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関西創価小学・中学・高等学校合同第9回… 強き体、強き心、強き頭脳の人に

1990.10.20 教育指針 創価学園(2)(池田大作全集第57巻)

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2  救国の乙女・柳寛順
 ご存じのように、私は先日(9月21日)、韓国をはじめて訪問した。そのさい、関西学園出身である皆さん方の先輩も、通訳の一人として活躍してくださり、たいへんにうれしく思った。
 韓国訪間は、東京富士美術館所蔵の「西洋絵画名品展」のオープニングに出席するためであった。その後、幸いにも大きな反響を呼び、入場者数は、すでに五万人を越えたとうかがっている。
 さて韓国の少年少女たちに、今なお「大いなる誇り」として語りつがれ、歌いつがれている一人の乙女がいる。彼女の名は柳寛順。朝鮮・韓半島の独立のために戦い、十七歳(生年は不明で別説もある)の若さで獄中に散った信念の女性である。
 もう二十四年前になるが、私は高校生の代表に、彼女の話を、少々語ったことがある(=1966年1月6日、第16回一月度在京高等部員会)。また今回、私がお世話になったソウルの宿舎のすぐそばにも、彼女の銅像が建てられていた。
 そこで本日は、柳寛順について若干、紹介しておきたい。もちろん概略であり、また若き日に読んだ記憶をふまえながらお話しするので、ご了承願いたい。
 この乙女の生きた時代。それは、日本の非道な植民地支配の時代であった。文化の大恩人である朝鮮・韓半島に、日本は恩を返すどころか、略奪と圧制で報いた。そうしたなか、父親は、祖国の独立のためには「今こそ、国の若芽の子どもたちを立派に教育していくことだ」と考え、数人の同志とともに学校をつくった。先ほど皆さんが歌ってくれた健康祭記念歌に「希望の朝に燃えたつ心」とあったが、教育こそが、社会の「希望の朝」を開く光である。
 父親は、みずからの信念のために、私財を投げうって学校を運営した。しかし、高利貸しの日本人にだまされ、教育事業は行き詰まってしまう。くわえて、日本人から暴行を受け、病気になってしまった。彼女は、祖国の未来のために献身する父の懸命な姿を、幼いまぶたに焼きつけた。そして、父を苦しめた日本の横暴への怒りを胸にきざみつけたのである。
 本当に強い人格というものは、こうした悔しさ、苦しみをバネに鍛えられる。何もかも順調であり、何の苦労もないのでは、偉大な人物、人生ができあがるはずがない。
 皆さんのなかには、遠くから通学している人も多い。親もとを離れて寮生活・下宿生活をしている人もいる。自宅のそばの学校に行っていれば、もっと楽だったかもしれない。
 けれども、労苦のなかにこそ、向上がある。みずからすすんで苦労する、そこに真の教育もある。自立の人格もできていく。安逸と甘えは、自分自身をむしばむだけである。
 これまで何度かお話しした、ソ連の作家で大統領会議員のアイトマートフ氏も、九歳のころ、父を理不尽な権力によって殺されてしまった。氏は、自分がヒューマニズム、人間主義のために、本気で戦うようになったのは、その父の犠牲があったからだと語っておられる。
 やがて、柳寛順は、ある婦人の推薦によって、ソウルの名門女学校・梨花学堂に進学することになった。「これからは女性も社会のために働くべきだ」というのが父の考えでもあった。
 故郷をひとり離れての寮生活がはじまった。地方から出てきたばかりの彼女にとって、学校の勉強の水準が高く、はじめはかなり苦労したようである。しかし、持ち前の我慢強さと根性を発揮して努力を続け、めきめきと力を伸ばしていく。
 彼女にとって「学ぶ」ことは、たんに自分ひとりのためではなかった。父の心を受け継いで、愛する祖国を救うのだ――という大きな希望と目的観があった。とともに、友だちを大切にする心優しい乙女でもあった。
 食費が払えない友人のために、自分の食事をそっと分けてあげたこともあった。また、夜、鰻頭売りのアルバイトをしている友人がいると、皆で少しずつお金を出しあって、買いに行ってあげたりもした。
 ある時には寮の門が閉まっていたので、塀を乗り越えて外に出たのを見つかり、先生方から叱られたれたこともあった。それでも、彼女は朗らかに、その友だちを助け続けた。
 また、懸命に読書を続けた。本をいつも手から離さなかった。なかでも、ジャンヌ・ダルク(フランスの救国の乙女)の伝記は何度も綴り返し読んだ。
 ”自分もまた祖国のために青春をささげよう”と深く心に決めた。こうして、”朝鮮・韓半島のジャンヌ・グルク”ともいうべき彼女の信念が深まっていった。
   
 信念の青春は永遠に朽ちない
 一九一九年三月一日、民衆による祖国独立運動の火ぶたが切られた。
 彼女も、この戦いに身を投じた。それは、暴力を使わない、平和的なデモ行進等の運動であった。しかし、日本の権力は、銃剣をもって血の弾圧をくわえた。彼女の友人たちも何人かが捕らえられ、帰ってこなかった――。
 このあと柳寛順は休校命令のため故郷に帰り、運動の推進役として活躍した。一カ月後の四月一日(陰暦の三月一日)、広場に集った人々に対し、またも日本の憲兵隊は無差別に発砲しヽ父も、母も、殺された。そして、彼女自身も刺されて捕らえられ、投獄されたのである。
 言語に絶する残酷な拷間が続いた。しかし満身創痍となっても、彼女は「独立万歳!」と叫び続け、人々を励ましさえした。
 裁判でも、”罪を認めよ”とのおどしに、絶対に屈しなかった。
 何を言われても、彼女は「私が『自分の国』を求めて、独立万歳と叫んだことが、何の罪になるというの? むしろ罪を受けるべきは、無理やり人の国を奪ったあなたたちだ!」――と、誇り高く言いきった。
 傷だらけの体で、”祖国の幸福のために戦って、どこが悪いのか”と、くってかかったのである。
 水遠の”正義”によって裁かれたのは、裁判長のほうであった。
 こうして、彼女は二年におよぶ獄中生活を送った。最後まで、一歩も退かなかった。一言も弱音をはかなかった。一度も救国の炎を絶やさなかった。万歳を叫ぶたびに拷間を受けた。けれども彼女は叫び続けた。
 そして一九二〇年十月十二日、「独立万歳!」と叫びながら、獄中で息を引きとった。十七年あまりの短い生涯であった。鮮烈な青春であった。そして永遠に残る生命の軌跡であった。その、あまりにも健気なる青春の歩みは、人々の胸に火をつけた。火は燃えひろがり、やがて二十五年後に独立の「光復」の日(一九四五年八月十五日)を迎える。権力は彼女の肉体を殺した。しかし心まで殺すことはできなかったのである。
 彼女の人生は、七十年後の今なお、限りない勇気を人々に送り続けている。人々は、彼女を”先覚者” と仰ぎ、祖国の誇りとたたえている。
 私は、こうした不屈の「信念の人」を育てたい。この柳寛順さんのように、生命を賭して
 権威・権力と戦う人、人々を守る人こそ真に「偉大な人」である。社会的地位や名声など”本物”から見れば、幻がごときものである。もとより時代状況は異なる。まただれ一人、悲惨な犠牲を出してはならない。
 それはそれとして、信念は信念である。人間としての偉さは時代を超えて輝いていく。ゆえに皆さんも、どうか「強い心」「強い信念」をもって、みずからと社会の「希望の朝」へと力強く生きぬいていただきたい。(拍手)
 そして、「人間としての王者」と育って、真の満足と幸福の歴史を勝ち取っていかれんことを念願し、本日の祝福のスピーチとしたい。(関西・学園第一グラウンド)

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