、広宣流布という壮大な流れのなかで、厳然と生きています。
 日蓮大聖人は、「滞り無く上上品の寂光の往生を遂げ須臾の間に九界生死の夢の中に還り来つて」「広く衆生を利益すること滞り有る可からず」と仰せです。
 尊い使命を果たし亡くなった人は、すぐこの世界に生まれて、私たちの使命の陣列に再び連なり、ともに広宣流布の舞台で活躍していくのです。
 小野里 念願の子どもを授かったのは、それから二年後、地区婦人部長をしていた時でした。
 妊娠七カ月に入る頃、急に苦しくなって、病院に行くと、医者から「きょう生まれてしまったら、危ない」と言われ、そのまま入院となりました。
 「ここで、私の信心が試されているんだ。絶対に負けるわけにはいかない」と真剣に祈るなかで、一日、また一日と二カ月間、必死に持ちこたえました。
 入院中に夫は、東京へ転勤となりましたが、週末は病院に駆けつけてくれました。そして、無事に長男を出産することができたのです。
 久山 大変なご苦労が続いたのですね。
 小野里 ええ。しかし、そんな経緯もあってか、子どもはカゼをひくとすぐ引きつけを起こしてしまう体質で、正直言って、悩みました。
 故郷の群馬とは違い、埼玉では子どもを預けられる親戚もいません。連れて歩くのも不安で、活動にも行くに行けない気持ちに陥ってしまいました。
 しかし、ハッと気づいたのです。「使命のあるこの子が、私の足を止めるわけがない。もう一度、自分自身の成長を強く祈ろう」と。そう腹を決めたら、不思議なことに子どもは、それ以来、引きつけを起こすことがなくなりました。
 今、高校生になりましたが、健康で学校生活を送っています。
6  大切なのは負けない心
 池田 人生も、仏法も道理です。いきなり、山の頂上に登れるものではありません。
 「地上を踏みしめて、一歩、また一歩と進め」とは初代会長・牧口先生の言葉です。幸福を築くのも、境涯を開くのも、現実の一歩一歩の努力の積み重ねです。
 時々刻々と変わる人生の風向きに流されるのではなく、風に向かって走ってこそ、目的地へとたどりつくことができる。
 行き詰まったら、まず祈る。そして、行動する。その繰り返しのなかで、人間が鍛えられ、どんなことにも負けない強さを培うことができるのです。大切なのは負けない心です。
 自分も、そしてわが子も、ともどもに尊い広布の使命に生き抜こう――そう深く深く一念を定めて、祈っていく時、すべてがよい方向へと大きく開けていくのです。
 久山 私はヤング・ミセス(二十代、三十代の婦人を中心に構成されるグループ)の時、同居していた義母に、三人の子どもの世話をお願いして、活動に出かける毎日でしたが、子どもたちのことが、いつも気がかりでした。
 子どもたちが、次々と病気になり、一日に何度も病院へ通う日々もありました。
 ですから、活動をしていても、心の底からの充実感を感じることができず、いつしか、愚痴っぽい自分になっていたのです。
 「このままでは、いけない」と信心の姿勢を猛省し、真剣に祈りました。
 その時、池田先生のご指導にあった「子どもは未来の共有財産である」との言葉に目が止まりました。「そうだ。わが子だけではなく、学会の末来っ子全員がすこやかに成長できるように祈っていこう」と、心がどんどん大きく広がっていったのです。
 それで、夫といっしょに未来部の担当をさせていただくようになり、ほかのお子さんのお世話を懸命にするなかで、気がつくと、わが子も病院とすっかり縁が切れるようになっていたのです。
 同じ車で出かけるにしても、「病院にあんなに通っていたのに、こうやって学会活動できること自体、本当にありがたいことだね」と夫が言うほどでした。その間、娘の交通事故やケガなどもありましたが、すべて軽くすんでおり、一つひとつ、宿命転換させていただいたなと実感しています。
 池田 人生、何も波風がないことが幸福なのではない。何があろうと、夫婦で心を合わせて苦楽をともにしていくなかで、その絆をより深く固めていけるのです。
 戸田先生は、よく語ってくださいました。
 「大聖人の仏法は、不幸な人のためにこそあるのだよ。逆境にある人が、幸せになる宗教なのだ。不幸な人ほど、それを乗り越えた時、すごい力が出るのだよ。その人こそが、本当に不幸な人の味方になれるのだよ」と。
 時間もないなかで、人々の幸福のために、自分の命を使い、徹して尽くしていく。だからこそ最高に価値があり、尊いのです。
 小野里 どんなに忙しくても、自分の決めた道を歩めること自体が、最高の幸せなのですね。勇気が湧いてきます。
 ある婦人部の方は、お子さんに「うちは、消防署や警察署よりも忙しいね」と言われて、答えに窮したこともあったそうです。(笑い)
 毎日毎日、人のために飛び回り、何かあったら駆けつける――そんな母親の姿を見て、子どもさんが語っていたというのです。
7  母親の笑顔が子どもの心に染みこんでいく
 久山 私も、子どもが小学生の頃、書いた作文を見て、ハッとしたことがありました。
  「うちのお母さんは、いそがしいです。
   朝はごはんをつくって、でかけます。
   昼も、でかけます。
   夜もごはんをつくったら、また、すぐにでかけます」と。(笑い)
 それを読んだ担任の先生が、「お母さんは、何のお仕事をされているの」と、子どもに聞かれたそうで。(笑い)
 私は「さみしい思いをさせてはいけないな」と思い、子どもが学校へ出かける朝の見送りの時は、どんなに忙しくても、精いっぱいの愛情を注ごうと決めました。
 毎朝、子どもたちを玄関で見送った後、二階のベランダの手すりから乗り出して、大げさなくらいに(笑い)、手を振りました。
 小野里 微笑ましい光景が、目に浮かぶようですね。
 久山 学校までは、見晴らしのよい一本道だったので、子どもたちの姿が見えなくなるまで、四分くらい、手を振り続けたのです。
 子どもたちも大きくなると、恥ずかしくなったのでしょうか、「もういいよ」と言うのですが、続けました。息子には、人に気づかれないように、手を下のほうでちょっと振るだけだったりしましたが……。笑顔で登校する子どもの姿ほど、うれしいものはありませんでした。
 池田 子どもにとって母親は、この世でただ一人の存在であり、だれも代わりはできない、絶対の信頼と安心の拠り所です。
 ドイツの作家・ヘッセの言葉に、「太陽は私たちに光で話す。花は香りと色で話す」とあります。
 母親の何気ない笑顔や振る舞いは、暗い部屋に、窓から明るい光が差し込むように、花の香りが馥郁と周囲を包んでいくように、子どもの心の中に染み込んでいくものなのです。
 アメリカの心理学者のオルポートは、こうした日常的な生活のなかで形成される「家庭の雰囲気」が、子どもの人格形成に大きな影響を与えることを指摘しています。
 子どもだって、お母さんが忙しいことは分かっている。だからといって、その分、我慢させてよいということはない。
 大切なのは、思いの深さです。しかし、それをきちんと伝えなければ、子どもはさみしい思いをするし、心も安定しません。
 わずかの時間でもいい。太陽が毎日、昇るように、子どもに愛情を注いでいく。間断なく、子どもの心を温め、育み、励ましながら、その成長を祈っていくのです。
8  母親の真剣さが子どもの人生の基盤を作る
 小野里 これは、失敗談ですが、ある時、子どもが翌日の家庭科の授業でギョーザをつくることになって、ギョーザの皮を準備しなければならないことがあったんです。
 出かけている私と連絡もとれず、子どもは自分で冷蔵庫などを探したりしたのですが、どこにもない。帰宅した私が話を聞いた頃には、食品店も全部閉まっている時間で、はたと困りました。
 それでも、子どもには「心配しないでいいからね。お母さんが絶対、用意しておくから」と約束し、すぐ出かけました。
 「ラーメン屋なら、まだ開いているかもしれない」と思った私は、急いでラーメン屋に向かい、理由を話して、何とかギョーザの皮を分けてもらったのです。
 久山 たくましい母の知恵ですね。(笑い)
 小野里 今は、携帯電話もありますし、便利なコンビニもありますから、そういうことはないですが……。(笑い)
 久山 私も、同じような経験があります。
 娘が小学一年生の時、学校で使う「算数セット」に名前のシールを貼るように、先生に言われたことがあったのですが、娘が伝えるのを忘れてしまったのか、前日まで私も気づきませんでした。
 小野里 「算数セット」といえば、普通は、数を数えるための、小さい棒やおはじきがたくさんついてますね。
 久山 そうなんです。私が留守にしていたので、娘は仕方なく、自分で名前を書こうとしたのですが、シールは小さいし、数も多く、手に負えず、泣きながら眠ったようです。
 夜遅く私が家に帰ると、「よろしく、おねがいします」とのメモ書きと、娘が書いて失敗したシールが置いてありました。
 小さい字が書けなくて、字が一枚のシールをはみ出してしまったのでしょう。つながったシール六枚分に「ひさやま」の「ひ」の一字だけが、たどたどしい字で書いてありました。
 私は、それを見て「かわいそうなことをしてしまったな」と思い、それから一枚、一枚、心を込めて名前を書きました。
 翌朝、娘の喜ぶ顔には、母への信頼があったように思います。以来、「親としてできることは、全部、果たしていこう」と決意しました。
 池田 母親が一生懸命にしてくれたことは、子どもの生命に、必ず刻まれていきます。
 韓国の箴言に、「功を積みし塔は崩れず」とあります。
 これは、「精魂を込めて築いた塔は、永遠に崩れない」という意味ですが、子育ても同じでしょう。
 何も特別の道などない。母親が真心を込めた分だけ、子どもはそれを全身で受け止めて成長していく。母親の真剣さが、子どもの人生の基盤を固めていくのです。
 創価学会も、牧口先生、戸田先生のお二人が、決死の思いで道を切り開いてこられたからこそ、今日の大発展があります。その大精神を受け継いだ私も、皆さんが一人残らず「世界一の幸福者」になれるよう、盾となり、屋根となって、戦ってきたのです。
9  ”一人一人を大切に”との師弟の誓い
 小野里 私も何度か、峻厳な池田先生の戦いを間近で拝見させていただきました。
 先生と初めてお会いしたのは、一九六八年(昭和四十三年)八月、静岡の白糸で行なわれた研修に、群馬県女子部の代表として参加した時のことでした。
 先生は、私たちといっしょにマス釣りをしたりして思い出をつくってくださり、いろいろと懇談をしてくださいました。
 また、記念撮影をしてくださったのですが、私は先生のちょうど真後ろの位置になったのです。
 そうしたら先生が後ろを振り返り、「毎日毎日、大事な仕事をしてるから、疲れるんだ。肩も張るんだよ」と何気なく言われたのです。
 「私たちのために戦っておられる先生に、少しでも何かお手伝いしたい」「この師のもとで生きよう」と決意したことを、昨日のことのように覚えています。
 久山 記念撮影といえば、私にも忘れられない思い出があります。
 一九七二年(昭和四十七年)一月、先生が沖縄にいらっしゃった時のことです。二日間にわたって、七五〇〇人の代表との記念撮影の機会がありました。
 直前の指導会に参加した私は、「人数が多いので、何グループかに分けて撮影します」と聞き、「時間がかかって、先生がお疲れになってはいけない」と思い、辞退を申し出ました。
 でも家に帰ったら急に悲しくなり、「これで、お会いできないのか」と涙が出てきたのです。
 小野里 やはり、記念撮影に参加したかったと……。
 久山 ええ。それでも、「信心は距離じゃない。絶対に一念は通じるんだ」と思い、真剣に祈りました。そうしたら翌日、沖縄本部で勤行会があるとの連絡があったのです。私は義母と長女を連れて、とるものもとりあえず、駆けつけました。
 沖縄本部に入ろうとしたら、入り口のところで、池田先生とばったりお会いしました。
 先生はにっこりと微笑みながら、娘に「いい子だね、何歳?」などと聞かれ、「お土産に」とビスケットなどを娘にくださいました。
 その娘も先生の創立された創価大学を卒業し、ヤング・ミセスとして夫婦で頑張っています。
 池田 よく覚えています。風の強い、冬の日だったね。
 久山 はい。さらに先生はお入りになる前に、もう一度、私たちのほうを振り返り、黙礼されたのです。
 感動で胸がふるえました。その時の先生の表情、髪型、着ていらっしゃったカーディガンの色まで、すべて覚えています。
 「ああ、先生は私たち会員を徹底して大切にしてくださるんだな」と心の底から感じました。
 池田 学会の草創期の頃、耳が切れそうなほど寒い日に、会合に嬉々と集ってくる同志の方々の姿を見ながら、戸田先生は「これほど尊い姿はない」と、しみじみと語っておられた。
 また、猛暑のなか、汗を流しながら駆けつけた同志の姿を見ながら、「この人たちがいなければ、広宣流布はできない」と涙を流され、私に「この尊い仏子を、生命の続くかぎり守ってほしい」と、峻厳な眼差しで言われたこともありました。
 それが、戸田先生と私との“師弟の誓い”です。たとえ五体をなげうってでも、大切な大切な学会員を守ろうと、私はこの五〇年間、戦い続けてきたのです。
10  母親の豊かさと愛情が子どもの生きる力に
 小野里 私の信心の大きな転機になったのも、池田先生の全魂こもる指導をうかがってのことでした。
 一九七〇年(昭和四十五年)五月、いわゆる「言論問題」で学会批判の嵐が吹き荒れるなか、東京の日大講堂で行なわれた本部幹部会で、先生は、“創価学会の青年を見てください。一〇年後、二〇年後、この青年たちが立派に成長する姿を”と言われました。
 一切の矢面に立たれながら、どこまでも青年を信じ、期待される先生の姿が、涙でかすみました。その時の誓いが、私の人生の大きな支えとなっています。
 池田 あの時は、前年の暮れから、強行スケジュールを組み、無理を重ねたため、体調を崩していたのです。その年の四月ぐらいまで、まる五カ月近く、まったく熱が下がらなかった。
 しかし、わが身がどうなろうとも、学会だけは絶対に守るとの思いでした。そんな私の心の支えになったのが、同じ「使命」に生きゆく青年たちの存在であり、青年の成長でした。
 戸田先生も、私におっしゃっておられた。
 「今、私は矢面に立っている。君たちには傷をつけたくない。激しい疲労の連続ではあるが、私は毅然として時をかせぐ。君たちは今のうちに勉強し力を養い、次の時代に敢然と躍り出て、広宣流布の実現をはかってもらいたい。戦いは長い。すべて君たちに託す以外にない」と。
 私も、恩師と同じ気持ちです。その思いは、今もまったく変わりません。
 久山 今の池田先生のお話をうかがっていて、中国の作家・魯迅の、「生きて行く途中で、血の一滴一滴をたらして、他の人を育てるのは、自分が痩せ衰えるのが自覚されても、楽しいことである」(石一歌『魯迅の生涯』)との言葉を思い起こしました。
 先生が沖縄にいらっしゃるたびに、「青年を育てよう」「青年を大事にしよう」と、何よりも最優先で、寸暇を惜しんで、後継の青年たちを手づくりで育てられる姿を目の当たりにし、身が引き締まる思いがします。
 池田 魯迅の言葉は、革命に生き抜いた彼らしい表現ですが、その気持ちはよく分かります。
 人を育てるという意味では、子育ても同じです。
 母親が子どもにわが命を注いで育てていく――それが子どもの生命に感応して、大きく花開くのです。母親の生命の豊かさと愛情は、必ず子どもにとってかけがえのない生きる力となっていきます。
 「どうか幸せになってほしい」「使命の道をどこまでも歩んでほしい」と願い、未来を託す思いで接するなかで、母も子もともに、永遠に崩れない幸福を勝ち取ることができるのです。

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