Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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志に殉ずる  

「第三の人生を語る」(池田大作全集第61巻)

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3  常書鴻夫妻の敦煙に賭けた生涯
 池田 先日(一九九七年八月)、「敦煌トンホワン(とんこう)の守り人」常書鴻先生の夫人・李承仙りしょうせん画伯とお会いしました。この李夫人も、まばゆい敦煌の芸術を「保護」し、「研究」し、「宣揚」し、「継承」しようと、夫と共に誓われた。
 砂漠の孤独も、生活の貧苦も、心ない人々の嘲笑も、権力の弾圧も、夫妻の志をくじくことはできなかった。
 みずから選んだ敦煌の芸術に殉ずる生涯を送られ、今もなお、いよいよと創作意欲を燃え上がらせて、現代の敦煌壁画の石窟を制作しようとされている。世界の美術家も参加してほしいと、壮大な構想で挑戦されている。
 現代の莫高窟、現代の千仏洞を、二十世紀から二十一世紀にかけて作りたいということでした。この年齢で、この壮大な構想です。私は、感動しました。
 佐々木 婦人の年齢を言うのは申し訳ないのですが、七十二歳でいよいよお元気ですね。
 李夫人が「池田先生との十七年前の出会いは今も、まぶたに浮かびます」と、北京での初めての歓談のことを言われていましたね。
 池田 一九八十年四月の第五次訪中の時でした。中日友好協会会長の孫平化さんから、常書鴻じょうしょこうさん夫妻を紹介されました。
 周恩来総理夫人の鄧穎超女史に、中南海の自宅に招待していただいたり、新しい国家主席との会見があったり、北京大学で名誉教授就任の記念講演をした時でした。
 松岡 その先生の忙しいスケジュールを知っておられた孫平化会長が、上手な日本語で、先生に言われていたのを覚えています。
 「池田先生にぜひ会っていただきたい人がいるんです。すばらしい人物です。お忙しいでしょうが、ちょっとお時間をとってください。決してムダにはなりません」
 池田 宿舎の北京飯店に、敦煌文物研究所長の常書鴻さん夫妻が、訪ねてきてくださった。
 七十七歳の常書鴻さんは、前日、西ドイツ(当時)から帰国されたばかりでした。二時間半の楽しい充実した歓談になりました。敦煌とシルクロードを語りに語りました。
 ″敦煌ばか″とまで言われた、その情熱と信念には、心打たれた。
 松岡 常書鴻氏が「けさ、北京放送を聞き、昨日、鄧穎超先生が池田先生にお会いしたことをうかがい、かねがね池田先生の名は聞いていましたが、このようにお会いできてたいへんにうれしく思います」と、初対面のあいさつをされていたのが印象に残っています。
 佐々木 その出会いから十七年がたち、李夫人が「あれから、中国で日本で、池田先生ご夫妻と何度もお会いし、そのたびに友情が深まりました」と言われているとおりですね。
4  来世も未完成の仕事を続けたい
 池田 常書鴻さんが留学先のパリでたまたま『敦煌に接し、故国にすばらしい絵画芸術があることを知り、帰国して敦煌と取り組むようになった運命的ないきさつは、対談集『敦埋の光彩』(徳間書店。本全集第17巻収録)でも話しあいました。
 そのあと、困難や迫害があったものの、「人生の最後の段階になったとき、″自分が選んだ人生はまちがっていなかった。一度も後悔したことがない″と言いきれる」と語っておられた。人生は、すべからく、こうでなければなりません。
 佐々木 広布に生ききる人生も、まったく同じですね。
 池田 そうだね。常書鴻さんに「もし今度、ふたたび人間として生まれてくるとしたら、どんな職業を選びますか」とたずねたら、こう答えていました。
 「やはり『常書鴻』を選んで、未完成の仕事を続けていきたい」
 地涌の菩薩の使命に即していえば、私たちも広布という大偉業に取り組み続けていくという、三世の使命に生ききることです。
 佐々木 よくわかります。常書鴻・李承仙さん夫妻からは、両画伯の渾身の合作であるチョモランマの雄大な絵が贈られています。東京牧口記念会館の玄関ホールに掲げてあります。
 松岡 これも先ほどの「ちょっと時間を」から始まった先生との出会いと、友情をはぐくんだ歴史から生まれたものですね。
 池田 人はそれぞれが、自分だけの人生というカンバスをもっています。そこに、どのような絵を描き仕上げていくか。有名無名、非凡平凡は問題ではない。自分らしく、使命に生ききった人生劇を、最後の最後まで、ぞんぶんに描いていくことです。

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