Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

三世に花咲き風そよぐ  

「第三の人生を語る」(池田大作全集第61巻)

前後
1  黄金の夕日のごとく
 夫人 先日(一九九八年二月)、フィリピンを訪問したさいに見たマニラ湾の夕日は、世界一美しいと言われるだけあって、見事でしたね。
 「第三万人生」も、あのように美しく燃焼しきったものでありたいと、荘厳な宇宙の営みを見て、しみじみ思いました。
 池田 戸田先生は黄金の夕日のごとき晩年を、と言われたけれど、本当だね。人生の達人の言葉です。
 水平線に沈みゆく太陽は周囲を赤く染め上げて、一日の終わりを告げるとともに、輝かしい明日を約束している。
 松岡 フィリピンでは、スペインのドン・ファン・カルロス国王とお会いになりましたね。
 国王が「リサlル大十字勲章」を受章されたさい、先生は祝福のあいさつを申し上げられました。(名誉会長は一九九六年に、同章を受章)
 佐々木 スペインを独裁から民主主義へ移行させ、内外に尊敬を集めておられる国王ですね。
 池田 亡命先から十歳の時、人質同然でスペインに送られ、ご苦労なさった。
 父君は、教えられた。スペインを愛せ。王家は、遊牧民のようであれ。国中を動き回って自分を国民に知ってもらい、人と接触し、親しく知りあい、理解に努め、そして好きになれ……と。
 全土を旅し、町から町、村から村を歩かれた。いつ王冠が台座にのって運ばれるか、それとも治安警備隊が逮捕状をもって来るか。どちらでもおかしくない栄光と破滅が隣り合わせの状況のなかで、周りに耳をかたむけ、目を向けられた。しかし、表面的には二十年間も、目立たず凡庸を装って過どされた。
 そして、国王になるや民主主義に移行させ、クーデターとも敢然と対決され、国中の厚い信頼を勝ち取られた。これは、たいへん世界的に有名な話です。
 夫人 お若いときのご苦労で、今日の国王があられるのですね。
 やはり人生の最後の最後にものをいうのは、どれだけ苦労したかですね。私も人生経験を重ねて、こう実感しております。
2  比翼の鳥・連理の枝
 池田 そのとおりだね。私たちの場合、弓と矢、比翼の鳥・連理の枝として、いつ死ぬか、いつまで生きられるか――という激しい戦いを、半世紀近く、ともにしました。いわば同志であり、戦友です。
 佐々木 このてい談の、初めのほうでもご紹介させていただきましたが、かつて先生は、奥さまに、なにか賞を贈られるとしたら、「微笑賞」と感謝しておられました。
 そして、「また生まれてきたら、次の世も、また次の世も、永遠にどうぞよろしく、というところでしようか」と、婦人誌の編集長のインタビューに答えておられました。
 奥さまはどうお受け止めですか。
 夫人 まあ、どうしましょう。困りましたわ。
 主人に出会えたことは最高の幸運で、私の人生を決定的にしました。それは、仏法でいう過去の福運によるのでしょうか。
 けれども、福運は過去のものでしょうから、もし現在、福運を積み続けなければ、石が坂を転げ落ちるようになります。私は私なりに福運を築いていくため、一日一日、精進を重ねなければ、と自戒しております。
 松岡 つい先日、奥さまのお母さまに、私たち二人で話をうかがいました。九十歳を過ぎてもなお、かくしゃくとしておられます。会長就任の朝(昭和三十五年五月三日)のことを、お聞きしました。
 夫人 当時、大田区小林町の小さな小さな家に住んでいたのですが、母が手伝いに来ておりました。母も本部総会に出かけなければいけないので、まず蒲田の駅に行き、主人が総会に向かうタクシーを拾ってきました。母は、それから急いで電車で会場に向かいました。
 池田 うん、就任の総会が開かれた両国の日大講堂まで、この日は特別に、そのタクシーで行ったんだよ。
 会長になってからも、信濃町の本部まで、電車で通った。蒲田駅まで自転車で出て、京浜東北線で東京駅へ。そこから中央線で四ツ谷駅、乗り換えて信濃町で降りる。若かったからね。それに、本部に車はなかったんだよ。会館もほとんどなく、なにもなかったからね。
 佐々木 そのころ、私は山形から上京して、市谷にあった予備校に通っていました。四ツ谷駅で乗り換える時、ホームで電車を待たれながら文庫本を読んでおられた先生にお会いしました。
 緊張して、大学受験をめざしているとごあいさつしたら、「頑張るんだよ」と激励してくださいました。
 そうだつたのか。電車やホームで、学会員にいっぱい会ったなあ。フル回転の一日を終え、疲れきって、タクシーでまっすぐ家まで帰ることもあった。
 だから昼間のうちに、妻たちが翌朝に備え、自転車を蒲田の駅まで取りにいってくれてね……。
3  会長就任の夜のドラマ
 松岡 会長就任の日の夜、関西の同志がお祝いを申し上げようと、小林町のご自宅へうかがったそうです。家はひっそりしていて、玄関を開けた。玄関はきれいに水が打たれていた。
 先生が出てこられて「会長になったんで、遠慮しているのかなあ。だれも来てくれないんだよ」と言われ、上がるように言われたそうです。
 佐々木 先生はお茶を持ってこられた奥さまを指して、「今日はね、この人、お赤飯も炊いてくれなかったんだよ」と笑っておられた。聞くと、先生が帰宅されても、奥さまは「おめでとうございます」とは言われなかった。
 先生が「お赤飯ぐらい炊いてくれよ」と言われのに、「ご苦労さまでした。今夜は、池田家にとっては、お葬式だと思っています。ですから、お赤飯は炊きませんでした。鯛もありません」と言うことでした。
 松岡 訪問した関西の同志の方は、いつもとは雰囲気がぜんぜん、違うことに驚きました。
 とくに、いつもは微笑みを絶やさない奥さまが、厳粛な感じで、ニコッともされないことに、並々ならない決意と覚悟が感じられた、ということでした。
 夫人 結婚して以来、覚悟はしておりましたけれども、主人の会長就任が、私的には百八十度の転換であったことは確かです。主人の公的なことは、以前から続いていたわけですが、こと私に関しましても、私的生活はいっさいなくなる、ほとんどそう申し上げられる転換でした。
 松岡 先生のお母さまであるいちさんに、二十数年前、私たち二人で取材させていただいたことがあります。
 ご実家にうかがって、「聖教新聞」の記者としてごあいさつ致しますと、私たちは腰を抜かすほど驚き、あわてたのですが、お母さまは、「大作が、いつもお世話になっております。これからも、どうか大作をよろしくお願いいたします」と、両手を畳について、丁寧にごあいさつされました。
 佐々木 ええ、びっくりするやら、恐縮するやら……。若い私たちに、です。そんなお母さまのお姿に、先生という人格をはぐくまれたご一家の空気のようなものを感じました。
 晩年になればなるほど、自然ににじみ出るものなのですね。
 池田 母には、戸田先生に師事して以来、ほとんど会う機会もなかったのですが……。
 母は、いつまでたっても母で、私の健康をいつも気遣ってくれていました。
 八十歳で亡くなりましたが、亡くなる寸前まで、「楽しかったよ。私は勝ちましたよ」と笑顔を浮かべていました。
4  生命の宮殿に住する
 松岡 多くの会員に″白木のおじさん″と慕われた奥さまのお父さま、白木薫次さんの晩年についても、お話しいただけませんでしょうか。
 戦前の入会で、戸田先生は「学会の彦左衛門である」と言われ、「城南に 君のいませば 我が砦 盤石の重みに やすらけくある」と詠まれています。
 夫人 父は、八十五歳まで元気に生きました。亡くなる一年ほど前に風邪を引いて、時折、床に臥せるようになりました。あるとき、母からこんな電話がありました。
 「どうも、おじいちゃんの様子がおかしいの。『布団は絹のようだ』とか『ここは森の中だ』『ここは宮殿だ』とか言ってね。心配なの……」
 池田 私も多忙を極めてお見舞いにも行けなかったが、ようやく訪ねたところ、四畳半に木綿の布団で休んでいた。
 普通に話はするし、まともなんです。
 「金糸銀糸の大名の布団みたいで、じつに心地よい。それに、すばらしい世界が見えてね。野原一面に美しい花々が咲き乱れ、さわやかな森には絶妙な音色の曲が流れている。まるで宮殿にでもいるようなすばらしさなんですよ」――辺りが、こんな風に感じられるときがある、と満足げに笑っているんです。
 松岡 好々爺然とした、あの温顔が目に浮かびます。
 池田 だから私は言ったんです。「心配はいらないよ」と。過去の次元のことを、懐かしく思い起としているのか。あるいは未来の次元のことを、楽しんでいるのかもしれない。
 過去、現在の福徳追い来って未来の大福運につつまれているのでしょう。いわば仏界に住するようなものです。
 大聖人は、こう仰せです。
 「妙覚の山、すなわち成仏の境涯に立って四方を見渡せば、すばらしい世界が広々と続いている。天空からは四種類の花がふり、美しい音楽が聞こえ、常楽我浄の四徳の風にそよめいて、自在に楽しきっている。私たちも必ず、そうなるでしょう」(御書一三八六ページ。趣意)と。
 夫人 「頭がおかしくなっちゃった」(笑い)と、案じていた母は、それで、すっかり安堵しましてね。父は亡くなる十年ぐらい前から、勤行が終わると、必ず御書を開き、「開目抄」の一節「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし……」を拝読していました。
 母も病弱が原因で信心したのですが、先ほどのお話のとおり、今も元気で長生きさせていただいています。
 佐々木 過去・現在・未来という生命の荘厳な流れと、不可思議さ、信仰に生きぬいた人々に共通の大境涯、崩れぬ境地を感じさせるお話です。ありがとうございました。
5  ″私は勝った″といえる人生を
 夫人 私は小学生の時から信仰してきました。人生を振り返ってみて、本当に仏法の偉大さを心から深く感じる日々です。仏法は、悲しみを喜びに変え、苦しみを楽しみに変える力をもっています。どんな苦境をも乗り越えていける自信をあたえてくれます。
 池田 戸田先生はよく、生きていることそれ自体が喜びであり、楽しみとなる人生を送ることが仏法だ、と仰せになっていたが、まったくそのとおりだと思いますね。
 広布のために、徹して信仰をまっとうされた方は、一人ももれなく、なんの心配もなく、悠然たる臨終を迎えることができます。これは、多くの方々に接してきた私の厳然たる結論です。
 佐々木 死を前にしては、いかなる権力も、財力も、名声や知識といえども、まったく通用しない、ということですね。
 池田 そうです。ヴィクトル・ユゴーの、「人間はみんな、いつ刑が執行されるかわからない、猶予づきの死刑囚なのだ」(『死刑囚最後の日』斎藤正直訳、潮文庫)は、有名な言葉です。
 自若安穏とした最終章を大勝利の姿をもって迎える――そのための信仰です。悲しみゃ苦しみ、悔恨を残す死は、敗北の死です。
 徹して信心をしぬいて、最後に、「私は勝った!」と言いきれる人生を送っていただきたい。それが、わが同志への私の願いであり、祈りです。

1
1