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日蓮大聖人・池田大作

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父と母からの贈りもの  

「第三の人生を語る」(池田大作全集第61巻)

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1  張りつめた真剣さが人間の力を引き出す
 池田 読者の方から「長寿」について、いろいろなお便りが届いているそうですね。
 松岡 栃木県で理髪業を営んでおられる七十七歳の高橋利雄さんからも、手紙がきていました。
 「理髪の作業は、手指、神経を使い、お客さまとの対話などで、未知の世界ものぞくことができます。したがって、理髪業者のボケ症状の方は、宇都宮市の四百八十数百舗のうち、ひとけた程度です。この業種を選びえたことに感謝し、理髪師だった父母にも朝夕の勤行のさいには、時折、お礼を言うことがあります」
 佐々木 金婚式を迎え、夫妻で、元気に仕事に、また副支部長さんとして学会活動に勇んでいるとのことです。
 池田 頼もしいねそう言えば、外科医と理髪師は関係が深く、昔は一緒だったという話を聞いたことがあります。理髪店の居先で回っている看板の赤と青の渦巻きは、赤が動脈、青が静脈、白が包帯。白衣を着るのも同じだし……。
 喜寿を迎えても、はつらつとされているのは、理髪という仕事の緊張感から良い影響を受けておられるのでしょう。
 松岡 緊張した精神は、人を若々しくしますね。
 池田 ドクター部長の森田修平さんが、横浜日赤病院で外科部長をしていた時、言っていました。
 「手術の最中は、十一時間も、立ちっぱなしで執刀していても、疲れたと感じることは一瞬たりともない。しかし、満員電車でつり革を持って立っていると、一時間で疲れてしまう」
 張りつめた真剣さが、人間の秘められた力を限りなく引き出す一つの例です。
 佐々木 使えば使うほど、人間の能力は磨かれていくのですね。
 池田 百歳の高齢者の研究に二十年以上を費やしたベル・ビアド博士は、百歳を超えても、記憶力をつねに使っていた人たちは記憶力を長く維持できたという調査結果から、「記憶力に年齢的な限界はない」と結論しています。(モートン・ピューナー『円熟期』加藤珪訳、TBSプリタニカ。参照)
 松岡 記憶力といえば、先生はものすごい記憶力ですね。
 二十年も三十年も前のことで、本人が完全に忘れてしまっていることも、鮮明に覚えておられ、皆、びっくりしています。なかには忘れていただきたいこともあるようですが……。(笑い)
 佐々木 先生は、何百、何千、何万という、和歌や俳句や短文を詠んで、多くの会員を励ましてくださっています。どうして瞬時にあのような心を打つ歌や句ができるのだろうか、という驚きとともに、もう一つ驚くことがあります。
 一週間ぐらい経ってから、″あの和歌の、あの文字を一字、このように直したほうがいいな″と、メモもなにもなく、突然、言われることがあることです。
 松岡 地球の自転にあわせてSGIの友は、休みなく世界のどこかで活動を続けていますから、その会長は二十四時間態勢で休みがありません。その激務、激闘のなか、一人の友に贈られた句の一文字についても、ずっと思索しぬいておられたことに気がつき、ハッとします。
2  一瞬の出会いに永劫の想い
 池田 一瞬一瞬を「ただいま臨終」の決意で、と言うのは容易です。しかし、行動はむずかしい。私は、この五十年を、真剣勝負で戦ってきました。
 一人の会員とお会いするときも、ふたたびお会いできなくても、悔いのないようにと祈っています。ですから、出会いの一つ一つは、歳月のふるいを超えて、いつまでも鮮明で、決して消えるものではありません。一瞬の出会いに、永劫の想いをこめてきました。
 佐々木 厳粛な気持ちになります。「限られた生」に希望をもって、自分が何をなしえるかということですね。
 池田 かつて対談した″アメリカの良心″ノーマン・カズンズ博士が、「希望とそ私の秘密兵器です」と、次のように言われていた。
 「人生の最大の悲劇は死ではありません。生きながらの死です。生あるうちに自分の中で何かが死に絶える。これ以上に恐ろしい人生の悲劇はありません。大事なのは、生あるうちに何をなすかです」と。
 松岡 何歳になっても、挑戦の気概を失つてはいけないことを感じます。
3  新緑が美しいモスクワ大学で
 池田 ロシア国立高エネルギー物理研究所のログノフ所長が、モスクワ大学の総長をされていた時、家庭教育をめぐって話しあいました。総長が言うには、子どもの成長とともに家庭は変化し、娘や息子が成人すると、両親も「第二の青春」を味わう。そして五十歳を超え、「第三の青春」を手にする。
 しかし、「人生は一瞬たりとも立ち止まらず、人間は絶えず変化するので、自己啓発を止めてはいけない」と強調されていました。
 佐々木 総長と対談を開始されたのは、モスクワ大学の重厚な総長室で、新緑美しい一九八一年五月でした。
 池田 総長室には、大学二百周年の記念に北京大学から贈られた大きなゴブラン織が、掲げであったね。モスクワ大学の全容を描いた絵で、中ソ対立の最中も外されなかった。政治的次元を超えた、学問の世界の好ましい光景でした。
 松岡 先ほどの「第三の青春」とは、いい言葉ですね。
 池田 そう。「第三の人生」は「第三の青春」でありたい。青春は、年とともに消え去っていくものではない。自分がどう思うかです。いくつになっても、前向きの挑戦の心があるかぎり、ますます深みを増し、ある人は黄金に、ある人はいぶし銀に輝いていくのです。
 総長は、ロシアの詩人アレクサンドル・ブロークの「人生はすべてがたたかい。やすらぎは夢に現れるのみ」を引いて、「人生は、精力的で、時代の脈拍を感じ取り、それと歩調を合わせようと努める人々に対して好意的なのです」(『第三の虹の橋』毎日新聞社、本全集第7巻収録)と言われていた。
 「第三の青春」を生きる人にこそ、人生は味方するのです。
 佐々木 対談の前日、先生が、国立外国文学図書館の館長で、コスイギン首相の息女であるグピシャーニさんを訪ねられたことが忘れられません。
 池田 ベージュのセーターに紺のスーツという落ち着いた装いのグビシャーニさんは、図書館の入り口で待ってくださっていた。聡明な澄んだブルーの瞳には、亡き首相の面影があり、父と子の紳を感じました。理知的な気品漂うすばらしい方でしたね。
 佐々木 グピシャーニさんは静かな口調で「その日、職務を終え家に帰ってきた父が、『きょうは平凡でない、ひじように興味深い日本人に会ってきた。たいへん複雑な問題にふれながらも、話がすっきりできてうれしかった』と言っていたのを思い出します」と、淡々と語っておられました。
 その日とは、一九七四年九月の初訪ソの折、首相と会談された日のことです。
 松岡 グピシャーニさんは「家に帰って仕事のことは、めったに話さない父だけに、印象に残っていた」と言われていたそうですね。
 佐々木 ええ。グピシャーニさんは、故首相を偲んでの先生の弔意と懇切な来訪と語らいを、「プリヤートナ、オーチェニ・プリヤートナ(うれしい、たいへんにうれしい)」と、静かな物腰のなかに喜びをあふれさせておられました。
 そして、「家族全員で相談し、父のかたわらにあった遺品を、ぜひ、お贈りしたい」と申し出られました。
 池田 ガラス製の立派な花瓶で、首相が六十歳の時に″社会主義労働英雄″として贈られた、首相の肖像があしらわれた貴重な品でした。
 また、首相の最後の著作も贈っていただきました。亡くなる瞬間まで書斎に置いであった革製の二冊の本でした。「父の手の温かなぬくもりが込められており、父に代わって差し上げます」と、目をうるませて言われていた。
 佐々木 通訳の方も言葉を詰まらせておられました。グピシャlニさんは、うつむきがちに、「私は父を人間として、真の友人と思っております。ですから、今は日が暮れるたびになにか物足りなく思っています」とも語っておられました。
 先生は、亡き首相は貴方の心に生きているのですよ、と励まされていました。グビシャーニさんも静かに大きくうなずかれていました。
 松岡 図書館の一角に大きな陳列棚で、″創価学会コーナー″を設け、先生の著作などを並べて迎えてくださったということですね。
 グビシャーニさんにとって、お父さんの影はとても大きかったので、故首相と人間味あふれる交流を刻んだ先生との出会いは、忘れ得ぬものだったにちがいありません。
4  亡き人の生き方が、残った人をつつむ
 池田 親子の絆は、強い。親がどう生きたかは、子どもに深く刻まれる。広く「第三の人生」の重要課題を言えば、いかに最後の最後まで自分らしい生き方を貫き、周囲に示しきっていけるかということです。
 亡くなった人の記憶や思い出、生き方の規範が、残った人を大きくつつみ込んでいく、ともいえるでしょう。
 松岡 四十九歳のある壮年部の方から手紙が寄せられました。長野市に住む八十歳の父と母が学会一筋に生きてきた。その尊さにやっと気がつき、両親に感謝していると書かれてありました。
 お父さんが副支部長さんで、お母さんが地区副婦人部長さんです。ご本人も第一線の方です。
 とてもすばらしい内容で、いろいろと考えさせられるお手紙ですので、読者の皆さんにご紹介させていただきます。
 池田 こういうお父さん、お母さん方が、学会を築いてきてくださったのです。私は、いつも合掌しています。「第三の人生」で、周囲に何をあたえ、残していくか。それは、財産や名誉や地位などいっさいをはぎ取った後に、生死を超えて厳然と残るが″人間としての生き方″しかないのです。
5  〈読者のお便り〉
 「第三の人生」を考えるということで、私は、今年八十になった両親を振り返ってみた。
 昭和三十四年に入信して以来、それとそ信心一筋に生きぬいてきた両親である。
 父親は、酒も飲まなければギャンブルもしない。私が知る父親の姿というのは、聖教新聞や御書を開いているか、弘教に走っているか、御本尊の前に座っている姿しか、記憶に浮かんでこない。遊びや道楽というものをせず、信心一筋の父親を、若いときの私は「なんとつまらない人生だろう」と、そう思っていた。
 しかし、その考えが、大きな誤りであったことを、私は後に何度となく知らされることになった。
 ある時期、私は人生の横道にそれてしまったことがあった。そのとき、母はもちろん父親も、心の中ではどんなにか泣きたい思いであったかと思う。しかし、私が父親の口から聞いた言葉は、たった一つであった。「お父さんは、お前のおかげで題目をあげられる……。
 そのとき、私は言いようのないショックをうけた。なぜそのように考えられるのか、とても不思議であった。
 今の私は、両親の背中を優しく見守りながら歩いている。
 八十になる父親も、一つ下の母も、老いはまったく感じられない。それは、つねに戦っている者の精神力であると思う。創価学会という組織の中で、広布のために生きぬいてきた両親は、決して「大切にされる老人」のままで終わっていない。今も戦っている「第三の人生」を歩んでいるのである。(四十九歳)

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