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日蓮大聖人・池田大作

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志に殉ずる  

「第三の人生を語る」(池田大作全集第61巻)

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1  ハンセン病と戦ったイギリス女性
 池田 ここでは、コンウォール・リーという名のイギリスの女性の話から始めたいと思います。
 群馬多宝研修道場(群馬にある創価学会員の研修会を行う礼拝施設)の近くの公園に、コンウォール・リー女史の顕彰碑があり、近くにその墓所もあります。地元のメンバーからお聞きしましたが、今もひじように尊敬されている方です。
 佐々木 ハンセン病に悩む方々の救済、治療に献身された方ですね。
 池田 そうです。英国の貴族の出で、森に囲まれた広大な敷地にある邸宅に住み、大学に学び、当時の女性としては最高の教育を受けています。何不自由ない暮らしのいっさいをなげうって、布教のため日本へ単身やってきた。
 佐々木 一八五七年に英国のカンタベリーで生まれています。
 若いころ、母と世界旅行をし、ナイアガラの滝を見たりしたあと、日本に立ち寄り、美しい景色に心を打たれたといいます。
 池田 母親の死後、一九〇八年に来日しました。確か女史が、五十一歳の時だね。
 そして五十九歳で、自分の一生をささげる決心をして、群馬県の草津町の湯の沢に移り住んでいる。
 松岡 かつて草津町を流れる湯川の川下にあった湯の沢には、強い硫黄を含む温泉で病気を治療しようと、多くのハンセン病の人々が全国から集まっていました。
 佐々木 当時は不治の病とされ、伝染すると恐れられたため、患者の方々は、家族から離れてやってきました。
 生活は、物心両面にわたって、苦悩につつまれていました。
2  三畳の小屋でワラの靴を履き
 池田 熱心なキリスト教徒のリー女史は、この地で医療や教育を行い、患者の生活を保障しました。患者のためのホームを次々に建てています。やがては治療のための医院もつくる。
 すべて、私財を投じてです。彼女の本格的なスタートは、じつに人生の晩年からなのです。
 生活ぶりは質素そのもので、その清貧、無私の生活を見て、皆、貧しい生活に耐えるのを誇りにしたといいます。
 佐々木 霜間という地に週に一回通って、宿泊する所は三畳ほどの何もない掘っ立て小屋でした。人間はもとより、いろいろな動物も大切にしていました。
 池田 冬の間は、地元の人と同じようにワラの靴を履いて、雪を踏みしめ病床へ見舞いに歩きました。
 やがて、ゴムの長靴が普及するようになると「電灯の発明よりも、ゴム靴の発明をうれしく思います」と喜ばれたといい、東京にもゴム長で出かけた。
 松岡 粗末な衣食住で、彼女を見かけた西洋人が「西洋では乞食でもなければ、あのような姿はしていない」と驚いたそうです。
 池田 イギリスで上流の生活をしてきた女史が、それほどまでに人々に献身した。人間として立派です。殉教の精神があるからとそ、できるのです。
 一面ではキリスト教は、そのような殉教の精神で行動したからこそ、世界宗教になったといえます。
 学会も、名誉も功徳も求めず、組織にあぐらをかくことなどなく、一人一人が、奉仕に徹し、世のため、人のために行動してきたからとそ、今のような世界的な存在になったのです。
 松岡 女史と労苦をともにされた買民之介氏が『コンウォール・リー女史の生涯と偉業』(大空社)という書を残されています。
 池田 私も読みました。そこには「リー女史の事業と生活とは誰が見ても理屈と計算とを超越したもので、事業慾も無ければ名誉心もなく、ただ正義と慈愛とを以て世に捨てられた病者の友となり、之を励まし之を慰めんとして自ら犠牲を払い、苦労を重ね、努力を惜しまず、財宝を拘って敢て顧みないものである事がわかる」とあります。立派ですね。
 佐々木 その人格にふれ、信者は九百人を超えました。そのうち、故人となった三百人の多くは、女史の手で洗われ、納棺されました。
 池田 人々からは、「かあさま」と呼ばれて、慕われていた。喜寿(七十七歳)を、お祝いして、『かあさま』という題の小冊子が作られた。
 「母ありて母なき我等のために得難き母」への、心からの感謝に満ちています。
 「病みの身は 悲しかれども かかる母を 母とし仰ぐ 事を思ふも」
 「粗衣を まとひ給へど 母上の み顔は愛に 輝き在ます」(前掲書)
 胸を打つ短歌です。
 佐々木 喜寿の祝いのあと、疲れを知らなかった女史も衰えを見せ、やがて兵庫県の明石で静養。最後の最後まで草津の″家族″を思いつつ、一九四一年十二月十八日、八十四歳で生涯を終えています。
 遺骨はは遺志により、草津の教会の納骨堂に、患者の遺骨とともに納められました。
 松岡 女史が亡くなったのは、時あたかも太平洋戦争が始まって十日、すでに日本とイギリスは国交断絶し、世は「鬼畜米英」のスローガンでいっぱいのときです。
 しかし、埋葬式には厚生大臣代理が参列。遺骨は翌年、草津へ帰り、納骨式が行われたさいには市長代理、警察署長らが列席しています。
 池田 湯の沢を望むには記念公園ができて、リー女史の顕彰碑が建てられた。国籍を超え、いかに多くの人々の尊敬を集めていたかがわかりますね。崇高な使命をみずから見いだし、喜び勇んでみずからに課し、その使命に殉じぬいた大満足の一生だったでしょう。
 仏法の真価は、人としての振る舞いにあらわれる。人間としてどう生きたか――これを、教義や正統性を超えて、正視眼で見ていくことが、大事です。さらに言えば、信仰の究極は、功徳を求めるという次元を超えて、殉教にこそある。殉教の精神とは、「私がない」ということです。私心をこばむことです。法のため、人のために尽くすことです。殉教の思いで活動したからこそ、今日の学会があります。
 松岡 先生の入信五十周年の記念の和歌に、
  殉教の
    心を抱きて
      五十年
    遂に果たせり
      今世の誓いを
 とありました。
 この心こそ大切なのだと、決意をしました。
3  常書鴻夫妻の敦煙に賭けた生涯
 池田 先日(一九九七年八月)、「敦煌トンホワン(とんこう)の守り人」常書鴻先生の夫人・李承仙りしょうせん画伯とお会いしました。この李夫人も、まばゆい敦煌の芸術を「保護」し、「研究」し、「宣揚」し、「継承」しようと、夫と共に誓われた。
 砂漠の孤独も、生活の貧苦も、心ない人々の嘲笑も、権力の弾圧も、夫妻の志をくじくことはできなかった。
 みずから選んだ敦煌の芸術に殉ずる生涯を送られ、今もなお、いよいよと創作意欲を燃え上がらせて、現代の敦煌壁画の石窟を制作しようとされている。世界の美術家も参加してほしいと、壮大な構想で挑戦されている。
 現代の莫高窟、現代の千仏洞を、二十世紀から二十一世紀にかけて作りたいということでした。この年齢で、この壮大な構想です。私は、感動しました。
 佐々木 婦人の年齢を言うのは申し訳ないのですが、七十二歳でいよいよお元気ですね。
 李夫人が「池田先生との十七年前の出会いは今も、まぶたに浮かびます」と、北京での初めての歓談のことを言われていましたね。
 池田 一九八十年四月の第五次訪中の時でした。中日友好協会会長の孫平化さんから、常書鴻じょうしょこうさん夫妻を紹介されました。
 周恩来総理夫人の鄧穎超女史に、中南海の自宅に招待していただいたり、新しい国家主席との会見があったり、北京大学で名誉教授就任の記念講演をした時でした。
 松岡 その先生の忙しいスケジュールを知っておられた孫平化会長が、上手な日本語で、先生に言われていたのを覚えています。
 「池田先生にぜひ会っていただきたい人がいるんです。すばらしい人物です。お忙しいでしょうが、ちょっとお時間をとってください。決してムダにはなりません」
 池田 宿舎の北京飯店に、敦煌文物研究所長の常書鴻さん夫妻が、訪ねてきてくださった。
 七十七歳の常書鴻さんは、前日、西ドイツ(当時)から帰国されたばかりでした。二時間半の楽しい充実した歓談になりました。敦煌とシルクロードを語りに語りました。
 ″敦煌ばか″とまで言われた、その情熱と信念には、心打たれた。
 松岡 常書鴻氏が「けさ、北京放送を聞き、昨日、鄧穎超先生が池田先生にお会いしたことをうかがい、かねがね池田先生の名は聞いていましたが、このようにお会いできてたいへんにうれしく思います」と、初対面のあいさつをされていたのが印象に残っています。
 佐々木 その出会いから十七年がたち、李夫人が「あれから、中国で日本で、池田先生ご夫妻と何度もお会いし、そのたびに友情が深まりました」と言われているとおりですね。
4  来世も未完成の仕事を続けたい
 池田 常書鴻さんが留学先のパリでたまたま『敦煌に接し、故国にすばらしい絵画芸術があることを知り、帰国して敦煌と取り組むようになった運命的ないきさつは、対談集『敦埋の光彩』(徳間書店。本全集第17巻収録)でも話しあいました。
 そのあと、困難や迫害があったものの、「人生の最後の段階になったとき、″自分が選んだ人生はまちがっていなかった。一度も後悔したことがない″と言いきれる」と語っておられた。人生は、すべからく、こうでなければなりません。
 佐々木 広布に生ききる人生も、まったく同じですね。
 池田 そうだね。常書鴻さんに「もし今度、ふたたび人間として生まれてくるとしたら、どんな職業を選びますか」とたずねたら、こう答えていました。
 「やはり『常書鴻』を選んで、未完成の仕事を続けていきたい」
 地涌の菩薩の使命に即していえば、私たちも広布という大偉業に取り組み続けていくという、三世の使命に生ききることです。
 佐々木 よくわかります。常書鴻・李承仙さん夫妻からは、両画伯の渾身の合作であるチョモランマの雄大な絵が贈られています。東京牧口記念会館の玄関ホールに掲げてあります。
 松岡 これも先ほどの「ちょっと時間を」から始まった先生との出会いと、友情をはぐくんだ歴史から生まれたものですね。
 池田 人はそれぞれが、自分だけの人生というカンバスをもっています。そこに、どのような絵を描き仕上げていくか。有名無名、非凡平凡は問題ではない。自分らしく、使命に生ききった人生劇を、最後の最後まで、ぞんぶんに描いていくことです。

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