Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

「信念の道」を生き抜く  

「第三の人生を語る」(池田大作全集第61巻)

前後
1  「私は九十四年間も待ったのです」
 池田 かって、私が「還暦」を迎えた年(一九八八年)に、松下幸之助氏から御祝詞をいただいた。
 「本日を機に、いよいよ真のご活躍をお始めになられる時機到来とお考えになって頂き、もうひとつ『創価学会』をお作りになられる位の心意気で、益々ご健勝にて、世界の平和と人類の繁栄・幸福のために、ご尽瘁じんすいとご活躍をお祈り致します」と。
 当時、氏は九十三歳。″もうひとつ創価学会を″とは直載な表現ですが、私の胸には松下翁のお気持ちが痛いほど伝わってきた。
 松岡 「人生の先達」の重みがありますね。
 先生は、SGI(創価学会インタナショナル)の展開へ全力をあげられ、今や百二十八カ国・地域(=二〇〇二年六月現在、百八十一カ国・地域)に仏法が流布し、メンバーは、その国、その地域の発展のために活動しております。松下氏の言うとおり、もう一つの、いや、さらに壮大な「平和と文化と教育の組織」を作られました。
 佐々木 世界人権宣言の推進者のブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁が、先生と初めて会われたのは、九十四歳の時でしたね。(一九九三年二月)
 池田 リオデジャネイロ・ガレオン国際空港に私が到着するのを、二時間も前から待っていてくださったことを聞き、恐縮しました。
 周囲の人が心配して「別室で、お休みになりますか」と勧めても、「私は池田会長を九十四年間待っていたのです。二時間なんてなんともありません」と微笑んでおられたというのです。
 松岡 その場に居合わせた「聖教新聞」のカメラマンが言っていました。彼は先生に同行しての海外取材が初めてで、しかもその空港では先輩カメラマンもいないので、緊張してアタイデ総裁を見ていたとのことです。
 両協を抱えられ、やっと立っておられた総裁が、先生が到着されるや、すくっと一人で歩いていかれ、劇的な対面となった。その瞬間の写真が見事に撮れ、紙面を飾ることができたと喜んでいました。
 池田 鍛えぬかれた獅子の風格がある方でした。
 生涯で書かれたコラムが五万本、テレビ、ラジオには毎週一回、それぞれ二十年間、三十年間と出演され、講演は四十年にわたり毎週のようにされていた。
 「すでに十分に生きたのだから死を恐れない」と言われながら、「池田会長との対談を終わらせるまでは死ねない」と、入院される六日前までも作業を続けておられたことを聞きました。
 お会いしてから一年もたたないうちに、″人権の巨星墜つ″の訃報に接しましたが、炎のような言論が今なお響いてくるようです。
 佐々木 お二人の対談は『二十一世紀の人権を語る』(潮出版社。本全集第104巻収録)として本となり、多くの読者をもっています。
 松岡 ブラジル文学アカデミーの創立百周年記念式典が、リオデジャネイロ市内の同アカデミー旧館で盛大に開かれました(一九九七年七月)。招聘を受けた先生の名代として、池田博正副会長が出席され、ブラジルのカルドーゾ大統領をはじめ各界の来賓と歓談されています。
 池田 私は、アタイデ総裁に比べれば、まだまだ若い。ますます元気に、勇気凛々と戦います。
2  三代の崇高な殉教の闘争
 池田 鉄窓一万日、マンデラ氏が獄から解放されたのも七十歳を過ぎてからで、そこから新生・南アフリカを担って大統領に就かれた。
 お会いしましたが、堂々たる風貌で、人間の自由・平等のために、わが身をささげようという気迫を放っておられました。
 松岡 マンデラ氏は初めて来日した折、わざわざ聖教新聞社まで来られて、先生と会見されました。(一九九年十月)
 池田 長身で、不屈の戦人でした。信念に殉ずる生き方には、輝きがあります。初代会長の牧口常三郎先生、戸田城聖先生の崇高など生涯を思えば、私自身、一瞬たりとも、停滞は許されません。牧口先生が、大聖人の仏法にめぐりあわれたのは、五十七歳の時でした。その「大いなる一歩」を踏み出した時の感動を、先生は後に、こう綴っています。
 「言語に絶する歓喜をもってほとんど六十年の生活法を一新するに至った。暗中模索の不安が一掃され、生来の引っ込み思案がなくなり、生活目的がいよいよ遠大となり、畏れることが少なくなった」(熊谷一乗『牧口常三郎――人と思想』第三文明社)と。
 そして、現在の学会の母体となる「創価教育学会」を創立したのは、昭和五年(一九三十年)十一月、五十九歳の時。今の時代でいっても、もうすぐ定年という時です。ここからの大いなる出発だから、偉大です。
 以来、「創価」の旗を高らかに掲げて、民衆の幸福と平和のために戦いぬき、時の軍部権力の弾圧によって、獄中で七十三年の尊い生涯を閉じられるまで、信念を貫き通されたのです。
 学会の不滅の原点は、その最晩年の闘争によって築かれたのであり、牧口先生の″人生の本懐″たる大偉業は、私たちの言う「第三の人生」の時代になしとげられたのです。
 佐々木 牧口先生の絶筆となった獄中からの手紙に、「カントの哲学を精読している」と綴られていた話は有名です。最後まで若々しい生命で、成長をめざされていたのですね。
 池田 牧口先生が入獄される前の最晩年の姿について、戸田先生は「三月会わないと、三月だけ進んでいるのを発見した」としみじみと話されていたものです。
 一歩も引くことなく、たゆまざる闘争を続けられた「本因妙」の生き方は、牢獄という、もっとも厳しい状況下にあっても、まったく、変わることはなかったのです。
 松岡 戸田先生は、五十八歳で亡くなられましたが、二年近い獄中生活でお体が衰弱されていたからですね。
 池田 五十八歳という、今でいえば短い生涯であったかもしれませんが、その間に広宣流布のいっさいの基盤を確立されたのです。
 人生の最後の最後まで、戦いにつぐ戦いです。しかも、逝去の直前に広布後継の式典をなされ、後事のいっさいを青年部に託された。
 死の間際まで、広布に殉じた荘厳なお姿です。人生の総仕上げとして、最大事を最後になさった――これこそ「第三の人生」の指標でしょう。
 佐々木 池田先生の人生も、前進、また前進の大闘争の連続です。
 池田 戸田先生に師事して以来、今日まで五十年間、客観的には、いつ倒れても決して不思議ではなかった。
 十九歳で仏法にめぐりあい、そして戸田先生亡き後はその遺志を継ぎ、走りに走ってきた。″三十までしか生きられない″と言われた弱い体で、働きぬいてこれたことじたい、大功徳です。
 長く生きられないと思ったからとそ、今日なすべきことを明日に延ばさず、広布の仕事を追いかけるようにして戦いぬいてきた。
 わずかに一九八五年(昭和六十年)の秋、心臓検査のため、十日間ほど入院をしたことがあります。その時も、病院から広布の指揮は執り続けました。その時、私は、検査入院は、御本仏の大慈悲である、と深く実感した。
 もう一度、一人立って、真の総仕上げを開始すべき″時″を教えてくださったと確信しました。これまでの十倍、百倍、戦おうと決意をしたのです。
 今こそ、本当のことを語っておこう。後世のためにも、本格的に、あらゆる角度からの指導を残しきっておこう。
 そして創価学会の真実を、その偉大なる意義と精神を伝えきっておかなければならない、と。現在もまったく同じ心境です。
 松岡 先生の無私の日々を拝見し、激闘を眼前にして、皆、健康を、心配しています。
 かつてフランスのロワールの林の中で、先生が深呼吸をされながら、「いい空気だね。こんなところに少しいれば、私の体も良くなるのだが。そうもいかないしなぁ」と、独り言のように静かに言われていたのを思い出します。
 池田 とても静養などとれない。激闘のなかで、体も丈夫にしていただいた。戸田先生の年齢を超え、還暦も超え、私の「第三の人生」もこれからです。いよいよの気概で、前進あるのみです。
 牧口、戸田両先生の生涯に象徴されるように、年輪を重ねるごとに、より大きな境涯を開き、人生の輝きを増していく――「第三の人生」の手本がそこにあります。
3  「現当二世」の心燃やして
 佐々木 わかりました。人生は、変化、変化の連続ですから、どのような重大事に直面しても、また新たなスタートだと決めて進むことですね。「現当二世」の心を燃やして、凱歌の人生を、生きて生きて生きぬくことが大切だと思います。
 松岡 長い人生の途上には、″岐路″となる試練がいくたびかやってくる。
 そのとき、どう立ち向かっていくのか――人間の真価が、本当に問われる瞬間でもありますね。
 池田 そこで勝てば、目には見えないが、本末究竟して、確かな″勝利の軌道″に乗ることができる。
 いや、永遠の三世を貫く″福徳の軌道″に乗れるかどうかが決まるのです。
 すべては、自分の一念次第なのです。
 日蓮大聖人が、「(妙法蓮華経の)妙とは『開く』ということである」(御書九四三ページ、趣意)と仰せになられているように、試練のたびに、強き心で境涯をさらに「開いていく」――その積み重ねのなかで、崩れざる″絶対的幸福″を実感していけるのでしょう。
 人生は、最後の最後まで、何事かをなすためにある。人生を自己の信ずるものに賭けて戦いぬいた人、信念に殉じた人生ほど、尊いものはないのです。
 高齢になって、自分の人生に満足のいくものがあるかは、自分の胸中に刻印されている。他人が決めるのではない。それだけのものを残せるかどうか――高齢社会の大きな課題でしょう。

1
1