Nichiren・Ikeda
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海外へ不二の旅
「第三の人生を語る」(池田大作全集第61巻)
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2 話はまず聞き、たたえる
松岡 ところで、毎月の県長会議の折など、全国の県婦人部長の皆さんから、さまざまな報告をお聞きに、なっていますね。
夫人 最近は忙しくて、なかなか……。でも、決して指導うんぬんというのでは、ありません。
私を含めてですが、女性はいろいろ自分の思いを聞いてもらいたい、あるいは先生に伝えてもらいたい、ということが、種々あるんです。
皆さんが話されるのを聞いてさしあげて、お話しされたということで満足していただけるのであれば、また活力にしていただけるのであれば、喜んでさせていただこうと、言い聞かせております。皆さん、それはもう、一生懸命に活動してくださっているのですもの。
池田 女性の話は、私も、まず耳をかたむけることが大切と思います。それと、女性には決して叱ってはいけません。いや、叱る資格などない。たたえにたたえていくことです。
日蓮大聖人は、けなげに信心し、折伏に懸命な人には、まさに「当如敬仏」の思いで迎えなさい、とおっしゃっています。
それと男性には訓練することですが、女性は育てることです。女性が立派に育たないのは、育てる方が悪い……。(笑い)
学会は婦人部の皆さまの一途な、懸命な活動のおかげで、今日があることを、私は一瞬たりとも、忘れたことはありません。
女性は、家庭のこと、ご主人のこと、お子さんのこと、ご両親のことなど、現実の悩みや生活の諸問題、そして人生の課題など、すべてを背負って奮闘している。だから、信仰の必要性も大切さも、直観的にわかるのでしょう。
婦人部の方々を大事にできないリーダーは、失格です。
3 美しき「不二の杖」
夫人 私も、今考えると、主人に育てていただいたような気がします。
そうそう、一九七四年(昭和四十九年)だったでしようか、あの年は、海外でずいぶんと忙しい年でした。
佐々木 たしか一月は香港で、三月から四月にかけて北米、中南米と回り、秋には訪ソでした。また、初の訪中はこの年の五月で、十二月には二度目の訪中でした。
本当に、席の温まる暇もないくらい、旅の連続でした。
松岡 あの年は、当初はたしかブラジルへ行かれる予定もありましたね。
池田 アメリカでビザを申請して、ロサンゼルス郊外のマリブ研修センターで待機している状況が続いた。その分、アメリカでは連日、メンバーの激励だったね。
当時のブラジルは学会への誹謗中傷の風聞で、入国を妨害する動きも強く、ビザがとうとうおりず、やむをえず日程を変更しました。
佐々木 ブラジルに行かないと決まった晩、先生はマリブからブラジルSGIの理事長に、国際電話をされていました。
研修センターの二階にあがった所にある電話で、でした。
「いいかい、涙など決して見せず、明るくはつらつと、心からメンバーを激励するんだよ! 私からも、くれぐれもよろしくと伝えてほしい」と。
また、「今に必ず激励に行くから!」と、力強い声で噛んでふくめるような電話でした。
そして、こうも言われていました。
「私には、ブラジルに行けなくても、世界がある。宇宙があるんだよ」と。先生の心の大きさと広さに、体が震えました。
マリブの海岸から、波の砕ける音が静かに聞こえる晩でした。
池田 あれからだったね。ブラジルのリーダーたちはメンバーとともに、必死になって祈りに祈り、広布の環境を切り開いていった。題目を唱えぬいた分、願いが叶い、その分、前進の軌道が見事に出来上がっていったのです。
すべては変化、変化ですが、なにがあっても崩れないのが、南無妙法蓮華経です。題目を唱えぬいていけば、必ず開けていく。これ以上はないという境涯になる。
今のブラジルは、世界第一の戦いをしています。
松岡 十八年経って、先生はブラジルに行かれました。圧巻の大文化祭が開催され、社会の発展に貢献するメンバーの躍動が目立ちました。
その後、牧口先生や戸田先生、そして、池田先生の名を冠した公園や道路が誕生し、創価教育学説を実践する学校も現れ、いまや国を挙げてSGIを正確に理解し、期待もしています。
池田 団結して戦った皆さまを、心からたたえます。
やはり岬吟し、悔し涙をとらえて戦ったところが、最後は勝つし、広布も伸展するのでしょう。
夫人 あの年は日程も過密で、旅の途中で日程が決まらないなど、苦労もございました。しかし、私などの苦労と比べたら、現地の方々のご苦労は、並大抵じゃなかったと思います。
その海外への激闘の旅の折に、主人から歌をいただきました。
佐々木 よろしければ、ご紹介いただけたら……。
夫人 「道ひらく 君と歩みて 不二の杖」でございました。
若いときは手紙もたくさんいただきましたが、本当に共同作業といいますか、ともに苦労してなしとげたように思えて……。
それと対談集など出来上がりますと、「君のおかげで一冊の本ができたよ」と、言ってくださいます。
ある年の私の誕生日(二月二十七日)には、「広布のため 世界で黄金の歴史を ここに留む」と墨書してくださいました。