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日蓮大聖人・池田大作

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父と母からの贈りもの  

「第三の人生を語る」(池田大作全集第61巻)

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2  一瞬の出会いに永劫の想い
 池田 一瞬一瞬を「ただいま臨終」の決意で、と言うのは容易です。しかし、行動はむずかしい。私は、この五十年を、真剣勝負で戦ってきました。
 一人の会員とお会いするときも、ふたたびお会いできなくても、悔いのないようにと祈っています。ですから、出会いの一つ一つは、歳月のふるいを超えて、いつまでも鮮明で、決して消えるものではありません。一瞬の出会いに、永劫の想いをこめてきました。
 佐々木 厳粛な気持ちになります。「限られた生」に希望をもって、自分が何をなしえるかということですね。
 池田 かつて対談した″アメリカの良心″ノーマン・カズンズ博士が、「希望とそ私の秘密兵器です」と、次のように言われていた。
 「人生の最大の悲劇は死ではありません。生きながらの死です。生あるうちに自分の中で何かが死に絶える。これ以上に恐ろしい人生の悲劇はありません。大事なのは、生あるうちに何をなすかです」と。
 松岡 何歳になっても、挑戦の気概を失つてはいけないことを感じます。
3  新緑が美しいモスクワ大学で
 池田 ロシア国立高エネルギー物理研究所のログノフ所長が、モスクワ大学の総長をされていた時、家庭教育をめぐって話しあいました。総長が言うには、子どもの成長とともに家庭は変化し、娘や息子が成人すると、両親も「第二の青春」を味わう。そして五十歳を超え、「第三の青春」を手にする。
 しかし、「人生は一瞬たりとも立ち止まらず、人間は絶えず変化するので、自己啓発を止めてはいけない」と強調されていました。
 佐々木 総長と対談を開始されたのは、モスクワ大学の重厚な総長室で、新緑美しい一九八一年五月でした。
 池田 総長室には、大学二百周年の記念に北京大学から贈られた大きなゴブラン織が、掲げであったね。モスクワ大学の全容を描いた絵で、中ソ対立の最中も外されなかった。政治的次元を超えた、学問の世界の好ましい光景でした。
 松岡 先ほどの「第三の青春」とは、いい言葉ですね。
 池田 そう。「第三の人生」は「第三の青春」でありたい。青春は、年とともに消え去っていくものではない。自分がどう思うかです。いくつになっても、前向きの挑戦の心があるかぎり、ますます深みを増し、ある人は黄金に、ある人はいぶし銀に輝いていくのです。
 総長は、ロシアの詩人アレクサンドル・ブロークの「人生はすべてがたたかい。やすらぎは夢に現れるのみ」を引いて、「人生は、精力的で、時代の脈拍を感じ取り、それと歩調を合わせようと努める人々に対して好意的なのです」(『第三の虹の橋』毎日新聞社、本全集第7巻収録)と言われていた。
 「第三の青春」を生きる人にこそ、人生は味方するのです。
 佐々木 対談の前日、先生が、国立外国文学図書館の館長で、コスイギン首相の息女であるグピシャーニさんを訪ねられたことが忘れられません。
 池田 ベージュのセーターに紺のスーツという落ち着いた装いのグビシャーニさんは、図書館の入り口で待ってくださっていた。聡明な澄んだブルーの瞳には、亡き首相の面影があり、父と子の紳を感じました。理知的な気品漂うすばらしい方でしたね。
 佐々木 グピシャーニさんは静かな口調で「その日、職務を終え家に帰ってきた父が、『きょうは平凡でない、ひじように興味深い日本人に会ってきた。たいへん複雑な問題にふれながらも、話がすっきりできてうれしかった』と言っていたのを思い出します」と、淡々と語っておられました。
 その日とは、一九七四年九月の初訪ソの折、首相と会談された日のことです。
 松岡 グピシャーニさんは「家に帰って仕事のことは、めったに話さない父だけに、印象に残っていた」と言われていたそうですね。
 佐々木 ええ。グピシャーニさんは、故首相を偲んでの先生の弔意と懇切な来訪と語らいを、「プリヤートナ、オーチェニ・プリヤートナ(うれしい、たいへんにうれしい)」と、静かな物腰のなかに喜びをあふれさせておられました。
 そして、「家族全員で相談し、父のかたわらにあった遺品を、ぜひ、お贈りしたい」と申し出られました。
 池田 ガラス製の立派な花瓶で、首相が六十歳の時に″社会主義労働英雄″として贈られた、首相の肖像があしらわれた貴重な品でした。
 また、首相の最後の著作も贈っていただきました。亡くなる瞬間まで書斎に置いであった革製の二冊の本でした。「父の手の温かなぬくもりが込められており、父に代わって差し上げます」と、目をうるませて言われていた。
 佐々木 通訳の方も言葉を詰まらせておられました。グピシャlニさんは、うつむきがちに、「私は父を人間として、真の友人と思っております。ですから、今は日が暮れるたびになにか物足りなく思っています」とも語っておられました。
 先生は、亡き首相は貴方の心に生きているのですよ、と励まされていました。グビシャーニさんも静かに大きくうなずかれていました。
 松岡 図書館の一角に大きな陳列棚で、″創価学会コーナー″を設け、先生の著作などを並べて迎えてくださったということですね。
 グビシャーニさんにとって、お父さんの影はとても大きかったので、故首相と人間味あふれる交流を刻んだ先生との出会いは、忘れ得ぬものだったにちがいありません。
4  亡き人の生き方が、残った人をつつむ
 池田 親子の絆は、強い。親がどう生きたかは、子どもに深く刻まれる。広く「第三の人生」の重要課題を言えば、いかに最後の最後まで自分らしい生き方を貫き、周囲に示しきっていけるかということです。
 亡くなった人の記憶や思い出、生き方の規範が、残った人を大きくつつみ込んでいく、ともいえるでしょう。
 松岡 四十九歳のある壮年部の方から手紙が寄せられました。長野市に住む八十歳の父と母が学会一筋に生きてきた。その尊さにやっと気がつき、両親に感謝していると書かれてありました。
 お父さんが副支部長さんで、お母さんが地区副婦人部長さんです。ご本人も第一線の方です。
 とてもすばらしい内容で、いろいろと考えさせられるお手紙ですので、読者の皆さんにご紹介させていただきます。
 池田 こういうお父さん、お母さん方が、学会を築いてきてくださったのです。私は、いつも合掌しています。「第三の人生」で、周囲に何をあたえ、残していくか。それは、財産や名誉や地位などいっさいをはぎ取った後に、生死を超えて厳然と残るが″人間としての生き方″しかないのです。
5  〈読者のお便り〉
 「第三の人生」を考えるということで、私は、今年八十になった両親を振り返ってみた。
 昭和三十四年に入信して以来、それとそ信心一筋に生きぬいてきた両親である。
 父親は、酒も飲まなければギャンブルもしない。私が知る父親の姿というのは、聖教新聞や御書を開いているか、弘教に走っているか、御本尊の前に座っている姿しか、記憶に浮かんでこない。遊びや道楽というものをせず、信心一筋の父親を、若いときの私は「なんとつまらない人生だろう」と、そう思っていた。
 しかし、その考えが、大きな誤りであったことを、私は後に何度となく知らされることになった。
 ある時期、私は人生の横道にそれてしまったことがあった。そのとき、母はもちろん父親も、心の中ではどんなにか泣きたい思いであったかと思う。しかし、私が父親の口から聞いた言葉は、たった一つであった。「お父さんは、お前のおかげで題目をあげられる……。
 そのとき、私は言いようのないショックをうけた。なぜそのように考えられるのか、とても不思議であった。
 今の私は、両親の背中を優しく見守りながら歩いている。
 八十になる父親も、一つ下の母も、老いはまったく感じられない。それは、つねに戦っている者の精神力であると思う。創価学会という組織の中で、広布のために生きぬいてきた両親は、決して「大切にされる老人」のままで終わっていない。今も戦っている「第三の人生」を歩んでいるのである。(四十九歳)

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