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介護は皆で  

「第三の人生を語る」(池田大作全集第61巻)

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3  福祉は人の振る舞いで決まる
 佐々木 福岡の有吉久美さん(ブロック担当員)は、脳内出血で、半身マヒになった母親を八年間、介護されています。
 その母親の入院と同じころでした。今度は、父親が肺結核で入院を余儀なくされました。しかも、追い打ちをかけるように、母親に痴呆に似た症状が表れ、病院からは家で引き取るか、精神病院に移るかを迫られていました。幼子を抱えた有吉さんは、「もう、どうにでもなれ」というのが正直な気持ちでした。
 松岡 そんな時、トラックの運転手をされている夫の憲治さんが、「家を増築して、車イスで動ける部屋をつくり、お義父さん、お義母さんに来てもらおう。年老いて帰る家がないことは辛いことだから」と、うなだれる久美さんの肩をたたきました。
 久美さんは、当時を振り返って、「夫の勇気ある決断にハッとさせられました。夫の一言があったから、心が決まり、介護を続けられたのです」と感謝されていました。
 池田 介護を通して、夫婦の鮮が強くなっていったのですね。
 高齢者の住まいのことは、住宅事情の悪化や核家族化を背景に、大きな社会問題にもなっています。高齢化に備えて、バリアフリー(障害物のない)の家づくり、町守つくりも必要でしょう。
 佐々木 そうですね。
 三ヶ月して、有吉さんのお宅の増築も終わり、両親との同居生活が始まりました。不思議にも、母親が大声で何事かを叫ぶ声がピタリと止まりました。
 父親は、後に肺ガンを患い亡くなられましたが、母親はリハビリを重ね、おむつがとれ、車イスを自分で動かせるまでに回復しました。
 松岡 「諦めなかったからです」と言うその母親は、御書を生命に刻んできた方でした。脳内出血で倒れた時も、意識不明のまま二十分間、「佐渡御書」や「開目抄」などをそらんじ続けて、医師や看護師を驚かせたそうです。
 現在、六十八歳です。部屋の壁には、池田先生からいただいたポストカードが大切に飾られ、調子の良いときには、近所の方々と御書を研鎖されています。
 池田 お母さんも、娘さんも、本当によく頑張られたね。ご主人の協力もなければ、とうてい続かなかったでしょう。
 ところで、皆さんは、行政のサービスを利用されていましたか。
 松岡 千葉の井上さん宅では、訪問看護が週一回、往診が月一回、入浴サービスが月三回、それに尿道につないだ管の交換で月一回、看護師さんが来ます。
 福岡の有吉さん宅では、デイケアが週二回、訪問看護が週一回です。
 池田 援助が足りない点はありませんか。
 佐々木 有吉さんは、玄関から外に出るのに、三メートルほどの階段があり、その間だけ、車イスを運んでくれる援助があれば、もっと気軽に外出できるのですが、と、おっしゃっていました。
 松岡 井上さんは、ショート・ステイなどで病院に数日間預けると、必ず床ずれができているそうです。手が足りない面があるのでしょうが、寝かせきり状態にしているのではないか、と心配していました。「『痴呆でも心は生きている』という、このてい談での池田先生の言葉を、多くの人がもっと知って、人間らしく対応してほしい」と言われていました。
 佐々木 介護の関係者に取材するたびに実感するのは、創価学会が広げてきた「一人を大切に」「他者に尽くす」といった思想が、介護の現場で、切実に求められているということです。
 池田 牧口先生はいち早く、「軍事競争の時代」から「政治競争の時代」「経済競争の時代」となり、必ず「人道競争の時代」がくると予見された。
 戸田先生も、人間主義こそ学会の行き方とされ、「社会政策というものを強調して、貧しく、年老いた者に、いくらかの金を与えたとしても、それだけでは、その人個人の幸福を決定してはいない」と、おっしゃっていた。
 社会制度を整えるだけでなく、そこに血を通わせていかなければいけない。根本は、一人一人の愛情であり、「心」の次元にかかってくるのです。
 福祉の係の人が、親身になって悩みを聞いてくれた。病院でベルを押すと、いやな顔ひとつせず、看護師さんが駆けつけてくれた。病人にとっては、それがなによりの喜びです。
 行政の窓口であれ、病院であれ、ホームであれ、家庭であれ、福祉といっても要するに、全部、「人」なのです。私たち一人一人の「振る舞い」が、社会の在り方を決めていくのです。

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