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日蓮大聖人・池田大作

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関西創価中学・高等学校新金星寮完成祝賀… 新世紀の空を明るく照らせ

1995.10.10 教育指針 創価学園(2)(池田大作全集第57巻)

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2  寮で「人格」と「友情」を育む
 かつて私は、イギリスのケンブリッジ大学とオックスフォード大学を訪問した(1972年5月)。トインビー博士との会談のために訪英した折のことである。両大学とも「学寮」があった。この学寮制があったからこそ、教養と人格を兼ね備えた紳士が輩出されていったと言われている。
 オックスフォードでは、寮で学生の個室を見せてもらった。突然の訪問だったので、学生たちは驚いたようだが、快く歓迎してくれた。
 懇談のなかで彼らは、この寮から何人ものノーベル賞受賞者、立派な首相、ありとあらゆる分野の大人材、世界的人物が出ていることを誇りにしていた。自信に満ちていた。そのエリート(選ばれた人)たちは民衆を犠牲にするエリートではなかった。世界大戦の折の高い戦死率にも表れているように、必要と思えば、あらゆる戦いで先陣をきっていく勇者であった。
 学生たちは、栄光の歴史を築いた大先輩が使った同じ部屋、同じ机で学ぶ喜びを話してくれた。そして、自分たちも先輩のあとに続いていくのだと、強い強い「誇り」をもって語っていた。
 金星寮も、これからすばらしい伝統を、皆の自覚でつくっていただきたい。
3  「金星寮」――なんと、ロマン光る名前であろうか!
 「金星」は、私たちが仰ぐ星々の中で、もっとも明るく輝きわたる。わが地球のすぐお隣の惑星であり、より太陽に近いので、「金星」は、地球の三倍も陽光を浴び、反射している。
 あのガリレオも、金星の満ち欠けを、手作りの望遠鏡で観測し、地動説への確信を深めたという。陰湿な聖職者の迫害の真っただ中にあって、ガリレオは、いわば金星を友とし、真理の探究を貫いたのである。
 「それでも、地球は回っている!」と。
 仏法でも、金星は「大明星天子」また「普光(普香)天子」と意義づけられている。
 「太陽(宝光天子)」と「月(名月天子)」とともに、「三光天子」として、「法華経」の会座にも厳然と連なっている。正しき法理に生きゆく人を守護する働きの象徴といえよう。
 「竜の日の法難」の直後、日蓮大聖人が一時滞在された依智(神奈川・厚木)の屋敷に輝きわたった星(”依智の星下り”)も、「金星」だったのでは、と推測する天文学者もいる。
 ご存じのように、金星は、夜明け前、暁の東空に高く輝く<「明けの明星」>。また、夕焼けの余韻のなか、真っ先に西の空に光を放つ<「宵の明星」>。天空高く、どの星よりも明るく、闇を破って煌々と輝く――それが「金星」である。
 そして、これこそが、二十一世紀の「金星」たる、学園生の使命である。
4  「一人」の幸福のため家庭訪間
 振り返れば、第二次大戦中の暗黒の日本にあって、「平和」と「人道」と「自由」の光を、「金星」のごとく放ったのは、いったいだれか。まぎれもなく、牧口先生であり、私の恩師である戸田城聖先生であった。
 現在、聖教新聞社で、東京・信濃町の歴史をまとめた本の改訂作業が進められている。(=1995年12月に『新信濃原の郷土史』として刊行)
 その中で、一九四三年(昭和十八年)、戸田先生が、一人の友のため、信濃町に足を運ばれていたという記録が新たに見つかった。
 昭和十八年といえば――野球の「セーフ」は「よし」に、「アウト」は「ひけ」に、言い直させられるなど、英語が「敵性語」とされた時代である。国家神道が強要され、「信教の自由」への蹂躙も激しさを増していた。「非国民」という言葉が横行し、いたるところに、不気味な監視の目が張りめぐらされた。
 本来、権力の暴走の歯止めとなるべきマスコミも、いちはやく時局になびいてしまっていた。言論人みずからが中心となって、情報を統制し、操作する「大日本言論報国会」が発足したのも、このころである。
 そうした暗黒のただなか、戸田先生は、牧口先生とともに、「信教の自由」を掲げ、信念の言論闘争を続けられたのである。
 この年の二月ごろのことである。戸田先生は、東京の信濃町三三番地にある、田中という邸宅を訪問された。現在の学会本部(信濃町三二番地)のすぐ隣の場所である。今は、駅前の「信濃町ビル」となっている。
 戸田先生は、その方(田中治之助さん)に、正しい仏法を教え、幸せになってもらいたい――そうした願いをこめて、対話されたのである。先生の真心に心を動かされて、その方は、正法正義に目覚めた。地味といえば、まことに地味かもしれない。しかし、「一人の人間」で、勝負が決まる。一人が、千人にも、万人にも広がる。一人を本当に大切にすることによって、未来の大拠点ができあがっていく。
 今、海外のSGIの友も、この戸田先生と同じ一対一の対話で、万年の道を開いておられる。私は、最大に賛嘆申し上げたい。
5  野蛮な侵略性と戦いぬく
 戸田先生は、このほぼ五カ月後、牧口先生とともに、逮捕・投獄された。罪状は「治安維持法違反並びに不敬罪」。そして、その具体的な理由の一つにあげられたのが、この信濃町での弘教であった。
 すなわち、戸田先生が弘教したその人が、神札を焼却した。そのことを「神宮の尊厳を冒瀆し奉る所為を為すことを教唆した」として、「不敬である」と決めつけられたのである。
 一人の人の幸福を願い、語りあったこと――それが罪とされる狂った時代であった。狂った権力の横暴は、アジアの人々の生命をも踏みにじった。そうした「暴力の侵略」「精神の侵略」と、牧口先生、戸田先生は、真っ向から戦われたのである。
 傲慢な権力は、はかない。一時は権勢を誇るかに見えても、夜露のように消えさっていく。しかし、信念の人格の輝きは永遠である。否、時とともに光を増していく。本当の勝負は、長い日で見ないと、わからない。
6  二年間におよぶ獄中生活を終え、再建の大闘争を展開された戸田先生は、信濃町に本陣を構えられた。一九五三年(昭和28年)のことである。そして、今日の信濃町の妙法の興隆がはじまった。
 その淵源をたどれば、戸田先生の戦時中の勇気ある家庭訪間にあったわけである。
 この金星寮も立派であるが、今や全国、全世界に、すばらしい平和と文化の城が誕生している。
 それは、なぜか。牧口先生、戸田先生をはじめ、皆さんのお父さん、お母さん方、けなげな庶民が、友のために、いつもいつも懸命に家庭訪問した福徳であると、私は思っている。
 魂のこもった行動は、その時は小さくとも、やがて、大きく広がっていく。
 皆さんも、一日一日を大切に、勉学に、読書に、スポーツに、魂こもる挑戦の足跡をきざんでいただきたい。
7  ”自分自身に生ききれ”
 ところで、戸田先生は、ここ関西での大闘争に、私を派遣された。「関西で青春の歴史をつづれ!」と。
 じつは、戸田先生は、若き日より、関西こそ世界へ通ずる日本の大拠点であるととらえ、時代変革の焦点を関西に定められていた。
 ご自身も、関西に移り住んで勉学に打ちこみたい、という希望をもっておられた。
 一九一八年(大正7年)、十八歳の日記には、こう書かれている。
 「我れ志を抱く、これ世界的たらんとす」「よろしく座を阪神とすべし。阪神の地これ商工の中心、支那(=中国)に近く、南洋の通路またあり、天下の形勢に通ぜん」(戸田城聖『若き日の手記・獄中記』青娥書房)と。
 世界に飛翔せんとする大志を抱いたからには、その「座」すなわち拠点を関西にすべきである、という確信であった。
 関西創価学園は、この戸田先生の心を心として、創立したものであることを知っていただきたい。
 戸田先生の若き日の言葉に、「我れを支配するものは我れなり、真剣にて我が前途を案ずる者は我れなり。我れを知るは我れなり、我が意気の所有者は我れなり」(同前)とある。
 人生は、結局、「自分はこう生きる」と自分で決めるしかない。人に決めてもらうものではない。自分で目的を決め、挑戦し、「自分はやりきった」と自分で満足していく。そこに、勝利の人生がある。金星寮は、そうした屹立した人格をつくりあげる舞台である。
 天才であった戸田先生の遺言は「自分自身の生命に生きよ」であった。あの先輩が、こうしてくれたらとか、あの先生がどうだとか、他人に左右されるのでは、結局、みじめな人生となる。
 自分は自分である。「自分は、これでいく」「自分は、これでいいんだ」と、割り切って、強く前へ前へと進んでいくことである。
8  そのうえで、先生方は生徒を一人の大人として尊敬していただきたい。だれびとにも一個の人間として尊重される権利がある。また、生徒諸君も大人でなければならない。
 先輩は後輩を大切にし、後輩は先輩を慕い尊敬してほしい。何ものにも替えがたい生涯の友情を、この寮で育てていただきたい。かりにも、いじめや暴力があれば、その人は学園生としての資格を失うと、皆で決議しておきたい。(大拍手)
9  「勉学第一」「健康第一」の青春を
 日蓮大聖人は、十代の修学のなかで、「明星の如くなる智慧の宝珠」(御書888㌻)を得たと仰せである。次元は異なるが、二十一世紀に躍りでる皆さんも、今は徹底して智慧を磨いていただきたい。
 学園生は一人残らず、「勉学第一」「健康第一」で、悔いなき充実の青春を勝ち取っていただきたいと念願し、祝福のスピーチとしたい。
 お父さん、お母さん、ご家族の方々に、くれぐれもよろしく伝えていただきたい。きょうは本当に、おめでとう!

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