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日蓮大聖人・池田大作

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創価中学・高等学校第21回卒業式、関西… 聡明な輝く瞳の君であれ!

1991.93.16 教育指針 創価学園(2)(池田大作全集第57巻)

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2  目をふせるな! 誇り高く生きよ
 きょうは、わが”息子”、わが”娘”の門出にあたり、懇談的に、はなむけの言葉を少々、贈らせていただきたい。若い人を大切にしたい、若い人に焦点を定め、生命をそそいで育てたい。輝かしい「未来」は、まさに、そこにしかない。これが私の今の心境である。
 若き日に胸にきざんだことは生涯の土台となる。若き日に学び、鍛えたかどうかで、四十代以降に大きな差があらわれる。その意味で、一人でも二人でもよい、私の言葉が、皆さまの心に生涯の「炎」となって燃え続けることを願いつつ、語っておきたい。
 まず申し上げたいことは、「目をふせるな! 誇り高く生きよ」ということである。やさしいといえばやさしい、しかし、人生の重要なカギとなる問題である。
 私は現在、何人かの海外の識者と対話をかさね、「対談集」として世界に、また後世に残しつつある。その一人に、ソ連の作家アイトマートフ氏がおられる。氏と私は、このたびの湾岸戦争にさいして、平和への「緊急アピール」を他の世界の識者四人とともに共同提案として発表した(=1991年1月、物理学者バーナード・ベンソン氏、ローマクラブのホフライトネル会長、ユネスコのフェデリコ・マヨール事務局長、ノーベル賞作家ウォレショインカ氏の四氏との連名で)。アイトマートフ氏は、「平和」と「人道」のためにともに戦う「同志」であり、「友」である。真実の「友情」は何ものにもかえがたい。現在、氏はルクセンブルクの大使として赴任されている。
 さて、対談は往復書簡も含めて続けてきたが、そのなかで私は「青春時代の精神の支え」について質問した。これに対して氏は、「池田先生にとっての戸田先生のような人生の師匠の名前をあげることはできませんが」とされながら、次のような忘れ得ぬ出会いを紹介してくださった。
 ――氏の若き日、国内には「スターリニズム」という全体主義の嵐が吹き荒れた。詳しいことは、また勉強していただきたい。「全体主義」とは、アイトマートフ氏の言葉を借りれば”独裁者の一つの人格が、他のすべての個性を殺してしまう体制”のことである。幾千万の人が自由を失い、人権を侵され、生命まで奪われた。当時は、肉親同士の密告さえ日常茶飯事であり、恩人をも権力に売りとばすような卑しい人間が英雄視される”狂った時代”であったと、氏は振り返っておられる。
 人間の基本の権利である「言論の自由」「表現の自由」を奪われた暗黒の社会である。犠牲者は数しれない。いつの世も、大なり小なり、こうした悲劇が人類史の宿命的な流転といえるかもしれない。この嘆きの歴史をとどめ、転換するために、「創価教育学」の創始者である牧口先生、戸田先生の師弟は立ち上がられたのである。どこまでも「人間」のため、「民衆」のために――。(拍手)
 スターリニズムの嵐のなかで、革命家であったアイトマートフ氏のお父さんも弾圧に遭い、処刑されてしまう。
 ――狂気の「権力」が栄える時代は悲惨である。「正しき人」「真実の人」が勝つ社会を、断じて築かねばならない。当時、氏はまだ九歳。お父さんは、どこに葬られたかもわからない。家族は辺境の村にのがれ、ひっそりと隠れ住まねばならなかった。その農村の小学校の先生が、ある時、アイトマートフ少年に語りかけた。その言葉を、氏は決して忘れず、生涯の「宝」としておられる。
 それは――。
 「君は自分の父親の名前を言うとき、決して目をふせてはいけないよ」との一言であった。当時の氏にとって、殺された父親のことは、考えるだけでも恐ろしいことであった。口にするなど思いもよらなかつた。しかし、その先生は、信念に生き、信念に殉じた父のことを「誇りとしなさい」「堂々と恐れなく、胸を張って語っていきなさい」と、力強い励ましを贈ってくれたのである。
 「今の私には彼の言葉がよくわかりますが、当時は言葉の温もりを感じただけで深い意味は理解できていませんでした」と、アイトマートフ氏は、述懐しておられる。
3  眼は「人格」を映す”心の窓”  
 教育者の一言が、どれほど大切か。
 「私に勇気を授け、どんなことがあろうともつねに人間でありつづけるように教え、人間としての高貴さ、人間的尊厳を何にもまして大事にするよう教えてくれました」
 ここに、ヒューマニズムのために戦い続ける氏の一つの”原点”がある。
 「目をふせてはいけない」――。まことに含蓄深い言葉である。だれびとも平等の「権利」をもつ「人間」である。その「尊厳」さに、何の差別もない。ゆえに、何があろうとも絶対に卑屈になってはならない。うつむいてはならない。誇りと自信をもって、輝く瞳をあげ、堂々と生きぬく人が「幸福者」である。
 仏法でも「人の体の五尺・六尺(約百五十センチから百八十センチ)の魂も一尺(約三十センチ)の顔にあらわれ、一尺の顔の魂も一寸(約三センチ)の眼の内に納まる」と”心の窓”である眼を重視している。
 私の恩師戸田先生もよく「目がキョロキョロして、人の目をじっと見られないような青年では、不幸な孤独におちいってしまう」と厳しく注意されていた。本当にそのとおりである。目に「人格」も「過去」も「未来」も大きく映しだされている。
 先ほどから、私は皆さまの目をじっと見ていたが、皆、瞳が美しい。本当に涼やかである。どうか、その瞳の輝きを一生涯、大切にしていただきたい。学園は、心美しき世界である。しかし、社会はそうとはかぎらない。むしろ残酷な悪意と醜いエゴが渦まいている場合が多い。そうした現実に負けてはならない。卑屈な心、臆病な心で、今の輝く瞳を曇らせてはならない。
 誇らかに目をあげ、聡明に目を見ひらいて生きぬいていただきたい。宇宙を見わたし、永遠を見とおすような瞳で、そして、ご両親を温かく包むような「優しき瞳」で、学園魂を燃やし「信念の道」を歩みとおしていただきたい。(拍手)
 アイトマートフ氏とは、対談集の表題を『大いなる魂の詩』とすることで意見が一致した。
 皆さまも、だれびとにも侵されない、何ものにも汚されない、自分らしい「大いなる魂の詩」を、この青春と人生につづっていただきたい。
   
 変化に強い「国際人」と育て
 次に「変化に強い国際人と育て」と申し上げたい。今、日本は「第二の開国」といわれる時代を迎えている。一人一人が、世界から信頼される国際人とならねばならない。その意味からも、語学に着実に取り組んでいただきたい。
 かつて第一の開国の時代(幕末から明治維新)に青春を生きた福沢諭吉に、こんなエピソードがある。『福翁自伝』によると、安政六年(1859年)、諭吉が開港したばかりの横浜を訪れた時のこと。彼は、そのころ、多くの人材を輩出した大阪の適塾で猛勉強をかさね、オランダ語を習得していた。適塾の史跡には私も訪れたことがあるが、激烈なまでの勉強で有名であった。
 諭吉は横浜に来たものの、出会う外国人とは、まったく言葉が通じない。店の看板の文字さえ読めない。彼は愕然とする。
 国際情勢の変化のなかで、オランダ語より英語が主流となっていたのだ。諭吉は、がっくりと肩をおとし、横浜から江戸までとぼとぼと歩いて帰ってくる。それも無理はない。それまでの努力が一切、水の泡に帰したのだから。
 「取り返しのつかない失敗をしてしまった」――諭吉のショックは大きかった。しかし、諭吉はふたたび決意をかためる。                                   
 「まだ、若い。もう一度、はじめからやりなおそう。英語に挑戦してみよう」
 その翌日から彼は、新しい「志」をおこして、英語を学びはじめる。この強い一念、不屈のバネがなかったら、福沢諭吉の”飛躍”はなかったであろう。当時は学校も辞書も何もなかったが、彼は、がむしゃらに新しい言葉の習得に取り組んだ。
 今は、物もお金も豊かすぎて、かえって人間の意欲が失われている面があると思われてならない。環境は根本の問題ではない。環境をどう価値の創造へ使っていくか。結局は自分の姿勢、一念で決まる。諭吉の刻苦勉励は、やがて咸臨丸でのアメリカ渡航への道を開くことになる。
 若き挑戦の魂に行き詰まりはない。「幸運は、挑戦する人間にこそ微笑む」との西洋のことわざがあるが、すべては”行動”からはじまる。行動を開始すれば、知恵がわく。「道」が見えてくる。
 道があるから歩くのではない。歩くから道ができるのである。
 英語を学びはじめると、彼は気づいた。以前、オランダ語を習得したことが、決してむだではなく、英語習得のうえでの土台となっている――と。
 先日、亡くなった、”アメリヵの良心”ノーマン・カズンズ氏は、現代を「加速の時代」――変化のスピードがどんどん増していく時代――と言われていた。これから世界はますます大きく、速く変動していくことであろう。皆さまは、いかなる変化の波にも流されず、
 むしろつねに、その上手をいく「知力(インテリジェンス)」と、「活力(バイタリテイー)」「機敏さ」「行動力」をもった国際人と輝いていただきたい。
 あっけらかんとした「楽観主義(オプテイミズム)」と、鋭いうえにも鋭い「先見」で、挑戦また挑戦を続けていただきたい。その人が二十一世紀の勝利者である。
4  「感謝」の花束で美しき人生飾れ
 最後に、「感謝の花束で人生を美しく飾れ」と申し上げたい。
 昨年秋、”世界の児童劇場の母”ナターリヤ・サーツ女史が来日された。彼女が、日本での最初の公演を終えて、ホテルに帰ったところ、美しい赤いバラの花束が届けられていた。
 それは、見知らぬ三人のロシア人からのもので、「私たちのナターシャおばさんと日本で同じホテルに泊まれたなんて、なんと幸せでしょう。私たちはナターシャおばさんの児童劇場を見て育ってきたようなものです。その意味では、一種の育ての親のようなものです」というメッセージが添えられていた。女史が後日、花の贈り主と会ったところ、皆、四十数歳の立派な学者に成長した紳士であったという。
 八十七歳になられた女史は「私が七十数年間、児童劇場をやってこれたのも、このような喜びがあるからです。池田先生もきっと同じような喜びを感じておられるのではないかと思います。心血をそそいで育んでこられた方々が立派に成長されている姿を見られる時が、池田先生もいちばんうれしいことでしょう。池田先生のお仕事はもっともっと偉大なお仕事ですが」と語っておられた。
 私に対する過分な評価はともかく、私は心温まる思いで、このお話をうかがった。
 感謝の心は美しい。みずからに縁した人を大事にしていこうという心の余裕が、人生を豊かにする。美しくする。反対に恩を忘れ、恩を知らない心は本当にみじめである。灰色である。人を利用するだけの人生はあまりにもわびしい。
 ともあれ、サーツ女史とこの三人の学者が、日本でうれしい再会を果たしたように、私も将来、成長した皆さまと日本のあの地、この地で、また世界のどこかの地で、お会いできることを心から楽しみにしている。
 どうか、「希望ある人生」「栄光を勝ち取る人生」「幸福を築きあげる人生」であっていただきたいと申し上げて、祝福の言葉とします。きょうは本当におめでとう。

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