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日蓮大聖人・池田大作

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東京タワーと九十歳トリオ  

「第三の人生を語る」(池田大作全集第61巻)

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2  万年の基盤を今
 池田 明治四年(一八七一年)にお生まれの牧口先生が七十歳を迎えられたのは、太平洋戦争が勃発した昭和十六年(一九四一年)でした。七十歳になられでも牧口先生は、九州をはじめ各地を回られ、行く先々で弘法の先頭に立って歩かれました。
 その足取りの勢いは、若い人も、追いつけないほどだった。
 機関紙「価値創造」の創刊も、牧口先生が七十歳の時でした。座談会の出席も、七十歳から七十二歳(七十二歳の年の七月、治安維持法違反と不敬罪の容疑で逮捕される)までの二年間で、二百四十余回におよんだ、という記録が残っています。
 松岡 その一回一回が、特高警察に睨まれ、国家権力の妨害の矢面に立つての開催だったわけですから、すごいことです。
 池田 牧口先生は、軍国主義の嵐のなかで、あえて、難を呼び起とす戦いをされたのです。七十歳の時、こうも指導されています。
 「魔の出るのが仏法の法則である。日蓮大聖人御在世の時に魔が出たのは、大聖人お一人であり、現在は宗門にあっても魔は出てとない。
 魔に従うことなく、魔を恐れることなく、大聖人の御遺志のままに行動しなくてはならぬ」と。
 この時、牧口先生が一歩でも退いておられたら、現在の学会の発展は、ありえなかったでしょう。
 今も方程式は変わりません。私たちは、あえて難を呼び起こし、悪と戦いぬくことで、万年に崩れぬ広宣流布の基盤をつくっているのです。
 個人においても同じであり、今世で人生の総仕上げが完壁にできれば、永遠に仏の軌道を進むことができるのです。
3  情熱ある限り、私は青春
 松岡 東京タワーを望む東京の中枢・港区で、″現役九十歳トリオ″が元気に活躍されているということで、お話を聞きにうかがいました。
 取材場所は、地区の拠点にもなっている埜口のぐちソノさんのお宅でした。赤坂・六本木のアークヒルズにある高層マンションの十六階です。
 テラスに出ると、東京タワーが目の前に見え、眼下には、各国の大使館も見えます。テレビ局、大音楽ホール、ホテルなどの上にそびえる超高級マンションで、ダイナミックな東京の街並みが一望できる場所です。
 佐々木 この埜口ソノさんが、九十一歳。そして、松浦良子さんが九十二歳。松田コノさんが九十歳。
 まさに″スーパー・シルバー・トリオ″で、話し出すと止まらないほどです。
 三人ともお元気で、ビルの清掃、うなぎ屋の切り盛り、タバコ屋の看板娘と、仕事が大好きな方々です。
 また三人とも、同じ婦人部のグループで頑張っておられます。所属する地区は、二年連続で総合最優秀賞の栄誉に輝いています。
 地区婦人部長は、「聖教新聞啓蒙も折伏も、皆の模範です。座談会でも三人合わせて三百歳だと笑いながら楽しくやっておられるので、若い人も負けられないと励みにしているんです」と感謝されていました。
 池田戦っておられるから、若いのです。
 アメリカの詩人サムエル・ウルマンの有名な「青春」の詩に、
  青春とは人生のある期間ではなく、
  心の持ちかたを言う。
  青春とは臆病さを退ける勇気、
  安きにつく気持を振り捨てる冒険心を意味する。
  ときには、二〇歳のの青年よりも
  六〇歳の人に青春がある。(『青春とは、心の若きである』作山宗久訳、TBSブリタニカ)
 とあります。若さとは、年齢で決まるものではない。燃え上がるような広宣流布の情熱があるかぎり、九十歳でも青春そのものなのです。
 松岡 新年の決意をうかがいますと、最高齢の松浦さんは、「今年一年、健康であって、折伏ができて、新聞啓蒙ができれば、先生にお応えできるかなと思います」
 埜口さんは、「一人ぐらいは、入会させてあげたいと決意しています」
 松田さんは、「私たちが頑張っても後継がちゃんとしてなくてはね。だから、孫たちの信心の鍛えが目標です」と、皆さん、戦う心に満ち満ちていました。
 池田 そうやって、現実に、学会を支えてくださっている方が、いちばん偉いのです。学歴でも地位でも役職でもない。どれだけ広宣流布を進めたか、それしかないのです。
 私は、いっさいの土台となって、私とともに戦ってくださった功労の方々を絶対に忘れないし、永遠に幸福を祈っていく決心です。それが、戸田先生の遺言であり、私の終生の仕事です。
 佐々木 皆さん、「学会にめぐりあったからこそ宿命転換できた」と話されていました。
 松浦さんは、三十歳半ばで、ご主人に先立たれ、子ども五人を抱え、戦争の激動期をくぐり抜けました。入会したのが五十七歳の時でした。信心してなにが良かったかをお聞きすると、「行き詰まりがないことよ」とキッパリ。
 港区に移転したのも、そのころで、赤坂二丁目にうなぎ屋を構えて、二男の三男さんと一緒に、今日まで暖簾を守ってこられました。
 池田 明治の女性は、強いですね。働くことが長寿の秘訣でもありますね。
 松岡 埜口さんの場合、超高級マンションに四世代家族で楽しく幸せに住みながら、働くことじたいが好きなので、向かいのビルの清掃を、六十五歳から二十年間、続けておられました。
 その後、水道橋のビル清掃を任され、朝三時に起床して、始発通勤を二年半。きつい仕事ですから、家族も心配しまして、一年前(一九九七年)に引退され、今は学会活動一本です。
 「信心した、おかげで、ずっと健康で、働くのを楽しみながら生きてこられたのが、喜びです」と。
 佐々木 入会は六十歳の時で、長らく自宅を拠点として提供されてきました。その場所が再開発地域に指定され、運良く現在のマンションに住むことができたそうで、「昔は今にも壊れそうな家だったのが、拠点の功徳ですね」と破顔一笑されていました。
 池田 天にそびゆる「宝塔」のごときビルディングで、卒寿を超えた″多宝の友″の皆さんが、楽しくにぎやかに仏法を語り、充実の人生を謡歌されている。まさに、この方々こそ、仏法の真実の偉大なる証明者です。
 佐々木 一方、松田さんのお宅には、池田先生も訪問され、ご家族と握手をして激励されたことがありました。
 池田 あの溜池の食堂のおばあちゃんですか。私がうかがった時は、ご年配だから気を使われて、陰に控えておられ、あえてお店には出て来られなかった。でも、ご様子は全部うかがいました。お元気でうれしいね。
 松岡 その食堂は家族に任せ、ご自分は、近くのビルの一階でタバコなどの雑貨店を三十年以上続けています。また、「信心していなければ、店の厨房に閉じこもって海外旅行なんて考えもしなかったろうに、交流でシンガポールに行き、地元のメンバーから大歓迎を受けました。これも池田先生の世界広布のおかげです」と喜ばれ、「海外旅行は五回にもなった」と自分でも驚いておられました。
 五十三歳で入会して以来、戦いぬかれて、実った個人折伏は七十世帯です。
 佐々木 「聖教新聞」の配達員も十三年間続け、「新聞配達だけは、一度は必ずやってみるものです」と言われます。理由を尋ねると、「配達先の高いビルから、夜明け前の空にぼーっと、大きな月が見えるんですよ。あの月の眺めだけは配達員でないと味わえないのです」と。
 池田 同感です。私も新聞配達を経験しましたから。あの荘厳な朝の光景は、やった人でないとわからない、人生の至福の瞬間ですね。
4  仏前の購読用紙
 松岡 「聖教新聞」というと、この松田さんのお宅のお嫁さんが昨年(一九九七年)、病気で亡くなられました。
 近くの化粧品店の方が弔問に来られ、そのあまりにもさわやかな美しい顔に感動され、「この方が生前、いちばん喜んでおられたことは、なんだったか……」と思い出し、自分で、「聖教新聞」の購読申し込み用紙に記入され、置いていかれたそうです。
 すばらしい友人葬で、お嫁さんは霊山に旅立たれたのですが、仏前に供えられた一枚のピンク色の購読用紙が輝いていました。
 池田 ありがたいことです。「聖教新聞」は、このような方々の真心によって支えられていることを決して忘れてはいけません。
 佐々木 本当に、そう思います。松田さんは、関東大震災の後、親戚を頼って、赤坂に出て来られた。レストランで働いて生活をつないで、結婚後、ご主人と溜池食堂を開いたのです。
 松岡 その食堂が、当時の山王ホテルの前にあっで、早朝、店の前で練炭に火をおこして、開店の準備をするのが日課だったそうです。
 ある深い雪の朝でした。ふだんから、店の前の道を兵隊が列をつくって歩いていたのですが、その日は、兵隊が着剣していて、まだ暗い中で、その剣がチカチカ光るのが見えたそうです。
 いつもと違うなと思っていると、その後、白ダスキをかけた兵隊たちが、首相官邸に通じる細い坂をぞろぞろ下りてきて、山王ホテルと近くの料亭に次々と入っていった。それが、昭和十一年(一九三六年)の二月二十六日に起こった陸軍将校のクーデター「二・二六事件」だったのです。
 佐々木 埜口さんも、現場に遭遇した牛乳屋さんから話を聞かれたそうで、「兵隊が桜田門の前に集まっていて、『撃て!』の号令を合図にパン! パン! パン!と銃を乱射して、警視庁に突入したんですって」と、興奮ぎみに語られていました。
 松田さんは、「こんな事件は二度とあっちゃいけない。この後、間もなく戦争になったのですからね」と強く言われていました。
5  自分らしく「黄金の最終章」を飾れ
 池田 まさに明治、大正、昭和を貫いて、生きぬいてこられた。勝ってこられた。偉大なる″人間勝利の母″に最敬礼して、たたえたい気持ちです。
 松岡 三人の長寿の秘密をお聞きすると、好き嫌いなくよく食べる、歩き回る、などが共通点でした。松田さんは、毎朝五時に起き、窓を開け、深呼吸をし、乾布摩擦を一分間するのが日課ということでした。
 佐々木 松浦さんは、「頭をすごく使います。考えごとが多い。時間は厳守。決められたことは必ず実行します」と言っておられました。
 池田 よく歩き、活発に頭をめぐらす――学会活動に、すべて含まれているね。
 佐々木 先生が対談された著名人のなかにも、九十歳を超えて活躍された方が数多くおられますね。
 池田 双璧は、ガンジーの直弟子インドのパンディ博士(享年九十一歳)と、ブラジルの人権の闘士アタイデ博士(享年九十四歳)でしょう。お二人のお顔には、信念が巌のごとく凝縮していました。
 二つのノーベル賞を受賞したポーリング博士(享年九十四歳)も、背筋をしゃんとされ、若者のように頬を紅く染めておられた。
 中国のぺンの闘士・巴金ぱきん氏(九十四歳)は、「私はぺンに火をつけて、わが身を燃やします」との言葉どおりの人生を、今も送られています。
 皆さん、自分の決めた道を、一生涯、どこまでも前へ前へと歩んでおられた。心は二十代の若々しさで、青年の瞳をされていました。
 また、お会いした方の多くがそうでしたが、トインビー博士も、晩年は、仏法の「生死観」を深く志向されておられました。
 避けられぬ死と老いを前にして、人生のうえでも、社会のうえでも、自分らしく、いかに活力にあふれた、輝かしい最終章を生きていけるか。それが高齢社会を迎えた二十一世紀の日本の最重要の眼目です。
 その問いに事実のうえで正しい解答を示すことができるのは、日蓮仏法しかないのです創価学会しかないのです。その大確信で、ともどもに、「われ、かく生きぬいたり」との勝利の歴史を綴りながら、広宣流布という希望の大遠征に進んでまいりましょう。

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