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沖縄の長寿社会(上)  

「第三の人生を語る」(池田大作全集第61巻)

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1  世界青年平和文化祭で沖縄に喝采
 先日、ある読者の方から、「本を読んでいたら沖縄の長寿の要因がまとめでありましたので、参考になれば」と、資料を送っていただきました。
 池田 日本一の長寿県は、沖縄県ですね。日本は世界最長寿国ですから、日本一ということは、世界一です。
 昭和三十五年(一九六〇年)の五月三日に、第三代会長に就任して、二カ月後、私は、沖縄を訪れました。
 佐々木 その日――七月十六日は、日蓮大聖人が「立正安国論」をもって国主諌暁された日から、ちょうど七百年にあたる日でした。
 松岡 このほど香港で開催された世界青年平和文化祭(一九九七年二月)には、日本を代表して沖縄の青年部二十人が、伝統的な庶民の踊りであるカチャシーなどを披露し、大拍手を浴びました。
 池田 そうだつたね。香港の演技も、韓国の三鼓舞もすばらしかったけれど、沖縄はひときわ光っていたね。
 沖縄には世界性がある。沖縄はマリン・ロードの要の地で、アジア文化のるつぼといえる。
 佐々木 文化祭の会場は、中国への返還式典が行われた会場の一角にありました。終了後、私たち二人は残っていたのですが、先生からの「大成功でした」との伝言が英語、広東語で伝えられると、ワーッと沸き立ちあがっていました。
 池田 沖縄音楽のカチャーシーは「かき混ぜる」という意味があります。
 踊りは、日常生活に生きていて、披露宴などなにか集まりがあると、皆、輪になる。とくに、踊りの決まった形はなく、自由自在に踊りの輪に入ります。
 松岡 沖縄の青年たちが、文化祭の前に、SGIの各国メンバーと一緒に香港創価幼稚園を訪れました。彼らは、瞳輝く園児たちを即席にリードし、一つになってカチャーシーを踊って、踊りは、教室から教室へと広がりました。
 池田 ひとたび踊り出せば、老いも若きも、男も女も、国籍も人種も、いっさいが分け隔てない平等の世界です。ここに沖縄の心があり、長寿者が大切にされている社会の一断面がある。
 文化祭では、このリズムに乗って、世界の友が一瞬にして溶け込んで、舞台と客席が一つになったね。
 佐々木 舞台で三線サンシシ(三味線)を弾いていたのが、男子部副本部長の金城比富美さんです。沖縄の方言で「太陽」の「ティダ」という言葉からリンケン・バンド風の「ティダ・カンパニー」という音楽グループをつくり、地元でも大人気で、テレビ等で活躍しています。
 池田 お元気で活躍されていて、うれしいね。彼は、福岡ドームで一九九四年に行われた、アジア青年平和音楽祭にも出演し、好評を博しましたね。
 佐々木 ええ。比富美さんのお母さんが、金城秀子さんと言います。八十歳です。秀子さんの二人の姉――古波蔵トヨさんが九十六歳、大城とよさんが九十三歳と、長寿三姉妹なんです。
 松岡 三人とも、先生の沖縄初訪問の大きな弘教のうねりのなかで、仏法にめぐりあい入会されました。
 佐々木 九十六歳の古波蔵トヨさんは、施設に入所されていますが、お元気で、日課は眼鏡なしで「聖教新聞」をじっくり読むことです。
 九十三歳の大城とよさんは、朝五時に起床。家のことをすませた後、畑仕事に出ます。同居する娘さんは止めるそうですが、「家にいて扇風機にあたってテレビを見てても、なんもおもしろない。草取りでもしたほうがいい」と。(笑い)
 池田 「仕事は高貴なる心の栄養なり」とローマの哲学者セネカは言ったが、正しいね。定年で仕事から引退すると、心の張りを失って急速に老いる人が多い。
 沖縄の長寿の方々は、概して働き者で、地域社会にも、お年寄りを大切にする気風があり、また長寿の方々の役割も厳としてある。それがすばらしい。″働く場″があることが、健康を支えているのですね。
 松岡 高齢の方に取材するたびに思うのですが、戦争や貧苦という苦難をくぐりぬけた強さというか、戦後生まれの人間にはない、不屈の心を感じます。
 池田 そうだね。第二次大戦中、日本で唯一の地上戦となった沖縄では″鉄の暴風″と呼ばれる爆撃で故郷の山容まで変わり、非戦闘員の庶民が巻き込まれて、大勢の方が亡くなられた。
 そのまったくの焼け野原から立ち上がった方々です。為政者や軍人が再建したのではない。沖縄をつくったのは庶民です。
 建設は死闘であるがゆえに、生きること、そして、働くことの意味と尊さを、心の奥底から痛感しておられるのでしょう。
 佐々木 金城秀子さんの弟さんは、「非国民になるから、僕は行く」といって入隊し、十代で戦死されています。
 松岡 沖縄では、沖縄戦での日本軍の非道な仕打ちもあって、本土への不信も強かった。それで草創期は、入会した学会員も「ヤマトガミ(本土の信仰)」を拝んだと村八分にされるようなこともありました。
2  生きぬくことが広宣流布
 佐々木 とよさんは地域の一粒種です。三姉妹とも、信心一筋に生きぬいてとられました。
 池田 皆さんが長寿であることが、仏法の証明なんです。
 生きて生きぬくことが、信仰であり、広宣流布です。
 貧乏人と病人の集まりと言われて、それでも、友の幸福を祈りに祈り、広宣流布のために私とともに戦ってくださった方々です。福徳の軌道を進むことはまちがいありません。
 佐々木 ベトナム戦争の少し前です。秀子さんは、「きょう食べたら明日は何を食べるか」という貧乏暮らしで、海岸で拾った貝殻でネックレスを作り、金武きん町で米軍相手に売りに歩いた。
 六人目の子を妊娠した時は、さすがに産むのを断念しようと思った。
 しかし、先輩の「どんな使命のある子か、わからないよ」との言葉にわれに返り、泣きながらおわびの題目をあげた。そうやって誕生した子が、文化祭に出演した比富美さんでした。
 松岡 当時は、半分しか屋根のないような家に住んでいて笑われましたが、四年前、その比富美さんが母に三階建ての家を新築して贈りました。
 二階は今、恩納おんな支部谷茶たんちや地区の拠点となり、屋上の貯水タンクを囲む一・五メートルのブロック塀は、パステル・カラーの三色に塗られ、「学会ここにあり!」と紺碧の空にそびえています。
 佐々木 地区内には、かつての核ミサイルの発射基地跡をそのまま利用した″平和の要塞″沖縄研修道場もあり、三姉妹が駆けた大地は、世界の同志が交流する楽園に変わりました。
3  もっとも苦労した人が、もっとも幸福に
 池田 昭和三十九年(一九六四年)十二月二日、私は小説『人間革命』の執筆を、沖縄の地で始めました。
 この地を訪れて、「戦争ほど、残酷なものはない……」との叫びを綴らずにはいられなかった。
 「もっとも悲惨と苦汁をなめてきたからこそ、もっとも幸福になっていただきたい」というのが、私の沖縄への変わらぬ思いです。沖縄の方々が健康で、長生きをされていることほど、うれしいことはありません。
 松岡 沖縄広布の″お母さん″ともいうべき初代婦人部長の仲間玉枝さんも、七十一歳ですが、「第三の人生」のお手本のような方です。
 池田 そうだね。本当に沖縄広布のために頑張られた方です。
 信仰とは勇気であり、実践です。仲間さんは「戦いは、動いて動いて足が疲れ、まるで″鉄板″のようにならないと勝てない。鉄板になるまで、歩いて歩いて歩きぬくことです」と言うんだね立派な人です。
 ご主人は沖縄の方でしたが、ハワイで教育を受けた後、東京の大学で学んだ。そこで玉枝さんと知りあい結婚された。しばらくして、ご主人が沖縄に帰ることになり、昭和三十一年(一九五六年)の元日に、夫妻で沖縄に着いたという。玉枝さんは東京の生まれです。
 松岡 池田先生の昭和三十五年七月の初訪問の時に沖縄支部が結成され、仲間さんは初代の支部婦人部長に任命になりました。
 結成大会の前日、先生が玉枝さんのご主人に礼を尽くされて婦人部長に就くことの了解を得られました。
 佐々木 その日の夜、ご主人が玉枝さんにこう言ったそうです。
 「これは革命だから、やりきってほしい。その代わり、ワイシャツのボタンがとれているとか、靴を磨いてないとか、僕はいっさい言わない。やりぬきなさい。池田先生とともに頑張りなさい。先生と約束したのだから」
 池田 七月の炎暑の日でしたが、ご主人はきちんとネクタイを締めて、濃い眉毛の精惇な顔立ちでした。
 「奥さまを婦人部長に」と申し出ると、「愛する妻が沖縄の人々のために働くのですから、どんなことをしても守っていきます」ときっぱりと言われた。
 ご主人とは翌年、翌々年の沖縄訪問の折も、お会いしてお礼を申し上げました。
 松岡 仲間さんは、信心する前は病弱で、ひと月の半分は寝ている方でした。その人が、「沖縄に私の使命がある」と感じてから、今日まで足を鉄板にして、ずっと歩きっ放しです。
 佐々木 ご主人が亡くなられたのは昭和四十五年、玉枝さんが四十三歳の時で、遺言は「先生とともに広布に働きなさい」でした。
 池田 当時、ご主人は東京の病院に入院されていて、私も何度かお見舞いの伝言を伝えました。玉枝さんには、「沖縄は心配ないから、安心してご主人の看病にあたってください」と言ったのですが、玉枝さんは沖縄の地を長くは離れなかった。それほどまでに沖縄に生命をささげた人です。
 広宣流布は、革命です。不惜身命でなければとうていできるものではない。
 佐々木 一方で、ご主人を尊敬し、とても感謝されています。亡くなられてから三十年近く、ご主人の遺志を継がれ、昼にタに活動に打ち込んでとられました。自分のことはすべてなげうっているのですが、会館に遅くまで青年たちが残っていたりすると、厨房で新鮮な先島さきしま(宮古島、石垣島などの島々)の魚を使って味噌汁を作り、出してあげることもあるのです。
 松岡 「私の人生は、戦いきって、それで終わると決めている。しかし、先生がお元気で戦っておられる以上、私も絶対に倒れない。沖縄の平和をつくってくださった先生に恩返しをしなければ死ねない」と言われる仲間さんにこそ、「第三の人生」の模範を見る思いです。
4  「年は若うなり」の心意気で
 大聖人は、「いかなる・わづらはしき事ありとも夢になして只法華経の事のみさはぐ思索らせ給うべし」と仰せです。結局は、大聖人のおっしゃるとおりに広布に生きぬいた人が勝つのです。
 また、「年は・わかうなり」とも仰せです。
 広宣流布に進み続ければ、自然と生命力にあふれてくる。年とともに、いよいよ若々しく、大いなる生命力で生き抜いていけるのが、仏法です。多くの尊い先輩が証明されている。
 佐々木 仲間さんは、東京から沖縄に移られて、もう四十年以上になります。そこで、沖縄の長寿の秘訣をお聞きしました。
 すると「それは、沖縄の人が、″いい人″だからじゃないですか」と言われました。コセコセしていない。リズムがゆったりとしている。そして、人間関係を大切にする――それが長生きの理由ではないですか、と。仲間さんは、東京に来るとなにか街々がセカセカしていて、落ち着かないというんです。
 池田 なるほど。「いい人」であることが長寿の秘訣――そうだろうね。
 他人を大切にする人は、自分が大切にされる。沖縄の地域社会には、その良さが脈打っているのでしよう。

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