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日蓮大聖人・池田大作

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介護は聖業  

「第三の人生を語る」(池田大作全集第61巻)

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2  介護に尽くした宝の十五年
 佐々木 愛知総県婦人部長の藤野和子さんにも、お話をうかがいました。
 池田 笑顔のさわやかな、学会婦人部のリーダーにぴったりの方ですね。十五年間、お義母さんの介護をやりぬかれたんだね。
 佐々木 ええ。お義母さんが、クモ膜下出血で倒れたのが、約二十年前の一九七八年一月、六十五歳の時でした。八時間におよぶ大手術で一命はとりとめましたが、手術後、痴呆の症状が出てしまいました。
 松岡 当時、藤野さんには二歳の娘さんがいて、なおかつ三カ月の身重の体でした。病院で付き添い介護を始めたのですが、下の粗相を目の当たりにして、吐いたりもしました。
 長い介護の間には、胆汁逆流性胃炎、急性胃酸過多に加えて、十二指腸潰瘍にもなったそうです。
 池田 介護する人が先にまいってしまう、という現実もありますね。
 とくに高齢社会になって、八十代の親の面倒を六十代の子がみるとか、七十、八十の老夫婦のどちらかが、どちらかをみるとか、そういうケースが増えています。いわゆる「老老介護」です。
 佐々木 倒れた藤野さんは、お義母さんと同じ病院で、毎日点滴を受けながら介護を続けました。
 正直、「なんで私ばかりが」とうらむ気持ちが先に立ち、「寝たきり老人を介護するのが、私の人生でしょうか。そんなに私は広布のお役に立たないのでしょうか」と、御本尊に心のわだかまりをぶつけながら祈ったそうです。一日、五時間、六時間と。祈らなければ、辛くて一歩も前へ進むことができなかったといいます。
 池田 釈尊は、「仏に仕えるのならば、病者を看病せよ」と教えました。
 釈尊自身、だれからも見放された病気の男性に手を差しのべ、汚れた体を洗い、寝床の敷物まで取り換えて介護をしたというエピソードが残っています。人を救うとは、どうすることかを、みずから行動で示したのです。
 佐々木 壁にぶつかった藤野さんですが、必死の唱題のなかで、ふと、三世の生命観から、心に浮かんだことがありました。
 ――お義母さんとの出会いは、たんに夫の母だからなのか。私が嫁だから、たまたま、みているのか。いや、そうじゃないはずだ。お義母さんは過去世において、私の恩人だったのではないか、次の世では私が恩返しします、と誓って生まれたのではないか――と。
 松岡 そう介護の決心が固まったのと同時に、ドラマが起こりました。お義母さんの痴呆の症状がなくなったのです。医学的には、クモ膜下出血の後遺症による脳の血管障害が癒えて、正常になったのではないかと言われていました。
 お義母さんは、入院前、新しい冷蔵庫をローン払いで購入した折、端数のお金を立て替えたことも思い出して、「あなたに二十八円貸したわね」と言われ、藤野さんは「うれしい二十八円でした」と。(笑い)
 池田 心一つでいっさいが変わる。お義母さんの生命力と藤野さんの祈りの勝利です。
 しかし、そこから、また十五年間の長い在宅介護がスタートしたのですね。
 佐々木 はい。お義母さんの退院と入れ替わりで、まず自分が入院して無事に二女を出産。退院後は自宅で、赤ちゃんと、寝たきりのお義母さんの、両方のおしめを替える日々でした。
 松岡 この時が支部婦人部長でした。その後も、介護と子育てとをやりながら、分県の婦人部長、方面の書記長などを歴任されました。
 池田 学会活動することで、心が豊かになり、強くなり、なにものにも揺るがない自分を築いていける。介護しながらも、自分に負けないで学会活動をやりぬかれたことが立派です。
 松岡 毎日のリズムは、朝食の用意と一緒に、お義母さんの昼の弁当をつくり、お義母さんの手の届く所に弁当やお茶、おやつのセットを並べて、活動に出かけます。娘さんが成長してからは、夕食のおかずもあらかじめ作っておいて、二人の娘さんが力を合わせて配膳してくれました。
 ご主人の協力と地域の同志の方々の応援にも支えられました。お義母さんは、頑張る家族に心から感謝するようになりました。
3  寝たきりでも″一家の太陽″に
 池田 私がご家族のことを詳しくお聞きしたのは、藤野さんが方面書記長をされていた時でした。
 ちょうど中部文化会館を訪れていて、役員で残っていた小泉婦人部長と藤野書記長に、私の妻が、「こういうときは、お家は大丈夫なのですか」と声をかけた。
 藤野さんは元気いっぱいに、「はい。子どもも大きくなりましたので、皆に守られてやっております」と答えられたそうですが、その時に、横にいた小泉婦人部長が、「じつはお義母さんが十年間、寝たきりで……」と教えてくださった。
 すかさず藤野さんは、「でも、とっても明るくて、″ベッドの上の青春″のような、おばあちゃんです」と言われていた……。
 松岡 計りしれないご苦労があったでしょうが、″ベッドの上の青春″とは素敵な言葉ですね。
 池田 妻から聞いて、本当にけなげで、頼もしく思った。介護をする人もされる人も、協力しあって、広宣流布のために戦ってくださっている。
 松岡 その時でしたね。先生がお義母さんにニックネームを贈られたのは。
 池田 そう。「ミセスベッド」という愛称を贈りました。″ベッドの上の青春のおばあちゃんに、人生の勝利あれ!″との心をこめて。
 佐々木 お義母さんも、うれしくて、うれしくて、名古屋地方の習慣もあるのでしょうか、赤ちゃんが誕生したときのように、「命名 ミセスベッド 昭和六十三年三月二十八日 池田先生より」と書いた大きな紙を枕元に飾った。
 お義母さんは朝早く起きて、目標を決めて題目をあげるようになったそうです。また″私が頑張らないと、嫁も学会活動できない″と、いよいよ″共戦の心″をもつようになったといわれます。
 松岡 先生の励ましが、前向きな新しい生命を蘇らせたのですね。
 池田 お義母さんのことは、その四日後の本部幹部会のスピーチでも紹介させていただいたことがあります。(一九八八年四月一日)
 長らく寝たきりの方ですが、だれよりも明るく、その笑顔で一家全体を照らしておられる方であると。たとえ動けなく、寝たきりになっても、信心が健康であれば幸福の境涯は揺るぐことはない。心の勝利こそ、人生の勝利です。
4  ″思いやりの心″が時代を変える
 佐々木 「いつ終わるともしれない介護を支えたのは何ですか」と藤野さんに尋ねますと、「学会活動です」と言われました。
 「学会活動があるからこそ、いつも目標をもって前進できました。一山越えたら、また一山で息つぐ間もない。いつも進んでいたので、介護で疲れても、落ち込んでいる暇はなく、すぐに気持ちをきり替えざるをえなかったのです。たいへんな反面、充実した喜びの時間の連続でした」との言葉に、心から感銘を受けました。
 松岡 義母さんは八十歳で安らかに逝去されましたが、その時の池田先生の温かい激励にも心から感謝されていました。
 池田 悔いなく完全燃焼して介護しきったからこそ、藤野さんにとって、かけがえのない、宝の十五年間になったのですね。
 佐々木 ご家族もそうでした。長女も二女も、生まれてからというもの、寝たきりのおばあちゃんしか知らないわけで、排泄や食事のお世話をするなかで、お年寄りへの思いやりの心を自然に培ったのです。
 池田 介護の大事な側面は、そこです。他者に尽くすことによって、他者の痛みや苦しみを、分かちあえる人になっていく。こうした″善の心″の連帯は、介護が社会化されるにつれて、家庭内にとどまらず、地域社会へと広がっていくでしょう。
 その意味で、高齢社会は、お年寄りも若者も、男性も女性も、健康の人も病気の人も、平等な立場で、たがいに学びあい、支えあって生きていく、″心のバリアフリー(壁のない)社会″となる可能性を秘めているのではないかと思います。
 松岡 それは、創価学会が進めてきた運動のめざすところでもありますね。
 池田 そう。さらに仏法では、親子一体の成仏を説きます。また、現世と過去世と未来世を貫く因果の法理を示しています。
 藤野さんがそうであったように、三世の生命の視点に立って考えるとき、介護の意味をいちだんと深くとらえ、わが使命として、前向きに取り組んでいくことができるのではないでしょうか。

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