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日蓮大聖人・池田大作

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ローマとパリの”羅什”  

「第三の人生を語る」(池田大作全集第61巻)

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2  六十五歳でパソコンを学び、御書を訳す
 池田 ミリオニコさんのイタリア語の文体は、品格が漂う名文という定評があるほどすばらしい。必ずやローマの″羅什三蔵″として、その名は、時が経てば経つほど輝いていくことでしょう。
 お年は、私よりちょうど一歳先輩のようですが、向学心は、いよいよと燃え上がっておられる。六十五歳でパソコンを覚えて、御書の翻訳に生かされている。パソコンだと、文章を推敲していて、いい翻訳が思い浮かんだら、すぐに入れ替えられるから、ということです。
 七十歳を超えても、日々、ローマ会館に行かれ、イタリアの教学誌「二〇〇一年」の編集室で、黙々と仏法著作の翻訳に打ち込んでおられる。尊い戦いです。
 松岡 先生が、初めてイタリアを訪問されて五年後(一九六六年)に、ミリオニコさんは学会に入りました。その数年後、私は、ローマの座談会場になっていたミリオニコさんの家を、取材のため訪れたことがあります。
 ローマの大玄関アルミニ駅から、車で約二十分の所でした。そして、到着してびっくりしました。その部屋には、『辞海』『詳解漢和大字典』『新英和大辞典』など分厚い辞典・書籍類がズラリと並び、まるで漢文か国文学を研究する日本の学者の書斎のようでした。
 池田 お生まれは地中海第二の大きな島である、サルディーニャですね。風光明媚ですが、険しい断崖の島ということです。ミリオニコさんの人生にも、故郷の厳しい自然のように、試練が襲いかかってきた。
 十八歳の時に、突然、ポリオ(流行性小児マヒ)を患い、足が不自由になられた。しかし、努力に努力を重ね、ローマ大学の医学部を卒業された。三十九歳で仏法と出あい、毎年のように、はるばる日本に仏法を学びにこられていました。見事な求道心でした。
 私は、あるとき、ミリオニコさんに申し上げました。「広布の戦士、革命の戦士として戦ってこられたあなたのことは、絶対に忘れません。、どうか長生きをしてください」と。
 佐々木 ローマでも学会員が数人しかいないころから活躍し、イタリア広布の草創期を築いてこられた。
 今や青年の台頭がめざましいイタリアですが、先生が一九八一年五月に、ブルガリアからウィーンを経て、フイレンツエに入られ、青年を育てに育てられました。その時の青年群が、今のイタリアの中核です。ミリオニコさんも、あの時、静かな闘志を秘めながら、とてもうれしそうにされていました。
 松岡 先生がイタリア初訪問の時に、
  ローマの
    廃墟に立ちて
      吾思う
    妙法の国
      とわにくずれじ
 と詠まれた心を大切にしながら、永遠の都ローマで戦い続けておられるのですね。
 この和歌について、私が初めて聞いたのは、ミリオニコさんを取材したローマ滞在中のある朝でした。ローマの七つの丘の一つであるカビトリーノに立ちました。古代ローマの廃墟が広がっていました。
 同行のメンバーが「ほら……」と神殿跡を指さして、「池田先生は、あのへんにしばし佇んで、『……妙法の国 とわにくずれじ』と詠まれました」と教えてくれました。
 池田 大ローマ帝国発祥の地であるフォロ・ロマーノは、文字、どおり廃墟になっていました。崩れ落ちた壁面、苔むした石畳、むき出しになった神殿の円柱、風雨に耐えに耐えた凱旋門……。遠くには、遺跡となったコロセウム(円形闘技場)が見えました。
 永遠の都として繁栄した巨大な古代ローマが、なぜ崩壊したのか。ローマ草創の新鮮な創造性が失われ、栄華の絶頂にあって、人々は刹那的な享楽を求め、堕落していった。
 みずからが戦う心を失い、お金で雇っただけの兵隊である「傭兵」に頼り、白アリに食い荒らされた巨木が倒れるように、崩壊していった。
 ゲルマン諸部族の侵入によって、古代ローマは滅亡したのですが、外敵に破られる以前に、内から崩れ、崩壊していたのです。社会も人生も、永遠に戦いなのです。戦いを忘れたところは、敗北であり、崩壊であり、滅亡です。妙法の世界にあっても、原理は同じです。
3  夫君の平和への志を継ぐ
 佐々木 心していかなければいけないと思います。
 一方、花の都パリの女性とは、池田先生が、第十二回「SGIの日」記念代表者会議(一九八七年)で、長編詩「『フランス広布先駆の母』を讃えん」を贈られた、フローランス・ウストン=ブラウンさんのことでしょうか。
 池田 そうです。六十三歳で信仰され、フランス広布の先駆を切られた方です。「百歳まで生きてほしい」と願う青年に、首を振って、「私は二百歳まで生きるのよ」と笑っていた話は有名です。若き日、パリ大学ソルボンヌ校で哲学と文学を学び、フランス語保存委員会のメンバーとしても活躍された。
 小説『人間革命』のフランス語訳に、昼夜を分かたず取り組んでくださり、その翻訳文は、品格のあるすばらしい文体と称賛されています。
 松岡 先生と対談集を出された高名な美術史家のルネ・ユイグ氏とも、友人だったとうかがいましたが……。
 池田 そう。長い間にわたって親交を深めておられたようです。ルネ・ユイグさんは、ウストン=ブラウンさんのことを、「ファム・ド・カリテ(品格の高い女性)」と、尊敬されていました。
 佐々木 ユイグ氏とは、対談集『闇は暁を求めて』を、フランスのフラマリオン社から出版されましたね。一九八一年六月に、先生はパリ訪問の折、フラマリオン社の招待で、ユイグ氏と昼食をともにされました。
 またトインビー博士との対談集『二十一世紀への対話』のフランス語版出版記念レセプションが催され、ユイグ氏も出席されました。ウストン=ブラウンさんは、そうしたとき、来賓の方々とうれしそうに会話を交わされており、知的なお姿が思い出されます。
 池田 私が、彼女と初めてお会いしたのは、パリ郊外のソー市にあったパリ本部でした。すでに七十歳近い年齢でしたが、若々しい大きな声で自由闊達に話されていました。
 佐々木 平和への思い、戦争への拒絶には、ことさら強い信念をもたれていたようですね。
 池田 そうです。ご自身の体験から、にじみでた不屈の信念であり、志でした。ご主人のレイモン・バンク氏は、ナチス・ドイツ軍の占領下にあって勇敢に戦ったフランス・レジスタンスの英雄でした。しかし、痛ましくもご主人はゲシュタボに捕まり、拷問の末、虐殺されました。
 その名をフランスは永遠にたたえんと、かって冬季オリンピックが開催されたグルノーブルの街路に「レイモン・バンク通り」をつくりました。
 松岡 それで、「戦争ほど、残酷なものはない」で始まる小説『人間革命』のフランス語訳に、あのような全力を注いでおられたのですね。
 池田 亡くなられる一年前に、東京・小平の創価小学校でお会いしたのが最後に・なりました。「よく頑張ってこられました」と申し上げると「ウィ、ウイ」とうなずいておられた。
 「私は自分のやりとげることは、すべてやりきっていくでしょう」と言われながら、バカンスを利用して、メンバーを激励するために南フランスに旅立たれました。旅先のホテルで、朝食を注文した後、ソファに腰掛けたまま永眠された。安らかなお顔であった。
 佐々木 ウストン=ブラウンさんは、南仏トレッツのヨーロッパ研修道場の近くにあるトレッツ市営墓地に眠っておられます。
 サント・ヴィクトワールに抱かれて休むお姿は、まさに、その名のとおり「勝利山」を登られた人生の象徴ですね。画家セザンヌが愛し、描き続けたあの「勝利山」は、朝な夕なに、光の具合によって山容を劇的に変化させる荘厳な山です。
 偉大なフランス広布の母の生涯も、それ以上に荘厳であり、逝去されたあとも、いっそう、その名は輝いていくようですね。生前のウストン=ブラウンさんと、先生が、トレッツ滞在中に、娘さんの眠る墓地を訪れ、懇ろに花を手向けられたお姿は、一幅の名画のように感慨深いものでした。
 池田 人生、最後の最後まで戦いきった人は、美しいし、歳月の風化作用も、そのような人物にはおよばない。いや、むしろ、月日がたつほど、その存在がいちだんと大きくなっていくものです。
 ですから、生涯、青春の心と行動が大切なのです。″自分は年をとったから、ほどほどにしてもいいだろう″などと逃げの人生であってはならないのです。
 釈迦教団の長老たちも、多くは年をとるにつれて枯れてしまった。″自分には立場もあるし、それなりの悟りも得たんだから、これで十分だろう。長い間、修行もしてきたんだ。師匠の釈尊の悟りはすばらしい。しかし、自分たちにはおよびもつかない。このままでいいんだ″――と安住してしまっていた。
 そこで釈尊は、舎利弗への授記を通し、″そうではない、一生涯、仏道に精進し続けるのだ、そこにしか仏になる道はない、頑張れ″と、叱咤・激励をした。長老たちも、自分たちの惰性に気がつき、あらためて、戦いを再開し、歓喜した。それで、今まで絶対に成仏できないとされてきた二乗も仏になれることになったのです。
 「月月・日日につより給へ」が、法華経の精神であり、学会の魂なのです。

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